56 わたしたちの友人
文字数 5,636文字
唇が隠れるまでマフラーを引き上げると、テンシュテットは滑るように前へ進み出て、わたしたち四人をその背で庇 うように立った。
そして振り返ることなく、声を押し殺して言った。
「駄目だよ」
しかし一度 身の内で牙を剥いた荒ぶる力は、そう容易くは鎮まらない。
ぐるぐると獣じみた唸り声を放ちながら、イサクが身を屈めた。
「駄目だ、やめてくれ!」青年は首筋に血管を浮かせる。「どうか、お願いだから、きみたちの神聖な力を、人間を傷付けるなんてことのために使わないでくれ……」
氷山でも呑み下すように、わたしは深く大きく息を吸い込んだ。
そして、噛み締めた歯の隙間から押し出すように吐きながら、イサクの手をぎゅっと握りしめた。
わたしたちは、共に老師の寝顔をのぞき込んだ。
彼の吐く息は、もう白くさえない。
けれどまだその口もとには、肉体の最後の奮闘としてのかすかな動きが、辛うじて確認できる。もはや吸う量も吐く量も、ティースプーンの半分にも満たないほどのものだけれど……。
「いったい、そのご老人をどこに連れていこうというのだね」およそ十五歩ぶん離れた場所からまっすぐにこちらを見据えて、レーヴェンイェルムが言った。「拝見するに、ずいぶん衰弱しておられるようだが。病院で安静にしておくのがよかったのではないかな」
「こいつ……」
イサクが顔を歪めて舌打ちした。すかさずテンシュテットが首を振ってなだめる。
「ヤッシャ」青年は敢えて砕けた調子で呼びかける。「パーティはもうお開きになったのかい?」
まるで興味もなさそうに、レーヴェンイェルムは肩をすくめる。
「さぁ、どうだろう。まだやっているかもしれないし、もう終わってしまったかもしれない。それはわからない。ただ――」彼はそこで体重を支える軸足をゆっくりと入れ替えた。重々しい軍靴が、ざくりと雪を踏みしめる。「ただ、みんなきみのことを探していたよ。私が知っているのは、それだけだ」
「急に友人たちとの約束を思い出したものでね」両手をひらりと広げて、青年は言う。「心配かけてすまなかった」
「心配はしていないよ」男は唇を機械的に笑みの形にした。そして顔の周りで踊る銀髪を払いのける。「きみの場合、あの程度の公務をすっぽかしたくらいでは、さしたるお咎 めもなく済むだろうからね。しかしこれが他の者だったら、下手をすれば懲罰ものだ。もちろん、この私であってもね」
テンシュテットは密 かに唾を呑み込んだ。そういう首の動きがあった。わたしはそれを彼のすぐ後ろから眺めていた。
「だが……」レーヴェンイェルムは眉をひそめる。「この場合は、どうなるだろう。さすがに今回ばかりは、誰も目を瞑 ってくれないのではないかな。レノックス中佐」
そう呼びかける声には、わたしたちが相手に対して抱いているのと同等の、あるいはそれ以上の、冷ややかな敵意と蔑 みが感じられた。
「ところで、中佐。きみの後ろにいるご友人たちには、犯罪者の嫌疑がかけられている。そのことは知っていたかな?」
今度はテンシュテットが眉をひそめる番だった。
「きみがなにを言ってるのかわからないけど、彼らはそんな人たちじゃないよ。神に誓って、彼らは悪人なんかじゃない」
「悪人とか善人とかは関係ないんだよ」間髪入れずレーヴェンイェルムは返す。「私は、犯罪と言ったんだ。善や悪といった抽象的な話をしているのではない。法を犯しているか否かという、極めて即物的な一つの基準に即して、私は指摘しているんだよ」
「……それで?」青年は小さく肩をすくめる。「きみは、彼らがその基準とやらを――」
「〈青い影〉」
レーヴェンイェルムが遮った。的 の中心を正確に射抜くような語気で。
「なんだって?」テンシュテットは首をかしげる。そして自分の足もとや周囲を見渡す。「影が、どうしたって?」
「おや。聞いたことがないのかな」暗がりのなか、顔や身体に降り注ぐ雪にも全く動じることなく、男はようやく本物の微笑を浮かべた。「きみほどの立場にある者が、少々不勉強なのではないかね。〈青い影〉とは、闇社会において数世紀に渡りその名を馳せ続ける、伝説的な宝石商一家の通称だよ。なにもかもが謎に包まれた組織ではあるが、その代々の構成員たちが全員共通して、どんなに変装しても隠し切れないほど鮮やかな青い瞳を持っているということから、その名が付けられたそうだ」
話しながら彼は、わたしたちの眼 を順繰りに見渡した。
「きみはこの手の話題には疎 いようだから、教えておくとだね」ふいにレーヴェンイェルムは冷笑を引っ込める。「その組織には、大陸に存在するほぼすべての主要国家によって、第一級犯罪者としての逮捕令状が出されている。つまり、国際指名手配犯というわけだ。無論この公国も、我らの王国も、例外ではない。それどころか、鉱晶違法取引に対して我が国が課す刑罰は、他のどの国に比べても重い」
「ちょっと待ってくれよ」テンシュテットは苦笑する。「ヤッシャ、きみはいったいなんの話をしてるんだ。彼らが、そんな犯罪者集団の一員だとでも言うつもりなのか?」
「先日タヒナータ市内で〈ハリー&ライム商会〉の連中が一斉検挙されたな」レーヴェンイェルムは一喝する勢いで息を吐く。「あの商会は何十年も前から〈青い影〉と蜜月関係にあると言われている。闇社会ではよく知られた話だ。先日の逮捕劇の現場からは、国家管理指定級のアリアナイト原石が押収された。さらに連中の金庫番の帳簿を洗うと、そこにはこの一カ月のあいだにおなじような違法取引が複数回おこなわれていたという記録が残されていた。いずれも、桁外 れな額が動く取引だったようだ」
「だからそれが、この人たちとなんの関係があるというんだ」もはや臆面もなく相手を睨みつけて、テンシュテットが言い放った。
「それはきみが直接ご友人にたずねてみたらどうだね。……おや」目線をわずかに滑らせてルータの手もとを眺め、レーヴェンイェルムはかすかに目を見張った。「今日は時計をしていないようだ。せっかく届けてあげたのに」
「……もういいよ」こちら側の面々にだけ聴こえるように、イサクが小さな声で告げた。「もう時間がない。こいつには黙ってもらう」
「だから、駄目だってば」テンシュテットが声を荒げた。「きみたちの力は使わないで。……人間どうしのことは、人間どうしで片を付けるから」
「でも」わたしは思わず身を乗り出した。「どうやって――」
直後わたしは自分の目を疑い、言葉を全部呑み込んだ。
このほんの一瞬の隙に、こちらの誰も全く気付かないうちに、あの男の手のなかにぬらりと艶 めく一丁の拳銃が握られていた。
銃口はまだこちらに向けられてはいない。しかしこの男のことだから、まさか安全装置を外し忘れているなんてことはないだろう。
「ヤッシャ!」テンシュテットが怒鳴った。「お前、そんなもの……!」
「黙れ」
まるで目の前から顔に息を吹きかけられたような錯覚に襲われた。それほど、その一言に宿された殺気は近かった。わたしは男の指先が凶器の引き金にするりと差し込まれるのを、息を詰めて凝視した。彼は静かに顎を上げて、こちらをじっと見定める。まるで、罠にかかった仔羊たちを勘定するように。
そして、大きく口を開く。
「いったいどうやってあの転落事故の現場に駆けつけ、その男を救出したのか、知りようもないがね。しかしアトマ族の波動感知に誤謬 などあろうはずもないから、相応の顕術が行使されたのは確かなのだろう。正直、驚いたよ。彼女の報告を言葉どおりに受け取るなら、その顕術の実力は優 に王族や名家の血筋に匹敵するほどのものだったというのだから。それほどの因子保有者が、まさかいまだに国家に吸収されず市中 に紛れて暮らしているとはね。全くありえない話とは言い切れないにせよ、私ですら初めて耳にする事態だ」
男は再び髪を払い、手短 に息継ぎをする。
「……だが、なるほどね。それほど強力な超常の力を持っていたなら、あのようなごろつきどもと互角に、あるいはそれ以上に優位を保って、渡り合うことも可能だろう」
そこまで話すと、レーヴェンイェルムはぎろりと両目を細めた。これまでよりさらに厳しく、鋭く、ただ一人の青年に照準を合わせるために。
「テンシュテット・レノックス」いよいよ彼は裁決を下す。「私的動機による身勝手な公務の放棄。国家機密の漏洩疑惑。犯罪者への協力と結託の疑い。そしてさらに今、死体遺棄の現行犯として罪を重ねようとしている」
「誰がそんなことを!!」青年は叫ぶ。
「でも、そうとしか見えないよ。それ以外なにがあるというのだね。医療措置を受けて然るべき人間を、わざわざこんな人里離れた場所まで運び出して。なにかやましい理由でもなしに、いったい誰がこんな残酷で非常識な真似をするというのだ」
彼が言い終えると、それを待ち構えていたように、あの根源的な静寂が戻ってきた。そしてわたしたちを隙間なく取り囲んだ。
レーヴェンイェルムは、その静けささえも従わせてしまうかのような超然さを発揮して、ゆったりと一歩、こちらへ向かって進み出た。
「偉大なる国王トーメの忠実なる臣下として、そしてまた正義の守護者たる誇り高き王国軍人の一人として、私は貴様たちを見逃すわけにはいかない」銃を握り込み、彼は淡々と告げる。「とりわけ、陛下の信頼に背いたレノックス。裏切り者の貴様だけは、たとえどのような姿になろうとも、私が必ず法の光の下 に連行する」
相手が前進したぶんだけ押し込められたかのように、テンシュテットはじりじりと一歩後退した。そしてマフラーに口を埋めたまま、背後に立つわたしたちに策を伝えた。
「無理だよ」即座にルータが首を振る。「そんなことできない」
「できるさ」青年は小声ながら鋭く声を張った。「僕を信じてくれ」
「……いいや。そんな無茶することない」ため息混じりにイサクが口を開く。「どうせ誰にも見られてないんだし、あんな餓鬼の一人くらい、あたしたちの力で――」
「だから、それだけは駄目だったら」青年は歯噛みする。「繰り返すけど、きみたちは絶対に人間に手を出したりなんかしちゃ駄目だ」
「……どうして。どうしてそこまで……」
「まず……僕が、きみたちにそんなことをして欲しくないから」
イサクは口をつぐむ。ルータがじっと青年を見つめる。
「それに……」青年は続ける。「それに、きみたちは陛下……トーメ・ホルンフェルスの恐ろしさをなにも知らない。彼は、自身の寵愛する者に刃を向けた者を、決して赦 しはしない。相手がどこの何者であろうと、ありとあらゆる手段を用いて必ず見つけ出し、徹底的に報復するだろう。自分の代でそれが果たせなかったら、次の代にそれを託すだろう。それでも叶わなかったら、さらにその次の代にも……。きみたちの長い一生を、これ以上不自由で窮屈なものにしてほしくないんだ。どうか、わかってくれ」
「……大袈裟だね」イサクが吐き捨てる。
「だからきみたちは陛下を知らないと言うんだ……」青年は頬を青くしてつぶやく。「ここへ来るまでに、けっこうな数の人と擦れ違い、顔や姿を見られてきただろう。陛下を侮っちゃいけない。あの怪物の力は、今に全世界にまで及ぶ。本当に、一生追われることになるよ」
「だけど……」わたしはきつく眉根を寄せる。「やっぱりいくらなんでも、無謀すぎるわ」
「僕にも少しは顕術が使える。それに、鍛錬だってそれなりに積んできた。やってみせるよ」
「……でも、たとえこの場を切り抜けたとしても、あなたは今後もあいつと関わっていかなきゃいけないわけでしょ」イサクが暗い声で指摘する。
「後 のことは後のこと」青年はにこりと笑ってみせる。「どうにかしてみせるさ。今は、きみたち自身とおじいさんのことだけを考えて」
そこまで言わせてしまって、その覚悟を無碍 にするなんてことは、もうどうやったってできそうになかった。
わたしたちは互いの目と目を深く見交わした。もはや言葉は要らなかった。あぁ、この青年は本当にわたしたちの友人だったと、その時わたしは心の底から思った。
「ごめんな。ヤッシャ」
小さくささやくと、テンシュテットは右の拳を思いきり握りしめた。そして目前に立つ誰かの顎の下に食らわせるように、渾身の一撃を振り上げた。
レーヴェンイェルムの足もとに積もっていた雪が爆散し、重厚な煙幕となってその顔面に覆いかぶさった。
わたしは、そしてルータとイサクも、生涯のうちでこれほど全身全霊で飛んだことはなかった。顔の皮膚や髪や外套が、風圧で引きちぎれるのではないかと思ったくらいだ。けれど、敵の視界の内にほんのわずかな残像さえ残さないためには、この速度がどうしても必要だった。もしテンシュテットを連れていたら、人間の身である彼の肉体はひとたまりもなかっただろう。
顔じゅうに貼り付いた目眩 ましをようやく振り払い、男が再び前方を睨んだ時、そこにはもう誰の姿もなかった。
わたしたちはすでに上空の暗闇のなかを南に向かって飛び始めていたし、青年はいったん馬車の裏側に回り込んで、そのまま真っ黒な林の奥へと駆け込んでいたから。
青年にも、わたしたちにも、振り返る余裕はなかった。
とにかく前だけを見て、精一杯に進むより他なかった。
まもなく、わたしたちが後 にしてきた方角から、乾いた銃声が一発鳴り響くのが聴こえた。
続いて、二頭の馬の驚愕と恐怖の叫びが。
それから、また一発。
人の声はない。
悲鳴も、怒号も、警告も、なにもない。
最後に辛うじて聴き取ることができたのは、二人と二頭の脚が雪原を駆ける足音らしきものだけだった。それ以上は、わたしたちの能力をもってしても、もはやどんな物音も拾えなかった。
もう、心を無にして飛ぶだけだった。
いや、無ではない。
そこには、なにも無いかのように錯覚してしまうほど隅々 まで満ちる、祈りだけがあった。
そして振り返ることなく、声を押し殺して言った。
「駄目だよ」
しかし
ぐるぐると獣じみた唸り声を放ちながら、イサクが身を屈めた。
「駄目だ、やめてくれ!」青年は首筋に血管を浮かせる。「どうか、お願いだから、きみたちの神聖な力を、人間を傷付けるなんてことのために使わないでくれ……」
氷山でも呑み下すように、わたしは深く大きく息を吸い込んだ。
そして、噛み締めた歯の隙間から押し出すように吐きながら、イサクの手をぎゅっと握りしめた。
わたしたちは、共に老師の寝顔をのぞき込んだ。
彼の吐く息は、もう白くさえない。
けれどまだその口もとには、肉体の最後の奮闘としてのかすかな動きが、辛うじて確認できる。もはや吸う量も吐く量も、ティースプーンの半分にも満たないほどのものだけれど……。
「いったい、そのご老人をどこに連れていこうというのだね」およそ十五歩ぶん離れた場所からまっすぐにこちらを見据えて、レーヴェンイェルムが言った。「拝見するに、ずいぶん衰弱しておられるようだが。病院で安静にしておくのがよかったのではないかな」
「こいつ……」
イサクが顔を歪めて舌打ちした。すかさずテンシュテットが首を振ってなだめる。
「ヤッシャ」青年は敢えて砕けた調子で呼びかける。「パーティはもうお開きになったのかい?」
まるで興味もなさそうに、レーヴェンイェルムは肩をすくめる。
「さぁ、どうだろう。まだやっているかもしれないし、もう終わってしまったかもしれない。それはわからない。ただ――」彼はそこで体重を支える軸足をゆっくりと入れ替えた。重々しい軍靴が、ざくりと雪を踏みしめる。「ただ、みんなきみのことを探していたよ。私が知っているのは、それだけだ」
「急に友人たちとの約束を思い出したものでね」両手をひらりと広げて、青年は言う。「心配かけてすまなかった」
「心配はしていないよ」男は唇を機械的に笑みの形にした。そして顔の周りで踊る銀髪を払いのける。「きみの場合、あの程度の公務をすっぽかしたくらいでは、さしたるお
テンシュテットは
「だが……」レーヴェンイェルムは眉をひそめる。「この場合は、どうなるだろう。さすがに今回ばかりは、誰も目を
そう呼びかける声には、わたしたちが相手に対して抱いているのと同等の、あるいはそれ以上の、冷ややかな敵意と
「ところで、中佐。きみの後ろにいるご友人たちには、犯罪者の嫌疑がかけられている。そのことは知っていたかな?」
今度はテンシュテットが眉をひそめる番だった。
「きみがなにを言ってるのかわからないけど、彼らはそんな人たちじゃないよ。神に誓って、彼らは悪人なんかじゃない」
「悪人とか善人とかは関係ないんだよ」間髪入れずレーヴェンイェルムは返す。「私は、犯罪と言ったんだ。善や悪といった抽象的な話をしているのではない。法を犯しているか否かという、極めて即物的な一つの基準に即して、私は指摘しているんだよ」
「……それで?」青年は小さく肩をすくめる。「きみは、彼らがその基準とやらを――」
「〈青い影〉」
レーヴェンイェルムが遮った。
「なんだって?」テンシュテットは首をかしげる。そして自分の足もとや周囲を見渡す。「影が、どうしたって?」
「おや。聞いたことがないのかな」暗がりのなか、顔や身体に降り注ぐ雪にも全く動じることなく、男はようやく本物の微笑を浮かべた。「きみほどの立場にある者が、少々不勉強なのではないかね。〈青い影〉とは、闇社会において数世紀に渡りその名を馳せ続ける、伝説的な宝石商一家の通称だよ。なにもかもが謎に包まれた組織ではあるが、その代々の構成員たちが全員共通して、どんなに変装しても隠し切れないほど鮮やかな青い瞳を持っているということから、その名が付けられたそうだ」
話しながら彼は、わたしたちの
「きみはこの手の話題には
「ちょっと待ってくれよ」テンシュテットは苦笑する。「ヤッシャ、きみはいったいなんの話をしてるんだ。彼らが、そんな犯罪者集団の一員だとでも言うつもりなのか?」
「先日タヒナータ市内で〈ハリー&ライム商会〉の連中が一斉検挙されたな」レーヴェンイェルムは一喝する勢いで息を吐く。「あの商会は何十年も前から〈青い影〉と蜜月関係にあると言われている。闇社会ではよく知られた話だ。先日の逮捕劇の現場からは、国家管理指定級のアリアナイト原石が押収された。さらに連中の金庫番の帳簿を洗うと、そこにはこの一カ月のあいだにおなじような違法取引が複数回おこなわれていたという記録が残されていた。いずれも、
「だからそれが、この人たちとなんの関係があるというんだ」もはや臆面もなく相手を睨みつけて、テンシュテットが言い放った。
「それはきみが直接ご友人にたずねてみたらどうだね。……おや」目線をわずかに滑らせてルータの手もとを眺め、レーヴェンイェルムはかすかに目を見張った。「今日は時計をしていないようだ。せっかく届けてあげたのに」
「……もういいよ」こちら側の面々にだけ聴こえるように、イサクが小さな声で告げた。「もう時間がない。こいつには黙ってもらう」
「だから、駄目だってば」テンシュテットが声を荒げた。「きみたちの力は使わないで。……人間どうしのことは、人間どうしで片を付けるから」
「でも」わたしは思わず身を乗り出した。「どうやって――」
直後わたしは自分の目を疑い、言葉を全部呑み込んだ。
このほんの一瞬の隙に、こちらの誰も全く気付かないうちに、あの男の手のなかにぬらりと
銃口はまだこちらに向けられてはいない。しかしこの男のことだから、まさか安全装置を外し忘れているなんてことはないだろう。
「ヤッシャ!」テンシュテットが怒鳴った。「お前、そんなもの……!」
「黙れ」
まるで目の前から顔に息を吹きかけられたような錯覚に襲われた。それほど、その一言に宿された殺気は近かった。わたしは男の指先が凶器の引き金にするりと差し込まれるのを、息を詰めて凝視した。彼は静かに顎を上げて、こちらをじっと見定める。まるで、罠にかかった仔羊たちを勘定するように。
そして、大きく口を開く。
「いったいどうやってあの転落事故の現場に駆けつけ、その男を救出したのか、知りようもないがね。しかしアトマ族の波動感知に
男は再び髪を払い、
「……だが、なるほどね。それほど強力な超常の力を持っていたなら、あのようなごろつきどもと互角に、あるいはそれ以上に優位を保って、渡り合うことも可能だろう」
そこまで話すと、レーヴェンイェルムはぎろりと両目を細めた。これまでよりさらに厳しく、鋭く、ただ一人の青年に照準を合わせるために。
「テンシュテット・レノックス」いよいよ彼は裁決を下す。「私的動機による身勝手な公務の放棄。国家機密の漏洩疑惑。犯罪者への協力と結託の疑い。そしてさらに今、死体遺棄の現行犯として罪を重ねようとしている」
「誰がそんなことを!!」青年は叫ぶ。
「でも、そうとしか見えないよ。それ以外なにがあるというのだね。医療措置を受けて然るべき人間を、わざわざこんな人里離れた場所まで運び出して。なにかやましい理由でもなしに、いったい誰がこんな残酷で非常識な真似をするというのだ」
彼が言い終えると、それを待ち構えていたように、あの根源的な静寂が戻ってきた。そしてわたしたちを隙間なく取り囲んだ。
レーヴェンイェルムは、その静けささえも従わせてしまうかのような超然さを発揮して、ゆったりと一歩、こちらへ向かって進み出た。
「偉大なる国王トーメの忠実なる臣下として、そしてまた正義の守護者たる誇り高き王国軍人の一人として、私は貴様たちを見逃すわけにはいかない」銃を握り込み、彼は淡々と告げる。「とりわけ、陛下の信頼に背いたレノックス。裏切り者の貴様だけは、たとえどのような姿になろうとも、私が必ず法の光の
相手が前進したぶんだけ押し込められたかのように、テンシュテットはじりじりと一歩後退した。そしてマフラーに口を埋めたまま、背後に立つわたしたちに策を伝えた。
「無理だよ」即座にルータが首を振る。「そんなことできない」
「できるさ」青年は小声ながら鋭く声を張った。「僕を信じてくれ」
「……いいや。そんな無茶することない」ため息混じりにイサクが口を開く。「どうせ誰にも見られてないんだし、あんな餓鬼の一人くらい、あたしたちの力で――」
「だから、それだけは駄目だったら」青年は歯噛みする。「繰り返すけど、きみたちは絶対に人間に手を出したりなんかしちゃ駄目だ」
「……どうして。どうしてそこまで……」
「まず……僕が、きみたちにそんなことをして欲しくないから」
イサクは口をつぐむ。ルータがじっと青年を見つめる。
「それに……」青年は続ける。「それに、きみたちは陛下……トーメ・ホルンフェルスの恐ろしさをなにも知らない。彼は、自身の寵愛する者に刃を向けた者を、決して
「……大袈裟だね」イサクが吐き捨てる。
「だからきみたちは陛下を知らないと言うんだ……」青年は頬を青くしてつぶやく。「ここへ来るまでに、けっこうな数の人と擦れ違い、顔や姿を見られてきただろう。陛下を侮っちゃいけない。あの怪物の力は、今に全世界にまで及ぶ。本当に、一生追われることになるよ」
「だけど……」わたしはきつく眉根を寄せる。「やっぱりいくらなんでも、無謀すぎるわ」
「僕にも少しは顕術が使える。それに、鍛錬だってそれなりに積んできた。やってみせるよ」
「……でも、たとえこの場を切り抜けたとしても、あなたは今後もあいつと関わっていかなきゃいけないわけでしょ」イサクが暗い声で指摘する。
「
そこまで言わせてしまって、その覚悟を
わたしたちは互いの目と目を深く見交わした。もはや言葉は要らなかった。あぁ、この青年は本当にわたしたちの友人だったと、その時わたしは心の底から思った。
「ごめんな。ヤッシャ」
小さくささやくと、テンシュテットは右の拳を思いきり握りしめた。そして目前に立つ誰かの顎の下に食らわせるように、渾身の一撃を振り上げた。
レーヴェンイェルムの足もとに積もっていた雪が爆散し、重厚な煙幕となってその顔面に覆いかぶさった。
わたしは、そしてルータとイサクも、生涯のうちでこれほど全身全霊で飛んだことはなかった。顔の皮膚や髪や外套が、風圧で引きちぎれるのではないかと思ったくらいだ。けれど、敵の視界の内にほんのわずかな残像さえ残さないためには、この速度がどうしても必要だった。もしテンシュテットを連れていたら、人間の身である彼の肉体はひとたまりもなかっただろう。
顔じゅうに貼り付いた
わたしたちはすでに上空の暗闇のなかを南に向かって飛び始めていたし、青年はいったん馬車の裏側に回り込んで、そのまま真っ黒な林の奥へと駆け込んでいたから。
青年にも、わたしたちにも、振り返る余裕はなかった。
とにかく前だけを見て、精一杯に進むより他なかった。
まもなく、わたしたちが
続いて、二頭の馬の驚愕と恐怖の叫びが。
それから、また一発。
人の声はない。
悲鳴も、怒号も、警告も、なにもない。
最後に辛うじて聴き取ることができたのは、二人と二頭の脚が雪原を駆ける足音らしきものだけだった。それ以上は、わたしたちの能力をもってしても、もはやどんな物音も拾えなかった。
もう、心を無にして飛ぶだけだった。
いや、無ではない。
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