25 白で覆われてしまえばいいのに

文字数 6,400文字

 それから何日かして、三人で朝いちばんに老師を訪ねていた時に、突然良い知らせが舞い込んできた。予約していた個室が空いたというのだった。それまでその部屋にいた患者がなぜ出ていったのかについてはあえて訊かずにおいたけど、ともかくわたしたちにとっては望外の出来事だった。
 今まで入っていたのとおなじ病棟のおなじ階にある、比較的ゆったりとした広さのある部屋だった。階段を上ってすぐの場所にあるので、いろんな人と擦れ違いながら廊下を渡る必要がなくなったぶんだけ、少し気が楽になった。でもやっぱり、他人を警戒して声量や話題を絞らずにすむようになったことが、なによりも嬉しかった。
 その朝のうちに、さっそく部屋を移った。あれやこれやの荷物や、壁に飾らせてもらっていた絵も一緒に。新しい部屋の窓からも、わたしたちのアパルトマンはくっきりと見えた。
 一方で、あまり良くない知らせもあった。
 部屋を移動したのはいいけれど、ちょうどこの頃を境に、老師の体力はゆっくりと下降線を辿り始めた。
 毎日長い時間、点滴を受けた。食事は、看護士さんやわたしたちが補助しても、柔らかいものを呑み下すのがやっとという状態になってしまった。奇妙なくらいに咳の回数は減ったけれど、その代わり、平時の呼吸のすべてが細く重いものになりつつあった。眠っていることが以前にも増して多くなり、もうほとんど口も利かない。この部屋に前に入っていた人は、きっと元気になって退院していかれたんですよねと、わたしは看護士の誰かにたずねたくてたまらなくなることがあった。でもやっぱり、最後までそれについては口に出さないでおいた。
 個室に移った日は、夜にもう一度三人で病室へ行った。着替えや身の周りのものを新調したり補充したりしてきたので、それを届けるために。部屋に入ると、クレー老師は目覚めていて、わたしたち三人を笑顔で迎えてくれた。
「手間をかけたね」
 老師が言った。砂地の表面を羽根帚(はねぼうき)()くような、今にも消え入ってしまいそうな声だった。
 ルータは首を振り、祖父の手を取った。
「気分はどうだい、じいちゃん」
 小さくうなずいて、老師はそれを返答とする。
「どこも痛くない?」
 痩せ細った肩を抱きしめながら、イサクがたずねた。
 老師は再びうなずくと、わたしたち一人一人の目を順にじっと見つめた。
「困り事は、ないかな」
 誰かに頬を引っぱたかれたみたいに、わたしたちは一斉に首を打ち振った。
「じいちゃんが早く良くなってくれないのが、いちばんの困り事だよ」イサクが言った。「早く帰ってきてよ、じいちゃん」
 ふわりと持ち上げられた節くれ立った手を、わたしたちは共に握りしめた。
「暮らしは、大丈夫か」老師がさらにたずねた。
「心配ないって」ルータがきっぱりと言った。「なにもかも首尾よく行ってる」
 老師は安堵の息をつき、ずっしりと頭を枕に沈めた。それから、波紋が水面で広がりきって消えるまでの間を待つような沈黙を経て、うっすらとまぶたを開けて言った。
「私の(いと)しい子たち。その時が来たら、私の体を、どうか頼むよ。決して誰にも、触れさせないでおくれ」
 目と鼻の奥でじゅわっと湧き上がる水を必死に()き止めて、わたしはうなずいた。ルータも上下の歯をきつく噛み合わせ、体ごと地面に沈み込むようにうなずいた。
 イサクは祖父の胸に額を押し当てた。
「……言わないで、じいちゃん」顔を伏せたまま、彼女はつぶやいた。
 面会時間の終了を告げられて、わたしたちは病室を出た。去る間際、老師がわたしの腕に指先で触れた。
「ありがとう、リディア」彼は片目をつむって微笑した。「素敵な絵だね」
 その日の夜から、三人で夜更けに捧げる祈りの時間は、これまでの倍になった。
 それはもう祈りというより、もはやただの懇願だった。
 でも、
 誰に対して、
 なにに対して、
 わたしたちはこれほどまで深くすがりつこうというのだろう。
 神さま?
 宇宙?
 イーノ?
 生も死も、生成も消滅も、目に見える世界も目に見えない世界も、なにもかもまったく等価のものとして観ている、大いなる源の意志。そんな途方もないものに対して、目で見えるものや肌で触れられるものに狂おしいほど執着するこのわたしたちが、いったいどこを向いて、どんな言語を用いて、どういう心積もりで、祈ればいいというのだろう。どう祈るのが、果たして正解なのだろう。誰か本当の答えを知っているのなら、お願いだから、教えてほしい……。


 一度重くなって底に縛りつけられてしまった心は、なかなか浮上してはくれない。
 だからわたしたちは、毎日を静かに過ごすことだけに、ひたすら意識を集中した。
 毎朝決まった時間に起きて、毎晩日付が変わると同時に寝床に入った。市場で新鮮な食材を買い、丁寧に調理したものを時間をかけて食べた。毎日欠かさず掃除をし、洗濯をし、絵を描き、セーターを編み、本を読み、散歩をした。庭で少女とお喋りをし、管理人に挨拶をし、屋上やベランダで白猫に話しかけた。お見舞いに行き、暗い顔をして帰宅し、燭台を灯してやみくもに祈った。
 街は、年末の慌ただしさに包まれようとしていた。
 いろいろな場所で、互いを(ねぎら)いあう声が聴かれた。一年間おつかれさま、来年もよろしくね、と。
 贈り物を発送してから一週間と少しした頃、ハスキルからの手紙と返礼の品がシュロモ先生を介して届けられた。彼女はわたしたちに一足ずつ、手編みの毛糸の靴下をプレゼントしてくれた。それぞれに動物や果物の可愛らしい絵柄が編まれていて、どういうわけか、一目見ただけでどれが誰のためのものなのかすぐにわかった。
 手紙は二通あった。
 一通はハスキルからのもので、リディアさんたちが元気でいてくれて本当に嬉しい、いただいたマフラーはとっても気に入って、毎日学校へ行く時に着けているし、夜には部屋で勉強したり絵を描いたりする時に巻くこともあります、と書かれていた。そして、年が明けたら街へ行く予定があるので、その時にはみなさんとどこかで再会して、今度こそ一緒にお食事ができたらいいなと思っている、と。
 もう一通は、手紙というより走り書きのメモみたいなもので、差出人はモニクだった。それにはこう書かれていた。

「あんたたちのせいでハスキルはこの一週間すっかり寝不足になっちまった。
 とことん感謝して靴下を履くんだね。
 おじいさんやあんたたちが無事でよかったと思う。
 良いお年を。
            モニク・ペパーズ」

 わたしたちは久しぶりに笑った。どれほど心が救われたかわからない。あんまり嬉しかったから、二通の手紙は額縁に入れて食堂の壁に飾った。靴下は、さっそくその日から使わせてもらった。ただし、お風呂上りに部屋で過ごす時だけ。もったいなくて、とても外でなんか履けない。
 そんな喜ばしいことのあった日の翌日の、夜のことだった。思いも寄らない物騒な事件に巻き込まれたのは。


 その時もやはりわたしたちは面会時間のぎりぎりまで老師の部屋にいた。老師は夕方から一度も目を開けることなく、夢のなかに深く潜ったままでいた。窓の外は、もうすっかり真っ暗だった。
 腕時計をちらりと眺めて、ルータがそろそろ帰ろうかと言った。
 まさにその直後のことだった。
 どかどかと騒々しい足音を響かせて、何人もの看護士たちがわたしたちのいる病室の前を駆け抜け、そのまま突撃するような勢いで階段を降りていった。
 わたしたちは目を丸くして、廊下の様子を窺った。他の入院患者や見舞いに来ていた人たちも、おなじように外へ顔を出してあたりを見回している。
 いつもならとうに面会時間の終了を告げに訪れているはずの看護士の姿も、一向に見えない。老師の耳もとでおやすみをささやくと、わたしたちもまた部屋を出て階下へ向かった。
 一階に到着する直前の踊り場で出くわした病院の職員に、事情をたずねてみた。
「怪我人が大勢運ばれてきたと聞いています」彼は息も荒くこたえた。「私もまだ詳しい状況は把握していません。しかしうちはそもそも救急病院じゃありませんから、手の空いている者はみんな呼ばれているようです」
 この時間には外来診察はすでに終了しているから、普段なら一階の待合室はがらんとしている。それが今は、多くの人々が入り乱れる騒乱の最中にあった。
 わたしたちは人の流れを追って正面玄関の方へ足を進めた。
 (おもて)に乗りつけられた数台の自動車の灯火が、燃えるように輝いている。その強烈な逆光のなかで、運び込まれてきた者たちとそれを受け入れる者たちとが、奇妙な形の巨大な影となってもぞもぞと(うごめ)いている。苦悶の滲むうめき声、怒声に近い呼びかけの声、そして医師や看護士長たち――そのなかにはシュロモ先生の姿もあった――の的確な指示が、あっちこっちから飛び交い錯綜している。
 いつも受付窓口に立っている中年の女性職員が一人、逸早(いちはや)く野次馬となったあとで再び持ち場へ戻ろうとしていたところを、ルータがとっさに捕まえた。
「なにがあったんです」
「森で獣に襲われたんですって」
「なんですって?」わたしは思わず顔をしかめた。「この街の近くの森で? 人間を襲う獣が出たの?」
 女性はうなずく。「そう聞いたわ」
「どのあたりで」イサクが追及する。
「さあ。そこまでは聞いてないわ」
 女性が去ると、わたしはたちは互いに鋭く顔を見あわせた。
「……天秤竜かしら」わたしは眉をひそめた。
「まさか」ルータは何事かを推し(はか)るように、じろりと両目を細めた。「まさか竜たちが、大峡谷のこちら側にまで……いや、しかし今となっては……」
 そこでふと夜風に乗って、仄かな血の匂いが表玄関の方から吹き込んできた。反射的にわたしは口もとを手で覆った。やはり、人間の血の匂いだけじゃない。以前、森の西の端で何度か()いだことのある匂いが、そこにはかすかに混じっている。
 無言で示し合わせて、わたしたちは混乱の現場へと慎重に接近した。
 けれど、すぐに全員の足が止まった。
 光と影の鮮烈な攻防に目が慣れてきた矢先、負傷者のなかに見覚えのある顔――というか、顔を含むその巨躯そのもの――が視界に飛び込んできた。
「俺は平気だ、かすり傷だ」自分のもとに駆けつけた看護士に向かって、ドノヴァン・ベームが言った。「それより、ちょっと酷い奴があとから来る。そいつを頼む」
 指示された看護士の男性は、周囲で負傷者を担架に載せたり脇へ誘導したりしている同僚たちを見回した。そして大声を上げた。
「担架、まだありますか?」
「今から追加ぶんが来る」
 そうこたえたのは、シュロモ院長先生だった。先生は、頭部から血を流して柱に寄りかかっている妖精郷探索隊の一員に、応急処置を施しているところだった。そうしながら彼は院内へと続く廊下を一瞥し、担架を運びやって来る若い男女の姿を認めた。女性の方は、どこかで見た顔だ。どこでだっけ。そうだ、たしか老師の食事内容について話をした時の栄養士だ。きっと手が足りなくて、この場に引っ張り出されてきたのだろう。
 男性の方は、いや男性というか、まだ少年と呼ぶべき彼は、初めて見かける顔だけど、その腕には研修中の新人看護士であることを示す腕章が着けられている。
 大丈夫かしら、と危惧したそばから、少年みたいな彼が足をもつれさせて転倒してしまった。それも、わたしたちのすぐ目の前で。
 つられて転びそうになった女性を、わたしは瞬時に抱き留めた。
 ルータが少年を助け起こした。
「立てますか?」
「すみません……」
 仏頂面のイサクが、面倒くさそうに床から担架を拾い上げた。すかさず彼女の兄がその一端をつかむ。そして少年に声をかける。
「そっちを持って」
 二人が玄関に群がる人々を懸命に掻き分けて進む途中で、シュロモ先生が横目でこちらを見やった。ルータに続いて外へ向かうわたしとイサクが、脇目を振ることもかなわない彼のぶんまで、先生に会釈を送った。先生は声を出さずに口を素早く動かした。たすかる、と言っていた。
 負傷者を運んできた車は全部で四台あった。軍用車じゃない。いずれも一般道でもたまに見かける、普通の四輪駆動車だ。見たところ新しくはない。たぶん中古車。型も少し古い。いくらでも最新型を新品で購入できるくせに、わざわざこういうのを揃えるところが、いかにも素性を偽っている彼ららしい。
 怪我の度合いは隊員によって差が大きいらしく、軽傷の者が運転を(にな)ってきたようだった。死者はいないとのこと。一刻を争うほどの致命傷を負っている者もいないみたい。けれど、どうにも胸のざわつきが鎮まらない。それというのも、まだあの青年の姿を見ていないからだったのだけど――
「しっかりするんだ!」最後尾に停車している車内から、一度聴いたら忘れられないあの声が漏れ出てきた。「さぁ着いたよ。もう心配いらない。すぐに診てもらおう。ヤッシャ、きみも肩を貸してくれ」
 後部席から、ほぼ無傷に見受けられるテンシュテット・レノックス隊長に抱きかかえられるようにして引き摺り出されたのは、一人の年若い隊員だった。あとでルータから聞いたところによると、それはかつて森のなかで銃の扱いの件でレーヴェンイェルムから叱責された兵士だったという。苦虫を千匹くらい噛み潰すような顔をして、こちらもまたほとんど無傷のヤッシャ・レーヴェンイェルムが、運転席から外へ出てきた。
 二人の年長者に支えられてよろよろと足を運ぶ隊員は、右の脇腹と左の太腿のあたりに少々深い裂傷を負っていた。身に着けている衣服は血でぐっしょりと濡れ、彼が身を横たえていた車の座席も、彼の足もとの地面も、そして彼を支える男たちの腕や肩も、じわりと赤く染まっている。
(らち)が明かん。担架はないか!」レーヴェンイェルムが怒鳴りを上げた。
 それが傷に響いたのか、若い隊員は歯を食いしばって目を剥く。
「こっちだ!」
 ルータが後ろ手に担架を持って彼らの前に躍り出た。
 この時のレノックスの驚きようと言ったらなかった。
「ルータさん!? それに、みなさんも……。いったい、どうして――」
「話は後にしましょう」
 わたしは言って、怪我人を担架に載せるのをイサクと一緒に手伝った。
「どこへ運びますか」近くで別の隊員を助けている看護士に向かって、ルータがたずねた。
「その人はここでは無理です。奥の処置室へ!」
 成り行き上、ルータとレノックスが担架の両端を持つことになった。
「よし、行きましょう」
 金髪の青年――その麗しい髪には、今は少しだけ赤いものが付着しているけれど――を正面から見据えて、ルータが声をかけた。
 わたしとイサクも二人に同行して院内へ戻ることにした。
 ヤッシャ・レーヴェンイェルムは、しかし動かない。
 まるで監視塔のように屹立(きつりつ)して、周囲の状況をつぶさに観察している。本当に、ただ観察しているだけだ。その瞳の奥には、いかなる動揺も見出させない。彼はただ、己一人の身の内で、静かに深く気分を損なっているだけのようだ。
 玄関口から外を振り返った時、彼とわたしは一瞬だけ目が合った。
 一瞬ですんだのは、両者のあいだに例の黄色い髪のアトマ族の女性が飛んで入ったからだった。
 この騒動が特に目に入っていないかのような、ほとんど退屈を持て余すような呑気な表情を浮かべて、彼女はレーヴェンイェルムの肩に着地した。そして彼になにかを語りかけた。男は適当に首をすくめた。それだけだった。わたしはもう彼らを見ないようにした。
 ちょうどこの時、雪が降りだした。しゃぼん玉みたいにふわふわとして、大きさのまばらな雪だった。でもその一つ一つが、こってりとした厚みを持っている。
 血や泥で(けが)された地面が早いとこ白で覆われてしまえばいいのにと思いながら、わたしはルータたちを追った。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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