28 奇妙な会食
文字数 7,395文字
その二日後、わたしたちは再び旧市街を訪れた。今度はルータも一緒に。
ちょっと意外だったけど、テンシュテット・レノックスが選んだのは、旧市街の外れにある隠れ家みたいな家庭料理のお店だった。少し入り組んだ場所にあるので、はぐれないように目立つ場所でいったん落ち合おう、という旨 が駅の伝言板に記されていた。
それがわたしたちが今いるここ、古びた教会の前の小さな広場だった。
〈午後七時/普段どおりの楽な格好で来て/僕らもそうする〉
とテンシュテットが書いて寄越していたので、そのとおりにした。なので三人とも、いつもとなんら変わらない服装。
約束の時間の15分前には着いてしまったわたしたちは、身を寄せあって街灯の下に立っていた。もうほとんど日は暮れていて、風はないけど微小な雪がちらついている。なのに、あまり寒さを感じない。やっぱりそれなりに緊張しているんだと思う。
家路を急ぐ人々の姿をぼんやりと眺めながら、わたしたちは時が来るのを待った。
「あれじゃない」イサクが眼鏡の端を指先で押し上げて言った。
時折り小型の馬車や単車が通るくらいのものだった長閑な街路を、こちらへ向かって進む一台の四輪駆動車の灯火が見えた。わたしは一時的に視覚を研ぎ澄まし、すぐに解除すると、兄妹に早口で告げた。
「用心して。あのアトマの人がいる」
アトマだけでなく、予期していなかった同行者は、さらに二名いた。
運転席に座ってハンドルを握っているのは、ドノヴァン・ベームだ。助手席にはヤッシャ・レーヴェンイェルムもいて、アトマ族の女性は彼の肩に腰かけている。
車はわたしたちの目の前で停まった。レノックス兄妹が後部席から降りてきた。
兄の方は以前会った時とほとんどおなじ服装で、妹の方もそうだった。つまり例の、真っ赤なコート。きっとこれでも彼女にとっては普段着なのだろう。そのまま女優として舞台に立てそうだけど。
「遅くなってごめん」テンシュテットが白い息を吐いて言った。
「なにを謝るの」ちらと腕時計に目を落とし、ルータは首を振った。「まだ七時になっていないよ。それに、僕らもさっき来たばかりさ」
「こんばんは。先日はどうも」そう言ったのはベームだった。彼は運転席の窓を開けて、こちらに身を乗り出してきた。「おかげさまで、ずいぶん助かりました」
「いいえ」わたしは会釈した。「みなさん、その後いかがですか」
「どいつもこいつも元気にしてますよ」彼は無精髭に覆われる大きな顔でにっこり笑う。「とりわけ、我らが隊長殿の元気の良さと言ったら、手が付けられませんね。まったく、いつのまにか一人だけ抜け駆けして、こんな素敵な方々とお近付きになりやがって」
たしなめるような目つきでテンシュテットは振り返り、なにか言い返そうとしたけれど、嘆息してかぶりを振るだけに留めた。
そんな彼の様子を面白がるように見あげている大男の隣で、レーヴェンイェルムは最初にほんのわずかに頭を下げたきり、こちらには目も向けない。ただ両手をコートのポケットに突っ込んで、半眼 で前方を見据えている。
黄色い髪のアトマ族の女性は、まるで井戸の底をのぞき込むみたいな目で、わたしたち三人の姿を観察している。言うまでもなく、わたしたちの発顕因子は完璧に隠してある。普通の人間にそんな高度な波動操作ができるはずもないから、彼女はこちらをなんの素養も持たない一般市民だと見做しているはずだ。
「帰りはどうすんだ、テン」ベームが訊いた。
「適当に馬車でも拾うよ。そんなに遅くはならない」
大男はひらりと手を振る。「そうかい。ま、存分に羽を伸ばしてこい。こっちは不愛想なこの野郎と、どこかの洞窟の奥でトカゲでも焼いて食うからよ」
わたしたち三人と、それにルチアも、一緒になって吹き出した。
野郎呼ばわりされた助手席の男は隣の同僚を睨みつけ、小さく鋭いため息を吐くと、腕を組んでよりいっそう黙りこくった。
「失礼ね、ベーム博士。私もいるじゃない」
つんと唇を尖らせて、アトマの女性が言った。初めて直に耳にするその声は、その容貌に相応しく、色っぽくて深みのある音色だった。
「おっと」ベームは大袈裟に両目をぱちくりさせた。「すまない。おれとしたことが、とんだ無礼を口にしてしまった。ところできみは、トカゲ好き?」
ぱちっと小気味 良い音を響かせて、アトマの女性がベームの頬を平手打ちした。わたしたちはまた笑った。今度はテンシュテットも一緒に。
「口の減らん奴め」石を噛むような表情で、レーヴェンイェルムが一言 吐き捨てた。
車が走り去るのを見届けると、ようやくきちんとわたしたちは対面した。
美術館に飾りたくなるような唯一無二の微笑を浮かべて、ルチア・レノックスは恭しくわたしたち全員と握手を交わした。
「お目にかかることができて嬉しいです。うちの兄がたびたびお世話になったみたいで」
いえいえ、そんなこと、こちらこそ、とかなんとか、よくある台詞を返しながら、わたしは胸中で、あなたのそのお気に入りのコートが綺麗なままなのも、陰ながら誰かがお世話したからなのよ、なんてこっそり思っていた。
互いの挨拶と自己紹介がすむと、さっそくテンシュテットが勇 んで地図を広げた。この二日間で何度も見返したにちがいない。地図の折り目はすでにうっすらと破れかけ、目標地点へと至る経路には細かく目印やメモの書き込みまでしてある。
「よし」青年は胸を張った。「では行きましょう。僕についてきて」
歩きだしてしばらくすると、ルチアがわたしたちに美しい花束をプレゼントしてくれた。本当はお店についてからお渡しするつもりでしたけど、このとおり丸見えのまま持って歩くのもなんだか変な感じがして、と彼女は苦笑した。実はこちらもおなじ気持ちでいたので、わたしたちからも気兼ねなく、用意しておいたガラス箱詰めのドライフラワーを贈った。この思いがけない花々の交換によって、わたしたちの距離は自然と縮まった。みんなで顔を見あわせて笑った。ただテンシュテットだけが、大真面目に地図に没頭したままでいた。
薄暗い路地裏の迷路を抜けた先に、ようやくその店は見つかった。遠目にも、屋内から滲み出る温かな灯火と、玄関先に吊り下げられた緑色のランプが鮮やかだ。看板の類は一切出ていない。入口のドアに今晩のメニューを記した小さな貼り紙がしてあるだけだ。
先導する青年は自信たっぷりにうなずくと、地図を畳んでポケットにしまった。
「緑色の明かり。話に聞いたとおりだ。ここで間違いないです」
そこは家庭料理を出すお店というより、まったく一般の家庭そのものだった。店主も調理人も給仕係も、みんな本当に血の繋がった家族や親戚どうしだという。親密で落ち着いた雰囲気に包まれる店内には、すでに何組かの客が入っていた。というか、空いているのは五人分の支度が整えてある奥のテーブル一つきりだ。
壁も床も木肌が露わで、あちこちに著名な作曲家や演奏家の写真や肖像画が飾ってあり、それらが暖炉の火を映してまさに星のように輝いている。室内の明かりはすべて燭台やキャンドルの灯によるもので、片隅に置かれた戸棚の上では蓄音機が明るい室内楽を奏でている。
テーブルに案内されたわたしたちは、上着や帽子を脱いで席に着いた。テンシュテットは上着の下には深緑色のセーターを着ていた。ルチアのコートの下は、銀色の丸首セーター。どちらも見るからに高級品だ。でも服の品質だけなら、こっちも負けてない。たぶん傍目 には、わたしたちは同程度の生活水準の環境で暮らす同年代の友人どうしの集まり、みたいに見えていることだろう。とはいえ実際には、今ここで周囲からそれとなく注がれる視線は、いずれも金髪長身の美男美女に集中していた。別に卑下 するわけじゃないけど、それでもレノックス兄妹と比較したら、わたしたち三人は演劇でいうところの脇役みたいなものだ。この劇場にあっては、彼らに照明などいらない。彼ら自身が光源であり、彼らが行くところはすべて舞台の中心になる。
やがて先客や従業員たちからの注目が解かれ、いっとき搔 き乱された室内の空気も落ち着くと、いよいよ、訳のわからない巡り合わせによってお膳立てされてしまった奇妙な会食が、始まりの時を迎えた。
「まずワインでもいただきましょうか」テンシュテットが口火を切った。「みなさん、お酒の方は……」
ルータとイサクは18歳より下に見られることが多いので、わたしたちはあんまり外で飲むことはしない。でも今夜は、身なりの良さと泰然 とした立ち振る舞いに室内の仄暗さも相まって、それなりの年齢に見てもらえるだろうと踏んだ。
「われわれの出逢いを祝して」
テンシュテットが泡の立つ白ワインのグラスを掲げた。
「それから、この不思議な縁を取り持ってくれた、妖精の剣士クーレンカンプにも」ルータが続いた。
「乾杯!」
それぞれがグラスを重ねあい、口もとで傾け、一息ついて、再びテーブルにそれを戻すやいなや、今しがたのルータの一言が発端となって、瞬く間に話題に火が点いた。
「ルータさんはもうお読みになりました?」ルチア嬢がたずねる。「クーレンカンプの最新刊」
「もちろんです。手に入れてから二晩ですっかり読んでしまいました。ルチアさんは?」
当然、というふうに彼女はうなずいた。その拍子に彼女の耳もとで、釣り針みたいな形をした小さな金のイヤリングがきらりと揺れた。
「わたし、一晩で読んじゃったんですよ。少しあいだを空けたら、もう一回じっくりと読み返すつもりでいます」
隣で彼女の兄が眉をひそめる。
「おまえ、自分がこの国になにをしに来たのか、ちゃんと自覚してるんだろうな。夢中になるのはわかるけどさ、今は娯楽の方はほどほどにしといて、新しい見聞 を大いに広めるのが――」
「なによ」その美麗な鼻で斬りかかるように、ルチアは鋭く兄の方を向いた。「やめてよね、父さんたちみたいなこと言うの。これでもわたし、昨日の小試験でも教室で一番だったし、それに徹夜で読書した翌朝だって、遅刻せずに一限目から出席したんだから。というか、よく言うわよね」ここで彼女はふんと鼻で笑った。「自分なんか、もう三度は読み返したくせに」
わたしたちは一斉に青年に注目した。
「な……」覿面 に青年はたじろぐ。「なぜそれを? もしかして、ドノヴァンから聞いたのか? あ、いや、待てよ。あいつにも、というか誰にだって、僕はそんな話はしてないはず……」
妹はしてやったりというふうに首を反らせた。
「ほらね。図星だわ。兄さんのことだから、もうそれくらいは読み込んでるに違いないと思ったのよ」
「むっ……」
叱られた犬みたいに引き下がる青年を、わたしたちは面白がって見物した。
「自分のやるべきことを疎 かにしてるのは、いったいどちらかしらね」妹がさらに攻める。
「失礼な」しかし兄もまだ引き下がらない。「僕だって、ちゃんとやるべきことはやってるさ。ただ今作は、僕にとってはクーレンカンプの最高傑作というべき傑作で……」
「僕も同意見だ」即座にルータが賛意を表明した。「第一巻を読んだ時の衝撃を超えたね。世間では三作目が最高作だというのが通説だけど、僕に言わせれば最新作は断然それを凌駕したと思う」
「だよね!」そのまま立ち上がって店の外を一周走ってくるんじゃないかと思えるほど、テンシュテットは勢いづいた。「いやぁ、本当にそのとおりだよ。ルータ、きみはどの場面が気に入った? 僕はあの――」
そこで彼は手綱を引かれた馬みたいに静止し、わたしとイサクの方をそろりと見やった。
青年の気掛かりがすぐに察せられたので、わたしは先んじた。
「わたしはまだ読んでませんけど、どうぞおかまいなく。探偵ものだって、読む前から犯人がわかっていても楽しめる質 ですので」
「あたしも問題ない」イサクも続いた。「そもそも小説とか読まないので」
「……そうですか」いくぶん残念そうに青年はうなずくと、再びルータと向き合った。「ではお言葉に甘えて話させていただくと、僕はあの終盤間際の風葬 の場面がたまらなかったね。もう本当に、胸が詰まったよ」
思いだしても涙腺に来るものがあるのか、青年は少し喉を震わせた。おなじようにルータもルチアも、感慨深げに首を揺らせている。
「まさかあそこで、あれほど重要な役割を担う登場人物が退場することになるとはね」グラスを傾けながら、ルータが唸った。
「てっきり彼は最後までクーレンカンプたちを導いてくれるものだと、誰もが思ってましたよね」ルチアも吐息をつく。
なんの話をしてるのかさっぱりわからないし、本音を言うとさして興味もないのだけど、ともかく物語の最後のあたりで、アトマ族の誰かがこの世を去ったということなのだろう。
〈風葬〉。久しぶりに耳にする言葉だ。
一生を終えた後、火の力を用いない限り遺体が自然に還るのに長い時間と複雑な分解工程を要する人間とは違い、その身体組成が極めて源素と親和性の高いアトマ族の亡骸は、絶命した瞬間に微細な砂状に分解されて、その場の大気中に無形のイーノとして還ってゆく。風に吹かれて空へと舞い散っていくその最期の様を、古来より人々は畏敬と弔意を込めて〈風葬〉と呼んできたのだった。
上品だけど気持ちの良い飲みっぷりで、ルチアは早々 とグラスを空にした。すかさず給仕の若い男性が飛んできて、彼女に見惚れないよう注意しながらしっかり見惚れつつ、ワインのお代わりを注いだ。ルチアは礼を述べると、次からは自分たちで注 ぐからボトルごと置いていってと彼に頼んだ。彼は肩を落として敗走兵のように去っていった。
まもなく前菜とスープが一緒に運ばれてきた。それらは予想していたとおりに、素朴で滋味豊かで心温まる味だった。思わず全員黙り込み、しみじみと舌鼓を打った。
おおむね皿が空くと、テンシュテットが急に思い至った様子で顔を上げた。
「そうだ、ルータ。一つ訊いてもいいかな」
「なんだい、改まって。もちろんかまわないけど」
「もしかしてきみたちがお見舞いに行っていたのは、あの病院の最上階の個室に入っておられるご老人のところでは?」
わたしたち三人は揃って一瞬呼吸を止めた。
イサクの全身から、殺気を宿した波動がどろりと漂い出た。まるで、首をもたげる大蛇のように。
「……ごめん。不躾 なことを口にしてしまっただろうか」なにか察したのか、テンシュテットが細い声で言った。
「ううん、全然」ルータはすかさず平然と首を振った。さすがだ。「きみの言うとおりだけど、どうしてそう思ったの?」
「僕、院長先生や看護士の方々にお礼を伝えるために、後日もう一度あそこへ伺 ったんだ。その時、階段を上りきったところで、ふと誰かの視線を感じてね。それが、あの部屋のベッドに一人寝ておられるおじいさんだった。おじいさんでいいんだよね? きみやイサクさんと、髪の色や頬の輪郭がそっくりだった」
「そうだよ」
素っ気なくイサクが応じた。それをたしなめるように、彼女の兄がこほんと咳払いした。
「よく似てるって言われるよ」ルータはにこやかに言う。
「やっぱりそうだったんだね」テンシュテットは安堵の笑みを浮かべる。「ドアが少し開いていたから、僕とおじいさんはしばらく目が合ったんだよ。部屋の奥からこちらをじっと見つめておられた、あの息を呑むほど透き通った瞳。あまりにも深く美しい青だったから、思わず立ち止まって見入ってしまった。失礼は承知の上でも、どうしても、目を離すことができなかった」
「実はお会いした瞬間からずっと思ってたんです」機を見てルチアが口を開く。「みなさんお三方とも、本当に綺麗な青い目をされてるなって」
「わたしたちの一族の直系の子孫たちは、代々みんなこうなるんです」グラスの土台に指先を置いて、わたしは言った。「ご覧のとおり、髪の色は両親や祖父母によってそれぞれなのですけど、瞳の色に関してだけは、どういうわけか遺伝の力がとても強いみたいで」
「へぇ……」テンシュテットが素直に感心する。「不思議なことがあるものですね」
「そうだ」持ち上げかけていたグラスをとんぼ返りでテーブルに着地させて、ルチアが高い声を発した。「青い瞳と言えば、あの新しい登場人物には驚かされましたよね」
なにを言っているのかすぐにはわからなくて、わたしとイサクはぽかんとなった。けれど少女の熱いまなざしがまっすぐルータに向けられているのを見て、あぁまだ本の話を続けているんだなと理解した。
けれどルータは、まるで少し圧を加えただけで割れかねないガラス細工を扱うようにフォークを置くと、どことなくぎこちない表情でうなずくばかりだった。
「まさか最後の最後に、あんな予想外の登場人物をぶつけてくるなんて、さすが挑戦の作家ウィルコ・ゴライトリーだよな」テンシュテットが胸に手を当てて嘆息する。「あれでまた続編が書かれることがわかって嬉しかったけど、でもいったい、あんな超越的な存在をいきなり物語に投入して、この先どんなふうに話の風呂敷を畳んでいくおつもりなんだろう」
共感を示す微笑を浮かべると、ルータはやはり微妙に硬い動きで手を伸ばした。グラスの脚を指先で摘まみ、慎重な手つきでそれを口に運んだ。でもそのなかには、今の彼が求めるひとくちぶんに少し足りない量しか残されていなかった。水滴がびっしりと浮いたワインの瓶は、テーブルの隅に置いてある。
わたしの方がそれに近かったので、彼を制して手を伸ばした。
そうしながら、なんとはなしにたずねてみた。
「お二人揃ってそこまでおっしゃるなんて、なにか余程の展開があったみたいですね」
レノックス兄妹は二人して息ぴったりにうなずいた。
「ええ、まさに余程の展開、誰も予想すらしていなかった急展開だったんですよ」ルチアが息を弾ませる。
「そう。度肝を抜かれる出来事だった」テンシュテットも同意する。そしておそろしく真剣な目をこちらに向ける。「詳しい筋 は端折 りますが、なんとクーレンカンプ最新作の終盤で、あの神話に語られる古代の民族〈アクア族〉の末裔が登場するんですよ」
ぴしっ、という乾いた音と共に、わたしの目の前でワインの瓶に亀裂が走った。まるで誰かが剣で斬りつけたみたいに。
ちょっと意外だったけど、テンシュテット・レノックスが選んだのは、旧市街の外れにある隠れ家みたいな家庭料理のお店だった。少し入り組んだ場所にあるので、はぐれないように目立つ場所でいったん落ち合おう、という
それがわたしたちが今いるここ、古びた教会の前の小さな広場だった。
〈午後七時/普段どおりの楽な格好で来て/僕らもそうする〉
とテンシュテットが書いて寄越していたので、そのとおりにした。なので三人とも、いつもとなんら変わらない服装。
約束の時間の15分前には着いてしまったわたしたちは、身を寄せあって街灯の下に立っていた。もうほとんど日は暮れていて、風はないけど微小な雪がちらついている。なのに、あまり寒さを感じない。やっぱりそれなりに緊張しているんだと思う。
家路を急ぐ人々の姿をぼんやりと眺めながら、わたしたちは時が来るのを待った。
「あれじゃない」イサクが眼鏡の端を指先で押し上げて言った。
時折り小型の馬車や単車が通るくらいのものだった長閑な街路を、こちらへ向かって進む一台の四輪駆動車の灯火が見えた。わたしは一時的に視覚を研ぎ澄まし、すぐに解除すると、兄妹に早口で告げた。
「用心して。あのアトマの人がいる」
アトマだけでなく、予期していなかった同行者は、さらに二名いた。
運転席に座ってハンドルを握っているのは、ドノヴァン・ベームだ。助手席にはヤッシャ・レーヴェンイェルムもいて、アトマ族の女性は彼の肩に腰かけている。
車はわたしたちの目の前で停まった。レノックス兄妹が後部席から降りてきた。
兄の方は以前会った時とほとんどおなじ服装で、妹の方もそうだった。つまり例の、真っ赤なコート。きっとこれでも彼女にとっては普段着なのだろう。そのまま女優として舞台に立てそうだけど。
「遅くなってごめん」テンシュテットが白い息を吐いて言った。
「なにを謝るの」ちらと腕時計に目を落とし、ルータは首を振った。「まだ七時になっていないよ。それに、僕らもさっき来たばかりさ」
「こんばんは。先日はどうも」そう言ったのはベームだった。彼は運転席の窓を開けて、こちらに身を乗り出してきた。「おかげさまで、ずいぶん助かりました」
「いいえ」わたしは会釈した。「みなさん、その後いかがですか」
「どいつもこいつも元気にしてますよ」彼は無精髭に覆われる大きな顔でにっこり笑う。「とりわけ、我らが隊長殿の元気の良さと言ったら、手が付けられませんね。まったく、いつのまにか一人だけ抜け駆けして、こんな素敵な方々とお近付きになりやがって」
たしなめるような目つきでテンシュテットは振り返り、なにか言い返そうとしたけれど、嘆息してかぶりを振るだけに留めた。
そんな彼の様子を面白がるように見あげている大男の隣で、レーヴェンイェルムは最初にほんのわずかに頭を下げたきり、こちらには目も向けない。ただ両手をコートのポケットに突っ込んで、
黄色い髪のアトマ族の女性は、まるで井戸の底をのぞき込むみたいな目で、わたしたち三人の姿を観察している。言うまでもなく、わたしたちの発顕因子は完璧に隠してある。普通の人間にそんな高度な波動操作ができるはずもないから、彼女はこちらをなんの素養も持たない一般市民だと見做しているはずだ。
「帰りはどうすんだ、テン」ベームが訊いた。
「適当に馬車でも拾うよ。そんなに遅くはならない」
大男はひらりと手を振る。「そうかい。ま、存分に羽を伸ばしてこい。こっちは不愛想なこの野郎と、どこかの洞窟の奥でトカゲでも焼いて食うからよ」
わたしたち三人と、それにルチアも、一緒になって吹き出した。
野郎呼ばわりされた助手席の男は隣の同僚を睨みつけ、小さく鋭いため息を吐くと、腕を組んでよりいっそう黙りこくった。
「失礼ね、ベーム博士。私もいるじゃない」
つんと唇を尖らせて、アトマの女性が言った。初めて直に耳にするその声は、その容貌に相応しく、色っぽくて深みのある音色だった。
「おっと」ベームは大袈裟に両目をぱちくりさせた。「すまない。おれとしたことが、とんだ無礼を口にしてしまった。ところできみは、トカゲ好き?」
ぱちっと
「口の減らん奴め」石を噛むような表情で、レーヴェンイェルムが
車が走り去るのを見届けると、ようやくきちんとわたしたちは対面した。
美術館に飾りたくなるような唯一無二の微笑を浮かべて、ルチア・レノックスは恭しくわたしたち全員と握手を交わした。
「お目にかかることができて嬉しいです。うちの兄がたびたびお世話になったみたいで」
いえいえ、そんなこと、こちらこそ、とかなんとか、よくある台詞を返しながら、わたしは胸中で、あなたのそのお気に入りのコートが綺麗なままなのも、陰ながら誰かがお世話したからなのよ、なんてこっそり思っていた。
互いの挨拶と自己紹介がすむと、さっそくテンシュテットが
「よし」青年は胸を張った。「では行きましょう。僕についてきて」
歩きだしてしばらくすると、ルチアがわたしたちに美しい花束をプレゼントしてくれた。本当はお店についてからお渡しするつもりでしたけど、このとおり丸見えのまま持って歩くのもなんだか変な感じがして、と彼女は苦笑した。実はこちらもおなじ気持ちでいたので、わたしたちからも気兼ねなく、用意しておいたガラス箱詰めのドライフラワーを贈った。この思いがけない花々の交換によって、わたしたちの距離は自然と縮まった。みんなで顔を見あわせて笑った。ただテンシュテットだけが、大真面目に地図に没頭したままでいた。
薄暗い路地裏の迷路を抜けた先に、ようやくその店は見つかった。遠目にも、屋内から滲み出る温かな灯火と、玄関先に吊り下げられた緑色のランプが鮮やかだ。看板の類は一切出ていない。入口のドアに今晩のメニューを記した小さな貼り紙がしてあるだけだ。
先導する青年は自信たっぷりにうなずくと、地図を畳んでポケットにしまった。
「緑色の明かり。話に聞いたとおりだ。ここで間違いないです」
そこは家庭料理を出すお店というより、まったく一般の家庭そのものだった。店主も調理人も給仕係も、みんな本当に血の繋がった家族や親戚どうしだという。親密で落ち着いた雰囲気に包まれる店内には、すでに何組かの客が入っていた。というか、空いているのは五人分の支度が整えてある奥のテーブル一つきりだ。
壁も床も木肌が露わで、あちこちに著名な作曲家や演奏家の写真や肖像画が飾ってあり、それらが暖炉の火を映してまさに星のように輝いている。室内の明かりはすべて燭台やキャンドルの灯によるもので、片隅に置かれた戸棚の上では蓄音機が明るい室内楽を奏でている。
テーブルに案内されたわたしたちは、上着や帽子を脱いで席に着いた。テンシュテットは上着の下には深緑色のセーターを着ていた。ルチアのコートの下は、銀色の丸首セーター。どちらも見るからに高級品だ。でも服の品質だけなら、こっちも負けてない。たぶん
やがて先客や従業員たちからの注目が解かれ、いっとき
「まずワインでもいただきましょうか」テンシュテットが口火を切った。「みなさん、お酒の方は……」
ルータとイサクは18歳より下に見られることが多いので、わたしたちはあんまり外で飲むことはしない。でも今夜は、身なりの良さと
「われわれの出逢いを祝して」
テンシュテットが泡の立つ白ワインのグラスを掲げた。
「それから、この不思議な縁を取り持ってくれた、妖精の剣士クーレンカンプにも」ルータが続いた。
「乾杯!」
それぞれがグラスを重ねあい、口もとで傾け、一息ついて、再びテーブルにそれを戻すやいなや、今しがたのルータの一言が発端となって、瞬く間に話題に火が点いた。
「ルータさんはもうお読みになりました?」ルチア嬢がたずねる。「クーレンカンプの最新刊」
「もちろんです。手に入れてから二晩ですっかり読んでしまいました。ルチアさんは?」
当然、というふうに彼女はうなずいた。その拍子に彼女の耳もとで、釣り針みたいな形をした小さな金のイヤリングがきらりと揺れた。
「わたし、一晩で読んじゃったんですよ。少しあいだを空けたら、もう一回じっくりと読み返すつもりでいます」
隣で彼女の兄が眉をひそめる。
「おまえ、自分がこの国になにをしに来たのか、ちゃんと自覚してるんだろうな。夢中になるのはわかるけどさ、今は娯楽の方はほどほどにしといて、新しい
「なによ」その美麗な鼻で斬りかかるように、ルチアは鋭く兄の方を向いた。「やめてよね、父さんたちみたいなこと言うの。これでもわたし、昨日の小試験でも教室で一番だったし、それに徹夜で読書した翌朝だって、遅刻せずに一限目から出席したんだから。というか、よく言うわよね」ここで彼女はふんと鼻で笑った。「自分なんか、もう三度は読み返したくせに」
わたしたちは一斉に青年に注目した。
「な……」
妹はしてやったりというふうに首を反らせた。
「ほらね。図星だわ。兄さんのことだから、もうそれくらいは読み込んでるに違いないと思ったのよ」
「むっ……」
叱られた犬みたいに引き下がる青年を、わたしたちは面白がって見物した。
「自分のやるべきことを
「失礼な」しかし兄もまだ引き下がらない。「僕だって、ちゃんとやるべきことはやってるさ。ただ今作は、僕にとってはクーレンカンプの最高傑作というべき傑作で……」
「僕も同意見だ」即座にルータが賛意を表明した。「第一巻を読んだ時の衝撃を超えたね。世間では三作目が最高作だというのが通説だけど、僕に言わせれば最新作は断然それを凌駕したと思う」
「だよね!」そのまま立ち上がって店の外を一周走ってくるんじゃないかと思えるほど、テンシュテットは勢いづいた。「いやぁ、本当にそのとおりだよ。ルータ、きみはどの場面が気に入った? 僕はあの――」
そこで彼は手綱を引かれた馬みたいに静止し、わたしとイサクの方をそろりと見やった。
青年の気掛かりがすぐに察せられたので、わたしは先んじた。
「わたしはまだ読んでませんけど、どうぞおかまいなく。探偵ものだって、読む前から犯人がわかっていても楽しめる
「あたしも問題ない」イサクも続いた。「そもそも小説とか読まないので」
「……そうですか」いくぶん残念そうに青年はうなずくと、再びルータと向き合った。「ではお言葉に甘えて話させていただくと、僕はあの終盤間際の
思いだしても涙腺に来るものがあるのか、青年は少し喉を震わせた。おなじようにルータもルチアも、感慨深げに首を揺らせている。
「まさかあそこで、あれほど重要な役割を担う登場人物が退場することになるとはね」グラスを傾けながら、ルータが唸った。
「てっきり彼は最後までクーレンカンプたちを導いてくれるものだと、誰もが思ってましたよね」ルチアも吐息をつく。
なんの話をしてるのかさっぱりわからないし、本音を言うとさして興味もないのだけど、ともかく物語の最後のあたりで、アトマ族の誰かがこの世を去ったということなのだろう。
〈風葬〉。久しぶりに耳にする言葉だ。
一生を終えた後、火の力を用いない限り遺体が自然に還るのに長い時間と複雑な分解工程を要する人間とは違い、その身体組成が極めて源素と親和性の高いアトマ族の亡骸は、絶命した瞬間に微細な砂状に分解されて、その場の大気中に無形のイーノとして還ってゆく。風に吹かれて空へと舞い散っていくその最期の様を、古来より人々は畏敬と弔意を込めて〈風葬〉と呼んできたのだった。
上品だけど気持ちの良い飲みっぷりで、ルチアは
まもなく前菜とスープが一緒に運ばれてきた。それらは予想していたとおりに、素朴で滋味豊かで心温まる味だった。思わず全員黙り込み、しみじみと舌鼓を打った。
おおむね皿が空くと、テンシュテットが急に思い至った様子で顔を上げた。
「そうだ、ルータ。一つ訊いてもいいかな」
「なんだい、改まって。もちろんかまわないけど」
「もしかしてきみたちがお見舞いに行っていたのは、あの病院の最上階の個室に入っておられるご老人のところでは?」
わたしたち三人は揃って一瞬呼吸を止めた。
イサクの全身から、殺気を宿した波動がどろりと漂い出た。まるで、首をもたげる大蛇のように。
「……ごめん。
「ううん、全然」ルータはすかさず平然と首を振った。さすがだ。「きみの言うとおりだけど、どうしてそう思ったの?」
「僕、院長先生や看護士の方々にお礼を伝えるために、後日もう一度あそこへ
「そうだよ」
素っ気なくイサクが応じた。それをたしなめるように、彼女の兄がこほんと咳払いした。
「よく似てるって言われるよ」ルータはにこやかに言う。
「やっぱりそうだったんだね」テンシュテットは安堵の笑みを浮かべる。「ドアが少し開いていたから、僕とおじいさんはしばらく目が合ったんだよ。部屋の奥からこちらをじっと見つめておられた、あの息を呑むほど透き通った瞳。あまりにも深く美しい青だったから、思わず立ち止まって見入ってしまった。失礼は承知の上でも、どうしても、目を離すことができなかった」
「実はお会いした瞬間からずっと思ってたんです」機を見てルチアが口を開く。「みなさんお三方とも、本当に綺麗な青い目をされてるなって」
「わたしたちの一族の直系の子孫たちは、代々みんなこうなるんです」グラスの土台に指先を置いて、わたしは言った。「ご覧のとおり、髪の色は両親や祖父母によってそれぞれなのですけど、瞳の色に関してだけは、どういうわけか遺伝の力がとても強いみたいで」
「へぇ……」テンシュテットが素直に感心する。「不思議なことがあるものですね」
「そうだ」持ち上げかけていたグラスをとんぼ返りでテーブルに着地させて、ルチアが高い声を発した。「青い瞳と言えば、あの新しい登場人物には驚かされましたよね」
なにを言っているのかすぐにはわからなくて、わたしとイサクはぽかんとなった。けれど少女の熱いまなざしがまっすぐルータに向けられているのを見て、あぁまだ本の話を続けているんだなと理解した。
けれどルータは、まるで少し圧を加えただけで割れかねないガラス細工を扱うようにフォークを置くと、どことなくぎこちない表情でうなずくばかりだった。
「まさか最後の最後に、あんな予想外の登場人物をぶつけてくるなんて、さすが挑戦の作家ウィルコ・ゴライトリーだよな」テンシュテットが胸に手を当てて嘆息する。「あれでまた続編が書かれることがわかって嬉しかったけど、でもいったい、あんな超越的な存在をいきなり物語に投入して、この先どんなふうに話の風呂敷を畳んでいくおつもりなんだろう」
共感を示す微笑を浮かべると、ルータはやはり微妙に硬い動きで手を伸ばした。グラスの脚を指先で摘まみ、慎重な手つきでそれを口に運んだ。でもそのなかには、今の彼が求めるひとくちぶんに少し足りない量しか残されていなかった。水滴がびっしりと浮いたワインの瓶は、テーブルの隅に置いてある。
わたしの方がそれに近かったので、彼を制して手を伸ばした。
そうしながら、なんとはなしにたずねてみた。
「お二人揃ってそこまでおっしゃるなんて、なにか余程の展開があったみたいですね」
レノックス兄妹は二人して息ぴったりにうなずいた。
「ええ、まさに余程の展開、誰も予想すらしていなかった急展開だったんですよ」ルチアが息を弾ませる。
「そう。度肝を抜かれる出来事だった」テンシュテットも同意する。そしておそろしく真剣な目をこちらに向ける。「詳しい
ぴしっ、という乾いた音と共に、わたしの目の前でワインの瓶に亀裂が走った。まるで誰かが剣で斬りつけたみたいに。
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