8 かつて我が家だったもの
文字数 2,409文字
雨雲は地平の果ての先まで途切れる箇所が見あたらなかった。優に明日の朝まで降り続くだろう。
思いもかけず過酷な状況が重なってしまったけれど、もう、なりふり構っていられない。
ただ家を出るだけで済むという話であれば、雨脚 が弱いうちにさっさとそうしてしまえばよかった。でも、そうはいかなかった。わたしたちには、最後にやっておかなければならないことがあった。人の身では立ち入ることさえ困難なこの場所に、人工の建物の痕跡を残していくわけにはいかない。もしも人間たちに発見されてしまったら、きっと後々 面倒なことになる。
わたしが外の見回りから戻った時には、荷物はすべて荷車に積み込んであった。居間では、ルータとイサクが老師のかたわらに控えて待っていた。わたしが見てきた一部始終を伝えると、満場一致で今すぐここから出ようということになった。
「じいちゃん、ごめんよ。しばらく辛抱しておくれ」
申し訳なさそうに言って、ルータがクレー老師をその背に負った。身長差がずいぶんあるので、老師の足が床に着いてしまう。ルータは両腕を祖父の体に巻き付けるようにして強く抱き留め、そのままふわりと宙に浮き上がった。わたしとイサクは二人がかりで老師にローブを着せ、マフラーを二重に巻き、分厚い外套 で全身をすっぽりと包んだ。わたしたち三人は、それぞれ旅行用の外套をローブの上に羽織った。そして全員で顔を見あわせ、無言でうなずきあい、玄関へ向かった。
玄関の扉に手を掛けて振り返り、居間のなかを見渡した。
かつて火が焚 かれ、温かな食事の香りが満ち、穏やかな笑いとお喋りに溢れていた、ささやかだけれど大切だった我が家。
もう、ここにはなにも残されていない。ただ一つ、がらんとしたからっぽのベッドが、隅っこに置かれているだけ。古い木材でできたそれは、家を崩す時に一緒にばらばらに砕けてしまうことだろう。
本当なら、このまま一晩かけて思い出を語りあい、たっぷりと感傷に浸り、新たな生活の場へと想いを馳 せながら、余裕をもってこの扉を出ていきたいものだった。
けれどこの時のわたしたちは、まともに哀しみや寂しさを味わうための余裕さえ持たなかった。
だって、ここを出たあとで、どんな未来がわたしたちを待ち受けているのか、全然わかっていなかったんだもの……。
未知の世界へ一歩踏み出したわたしたちの身に、まるで洗礼を施すかのような荒い雨が降り注いだ。土砂降りというほどではない。でもぐるぐると向きを変える暴れん坊の風に煽られて、四方八方から蠅 の大群のように押し寄せてくる。生 ある者の気力を削ぎ、骨の芯まで冷え込ませてしまう雨だ。もたもたしてはいられない。
「ルータ兄ぃは、じいちゃんと荷物をお願い」
イサクが言いながら空高く舞い上がった。わたしもそれに続いた。
地上に残ったルータは、塔の横手に置いておいた荷車を軽々 と顕術で浮かせて、老師を背負う自分の身もおなじく浮上させると、共に安全な位置まで後退した。
雨に打たれながら、イサクとわたしは視線で合図を送りあった。そして同時に周囲を見渡し、雨と風の音量を正確に把握すると、慎重に塔の解体作業に取り掛かった。
屋上から始めて、三階から一階へと順番に、ゆっくりじっくり壁や床を砕いていった。さして労力はいらなかった。石材どうしを繋いでいる網の目状の接着箇所に衝撃波を走らせるだけで、まるで積み木が崩れるみたいにぼろぼろと、我が家は――かつて我が家だったものは――その輪郭を失っていった。
またあのアトマ族の女性に勘付かれでもしないよう――もっと酔っぱらってくれてたら助かるんだけど――、わたしたちは細心の注意を払って作業を進めた。地上ではルータが顕術で周辺の土を寄せ集めて、落下する石材の緩衝材にしたり、落ちて砕けた石に覆いかぶせたりしてくれていた。わたしたちの息はぴったりだった。
一言も交わさないうちにあらかたの解体が済んでしまうと、最後の仕上げとして、わたしたちみんなで家の亡骸 に土や枯葉や枯れ枝をかぶせた。奇しくも、雨もその隠蔽 工作を手伝ってくれた。土は天から注ぐ水に打たれてどろどろと溶け流れる泥と化し、粉々になった建材の隙間に浸み込んでいった。雨が上がって乾いてしまえば、多少の風なんかでは崩れたりしない頑丈な土の山になってくれるだろう。
すべてを終えると、わたしたちは家の跡地の上空で肩を寄せあって、ほんのいっときのことだったけれど、心から深く、刻みつけるように、共に感謝と哀悼の意を捧げた。築くのはあんなにも大変で、そして楽しくもあったのに、壊すのは一瞬で、それに、こんなにも胸が痛い。できることなら、もう二度と、こんな思いはしたくなかった。
「……これで、じゅうぶんだろう」
ルータがまっすぐに家の墓を見おろして、つぶやいた。わたしとイサクはうなずいた。クレー老師は荒く息をしながら、孫の背中で顔を歪めて眠っている。その喘 ぐように震える口もとをじっと見据えながら、イサクが感情を欠いた声で言った。
「で、どこへ行くの」
「タヒナータの近郊で宿を取る」彼女の兄が即答した。「いくつか目星をつけてある」
「どうやって行くの」妹が両目を鋭く細める。「まさか飛んでく気?」
「途中までは」
「途中からは?」
「歩くしかない」
「無茶だね」
「とにかく、行くしかない」
まるで鉈 を振り下ろすかのように、ルータがきっぱりと言い放った。
わたしたちは地表からぐんぐんと遠ざかり、遥かな上空へと昇った。もちろん、ささやかな家財一式を積んだ荷車も一緒に。これはわたしが一人で浮かせていた。イサクは老師の容態から目を離さないでおくようにと、わたしが頼んだ。彼女は兄の背後にぴたりとくっつき、その小さな体で祖父の大きな背を一心に抱き支えた。
「よし。行こう」
わたしが一声 発すると、兄妹は同時にうなずいた。
そして、四人で東へ向かって飛び立った。
思いもかけず過酷な状況が重なってしまったけれど、もう、なりふり構っていられない。
ただ家を出るだけで済むという話であれば、
わたしが外の見回りから戻った時には、荷物はすべて荷車に積み込んであった。居間では、ルータとイサクが老師のかたわらに控えて待っていた。わたしが見てきた一部始終を伝えると、満場一致で今すぐここから出ようということになった。
「じいちゃん、ごめんよ。しばらく辛抱しておくれ」
申し訳なさそうに言って、ルータがクレー老師をその背に負った。身長差がずいぶんあるので、老師の足が床に着いてしまう。ルータは両腕を祖父の体に巻き付けるようにして強く抱き留め、そのままふわりと宙に浮き上がった。わたしとイサクは二人がかりで老師にローブを着せ、マフラーを二重に巻き、分厚い
玄関の扉に手を掛けて振り返り、居間のなかを見渡した。
かつて火が
もう、ここにはなにも残されていない。ただ一つ、がらんとしたからっぽのベッドが、隅っこに置かれているだけ。古い木材でできたそれは、家を崩す時に一緒にばらばらに砕けてしまうことだろう。
本当なら、このまま一晩かけて思い出を語りあい、たっぷりと感傷に浸り、新たな生活の場へと想いを
けれどこの時のわたしたちは、まともに哀しみや寂しさを味わうための余裕さえ持たなかった。
だって、ここを出たあとで、どんな未来がわたしたちを待ち受けているのか、全然わかっていなかったんだもの……。
未知の世界へ一歩踏み出したわたしたちの身に、まるで洗礼を施すかのような荒い雨が降り注いだ。土砂降りというほどではない。でもぐるぐると向きを変える暴れん坊の風に煽られて、四方八方から
「ルータ兄ぃは、じいちゃんと荷物をお願い」
イサクが言いながら空高く舞い上がった。わたしもそれに続いた。
地上に残ったルータは、塔の横手に置いておいた荷車を
雨に打たれながら、イサクとわたしは視線で合図を送りあった。そして同時に周囲を見渡し、雨と風の音量を正確に把握すると、慎重に塔の解体作業に取り掛かった。
屋上から始めて、三階から一階へと順番に、ゆっくりじっくり壁や床を砕いていった。さして労力はいらなかった。石材どうしを繋いでいる網の目状の接着箇所に衝撃波を走らせるだけで、まるで積み木が崩れるみたいにぼろぼろと、我が家は――かつて我が家だったものは――その輪郭を失っていった。
またあのアトマ族の女性に勘付かれでもしないよう――もっと酔っぱらってくれてたら助かるんだけど――、わたしたちは細心の注意を払って作業を進めた。地上ではルータが顕術で周辺の土を寄せ集めて、落下する石材の緩衝材にしたり、落ちて砕けた石に覆いかぶせたりしてくれていた。わたしたちの息はぴったりだった。
一言も交わさないうちにあらかたの解体が済んでしまうと、最後の仕上げとして、わたしたちみんなで家の
すべてを終えると、わたしたちは家の跡地の上空で肩を寄せあって、ほんのいっときのことだったけれど、心から深く、刻みつけるように、共に感謝と哀悼の意を捧げた。築くのはあんなにも大変で、そして楽しくもあったのに、壊すのは一瞬で、それに、こんなにも胸が痛い。できることなら、もう二度と、こんな思いはしたくなかった。
「……これで、じゅうぶんだろう」
ルータがまっすぐに家の墓を見おろして、つぶやいた。わたしとイサクはうなずいた。クレー老師は荒く息をしながら、孫の背中で顔を歪めて眠っている。その
「で、どこへ行くの」
「タヒナータの近郊で宿を取る」彼女の兄が即答した。「いくつか目星をつけてある」
「どうやって行くの」妹が両目を鋭く細める。「まさか飛んでく気?」
「途中までは」
「途中からは?」
「歩くしかない」
「無茶だね」
「とにかく、行くしかない」
まるで
わたしたちは地表からぐんぐんと遠ざかり、遥かな上空へと昇った。もちろん、ささやかな家財一式を積んだ荷車も一緒に。これはわたしが一人で浮かせていた。イサクは老師の容態から目を離さないでおくようにと、わたしが頼んだ。彼女は兄の背後にぴたりとくっつき、その小さな体で祖父の大きな背を一心に抱き支えた。
「よし。行こう」
わたしが
そして、四人で東へ向かって飛び立った。
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