30 なにを言おうが言うまいが

文字数 5,314文字

 ちょうどこの頃を境に、タヒナータ周辺の森のなかで天秤竜の姿が目撃されるという前代未聞の事象が、立て続けに発生するようになっていた。
 目撃者の多くは、主に林業や採掘業に携わる人たちだった。
 彼らの証言によると、竜はいずれの場合も単独で行動しており、見るからにどの個体も衰弱しきっていたという。そのためか、人間側に負傷者や死者は一人も出なかった。禁断の巨獣と遭遇して一切の被害が生じなかったことは、言うまでもないことだけれど、タヒナータの市民たちにとって僥倖(ぎょうこう)以外のなにものでもなかった。
 しかしそれはそれとして、世論の反応としては、こういった状況を心穏やかに受け入れる声など一つも見あたらなかった。なにしろ、古来より決してありえなかったことなのだ――西の彼方の森に暮らす天秤竜が、あの途方もない大峡谷を越えて、まさかこの東の森まで侵入してくるなどということは。有史以来ずっと静かな森と共に生きてきたコランダムの人々は、まさに驚嘆と恐怖にすくみ上がることになった。
 そもそも天秤竜とは、大型動物のなかでも並外れて繊細な神経と体質を持つ種族であり、ほんの少しの環境の変化にも適応することが難しい生物であると言われている。谷を一つ隔てただけとはいえ、西側の森と東側の森とでは、人間たちの観測や分析では及びもつかないほど、その生態系や住環境としての性質は異なるものなのだろう。巨兵による虐殺から逃れ、家族や仲間たちからはぐれ、決死の覚悟で長大な峡谷を越え、そうしてようやく辿り着いた新天地の森も、やはり彼らにとっては身も心も馴染まない異界でしかなかったのだ。
 そしてこれ以降、大峡谷周辺の森のなかで、衰弱死した竜の個体が発見されるという報告が相次いだ。その半数以上が、親や群れと離ればなれになった迷子の幼竜だったという。
 こうした一連の事態を重く見たコランダム政府は、いよいよ森の深部の調査に乗り出した。
 そして必然として、彼らは目の当たりにすることになった。
 国境線を大幅に逸脱して荒らされた、神聖不可侵の森の惨状を。
 人の形をした巨大な悪魔により蹂躙(じゅうりん)され、殺戮の限りを尽くされた血塗れの痕跡を。
 公国の人々は怒りに震えた。
 もとより平和と自然と秩序を愛し、森とその地に暮らす生き物たちに畏敬の念を抱いてきた公国民たちにとって、あからさまに法と生命の尊厳を踏みにじる西の王国の暴挙は、決して看過することのできないものだった。
 しかしそれに対するホルンフェルス王国の言い分は、常に以下の一点張りだった。
「こうした事業はすべて、人類に対し敵性を持つ生物を人智の力によって排除するという正当かつ正義のおこないであり、それは国境を接しあう二国双方の利益と安全性の向上に繋がるものだと信じている」
 今にして思えば、まさにこの年が、数百年に渡って犬猿の仲どうしだった両国の関係性が完全に冷え込むこととなる、決定的な一年だった。
 長らくカセドラの本格的な運用を躊躇してきたコランダム公国は、この年を機に、軍事面における大きな方向転換に踏み切る決意を固めたのだった。……


 年の瀬の近づく街角で、わたしは王国の非道を厳しく糾弾する論説を読み終えると、夕刊を畳んで折って丸めてルータに返却した。
「もういいの?」
 彼が訊いた。わたしがうなずくと、彼はそれを近くにあったごみ箱へ投げ入れた。少し角度がずれたけど、彼は見えざる手でこっそり軌道を修正し、うまいこと(まと)のなかに収めた。些細(ささい)な顕術で、誰にも気付かれない。今わたしたちの周りにいるのは、ごく普通の市民たちばかりだ。人々は馬車の停留所のベンチで肩を寄せ合って、もうもうと白い息を吐き出している。時刻は午後七時を回ったばかりだけど、もう空は沼の底に沈んでしまったみたいに真っ暗だ。雪は降っていないし、今のところは降る気配もない。今は例の上等なスーツを着ているから、できれば濡れたくない。このままずっと降らないでいてほしい。取引が終わって家に帰り着くまで、ずっと。
 今夜はわたしとルータの二人きりだ。イサクは自宅でお留守番。別に体調が悪いからとかじゃなくて、ただ昼過ぎから気まぐれに作り始めた煮込み料理から手が離せなくなっただけ。取引には二人もいればじゅうぶんだし、それに帰宅したら温かい夕飯が待っていると考えたらむしろ幸福なので、なにも問題はない。
 取引の相手は、またあの〈ハリー&ライム商会〉が所有する白亜の城、ならぬ悪趣味なバーで待つ男たち。
 長年の習慣で商談の調整はルータがすべて取り仕切っていて、わたしとイサクはそこに関して首を突っ込むことはしない。ただ彼が一人で(しか)るべき場所へ出掛けていって、然るべき誰かと情報をやり取りして、然るべき段取りを決定する。わたしたちはそれを留保なく信頼し、一つの異議もなく了解し、手際よく業務をこなす。あるいは、業務に出向いた仲間の帰りを待つ。それだけだ。
 でも今回ばかりは、ちょっと確認してみたくもあった。だって、これほど短期間のうちに連続して大きな依頼が舞い込むなんてことは、滅多にないことだったから。
 わたしは色付き眼鏡()しに、ルータがその手に提げている花束の詰まった編み籠を見おろした。もちろん、花々の下には商材が潜ませてある。
 中折れ帽をかぶり直しながら、ルータがふいに小さな声で言った。
「この頃は、なにかと入用(いりよう)なんだってさ」
「年末はどこの業界も忙しいのかしらね」
 冗談めかして言うと、ルータはくくっと喉を鳴らして笑った。
 目的地の近くで乗合馬車を降り、わたしたちは再びバーの門をくぐった。今回は入口で止められることはなかった。というか、しつこいくらいに歓迎された。
 まだ早い時間なので、店内の空気は前来た時よりずっと澄んでいた。でもだからといって長居したくなるようなものではない。わたしたちは案内係を急かして、地下へ続く階段を降りていった。
 前回とそっくりおなじ面子が、そこでわたしたちを待ち受けていた。
「またお目にかかることができて光栄です。〈青い影〉の皆様」毛むくじゃらの手を差し伸ばし、しかしこちらへは向けず、自分の胸に添えてヴォルフが言った。「今宵はお二人なので――」
「お喋りはいい。さっさと終わらせよう」
 ルータが無碍(むげ)もなく切り返した。まるで氷が張るような鋭い静寂が、一瞬で室内に広がった。前回みたいに、騒ぎ立てたり反感を示したりする者など一人もいない。男たちはみな洗脳された兵隊のように背筋を伸ばして、気を付けの姿勢を崩さない。このあいだの一件で、よっぽど懲りたみたいだ。ふと見やると、かつて粗相(そそう)をやらかした例のフーゴくんは、前回とおなじ位置に立って人一倍びしっと表情を引き締めている。でもその顔面はまだ絆創膏だらけで、ちょっと痛々しい。あの時の威勢はどこへやら、今の彼は日干しにされたイカみたいにおとなしい。
 今夜の取引は、つつがなくあっという間に終わった。
 対価を詰めた籠に部下たちが花をかぶせる作業を監督しながら、ヴォルフがわたしたちに向き直った。
「私語をお許しください」彼は丁寧に、しかし早口で言う。「ハリーとライムの親父たちから、つい先ほど(おお)せつかった伝言です。〈間を置かず急な話ですまなかった。いつもながら感謝している。遠からずまた世話になるかもしれない。どうかよろしく頼む〉――だそうです」
「また、ね」ルータは肩をすくめる。「まったく、人の苦労も知らんと簡単に言ってくれるよ。……まぁいい。ところで、あの二人は今どこにいるんだろう」
 ヴォルフは目尻に奇妙な形の皺を刻み、ゆっくりと首を横に振った。
「少なくとも、この国にはおりません」
「あっそう」ルータは微笑する。「ま、ちょっと訊いてみただけだ。気にしないでくれ。元気にしてるならいいんだ……って、こないだもこんな話をしたっけな」
 頬をぷっくりと膨らませて、ヴォルフはうなずく。
「ええ。親父たち二人とも、至って息災にしております」それから彼は瞬間的に笑みを撤去して、その隙に出来た更地(さらち)に向かって早撃ちでもするみたいに言い放った。「我々の勢力に(かげ)りはありません」
「そう」わたしが言って、数歩前進し、花々の溢れる籠の取っ手に腕を差し入れた。そして身を固くしている支配人に、そっとささやきかけた。「あんまり無茶をなさらないで。何事もほどほどに、ね」
 切り株みたいに太い彼の首が、ごくりと脈打つのが見えた。その表面には、微細な水滴も浮かんでいる。
「心得て参ります」彼はずっしりとうなずいた。
「それじゃ、次があったらその時もよろしく」
 ルータのお決まりの別れ文句を置き土産にして、わたしたちは穏便にその場を去った。
 でも、次はなかった。
 結局、ヴォルフとの取引はこれきりだった。
 というか、タヒナータで〈青い影〉が活動すること自体、この夜が最後になった。けれどこの時点では、わたしたちの誰もそんなことになるなんて思ってもいなかった。この辺の事情については、後ほどまた詳しく語ることになると思う。といって、別にそんな大した話でもないのだけど。ただこの後、思いがけずいろんな事情が重なった結果、この土地での〈ハリー&ライム商会〉の足場が一つ、崩れ去ることになってしまったというだけのこと。もちろんそれぐらいのことでは、あの二人が大陸全土に敷く闇社会の支配力はまったく動じない。いみじくも、彼らの息子の一人がわたしたちの前で啖呵(たんか)を切ってみせたとおりに。彼らの勢力に翳りはない。この当時も、そしてその後もずっと。


 帰りに利用した乗合馬車は鉄道駅に向かって直進し、そこを終点とする便(びん)だった。正直に言うと間違って乗ってしまったのだけど、まぁ駅からはまた別の辻馬車でも拾えばいい。
 駅のなかも駅前の広場も、平時と比べると優に四倍から五倍ほどの数の利用者でごった返していた。その多くは、帰省する者や帰省してきた者、そしてそれらを見送る者と出迎える者たちだった。みんな、新しい年をそれぞれの故郷で迎えようというのだろう。おそらくは、大切な人や愛する人たちと一緒に。
 普段は静かで落ち着いた雰囲気の駅前広場は、さながらお祭りの会場のように、大小さまざまな灯火で埋め尽くされている。円環状に間隔を空けて立ち並ぶ街路灯、蒸気自動車の照明、馬車のランプ、人々がその手に持つランタン、そして駅の建物の内側から(まばゆ)く溢れ出る温かな明かり。
「見て」
 わたしはルータの肘を引っ張った。次に乗る馬車を探して周囲を見回していた彼は、わたしに促されるまま駅の正面玄関の方へ目を向けた。
 今、そこへ続く階段の脇にバイクを停めた長身の青年が、ヘルメットをかぶったまま駅のなかへ駆け上がっていくところだった。
 三日前の晩に旧市街の路上で見送った時とおなじ、革の上着に包まれる広々とした背中。機敏に繰り出される長くしなやかな両脚。手袋の先を噛んで脱ぎながら、テンシュテットはまっすぐ前だけを見て駅構内へ進んでゆく。
 近くに彼の同僚や妹、あるいはその他の同行者らしき人間の姿はない。そしてまた、彼は今ほとんど手ぶらのように見えた。そのまま列車を利用するとは考えにくい。おそらくは今日の任務を終えていったん宿に帰った後、改めて一人で外に出てきたのだろう。
 そこでちょうど、顔の高さにランプを掲げた通行人がわたしたちの眼前を通過し、束の間ルータとわたしの目を(くら)ませた。
 再び視界が晴れた時には、青年の後ろ姿は群衆のなかにすっかり呑み込まれてしまっていた。
 それでもルータは、しばらくのあいだ口を閉ざして、青年の去っていった方を眺め続けた。
 わたしはそんなルータの姿を、色つき眼鏡の内側から、密かにじっと見つめた。
 背後で馬車馬が続けざまに二度(いなな)き、わたしたちは我に返った。
「行こう」ルータが言った。
「いいの?」
「ああ」ふわりとかぶりを振って、ルータはほほえむ。「帰ろう。イサクが晩飯作って待ってる」
 わたしはうなずいた。そして先に歩きだしてそれきり振り返らないルータに代わって、駅の方へ目をやった。けれど、あの青年らしき人影が外へ出てくるところは見掛けずじまいだった。明日にでも伝言板を見に来てみたら、とわたしは前を歩く細い背中に声をかけようかとも思ったけど、やっぱり言わずにおいた。だって、きっと彼は言われなくてもそうするはずだから。
 帰り着くまで雪も雨も降らなかった。ただ風だけやけに強くなって、アパルトマンの前庭の樹々はがっさがっさと揺れていた。その揺れる枝葉の狭間から、明かりの灯る自分たちの部屋と、その一つ上の階を見あげた。居間の窓辺に置かれたテーブルで、ラモーナが父親と一緒に食事の用意をしていた。少女は風の音に怯えている様子で、何度も窓の外をこわごわとのぞき込んでいた。
 三人で夕食を囲みながら、わたしとルータは駅での出来事をイサクに報告した。彼女はそれを聞いてもなにも言わなかった。彼女もやはり分かっていたんだと思う。自分がなにを言おうが言うまいが、兄は翌日にも駅を訪ねるだろうということが。
 実際、彼はそうした。そして、わたしも。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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