47 ずっと元気で

文字数 4,527文字

 もちろんすぐにでもベランダから病室へ直接飛んでいきたかったけど、わたしたちは大急ぎで着替えてちゃんと玄関から駆け出した。わずかに雪の積もっている前庭を、この時ばかりは歩道を無視して門までまっすぐ走り抜けた。
 橋を渡り、階段を駆けあがり、老師の部屋に飛びこんだ。
 老師は眠っていた。とても深く。それなのに、まぶらはうっすらと開いている。けれどその両眼(りょうめ)は、ほとんど頭を突き抜けてしまいそうなくらいに、深く奥まで落ちくぼんでいる。眼窩(がんか)(ふち)に沿って、入れ墨と見まごうほどの暗い紫色の染みが浮きあがっている。息は――かろうじて続いている。おそらくは、これ以上に呼気と吸気の間隔をあけることは生物の体にとって致命的だという、瀬戸際の緩慢さで。
 口もとを覆うガラス製の呼吸補助具は、つい先日までは吐く息を受けて曇りが見られたものだったけれど、今はそれすらもない。
 わたしたちは騒ぎ立てることはしなかった。
 ただささやくように老師に呼びかけながら、そのお体に寄り添った。
 わたしとルータが左右から肩を抱き、イサクは眼鏡を外して祖父の胸にそっと耳を押し当てた。まるで、まだここに彼がいてくれているのかどうか、たしかめるみたいに。
 そのままの姿勢で、わたしたちはシュロモ先生と女性の看護士からの説明を聞いた。体温も、血圧も、脈拍も、呼吸の深度も、すべてが著しく低下している。もういかなる食物も嚥下(えんげ)することはかなわないだろう。そして、いかなる薬剤も、もはや……。
「これから二日ないし三日ほどのあいだが、(とうげ)だと思われます」
 歳若い看護士が、気の毒そうに言った。
 むっくりと、イサクが顔を上げた。その頬には、老師の衣服のしわの跡が薄く刻まれている。
「峠って、なに」眼鏡もかけず、彼女は看護士を鋭く見上げた。
 女性はうろたえ、両手に持っていたカルテをぎゅっと自分の胸に押しつけた。
「いえ、あの……すみません」彼女は口ごもり、弁解するように言う。「その、峠というのは……」
 白衣をまとったシュロモ先生が、かすかな嘆息をまじえて割って入った。
「二日か三日、もつかどうか。ということだよ」
 慣例的な表現を打ち破って、彼はあるがままの現状をそのままに告げてくれた。
 わたしたちはうなずいた。そして、うつむいた。
 イサクは唇を噛みしめ、今度はおでこを祖父の心臓のうえに載せた。
「望むなら、ここに泊まっていい」退室する時に先生が言った。「簡易ベッドをあとで運ばせる」
「ありがとうございます」わたしが言った。
「なにかあったら、遠慮なく誰かを呼びなさい」
 ルータが深々と頭を下げた。
 そしてわたしたちは部屋に四人だけになった。
 ぐったりと伏せって動かなくなったイサクの体を、わたしとルータでゆっくりと抱き起こした。
「しっかりして、イサク」
 わたしは言って、眼鏡を彼女にかけさせた。それから両手で髪をほぐして整えて、頬をさすってあげた。
「まずここは僕が一人で残る」妹が落ち着きを取り戻すのを待ってから、ルータが声を抑えて言った。「きみたちは持ち物が多いだろ。先に帰って、荷物を片付けておいで」
 わたしは了解する。イサクはぼんやりと足もとに視線を落としているけれど、ちゃんと聞いている。
「先生たちがおっしゃるように、まだ少しの猶予はあるだろう。今のうちに支度をすませて、じいちゃんが――」彼は少し息を詰まらせる。「……じいちゃんが、まだいてくれているうちに、部屋を引き払ってしまおう」
「わかったわ」わたしは言う。
 イサクが鼻をすすった。わたしは彼女を横からつよく抱きしめて、一緒に病室を出た。


 最低限必要なものだけを残して、あとはすべて処分するか救世隊に寄付することにした。二カ月にも満たないわずかなあいだの住処(すみか)ではあったけれど、われながら呆れてしまうくらい荷物が多かった。かつて十年以上暮らした森の家に溜めこんだ量と、さして変わらない。それもこれも、街なかで暮らしたからだ。人間たちの世界は、つい欲しくなってしまうもので溢れている。でも言うまでもなく、欲しいものが本当に必要不可欠なものである場合は、あまり多くない。
 本音を言えば、この焦燥と苛立ちと悲しみの八つ当たりに、部屋をまるごと焼却炉にぶちこんでしまいたい気持ちだった。なにもかもを焼き尽くしてしまいたかった。なにもかもが無常の炎のなかで無為の燃えかすになっていくところを、心を無にして見届けてやりたかった。
 でももちろん、そんなことはできない。できたらどんなに良かったか、しれないけれど……。
 努めて冷静に、まるで急な転勤を命じられた銀行員のように粛々と、淡々と、わたしたちは荷物の整理に取り組んだ。
 この日は晴れても曇ってもいなかった。ただ灰色の(もや)がかかった空に、あいかわらずの雪の欠片たちが舞い踊っている。このところずっとこんな空模様だ。まるで神さまが、この地域の空の壁紙を張り替えるのを面倒くさがっているみたいだ。
 ずっと薄ぼんやりとしているために時間の感覚を忘れてしまった耳に、時計塔の鐘の音が白昼夢の残響のように届いた。正午だった。朝からずっとなにも食べていないことに、ここでようやく思い当たった。わたしはイサクを呼んで一緒に食事をとった。彼女はまったく食べる気がなさそうだったけど、なかば無理やり口に押しこませた。と言っても、昨夜の残りもののジャガイモとソーセージのスープを軽く一杯飲んで、コーヒーをふたくちほど舐めただけだったけど。それでも、憔悴した体になにも入れないよりはましだったと思う。
 ある程度片付けが進むと、いったん荷運びの馬車と人夫(にんぷ)を雇って来てもらった。ソファや椅子やカーペット、それにいくつかの棚やテーブルといった大きめの家具を、次々と外へ運び出した。わざわざそんなことをしなくても、顕術を使えばいくらでもベランダから搬出してしまえるんだけど、まぁそこは辛抱するしかない。誰にどこから見られているか、わかったものじゃないんだから。
 一心不乱に駆け抜けるようなめまぐるしい一日を突破して、わたしたち二人の手に及ぶ範囲のことをすっかり終えたのは、もう太陽がとっぷり沈んでしまったあとのことだった。これだけ動きまわって、スープやコーヒーだけで体力を保持できるはずもない。わたしもイサクも、絞った布巾のように、お腹と頭がすっからかんになっていた。
 それで二人して病院の近くの食堂に入ったのだけど、注文した品がなかなかやって来ないうちに、イサクはとうとう耐えられなくなって席を立った。
「ちょっと、どこ行くの」
「じいちゃんのとこに戻る」幼い子供みたいに、舌たらずに彼女は言う。「リディアは一人で食べてきて」
「イサクも食べなきゃだめだよ」
「あそこで買ってく」
 彼女が示したのは、会計場の脇で売られている持ち帰り用のサンドイッチやハンバーガーが並べられた棚だった。
「もっとちゃんとしたの食べなくちゃ」わたしは彼女の手を取って引き留める。「これからなにがどうなるのかわからないんだから」
 しかし頑として彼女は首を振る。そしてやんわりとわたしの手をほどく。
「あたしは平気」彼女はしるしばかりの微笑を見せる。「早くルータ兄ぃにも片付けに戻ってもらわなきゃだし」
「……わかったわ」わたしは吐息をつく。「わたしも食べたらすぐ行く」
 彼女はうなずき、乱暴に上着を羽織り、自分のぶんの注文を取り消してハンバーガーを一つポケットに突っこむと、紙幣を会計台に叩きつけて飛び出していってしまった。
 仕方なく、わたしは一人で夕食をとることになった。これがこの街での最後の夕食になる予感が――きわめて確信に近い予感が――あった。
 わたしはぽつんと椅子に腰かけて、料理の湯気や煙草のけむりが立ちこめる食堂のなかを見渡した。
 客の大半は労働者の人たちだ。そのなかに混じって、学生らしき若者たちや、祭服をまとった聖職者たちも何人かいる。誰も、まわりの客の顔を見ようともしない。労働者たちは手っ取り早く酔っぱらうことだけを、学生たちはできるだけ出費を抑えつつ腹を満たすことだけを、聖職者たちは俗世の真っ只中にあって威厳を保ちつづけるという自分に課した挑戦を完遂することだけを、考えている。みんな、健気(けなげ)なほどに人間らしい。みんな、このままずっと元気でいてほしいと思う。いつまでも。
 食事をしながら、店に入る前に買っておいた今朝の新聞に目を通した。
 けれど、最後まで目を通すことはできなかった。ほとんど一面の記事ばかりを精読することになったから。
 そこには例の、コランダム公国とホルンフェルス王国の合同軍事演習に関する続報が、紙面すべてを占有する特報として掲載されていた。
 ひときわ目を引く大きな写真が二つ、まるで左脳と右脳のように、隣あわせで載せられている。
 左は、今や大陸全土で最もその名を知られている巨兵、ホルンフェルス王国製造の量産型カセドラ〈アルマンド〉。
 右は、去年運用が開始されたばかりだという、コランダム公国の量産型カセドラ〈ラルゲット〉。
 この二体を、それぞれの足もとから見上げる構図で撮影したものだった。
 二体の巨兵は、紙面のうえで互いに睨みあうように対峙している。白黒の写真では色味がわからないけれど、前者の躯体を包む鎧は輝かしいばかりの桃色で、後者はたしか、石灰のように白っぽい灰色だったはずだ。
 記事の見出しにはこう書かれていた。

(いにしえ)の盟約に基づく合同軍事演習において、ついに本年度より両国からカセドラの出動が決定〉

 わたしは顔をしかめて読み進める。
 巨兵参加の初回となる今年の演習には、公国と王国からそれぞれ二体ずつカセドラが投入される。
 演習場は、例年どおり公国北部の沿岸地帯。
 王国は、この日のために急造したカセドラ輸送専用の貨車を用いて、公国領内に巨兵を運びこむ予定であるという。
 しかし、あれほどの巨体を鉄道駅から移動させるのに必要な連絡路が、公国の首都および近郊にはいまだ整備されていない。
 よって、公国北西部の大峡谷に架かる鉄道橋に併設された大型資材保管施設に、臨時で搬入される態勢が整えられた。
 巨兵専用貨車の運行には、安定した気象条件下での慎重な操縦が求められる。そのため、公国一帯の天候が確実に落ち着いている時機を見計らって、輸送の日程が組まれることになった。
 そういったわけで、搬入予定日は急遽(きゅうきょ)本日ということで決定した。雪が本降りになると予測されている日没前に、早くも運び入れておこうという算段らしい。
 公国軍のカセドラ操縦者の情報については、まだ調整の最終段階にあるとのことで、公表されていない。
 一方の王国軍からは、すでに別件の任務で公国を訪問中であるという二名の操縦者の氏名が、正式に発表されている。
 一人は、王国軍の精鋭小部隊の隊長を務める、ヤッシャ・レーヴェンイェルム少佐。
 そしてもう一人は、王国軍〈想河(そうが)騎士団〉副団長、テンシュテット・レノックス中佐。
 ……わたしは新聞を脇にのけて、心静かに、でもできるだけ駆け足で、食事をかきこんだ。そして雪のそぼ降る夜の通りへと舞い戻り、肩で風を切って歩きだした。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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