53 もしお急ぎでなかったら
文字数 3,577文字
階段や廊下に人の行 き来 する気配がないことを確認すると、わたしは針の穴に糸を通すような慎重さでもって、病室のドアを引き開けた。
廊下は暗く、ひっそりとしていて、獣の唸り声のような隙間風の音だけが、どこからともなく響いては消え、響いては消えしている。
頭だけ外へ出して周囲をうかがってみると、やはりすでに病棟内の人々の動きは収まってしまったことが感じられる。看護士の詰所の方からは、人から生じる物音や話し声がかすかに伝わってくるけれど、耳につく音といえばそれくらいのものだ。
状況を把握したわたしたちは、ここぞとばかりに脱出の態勢を整えた。
手早く自分たちの身支度を整え、老師のお顔から器具を外し、白髪の頭に毛糸の帽子をかぶせた。そして厚手のガウンを二重に着せ、さらにその上に外套を羽織らせ、フードを目深 に降ろした。首にはしっかりとマフラーを巻き、両手は手袋で包んだ。足には靴下と革靴を履かせた。
「よし」ルータが強く息を吐いた。「それじゃ、行こうか」
「待って」テンシュテットが小声で制した。「誰か来る」
「階段の下からだ」イサクが耳をぴんと立てる。
ぺたん、ぺたん、と靴音を響かせて、一段ずつゆっくりと上がってくる誰かがいる。次第に近付いてくる音の距離感から推測するに、おそらくこの階を目指しているものと思われる。
わたしたちは敢えて病室のドアを締め切らず、少しだけ開け放したままにした。部屋の隅に身を隠して、その人が通り過ぎていくのを見送った。見覚えのある人だった。一階の受付窓口で何度か顔を合わせたことのある中年の女性職員だ。彼女は大きな板紙 製の箱を両腕で抱え、えっちらおっちら廊下を進んでいく。前を見通すのも一苦労と見えて、一歩一歩をまるで飛び石を渡るように恐々 と踏み出している。脇見をする余裕もなさそう。
彼女は看護士の詰所の前でようやく立ち止まった。
よっこらしょと掛け声を発し、運んできた箱を詰所と廊下を間仕切るカウンターテーブルの上に載せる。
続いて、二言三言、彼女と彼女を出迎えた看護士たちとのやり取りが聴こえてくる。いや、二言や三言では、どうやらすみそうもない。放っておけばいつまでも続きそうな、込み入った雑談が始まってしまった。事もあろうに、看護士の女性の一人は、わざわざカウンターの廊下側にまで出てきてしまったようだ。どうやらこの二人は気の置けない間柄であるらしく、このままだといくら待っても立ち話が尽きそうにない。挙句には、詰所の奥からコーヒーを新しく作ったりカップを用意する物音まで漂ってくる。今に、喫茶店や酒場にあるのとおなじ用途でカウンターを使い始めるに違いない。
わたしたちは大いに失望した。
(よりによって、なんで今なの!)
悪魔でさえ狼狽 えさせてしまいそうな形相で、イサクがわたしに訴えかけた。
わたしは成す術もなくかぶりを振り、クレー老師のお姿を見やった。
もうこれ以上、ぐずぐずしてはいられない。
きっとその時は、すぐそこまで迫ってきている。
仕方ない。
わたしは密かに覚悟を決めた。
できることなら、こんなふうに力を使いたくは、なかったけれど……
次の瞬間、まるで沸騰寸前の湯に差し水を注ぐように、大きな手がわたしの肩に置かれた。
(待って)テンシュテットがささやいた。(みんな、ちょっと耳を貸して)
そうして提案された彼の作戦に賭けることが、全会一致の賛成によって可決された。
ちらと振り返って勇ましい微笑を見せると、テンシュテットは一人で廊下へ出ていった。そしてそれなりの足音が生じるよう靴底を床に擦り付けながら、今まさに階段を上ってきたという体 で詰所の方へと歩いていった。
当然、廊下に出て世間話に興じている二人は、すぐに彼の接近に気付く。
あら、あなたはたしか、と受付嬢が呼びかける。
こんばんは、と青年は帽子を取って会釈する。
彼女と青年は、顔見知りなのだった。以前、隊員たちが運び込まれた一件の事後手続きのために青年が来院した際に、面と向かってのやり取りがあったのだという。あちらの女性からしてみれば、これほど記憶に残る訪問者もそうはいまい。彼女はなに一つ不審に思うことなく――というかむしろ嬉々として――彼を歓迎した。
いったいなにをなさっておいでなの、こんな時間に。と、彼女はたずねる。どなたかのお見舞いかしら。でしたらもうとっくに面会終了時間は過ぎていますよ。
ええ、存じています。と、青年は笑顔でこたえる。たまたまこの近くを通りかかったもので、院長先生に改めてお礼をお伝えしたく、立ち寄らせていただきました。僕の同僚たちも、みな無事に快復しましたので。
まぁそうでしたの、と受付嬢。
でも残念ね、と看護士が横から加わる。院長先生は午後から学会の方に出席されていて、今日はもうお戻りになられないわ。せっかく来ていただいたのに、ごめんなさいね。
そうでしたか、と青年。いえ、こちらこそ突然押しかけたのがいけませんでした。この次はきちんとご都合を確認してから伺 うことにします。
そうなさるといいですわ、と受付嬢。先生も喜ばれると思います。……あ、そうだ。もしお急ぎでなかったら……
もとよりテンシュテットは、なにかしら理由をつけて彼女たちの注意を廊下側から逸 らすつもりでいた。そのためになにを出 に使ったものだろうかと彼は思案していたわけだけれど、嬉しい誤算として、女性たちの方から率先して詰所の奥へと引っ込んでくれた。二人は、突然の客人にコーヒーを振舞おうとしている。
この機を逃すわけにはいかない。
青年はカウンターに手をついて廊下に立ったまま、本当の喫茶店か酒場の客よろしく、飲み物が運ばれてくるのを待つ。
そして、機を見定める。
前を向いたまま、カウンターの下でくいくいと手を振って合図する。
今だ。
わたしは音を立てないよう地面すれすれを浮遊して、階段の踊り場まで一気に移動した。そしてすぐさま窓の鍵に手を掛け、慎重に、しかし一思 いに解錠した。びき、びき、と金具が軋み、剥がれた錆の粉がぱらぱらと床に零れ落ちる。でも周囲に充満する隙間風の音量の方が、それらよりわずかに大きい。問題なさそうだ。誰も気付かない。誰も来ない。
再びわたしは浮上し、青年と互いの目を見交わした。
彼は小さく、しかし確信を込めてうなずく。そしてさらに強く手先を振り回し、声なき叫びを放つ。
(行け、行け!)
わたしは両の手のひらをガラスにぺたりと貼り付けて、赤子を揺り籠に寝かせるように注意深く、丁寧に、そろりそろりと巨大な窓を押し開けていった。
その途端、予想はしていたことだったけれど、びゅうと鋭利な金切声 と共に風の刃が斬りかかってきた。さらにそれと一緒に、舞い散る雪や肌を突き刺す冷気も、遠慮なく続々と飛び込んでくる。風はそのまま階段を駆け上がり、瞬く間に廊下じゅうに吹き渡るだろう。
自分の頬がみるみる青ざめていくのを感じながら、わたしは後ろを振り返った。
その瞬間、まさに目の前に、老師のお体が舞い降りた。
続いて孫の二人も、共にわたしのかたわらに着地した。
わたしたちは一瞬のうちに互いを深く見つめ合い、心を一つにした。
最初にルータが窓の外へ出た。
そしてわたしたちが送り出す祖父の身体を、両腕を広げて抱き留める。
次いでイサクが、やはり祖父に抱きつくようにして、外へと躍り出る。
わたしもすぐに三人の後を追う。
悪夢のように冷え切った大気と、どこまでも気を滅入らせる湿った暗闇が、慈悲も情けもなく一挙にこの身に押し寄せる。
最後にもう一度、わたしたちはテンシュテットの方へ視線を振り向けた。
淹れたての、いかにも香ばしく温かそうな湯気の立つコーヒーが、彼の前に差し出されたところだった。
彼はそれを手に取り、礼を述べてひとくち飲む。
受付の女性は、律儀にも最初の立ち位置へ戻ろうというのか、カウンターを迂回して再び廊下へと出てくる。
彼女は勘付く。
その身にひやりと吹きつける風の感触に。
そして、それによって持ち込まれる冷気に。
風の流れの向きを肌で読んだ彼女は、ひょいと腰を捻 って廊下の先へ――つまり階段の方へ――目を凝らす。
そのわずか数秒前に、踊り場の壁一面を覆う分厚いガラス窓は、ぴったりと閉じられていた。
まさかそれが今、誰かの手によって開かれていただなんて、彼女は想像だにしない。普段からなにも気に留めることなく前を通り過ぎ、永久に閉め切られたままであるものと彼女が認識していたはずのその窓は、相変わらず今この時にも、完全に閉ざされたままでいる。
外から窓を閉めたわたしは、ほっと胸を撫で下ろす。
わたしたちは文字どおり我が身を盾にして老師をお護りしながら、真っ暗な路地裏めがけて降下していった。
廊下は暗く、ひっそりとしていて、獣の唸り声のような隙間風の音だけが、どこからともなく響いては消え、響いては消えしている。
頭だけ外へ出して周囲をうかがってみると、やはりすでに病棟内の人々の動きは収まってしまったことが感じられる。看護士の詰所の方からは、人から生じる物音や話し声がかすかに伝わってくるけれど、耳につく音といえばそれくらいのものだ。
状況を把握したわたしたちは、ここぞとばかりに脱出の態勢を整えた。
手早く自分たちの身支度を整え、老師のお顔から器具を外し、白髪の頭に毛糸の帽子をかぶせた。そして厚手のガウンを二重に着せ、さらにその上に外套を羽織らせ、フードを
「よし」ルータが強く息を吐いた。「それじゃ、行こうか」
「待って」テンシュテットが小声で制した。「誰か来る」
「階段の下からだ」イサクが耳をぴんと立てる。
ぺたん、ぺたん、と靴音を響かせて、一段ずつゆっくりと上がってくる誰かがいる。次第に近付いてくる音の距離感から推測するに、おそらくこの階を目指しているものと思われる。
わたしたちは敢えて病室のドアを締め切らず、少しだけ開け放したままにした。部屋の隅に身を隠して、その人が通り過ぎていくのを見送った。見覚えのある人だった。一階の受付窓口で何度か顔を合わせたことのある中年の女性職員だ。彼女は大きな
彼女は看護士の詰所の前でようやく立ち止まった。
よっこらしょと掛け声を発し、運んできた箱を詰所と廊下を間仕切るカウンターテーブルの上に載せる。
続いて、二言三言、彼女と彼女を出迎えた看護士たちとのやり取りが聴こえてくる。いや、二言や三言では、どうやらすみそうもない。放っておけばいつまでも続きそうな、込み入った雑談が始まってしまった。事もあろうに、看護士の女性の一人は、わざわざカウンターの廊下側にまで出てきてしまったようだ。どうやらこの二人は気の置けない間柄であるらしく、このままだといくら待っても立ち話が尽きそうにない。挙句には、詰所の奥からコーヒーを新しく作ったりカップを用意する物音まで漂ってくる。今に、喫茶店や酒場にあるのとおなじ用途でカウンターを使い始めるに違いない。
わたしたちは大いに失望した。
(よりによって、なんで今なの!)
悪魔でさえ
わたしは成す術もなくかぶりを振り、クレー老師のお姿を見やった。
もうこれ以上、ぐずぐずしてはいられない。
きっとその時は、すぐそこまで迫ってきている。
仕方ない。
わたしは密かに覚悟を決めた。
できることなら、こんなふうに力を使いたくは、なかったけれど……
次の瞬間、まるで沸騰寸前の湯に差し水を注ぐように、大きな手がわたしの肩に置かれた。
(待って)テンシュテットがささやいた。(みんな、ちょっと耳を貸して)
そうして提案された彼の作戦に賭けることが、全会一致の賛成によって可決された。
ちらと振り返って勇ましい微笑を見せると、テンシュテットは一人で廊下へ出ていった。そしてそれなりの足音が生じるよう靴底を床に擦り付けながら、今まさに階段を上ってきたという
当然、廊下に出て世間話に興じている二人は、すぐに彼の接近に気付く。
あら、あなたはたしか、と受付嬢が呼びかける。
こんばんは、と青年は帽子を取って会釈する。
彼女と青年は、顔見知りなのだった。以前、隊員たちが運び込まれた一件の事後手続きのために青年が来院した際に、面と向かってのやり取りがあったのだという。あちらの女性からしてみれば、これほど記憶に残る訪問者もそうはいまい。彼女はなに一つ不審に思うことなく――というかむしろ嬉々として――彼を歓迎した。
いったいなにをなさっておいでなの、こんな時間に。と、彼女はたずねる。どなたかのお見舞いかしら。でしたらもうとっくに面会終了時間は過ぎていますよ。
ええ、存じています。と、青年は笑顔でこたえる。たまたまこの近くを通りかかったもので、院長先生に改めてお礼をお伝えしたく、立ち寄らせていただきました。僕の同僚たちも、みな無事に快復しましたので。
まぁそうでしたの、と受付嬢。
でも残念ね、と看護士が横から加わる。院長先生は午後から学会の方に出席されていて、今日はもうお戻りになられないわ。せっかく来ていただいたのに、ごめんなさいね。
そうでしたか、と青年。いえ、こちらこそ突然押しかけたのがいけませんでした。この次はきちんとご都合を確認してから
そうなさるといいですわ、と受付嬢。先生も喜ばれると思います。……あ、そうだ。もしお急ぎでなかったら……
もとよりテンシュテットは、なにかしら理由をつけて彼女たちの注意を廊下側から
この機を逃すわけにはいかない。
青年はカウンターに手をついて廊下に立ったまま、本当の喫茶店か酒場の客よろしく、飲み物が運ばれてくるのを待つ。
そして、機を見定める。
前を向いたまま、カウンターの下でくいくいと手を振って合図する。
今だ。
わたしは音を立てないよう地面すれすれを浮遊して、階段の踊り場まで一気に移動した。そしてすぐさま窓の鍵に手を掛け、慎重に、しかし
再びわたしは浮上し、青年と互いの目を見交わした。
彼は小さく、しかし確信を込めてうなずく。そしてさらに強く手先を振り回し、声なき叫びを放つ。
(行け、行け!)
わたしは両の手のひらをガラスにぺたりと貼り付けて、赤子を揺り籠に寝かせるように注意深く、丁寧に、そろりそろりと巨大な窓を押し開けていった。
その途端、予想はしていたことだったけれど、びゅうと鋭利な
自分の頬がみるみる青ざめていくのを感じながら、わたしは後ろを振り返った。
その瞬間、まさに目の前に、老師のお体が舞い降りた。
続いて孫の二人も、共にわたしのかたわらに着地した。
わたしたちは一瞬のうちに互いを深く見つめ合い、心を一つにした。
最初にルータが窓の外へ出た。
そしてわたしたちが送り出す祖父の身体を、両腕を広げて抱き留める。
次いでイサクが、やはり祖父に抱きつくようにして、外へと躍り出る。
わたしもすぐに三人の後を追う。
悪夢のように冷え切った大気と、どこまでも気を滅入らせる湿った暗闇が、慈悲も情けもなく一挙にこの身に押し寄せる。
最後にもう一度、わたしたちはテンシュテットの方へ視線を振り向けた。
淹れたての、いかにも香ばしく温かそうな湯気の立つコーヒーが、彼の前に差し出されたところだった。
彼はそれを手に取り、礼を述べてひとくち飲む。
受付の女性は、律儀にも最初の立ち位置へ戻ろうというのか、カウンターを迂回して再び廊下へと出てくる。
彼女は勘付く。
その身にひやりと吹きつける風の感触に。
そして、それによって持ち込まれる冷気に。
風の流れの向きを肌で読んだ彼女は、ひょいと腰を
そのわずか数秒前に、踊り場の壁一面を覆う分厚いガラス窓は、ぴったりと閉じられていた。
まさかそれが今、誰かの手によって開かれていただなんて、彼女は想像だにしない。普段からなにも気に留めることなく前を通り過ぎ、永久に閉め切られたままであるものと彼女が認識していたはずのその窓は、相変わらず今この時にも、完全に閉ざされたままでいる。
外から窓を閉めたわたしは、ほっと胸を撫で下ろす。
わたしたちは文字どおり我が身を盾にして老師をお護りしながら、真っ暗な路地裏めがけて降下していった。
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