2 わたしたちの家

文字数 7,833文字

 わたしたちの家は、世界で最も深く広大なこの森のなかでも、とびきり険しい奥地にあった。ルータとイサクの兄妹(きょうだい)と、彼ら二人の実の祖父であるクレー老師、それにわたしの四人で、かれこれ15年近くそこで暮らしてきた。
 その歳月のあいだに、(うち)の近くを通りがかる人間の姿を見たことなんて、ほんとに数えるほどしかない。そのなかには純粋に遭難してしまっただけの人間もいて、そういう気の毒な人たちには、わたしたちも遠巻きながら守護や導きを与えたりすることもあった。
 でもその他の人たち――というか、森の深部に分け入ろうとするほぼすべての侵入者たち――に関しては、わたしたちが手出しするまでもなかった。彼らは密猟者だった。そして天秤竜の禁を犯した者の(さだ)めとして、ほとんど誰も森の外へ生きて帰ることは叶わなかった。
 (やぶ)灌木(かんぼく)、それに(こけ)(つた)に覆われたいくつもの巨大な岩山が、ちょうど倒れ終えた後のドミノの行列みたいに連なって、わたしたちの家をぐるりと取り囲んでいる。いわば天然の要塞壁(ようさいへき)の役目を務めてくれているそれらの(ふもと)には、ところどころに洞穴が形成されていた。そこには常に天秤竜たちの姿があった。長年に渡って、何組かの慎ましやかな竜の家族が、入れ替わり立ち替わり、そこをねぐらにしていたようだった。もちろんわたしたちは彼らに一切干渉しない。彼らもまた、わたしたちに無闇に近づくことはない。わたしたちのあいだには、ごく自然な心の繋がりがあるように、いつも感じていた。森の空気と水と土、そして深い静けさを共有して生きる仲間どうしとしての信頼感が、そこにはあった。
 しかし、森の静謐(せいひつ)や聖性のことなど(つゆ)ほども気にかけず、竜たちが暗い穴ぐらを住処(すみか)とする習性を知る(よこしま)な者たちは、この地に刃と火をたずさえて踏み入り、そしてことごとく、自分たちが略奪して売りさばこうと狙っていた優美な(つの)に逆に狙われ、裁かれることになるのだった。


 家が近づいてくると、まるで目の前にそれが注がれた(わん)を差し出されたみたいに、風に運ばれる薬湯(やくとう)の香りが鼻孔に飛び込んできた。
 懐かしい香りだ。わたしたちの一族に昔から伝わる秘伝の薬。うんと小さい頃、わたしが風邪を引くたびに、母さんが作って飲ませてくれた。母さんもきっと、母さんの母さんにそうしてもらっていたに違いない。ずっと昔、とある集落で暮らしていた時にはお隣さんどうしだったルータやイサクも、よく家で作ってもらっていた。両親を早くに失くした二人にそれを作ってあげていたのは、二人のおじいさんのクレー老師だった。今ではそれを、孫たちが祖父に作ってあげているというわけだ。
 家の屋根が視界に入った途端、わたしとイサクは暗黙のうちに飛行速度を落として、鬱蒼とした森のなかへ降下した。そしてそろりそろりと洞穴のそばまで接近した。
「みんな出かけちゃったのかな」
 地下に沈むようにぽっかりと口を開けている暗がりの奥を見つめて、わたしは言った。みんな、というのは、ここ半年ほどのあいだここに居を構えていた竜の一家のこと。
「ううん」イサクが首を振って、わたしのローブの袖を引っ張った。「あそこ。ほら」
 彼女が示したのは、わたしたちの眼下の洞から少し離れたところにある、こぢんまりとした岩の隙間の窪みだった。枯葉が詰まったその空間にぴったりと全身をかぶせるようにして、一匹の子供の天秤竜がうずくまっていた。その身はかすかにこわばり、瞳孔はどことなく不安そうに揺れている。まるで、留守番を命じられて犬小屋に閉じこもっている仔犬みたい。
 竜の幼子(おさなご)はこちらの視線に気づいて、暗闇の奥からじっと見返してきた。
 わたしたちと竜、どちらも微動だにしない沈静の時が、しばし流れた。
 わたしたちはただ、雲のように無心で(たたず)み、まっすぐ相手を見つめた。
 竜もまたおなじだった――ただそこに自然に()るものを認めるようにして、わたしたち二人を見あげていた。
 そのことが、わたしとイサクを穏やかな気持ちにさせる。森の(そと)なるものとしてではなく(うち)なるものとして、その無垢の瞳に認められているということが。
「可愛い」イサクが微笑した。
 わたしはうなずき、彼女の腰に腕をまわして、再び空へ舞うよう誘った。
「無事に大きくなれたらいいね」一緒に浮上しながらわたしは言った。


 わたしたちの家は、家というより塔といった方が正しいような姿をしている。
 周りを囲む岩山の背丈を越えないように築かれた、三階建ての塔。暗い灰色の石を積んで造られたその円柱状の建物のなかに、わたしたちの暮らしが詰まっていた。
 この家を建てた時のこと、昨日のことのように鮮明に覚えてる。生き残ったわたしたち四人の手で、力を合わせて作り上げたのだ。それまでにも何度か、材木や布や獣骨なんかを使って簡素な住居を作ったりしたことはあったけれど、この石の塔を築き上げるのは、過去のどんな家づくりも比較にならないほど手間がかかって、重労働で、そして、とても楽しかった。当時のわたしたちは、思い切って人間たちの社会と訣別(けつべつ)することを決意したことで、本当に清々(すがすが)しい安堵感を覚えていたし、せっせと頭と体を働かせることは、それまで抱え込んできたいろんな想いや情念を消化する助けにもなった。それになにより、一緒にここまで生き延びてきたみんなが、変わらず元気でいてくれることが、心底嬉しくて、心強かった。
 ……けれど、今はもう、その当時にわたしたちを指揮し、護り、導いてくれたクレー老師は、まったく家から出ることがなくなってしまった。
 家の屋上に降り立って――というのは慣用的な表現で、実際には一度も足の裏を床に着けることなく――階段を一気に舞い降りたわたしたちは、一階の居間へと直行した。
 一階の大部分を占める、厚手の絨毯の敷きつめられた居間の奥に、古びた木製のベッドが置かれている。その上で毛布にくるまって、老師は静かに眠っていた。枕の横の小さなテーブルには、(から)になった汁椀(しるわん)が置いてある。さっきまでそこに入っていたものは、今では老師のお腹のなかに収まり、その薬効によって病んだ肺と気道をいっとき慰めてくれているのだろう。いつもひゅうひゅうと鳴っている彼の胸は、今は音もなく穏やかに上下している。
 ベッドの端に腰かけていたルータは、わたしたちがそばに近づいても、祖父の痩せ細った胸に落とした視線を上げずにいた。
「ただいま」ようやく足を床に着けたイサクが、小声で言った。「具合どう?」
 ゆっくりとめくられる書物のページのような所作(しょさ)で、呼びかけられた兄は顔を上げた。
「今のところ落ち着いてるよ」彼もやはり小声でこたえて、片手に持ったままだった(さじ)を椀のなかに入れた。「いつもの薬湯が、今朝はよく効いてくれたみたいだ。こないだ町で買った薬と、たまさか相性が良かったのかもしれない」
「そっか」老師の寝顔を近くで見ながら、わたしは頬をゆるめた。「良かったね」
「でも」硬い息を吐いて、ルータはのっそりと立ち上がった。「しょせんはあてずっぽうの対症療法だ。これだっていつまで効いてくれるか、わからないよ。というか、きみたち」彼はじろりと妹とわたしを見やる。「もうほとほと言い飽きたけどさ。僕らはいったいなんのためにわざわざ玄関を造ったんだよ。鳥や蜂じゃあるまいし、たまにはきちんと(おもて)からただいまを言ってごらん」
「いちいち鍵あけるのめんどくさいんだもん」イサクが肩をすくめた。
「まったく」呆れ顔でルータは首を振った。「おまえときたら、いつまでも駄々っ子みたいなことを……」
「ま、どぉでもいいじゃんそんなこと。あんまりちっちゃいことばっかり気にしてたら老け込んじゃうよ、ルータ兄ぃ」
 そう言うとイサクは空の椀を手に取って、部屋の反対側にある台所へ向かった。
「老け込むもなにも、僕だってもうけっこうな(とし)だぜ」
「くくっ……」
 ふてくされたみたいにつぶやいたルータの様子がおかしくて、わたしはつい笑ってしまった。
 けっこうな齢、だなんて自分では言うけれど、彼もまた妹とおなじく華奢で小柄な体つきをしているから、ものすごく若く見える。たまに接触する森の外の人たち――つまり

――からは、だいたい15歳から17歳くらいに見られているみたい。
 髪の毛はイサクやクレー老師とおなじ混じりけのない純白で、眉にかかるあたりで横にざっくりと切り揃えてる。着るものにはあんまり頓着(とんちゃく)がなくて、わたしとイサクは一族の伝統衣装であるローブの下でささやかなお洒落をして楽しんだりもするけれど、彼は毎日おなじようなものばかり着ている。だいたいが無地のシャツの上にローブを羽織っているだけだ。裾がひらひらして邪魔だからというので、腰にはいつも(おび)が巻きつけてある。そこに両手を差し入れて猫背気味にそこらをうろつく時の彼は、たしかにその実年齢に相応(ふさわ)しく、なかなかに年寄りじみてる。
 でもやっぱり、その肌艶(はだつや)の良い幼さの残る顔立ちや、成長途上にある人間の少年のような身長のおかげで、外見的には老いの片鱗なんかどこにも見あたらない――あくまで外見的には、ということだけど。
「それで」ルータがわたしを見あげた。「どうだったんだい。やはり、竜だった?」
 わたしは自分とおなじ青い瞳を見おろして、うなずいた。
「そうか。じゃあ、また……」彼はそっと目を伏せる。
「そう、まただよ」
 流し場で椀や鍋を洗いながら、イサクがかすかに声を荒げた。しかし彼女はその続きは口にせず、ただ黙々と洗い物に専念した。
「どのあたりだった」ルータがわたしに訊く。
「先月とおなじく、ずっと西の方の王国領内。でも、前回よりは少しこちら側に寄ってきてた」
「ならず者どもめ」吐き捨てて、ルータは顔をしかめた。
「王国軍の人たち、このままどんどん東に侵攻してくるつもりかしら」
「たぶんね」
 腰の帯に両手の指先を引っかけると、ルータは重い足取りで窓辺へと歩いて行った。三分の一ほど開けられていた鎧戸を、顕術を使って――つまり手を触れずに――全開にすると、軽く飛び上がって窓枠に腰かけた。くっきりとした冬の陽射しが、年端(としは)もいかない子供のような彼の体の輪郭を際立たせる。
「あいつら、いよいよ本気で森の開拓に乗り出し始めたみたいだ」逆光の影に全身を染めて、彼は静かに口を開いた。「こないだ西側の村を訪ねた時にも、そういう噂を何度か耳にしたよ。竜の巣を潰しながら、奴らかなりの勢いで森を暴いていってるって。先月おこなわれた最初の駆逐(くちく)作戦の跡地は、もうすっかり根こそぎ掘り返されたって話だ」
 わたしたちはそれぞれの場所に佇んで、しばし沈黙した。
 イサクは洗い終えた食器を乾燥台の網の上に並べると、壁の方を睨んだまま念入りに手を拭き始めた。わたしは肩に掛けていた鞄を降ろし、マフラーも(ほど)いた。仕舞い込まれていた長い髪が、全身を包むようにふわっと広がった。ルータはその身に光を背負ったまま、身じろぎ一つせずにいた。
「……〈アリアナイト〉だね」突然、クレー老師がつぶやいた。「彼らが求めているのは」
「じいちゃん」ルータが目をぱちくりさせて、床に降りた。「ごめん。(まぶ)しかった?」
 うっすらと両目を開けた老師は、体は横たえたまま首を振った。わたしたち三人は、すぐに彼のもとへ駆け寄った。
「起きる?」
 イサクがたずねると小さくうなずいたので、わたしと彼女とで老師の上体をゆっくり起こしてあげた。
「ありがとう」にこりとほほえみ、老師はかすれた声で言った。
 体を起こしたことでわずかに乱れた呼吸が再び落ち着くのを、わたしたちは息を詰めて見守った。寝巻がはだけて素肌が露わになった胸もとは、肉が削げて平べったく、まるで樹の根の這いまわるこの森の地面のように、幾筋もの血管や肋骨(あばらぼね)が浮かび上がっている。皮膚は血色に(とぼ)しく、うっすらと灰色がかっている。
 面長の顔の下半分を覆う長い(ひげ)と、ゆるやかに波打つたっぷりの髪の毛は、まるで初雪のように(けが)れのない白――二人の孫たちとおなじく。腰を越すほど長いその髪を、老師はいつも一本の太い三つ編みにしている。これは、自分では髪を伸ばすのを嫌うくせに、人の髪の毛を触るのが大好きなイサクによる仕立てだった。おなじようにこのわたしの髪も、一掴(ひとつか)みぶんを細く編み上げて頭の後ろのリボンで留めてある。毎朝起きしなに、わたしと老師の髪を編むのが、イサクの長年の習慣だった。この日の朝もわたしはやってもらっていたけど、たしか最後に彼女が祖父の髪に触れてから、もう二日ほど経っていたと思う。そのあいだ老師は、ずっと横になっていた。
「じいちゃん、寒くない?」だいぶほつれてしまった三つ編みを手のひらで撫でながら、イサクがたずねた。
 祖父はゆったりと首を振った。
 髪の色や知的な顔つきは孫たちにそっくりでも、二人とちがって老師の体格は驚くほど大柄だ。しかしかつては偉丈夫(いじょうぶ)で鳴らしたというその体は今、まるで(さざなみ)に揺さぶられる小舟のように、ぎしぎしと小刻みに震えている。
「やっぱり着ときなよ」
 壁に掛けておいた老師のローブを、ルータが取ってきた。わたしとイサクとで、骨ばった幅広の肩にそれを着せた。
 老師はまたほほえみ、礼を口にした。そして思いだしたように顎を上げると、その信じがたいほど深く濃い青の瞳を、わたしに向けた。
「今日は、なにを描いたのかな」
「え?」わたしは一瞬ぽかんとなった。けれどすぐに思い至って、さっき椅子に置いた鞄をちらりと見やった。「あぁ、えっと、今日は……北の山並みを描いていました」
 遠くを見晴るかすような目つきをして、老師はうなずいた。
「今の時期は空気も澄み切って、綺麗だろうね」
「ええ、とても。もう少し手を加えたら、きっと良い絵になります。あとでお見せしますね」
「楽しみだ」
 老師は赤ん坊みたいに目を輝かせた。ほとんど歯がないのに、その口から流れ出る音は、魔法みたいに明瞭で温かい。
「なにか食べる?」祖父の隣に腰を降ろして、イサクが訊いた。
 彼は無言でそれを断った。そして孫娘の瞳を、間近にそっと見つめた。
「竜は苦しまなかったかい?」
 イサクは口を閉ざしてうつむいた。わたしは彼女の背中にお腹をくっつけて、その小さな肩を両腕で抱きしめた。
「わたしたちが見たのは、最期の瞬間だけでした」わたしが代わってこたえた。「でも、はい……きっと、苦しみは少なかったはずです。ひと思いに、手は下されました」
「そうか」老師は小さく息を吐き、イサクの手にみずからの手のひらを重ねた。
「ねぇ、じいちゃん」ふいにイサクは頭を振り上げた。「あたしやっぱり、どうしてもあいつらのこと――」
 そこで彼女は言葉に詰まった。見ると、彼女の手を握る(ふし)くれだった大きな手に、じわりと力が込められていた。
「もはや、誰にも止められないよ」
 老師が率直に述べられた。わたしたちは全員、息を呑んだ。老師の口から直接その言葉を耳にすると、本当にもうなにもかもが止めようがないのだということを、瞬時に思い知らされた。
「世の常だよ。なに一つとして、ずっとおなじまま留まり続けるものはない。あらゆる事象、あらゆる時勢が、刻々と移ろい変化していく。時にはゆっくり時間をかけて。時には目も(くら)むほどあっという間に。穏便な変化もあれば、慈悲を欠いた苛烈(かれつ)な変化もある。だがいずれの変化も、ある一線を越えてしまったら、決してもう元通りには戻らないという点においては、まったくおなじだ」
 そこまで語ると、老師は何度か胸を反らせて息をつき、ぶるぶると震える喉の付け根を片方の手でぐっと押さえた。すぐにイサクとわたしで、そのこわばる背中を撫でた。
「……じいちゃんの言うとおりだ」嘆息混じりにルータがつぶやく。「竜を狩る力を得たことで、人間たちはついにこの森の地下に眠るアリアナイトの鉱脈に手が届くようになった。王国側の森の境界付近は、もうだいぶ採掘が進んでしまって、地図を描き直さなきゃいけないくらいなんだと」
「この森の大部分がコランダム公国に属していることは、僥倖(ぎょうこう)だったと言えるかもね」わたしは老師の背をさすりながら言った。「昔から森や生き物を敬ってくれてるあの国の人たちなら、必要以上に森を侵すなんてこと、しないでいてくれるはず……」
「どうだか」イサクが皮肉っぽく鼻を鳴らした。「人間なんて、結局どいつもこいつも似たようなもんでしょ」
 ルータは首をすくめて苦笑した。「まぁ、そうかもしれんけどさ。でも、あの傍若無人の王国と一緒にされたんじゃ、コランダムの人たちが不憫だよ」
「国家の気質やそこに暮らす民の気風も、長い歴史のうちに少しずつ変化していくものだが」みずからの喉に手を添えたまま、老師が(うな)るように言った。「どうやら近頃のホルンフェルス王国は、あまり()くない方向へ進んでいるようだね」
 それについて、わたしたちはなにか意見を述べようとしかけた。でもそこで、老師がついに激しく咳き込んでしまった。わたしたちは会話を打ち切った。ひとしきり刺々(とげとげ)しい息を肺から吐き尽くしてしまうと、老師は再びベッドに横になった。その(おもて)からはより血の気が抜け、さっきまで治まっていた胸の深部の気詰まりな風音も、再び(よみがえ)ってきた――まるで、どれだけ手を尽くしても防ぐことのできない隙間風(すきまかぜ)のように。
「もう一度、薬湯を――」
「あたしが作ってくる」
 兄を制して、イサクが調理場へ駆けていった。わたしもそれを手伝おうと、(きびす)を返した。
 その時だった。
 老師の手がするりと差し伸ばされ、かたわらに立つルータの腕をつかんだ。
「どうした、じいちゃん」彼はとっさに身を(かが)めて、祖父の口もとに耳を近づけた。
 わたしもまた、棒のように突っ立ったまま、にわかに耳を澄ませた。
「ルータ」老師は少しも唇を開かずに、舌先だけを使って空気を押し出した。「そろそろ考えておきなさい。じきに、この家も……」
「わかってる」ルータは毛布を引っ張り上げて祖父の体を包んだ。そして毛布越しに、胸の上に柔らかく手を置いた。「……わかってるよ、じいちゃん」
 クレー老師はうなずいた――ように、わたしには見えた。あるいはただ息を吸い込んだだけだったのかもしれないけれど、ともかくその表情には、じんわりと安堵の色が浮かんだような気がした。
 台所では、イサクがてきぱきと火を(おこ)したり、薬草の粉末を調合したりしていた。
 窓の外からは、まるで海の波音(なみおと)のように尽きることのない樹々(きぎ)の葉音や、たくさんの鳥たちが歌声を重ねあう予言めいた合唱曲、それに刻一刻と強さを変える落ち着きのない風の響きが、かすかに流れ込んできていた。
 ルータはまた窓の鎧戸を――今度は直接、手を使って――わずかな隙間だけ残して閉じた。部屋ぜんたいが一段階暗くなり、ぼんやりと外光を反射していた老師のベッドも、ひっそりと薄闇に浸された。
 背中をこちらに向けて、ルータはなおもしばらく窓から外を眺めていた。その姿はまるで、無人島にただ一人取り残されて、来る日も来る日も救いを求めて水平線の彼方を見つめ続ける少年のように、わたしの目には映った。
 わたしは一度強く頭を振って深呼吸し、我が身を奮い立たせた。それから大股でイサクのもとへ向かった。頭のなかでは、描きかけの絵をきちんと仕上げるための道筋について考え始めていた。あとで目を覚まされたら、老師に見てもらうのだ。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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