17 あなたの望む物語があなたのもとへ届くよう

文字数 8,447文字

 妖精郷探索隊の人たちを発見してからの数日間――正確には三日間――は、特に何事もなく過ぎていった。日課である老師のお見舞いに行く時と、陽が沈んでから自宅で寛ぐ時以外、わたしたちは思い思いに時を過ごした。
 実際に暮らしてみると、アパルトマンの部屋はちょっとわたしたちには豪奢(ごうしゃ)すぎて、正直なんだか持て余す感じがした。腰を落ち着けて暮らすならもっと小さい家が好みだな、とわたしが言うと、兄妹の二人も同意した。
 レストランさながらに広い居間兼食堂で、元から置いてあったベッドみたいに巨大な大理石のテーブルは使わずに、旧市街の(のみ)(いち)で見つけた簡素な木製の丸テーブルを食卓にして、わたしたちは毎日そこで手作りの食事をとった。
 夕食の時には、必ずみんなでその日にあったことを報告しあった。
 ルータは日中は留守にすることが多かった。あちこちに出掛けていって、いろいろと情報を収集したり、わたしたちの稼業――これについては後で話すことになると思う――に関連する根回しやら下準備やらに取り組んでいた。その他の時間は、だいたい居間や自室や街の図書館で読書をしていた。
 イサクは、わたしと一緒に買い物に行ったり、料理をしたり、編み物をしたり、わたしが絵を描くのを横から眺めたり、時々ふらっと一人で散歩に出たり、屋上や前庭でケルビーノを探したり、あるいは窓辺に座って川向こうの老師の病室をじっと眺めたりしていた。
 わたしはと言えば、絵を描いてばかりいた。久しぶりにじっくりと画用紙に向き合えるのが、なにしろ嬉しかったのだ。部屋から望む街並みや川の景色、ソファに寝そべって編み物をするイサクの姿や、椅子に座って物語の世界に没頭するルータの姿なんかを、記録に残すように次々と描いた。描いたものは全部、二人に見てもらった。二人はいつも褒めてくれる。
 そんなあれやこれやの一日を過ごした後は、三人で毎晩欠かさず老師のために祈りを捧げた。出窓にキャンドルを一本灯して、両手で〈大聖堂〉の印を結んで、時間をかけてイーノの神さまに願いをかけた。どうか、わたしたちを教え、導き、護り続けてくれた心優しき魂から、苦しみと痛みを取り除いてください。そして、どうかわたしたちの深い敬慕と愛情を、その御身(おんみ)に届けてください、と……。


 四日目の朝、三つのカップに淹れたてのコーヒーを注ぎ、それをテーブルまで運ぶと、ふいに卓上の新聞に目が留まった。ついさっきイサクが買ってきたばかりの朝刊だ。日付の欄を一瞥した途端、あることを思いだした。
 窓の前にぼんやりと突っ立って青空に見入っているルータに、わたしは声をかけた。
「ねぇ。たしか四日くらい前に、明々後日(しあさって)とかなんとか言ってなかったっけ」
 彼は寝惚けまなこで振り返った。きっとまた遅くまで本を読んでいたんだ。
「シアサッテ?」ぽかんと首をかしげながら、彼は席に戻ってきた。
「ほら、例の冒険小説の発売日」カップを彼の前に置いて、わたしは言った。
「あっ!」急に身を震わせたので、彼は危うくコーヒーを零すところだった。「しまった……。僕としたことが、すっかり忘れてた」
 向かいの席に座ってトーストに楓蜜(かえでみつ)を塗りつけながら、イサクがちらりと新聞を見やった。そして器用に顕術を操って、その紙面を空中で大きく広げた。
 背中に羽の生えた小さな剣士や魔法使いが、禍々(まがまが)しい鎧に身を包んだ巨人――といってもそれは普通の大きさの人間なんだけど――に立ち向かう場面を描いたイラストが、広告欄を単独で占有する形で掲載されている。そしてその上にでかでかと、熱い売り文句が書かれてある。

〈15年の時を経て遂に放たれる奇跡の新作!
 文芸界の生ける伝説 ウィルコ・ゴライトリー著
 『妖精の剣士 クーレンカンプの冒険 第8巻 星の船と最初の人間たち』
 大好評発売中! ――お求めはお近くの書店で〉

「大好評発売中、だって」イサクがトーストに視線を戻して言った。
「お求めはお近くの書店で、だって」わたしは新聞を畳んでテーブルに置いた。
「うっかりしてたよ」ルータはぽりぽりと頭を掻く。「こないだ蚤の市で無料(ただ)同然で手に入れた古書が、思いのほか面白くてね。読み耽ってるうちに、日が過ぎちゃってたな」
「それはもう読んだの?」
 彼はうなずく。「昨夜、というか今日の明け方にね。これで今(うち)にあるものは全部読み尽くしたことになる」
「じゃあちょうどいいじゃん」トーストに齧り付きながらイサクが言う。「さっさと買って読めば」
「買えたら、な」ルータが肩をすくめた。「おまえは興味ないかもしれんが、世間では大変な人気作なんだぜ。もし手に入るんなら、早く読んでみたいよ」
「今日買いに行く?」わたしはコーヒーに口を付けながら訊いた。
「そうだな。これ食べたら行こうかな」
「ならわたしも一緒に行こうかしら。久しぶりに絵画の技法書を見たいの。それに……」
 ふいにわたしが言葉を区切ったので、二人は手を止めてこちらに顔を向けた。
「それに、今日は夕方に、例の衣装の寸法を測りに行く予定だったでしょ」
 二人は黙ってうなずいた。
「書店に寄ってから、そのまま行こうよ。三人で」
 わたしが提案すると、ルータはすぐに賛成した。
「イサクは、どう?」
 わたしがたずねると、彼女は窓の外をじっと眺めて、口をもぐもぐさせたまま言った。
「行く」


 お近くの書店はことごとく全滅だった。どこの書店でも、その本が積んであったはずの一画は、まるで局所的な地滑(じすべ)りに見舞われた跡地みたいに、ごっそりとからっぽになっていた。
 結局わたしたちは、また新市街の中心部まで――今度は馬車じゃなくて徒歩で――出向くことになった。まぁ、この日のもう一つの目的地である仕立て屋さんもこっち方面にあるから、別にいいのだけど。
 次なかったら今日のところは諦めようと言いつつ向かった四軒目か五軒目くらいの書店は、人の流れの穏やかな小路(こうじ)の角に立っていた。煉瓦(レンガ)造りのこぢんまりとした店舗で、その隣には古ぼけた木造の酒場が立っていた。書店は開いているけど、酒場は閉まっている。
 ちょうどわたしたちがその前を通った時、酒場の店主とおぼしきでっぷりと太った親父さんが、大きな脚立(きゃたつ)とペンキの入った缶を抱えて外に出てきたところだった。
 ぐらぐらと体を前後左右に揺らせて、彼は脚立を自分の店の壁に立て掛けた。そしてえっちらおっちらそれをよじ登り、天板の半分に自分のお尻を載せて、残りの半分にペンキ缶をどんと置いた。いかにも大儀そうにシャツの両腕をまくり、顔面を両手のひらで一発叩くと、上の方から順に店の外壁を塗装しにかかった。
 手を動かし始めたら気分が乗ってきたのか、親父さんは上機嫌で歌を歌いだした。右に左に刷毛(はけ)を振りながら、太く枯れた声でこぶしを効かせた歌声を張り上げ、それと同時に、とてつもなく酒臭い息もたっぷりと吐き出した。ペンキの匂いを凌駕するほどのその強烈な臭気に、わたしたちは眩暈(めまい)を覚えながら書店へと逃げ込んだ。
 入口の扉を開けた途端、嫌な予感がした。
 というのも、扉を押さえて道を譲るルータの脇を、一人の少年がこちらに軽く頭を下げて外へ出ていったのだけど、その彼の腕のなかには、とてもとても大事そうに、話題の新刊が抱きかかえられていたから。
 頬を上気させて跳ねるように去っていく少年の後ろ姿を見送ってから、わたしたちは重い足取りで店のなかへと進み、案の定というかなんというか、やはりすっからかんになった平積み棚と対面することになった。
「やっぱり」わたしがぼそっとつぶやいた。
「今のが最後の一冊だったんだろうね」イサクが続いた。
「う~む……」ルータは亀みたいにのっそりとうなだれた。かと思えば、ぱんと手を叩き合わせて顔を上げた。「ま、いいさ。これだけ飛ぶように売れてたら、どうせすぐに増刷(ぞうさつ)がかかるだろ。また大量に出回るはずさ」
「じゃあ予約するなり、次の入荷がいつになるのか確認するなりしといたら?」わたしが提案した。
 それで早速わたしたちは近くに店員がいないか探した。でもあいにく手が空いている人がいなかったので、店の奥にある会計場へ直接行くことにした。
 そちらへ向かって一歩を踏み出したのとほぼ同時に、わたしたちのすぐ脇を、一人の少女がつかつかと(かかと)を鳴らして通り過ぎた。
 こちらに背を向けて歩き去っていくので、ちゃんと顔を見ることはできなかった。でもたぶん、年齢は18とか19とか、そのあたりだと思う。耳当ての付いた黒っぽい円筒形の毛皮帽子をかぶり、一度見たら忘れられないような真紅のミンクコートを羽織っている。持ち物は、帽子とお揃いの色の小さな肩掛けポーチが一つきり。コートの裾から伸びる細く引き締まった両脚は、真っ白なタイツに包まれている。ただでさえ身長がある――たぶんわたしとおなじか、少し高いくらい――のに、(かかと)の高い靴を履いているので、ずいぶんおとなびて見える。
 書棚のあいだを颯爽と闊歩(かっぽ)する彼女の勇姿に目を奪われていると、イサクが兄とわたしの脇腹を小突いた。
「ほらほら。ぼさっとしてないで、とっとと行くよ」
 少女がカモメのように飛び去っていったのとおなじ通路を、わたしたちはペンギンのようにとぼとぼと歩いていった。
 壁に突き当たって角を曲がった途端、再びあの鮮烈な赤が視界に飛び込んできた。
 少女は両脚を軽く交差させて立ち、猫のそれみたいに丸めた両手をカウンターの上に品良く置いている。カウンターの向こうには人の()さそうな初老の女性店員が一人、スツールに腰かけている。
 女性は少女の存在に気付くと、手にしていた台帳と鉛筆をかたわらにのけて、ゆったりと立ち上がった。彼女がすっかり起立するまでのあいだに、わたしたち三人も少女の背後まで歩を進めていた。
 甘く澄んだ薔薇のような香りが、少女の方からほんのりと漂ってくる。
「もぉ、今朝から何軒も回ったのになぁ」かぶりを振り振り、少女は言った。外見の割りに、幼くて飾らない声だった。「ほんとにさっきのが最後の一冊だったのかしら? どこか、その、奥の方に、一冊くらい残ってたりしない?」
 店員の女性は可笑しそうに笑みを浮かべ、首を振った。
「ごめんなさいね、お嬢さん。本当にもう全部売れてしまったのよ。次の入荷は、おそらく十日ほど後になりそうね」
 少女は交差していた脚を入れ替えた。
「たった一日出遅れただけで、そんなに待たなくちゃいけないなんて。まったく、クーレンカンプの人気はどこでも衰え知らずね。こっちは王都ほどの白熱ぶりじゃないだろうって思ってたけど、完全に(あなど)っていたわ」
「あら、お嬢さんは王都ヨアネスのご出身?」
「ええ」背筋を伸ばして、少女はうなずいた。「ちょうど昨日、この街に着いたばかりなの。それでばたばたしてるうちに、日を(また)いじゃってたってわけ」
「まぁ、そうだったの」女性は少女のいでたちをさっと一瞥した。「そう、王都から……。でも、えっと、お仕事……じゃないわよね?」
「ええ、まだ学生よ。タヒナータへは、一カ月ちょっとのあいだだけの、短期留学で来ているの」
 女性は納得したようにうなずいた。そして骨董品級に古いレジスターの横に吊り下げてあった紐綴(ひもと)じノートを手に取って、片手に鉛筆を握った。
「じゃあ、ご予約されていく?」
 申し訳なさそうに少女は首を振った。「来週からは簡単に買い物に出られないかもしれないし、それに、わたしの寮ってここからかなり遠いの。今日は朝からずっと歩き回っていたから、ここまで来てしまったけれど。だから、ごめんなさい。今回は、遠慮させていただくわ」
 開きかけていたノートをぱたんと綴じて、女性は少女にほほえみかけた。
「わかったわ。こんなところまでわざわざいらしてくれてありがとう、素敵なお嬢さん。お話しできて楽しかったわ。早くあなたの望む物語があなたのもとへ届くよう、お祈りしているわね」
「どうもありがとう」少女はにっこり笑った。「いつかきっとまた来ます」
 来た道を戻ろうとする少女のために、わたしたちは左右に散って道を開けた。少女はわたしたちの誰にともなく会釈を送ると、再び優雅な脚運びで歩き去っていった。
 その刹那に目にした少女の顔立ちは、やっぱり想像していたとおりに、見惚れてしまうほど美しかった。
 黄金比に忠実に(のっと)って造形されたかのような鼻、朝露をまとう花の(つぼみ)のように瑞々しい唇、そして森を封じこめたみたいに深い緑の瞳。白い頬にはうっすらとそばかすが浮いているけれど、それはまるで、これじゃあんまり出来が良すぎるというので、神さまが気を利かせてちょっとした愛嬌を付与するために施した装飾のように思えた。そしてその施術は、見事に狙い通りの効果を発揮していた。
 置いていかれたペンギンの群れみたいに立ち尽くしたわたしたちは、互いのぽかんとした顔を見あわせると、少女に続いてこの場を去ることにした。わたしたちにしたって、ここがお近くの書店というわけではない。またそのうち、別の機会も巡ってくることだろう。
 今しも少女が開けて出ていった出入口の扉が、ゆっくりと揺り戻ってくるのを、先頭を行くルータがその手で押さえた。
 そこに生じた隙間から、情熱的な野太(のぶと)い歌声が流れ込んでくる。すっかり忘れていた酔っ払いのことを途端に思いだして、わたしは顔をしかめた。そしてきつく息を止め、外へ出たその時――
「どわっ!」
 喉を詰まらせた大型犬みたいな叫びを発して、歌声の(ぬし)が脚立から転がり落ちた。
 染みだらけのエプロンを着けた親父さんは、その丸々と突き出たお腹を衆目に披露するかのように、物の見事に石畳の上にひっくり返った。
 そして、彼がその大きなお尻を載せていた脚立の天板には、たっぷりとペンキの入った缶が残されて――いなかった。
 缶は今、わたしたちの目の前で、地面めがけて滑落(かつらく)したところだった。
 まるで連続する記録写真を眺めるように、それが空からまっすぐに降下していくさまを、わたしたちは成す術もなく見送った。
 それは落下しながらくるりと回転し、必然として、そのなかに(たた)えられていた漆黒の塗料が、陽の光を帯びてぎらぎらと輝きながら、重力の(いざな)う先へと降り注ぐ。
 その直下を歩く真っ赤なミンクのコートが、そんなもので汚されてしまうのは、あまりにも惜しく、あまりにも正しくないことのように思われた。
 だから、わたしはルータのことを責められない。
 彼はふっと強く息を吐くと、同時に右手を前へ突き出した。
 放たれた顕術の衝撃波は、少女の一日を台無しにしてしまう直前のところで、黒い液体の入った缶を酒場の壁の方へ勢いよく吹き飛ばした。
 缶は鈍い音を立てて壁にぶつかり、中身をあたり一面にぶちまけながら、ごろごろとのたうつように転がり、やがて静止した。
 あまりに瞬間的にすべてが起こり、そして鎮まったので、その場にいた誰もが、ただ呆気に取られて立ちすくむばかりだった。
 一呼吸おいて我に返ったルータが、まるでなにかを(ふところ)に隠すかのように、慌てて右手を引っ込めた。
 赤いコートの少女は肩を縮こませて棒立ちになっていた。そしておずおずと周囲の状況を観察し、次いで自身が身に着けている物を上から下までさっと点検した。帽子まで脱いで確かめた。頭頂部でテニスの球みたいにぴっしりとまとめられた輝かしい白金(プラチナ)の髪が、酔っ払いの口臭や黒々とした塗料の散乱する悲惨な空間にあって、とてつもなく相応しくないものとしてそこに(あら)わになった。
 自分の全身のどこにも染み一つ付いていないことを確認すると、少女は困惑冷めやらぬ表情でこちらを振り返った。
 その拍子に、彼女とわたしの目が合った。
 直後、通りを挟んだ向こうから、誰かが大声を発した。
「ルチア!」
 そう呼びかけながら赤いコートの少女のもとへ駆けつけたのは、一人の背の高い青年だった。襟にふさふさとした毛皮の付いた、濃い茶色の革ジャケットを着ている。下は枯草色の細いデニムに、黒のブーツ。頭にはドーム型のヘルメットをかぶり、それに付属するゴーグルが顔の上半分を隠し、耳当てが顔の左右の側面を覆い、口もとはマフラーに埋もれている。
 青年がやって来た方へ目をやると、通りの向かいの雑貨店の前に、一台の中型バイクが停めてあるのが見えた。そのかたわらの地面に放り出された紙袋からは、ビスケットの箱や林檎や雑誌なんかが零れ出ている。
「大丈夫か?」青年が少女の肩に手を添える。「なにがあったんだ」
「兄さん」ルチアと呼ばれた少女が、眉根を寄せてこたえる。「えっと、わたしは大丈夫、なんだけど……この缶が、いきなり、落ちてきたみたいで……」
 青年は妹の手を引いて数歩後退し、改めて現場の様子を検分した。
 彼がマフラーを引き下ろしてなにか言おうとしたその矢先、地面に倒れ込んだままでいた酒場の店主が、苦しげなうめき声を漏らした。
「いってぇ……ちくしょう」
 すぐに青年はそちらへ向かい、酷い臭いにも嫌な顔一つせずに、肩を貸して助け起こしてやった。
「お怪我は?」
「……なに、大したこたねぇ。尻にゃあ、馬鹿でかい青痣(あおあざ)が浮かんでるだろうがな」
 少し頭をのけぞらせて、青年はゴーグルを外した。そして店主の身に大事ないのを認めると、安堵したように小さくうなずいた。
 立ち上がった店主は自分の尻をさすりながら、店の軒先の惨状をまじまじと眺めた。
 そうしながら、急に目の色を変えて振り返り、例の赤いコートをぎろりと()めつけた。まるで、誰だって目で追わずにいられないその華美な衣装に、この惨劇のすべての元凶があるとでも言いたげな面持ちで。
「あ~、あ~、あ~……」露骨に凄みを利かせて店主は唸る。「せっかくのペンキが、ぱぁじゃねぇか。道の掃除も、こりゃあ一仕事だ。いったい誰のせいでこんなことになっちまったんだろうな」
「は?」
 イサクが眉をひそめて怒声を漏らした――けれど即刻、わたしが立ち塞がってそれを覆い隠した。
 自分がなにを言われているのか徐々に察したルチアが、負けじと眼光を尖らせた。
「ちょっとあなた、なにが言いたいの。いったいどんな理屈で、わた――」
 しかし少女が口を開いた時にはすでに、彼女の兄が自身の懐に片手を差し入れて男のもとへ駆け寄っていた。そしてその二人のあいだでしか聴き取れない密談と、何枚かの紙片の譲渡がおこなわれ、それで嘘みたいにあっさりと混乱は終息した。後には、不幸中の(さいわ)いにしてはあまりに桁外れな臨時収入を得た男のにやけ顔と、石油のように重く沈黙する黒いペンキの海だけが残された。
 そうよね、とわたしは思った。
 こんな愚かしくて低俗な騒ぎなんか、さっさと片を付けてしまった方がいいわよね。なにしろあなたは今、身許を偽装している立場にあるわけだし。それにさっき渡したお金だって、あなたの国の経費で落ちるんだもの。
 ルータがわたしとイサクの腕をつかんで、この場から急ぎ立ち去ろうとした。
「……あの!」
 テンシュテット・レノックスがわたしたちを呼び止めた。
 わたしたちは表情を殺して、彼と面と向き合った。
 妹とおなじ、奥行きのある緑の瞳。凛々しい眉、睫毛、それにこめかみに流れる髪は、言うまでもなく曇り一つない黄金色。下品な言葉なんて生涯で一度たりと発したことのなさそうな、端然たる口もと。そしてそこから紡ぎ出される、甘美な声音。
「あなたがた、先程――」
「すみません」ルータが穏便に、しかし予断は許さない語気で(さえぎ)った。「僕たち、とても急いでいます。失礼します」
 あっと息を呑み、非礼を詫びるように頭を下げると、レノックスはそれきりなにも言わなかった。実に(いさぎよ)い身の引き方だった。まるでこちらが悪いことをしてしまったような気さえした。
 どきどきと跳ねる心臓をなだめながら、わたしたちは足早にそこから去った。
 しばらくのあいだ、三人とも口を利かずにいた。ただ前だけを見て、行き先も定めないまま、ひたすら足を繰り出し続けた。
 いくつかの角を曲がり、元いた小路がどこにあったかもわからなくなってしまうほど歩き通してから、ようやく立ち止まった。
 わたしは近くにあった街路樹に背中をもたせかけた。イサクは見るからに不機嫌そうに虚空を睨んだ。ルータは、特になにもせずにいた。何物も目に映っていないような顔をして、何事もなかったかのようにただ立っていた。でもきっとその瞳の奥にはまだ、赤や金や黒や緑の入り乱れる映像が、目まぐるしく(またた)いているに違いなかった。わたしもそうだった。
 すると突然、イサクがにやりと笑った。神さまをたじろがせてしまうくらいに、とびきり皮肉の籠もった笑いっぷりだった。
「ねぇ、ルータ兄ぃ。これはただの質問なんだけどさ。あの子が綺麗な女の子じゃなくても、助けてた?」
 妹にそうたずねられて、兄は力無く肩をすくめた。
「やれやれ……」彼は天を仰ぎ、深々とため息をついた。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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