38 テンシュテットからの手紙
文字数 3,996文字
ルータの二日酔いが快復するのに、まる二日かかった。そのあいだ、彼は最初に倒れ込んだソファを定位置として、よろよろとお手洗いに行って戻ってを百回くらい繰り返した。そのうちの三十回くらいは、わたしとイサクが買い込んできた山盛りのお惣菜やお菓子やワインやビールの匂いのせいだったみたいだけど、これまで一度も二日酔いなんてやったことのないわたしたちは、そういう状態の時にこういう匂いがこたえるなんてこと、ちっとも知らなかった。やんわりと恨み事を言われたのは、彼がまともに口を利けるようになってからのことだった。まぁそうだったのごめんなさい、次からは気をつけるわ、とわたしは言った。次なんかない、と彼は断固とした口調で決意を述べた。こんなのは、もう二度とごめんだよ……。
新年の雰囲気も少し落ち着き始めたオウジの月の3日の朝、テンシュテットからの手紙をサラマノさんが届けてくれた。そこにはルータの体調への気遣いが記された文書と共に、なにかの切符のようなものが数枚同封されていた。
それは、このコランダム公国が世に誇る一大名物行事、国家主催の剣術大会の観覧券だった。
大会は年に二度、夏と冬に開催される。冬期大会の開始日は、他でもない、まさにこの手紙を受け取った当日だった。
青年は書いていた。
とある伝手 を頼って自分の関係者全員ぶんの座席を押さえてもらっていたのだが、年明け早々ルチアが風邪に捕まってしまって、彼女と自分は行かれなくなってしまった。それにもう一名、部下の一人が不慮の事故によって入院してしまったため、ちょうど三枚の券が余ることになった。捨て置くのも惜しいから、もしよかったらきみたちにもらってほしい。
「そうだな。久しぶりに外の空気を吸いに行くか」
ルータがそう言うので、特に興味もなかったのだけど、わたしとイサクも付き合ってあげることにした。そういえば、武術関連の催し物を観たことって、あんまりない。案外面白いかもしれない。それにまぁ、部屋に籠もって食べて飲んでばかりいるよりは、健康的だろう。
年末年始も欠かさなかったクレー老師のお見舞いにこの日も顔を出して――老師の体調はどうにか平静を保ってはいるものの、このところまた一段と食が細くなってきていた――、身体を清めた彼が再び眠りに落ちるまで見届けると、看護士さんたちに挨拶をしてから病棟を出た。そして新市街にあるという競技場へ向かった。
それは歴史ある野外円形劇場だった。すり鉢 状の巨大な石造りの建築物で、中心に位置する舞台を360度から見おろすように観覧席が並んでいる。
午後いちばんにおこなわれるという少年少女の部の決勝戦に間に合うようにやって来たのだけど、もうすでに席はほとんど埋まっていた。わたしたちが手にしているのは、一般観覧の自由席券だった。舞台に近い前の方の席は、熱心な観客でびっしりと占拠されている。空いているのは外縁のあたりの席ばかり。でもわたしたちにとっては、そっちの方がむしろ気が楽だった。背後に人がいないと安心するし、それにわたしたちにしてみれば、舞台までの距離なんて問題にならない。
近くにアトマ族や顕術士がいないことを確認してから、三人揃って視覚の精度を高めた。
ちょうど、決勝戦で対決する二人の少年が、東西の門をくぐって舞台上へ進み出てくるところだった。割れんばかりの拍手喝采を浴びながら、それぞれに剣を携えた少年たちは、滑らかな足取りで舞台中央へと向かう。
「なんか笑ってない?」
頬杖をつきながら、イサクがじろりと目を細めた。
「……あら、ほんとね」
わたしもそれを認めた。たしかに、二人の年若き剣士は、両者共にその面 にうっすらと笑みを浮かべている。どちらも全く同質の、溢れる高揚感を抑えきれず滲み出る類の笑みだ。
東に立つのは、逆立つ黒髪を短く整えた長身の少年。その顔つきは鷲 のように鋭く、余分な肉の一切ついてない身体は、それ自体が限界まで研がれた刀身のよう。
西に立つのは、蜂蜜みたいな色合いの長髪を、首の後ろで緩く一つに結っている少年。彼は身体の線が細く、背丈もそれほど高くはない。向かい合う相手とは対照的に、その顔立ちはまるでイルカみたいに邪気がない。一見するとその佇まいはのんびりとしていて、剣士というよりは花屋の店員かなにかのようだけど、隙というものが不思議とどこにも見受けられない。
二人とも、作りのよく似た簡素な綿の道着を身に着けている。黒髪の少年のそれは上下ともに黒で、相手方の少年の方は夏雲のように曇りなき白。
手にした得物の規格は、見たところ全く同一。
そして、その実力も、双方全く同等だった。
勝負開始の一声が放たれたその瞬間にはもう、二振りの剣は舞台の中心点において激しくぶつかり合っていた。
目にも留まらぬ速さで刃が一閃し、切り結ばれ、火花が散り、強烈な一歩が踏み込まれ、再び爆発的に跳ねる。それが繰り返される。止めどなく、幾度も幾度も。
鈴を高速で振り鳴らすような衝突音を無限に撒 き散らして、両者の剣技は常軌を逸した拮抗 の境地へと昇り詰めていった。
知らず知らず、わたしは手に汗を握っていた。両目もいっぱいに開かれていた。けれど、瞬きはほとんどしなかった。できなかった。そんな暇がなかったから。
戦いは長きに及んだ。
この二人は、まるで水と油だ。混ざり合うこともなければ、溶け合うこともない。放っておけば、きっと永遠に互いを弾き合うだろう。けれど時として、互いに絡み合うそれらが光の下 で虹色に輝くように、彼らの全霊を賭 した技どうしが交わるこの舞台は、実に言い様もなく美しかった。そしてまた彼らは、自分たちが美しいことを誰よりもよく知っているようだった。まるで無邪気な幼子のように、彼らはその美を本能の赴くまま共同で築き上げ、そして、共に貪 り合っていた。
しまいには、どよめきと歓声と悲鳴を上げ続ける観衆の方が、先にくたびれてしまった。片や少年たちの手脚 は、まだまだ燃えるような活力を残したままでいる。
しかしそうは言っても、さすがに戦いが始まった時と比べたら、両者共にやや精彩を欠き始めているのもたしかだった。
結局は、その欠け具合の微小な差が、勝敗の天秤に決定的な影響を及ぼすことになったようだ。
ほんの一瞬、息を整えるため守勢に回った末 に、黒髪の少年の踵 が場外へと出てしまった。一歩にも及ばない、極めて些細なはみ出しだった。でも、規則は規則だ。舞台の四隅に立つ審判員の一人が、容赦なく判定の旗を振り上げた。
こうしてついに勝敗は決した。
審判員長が高らかに読み上げたのは勝者の名前だけだったけれど、祝福と労いの声は、敗れた方の少年に対しても等しく惜しみなく会場じゅうから注がれた。
「レイ・バックリィ、か」拍手をしながらルータが唸った。「いや、凄いものを見せてもらった。あの子はきっと大物になるね」
「あっちの負けた子も、相当だったじゃん」イサクが顎をしゃくる。
「ええと、彼は……」わたしは会場入り口でもらった案内冊子に目を落とした。「ゼーバルト・クラナッハくんね。二人とも、生粋のコランダム人みたい」
「どっちも将来が楽しみだな」
ルータが親戚のおじさんみたいにしみじみと言うその横で、イサクが突然あっと声を上げた。
「見て見て!」
滅多にお目にかかれない彼女の興奮する姿に目を丸くしつつ、わたしとルータは指示に従って観覧席の下の方を見おろした。
「まぁ!」
思わずわたしも声が漏れた。
最前列近くの座席に、見覚えのある二人の姿があった。
ハスキルとモニクだった。
表情までは見えないけれど、二人ともとても元気そうだ。どちらも、お揃いの白いマフラーを巻いている。
二人のあいだには、品の良い帽子をかぶったおばあさんの姿もある。きっと、ハスキルの祖母その人だろう。音のない世界に生きているとはいえ、あの距離であれほどの試合を観賞したのだから、さぞや見物 だったにちがいない。実際、三人のなかで最も熱心に拍手を送っているのは彼女だ。その隣でモニクは、パンの生地でも捏 ねるようにぺたぺたと手を叩いている。
ハスキルはといえば、まるで一人だけ時間の流れが止まった世界に入り込んでしまったみたいに、ぴたりと手のひらを合わせたきり固まっている。
ところがある瞬間を境に、今度は一人だけ倍速で時間が流れる世界に入ってしまったみたいに、猛然と手を叩き始めた。対戦者と観衆に一礼して舞台を去っていく勝者の少年が、そこを降りた途端、少女たちに向かって手を振り笑って見せたのだった。
少年の背中が控室の奥へと消えていくその時まで、少女の拍手は二度と減速することはなかった。
「あの少年と知り合いなのかな」ルータが言った。
「さぁね」イサクが肩をすくめる。
「会いに行く?」わたしは二人に訊いた。
「そういえば、もし会えたら一緒にご飯行こうって誘われてたっけ」イサクが言った。
しばし逡巡してから、ルータは首を横に振った。
「おばあさんもおられることだし、今回は遠慮しておこうか。いきなり僕らみたいなのが押しかけたんじゃ、ゆっくりできないと思うよ。きっと、三人で出掛けるのもそうないことだろうし」
わたしとイサクはうなずいた。
「今度、あのばあちゃんのぶんもマフラー編んで送ったげようかな」イサクがぽつりと言った。
「素敵ね」わたしは言った。「とても良い考えだわ」
「失礼」
いきなり背後から何者かに声をかけられた。
鉄板かなにかを背中にぴたりと押し当てられたような気がするほど、硬く冷ややかな声だった。
わたしたちは一斉に振り返った。
相手が明らかに気配を忍ばせて接近してきていたことに、名状 しがたい不快感を抱きながら。
「少々お時間よろしいですか」
こちらを静かに見おろして、ヤッシャ・レーヴェンイェルムが言った。
新年の雰囲気も少し落ち着き始めたオウジの月の3日の朝、テンシュテットからの手紙をサラマノさんが届けてくれた。そこにはルータの体調への気遣いが記された文書と共に、なにかの切符のようなものが数枚同封されていた。
それは、このコランダム公国が世に誇る一大名物行事、国家主催の剣術大会の観覧券だった。
大会は年に二度、夏と冬に開催される。冬期大会の開始日は、他でもない、まさにこの手紙を受け取った当日だった。
青年は書いていた。
とある
「そうだな。久しぶりに外の空気を吸いに行くか」
ルータがそう言うので、特に興味もなかったのだけど、わたしとイサクも付き合ってあげることにした。そういえば、武術関連の催し物を観たことって、あんまりない。案外面白いかもしれない。それにまぁ、部屋に籠もって食べて飲んでばかりいるよりは、健康的だろう。
年末年始も欠かさなかったクレー老師のお見舞いにこの日も顔を出して――老師の体調はどうにか平静を保ってはいるものの、このところまた一段と食が細くなってきていた――、身体を清めた彼が再び眠りに落ちるまで見届けると、看護士さんたちに挨拶をしてから病棟を出た。そして新市街にあるという競技場へ向かった。
それは歴史ある野外円形劇場だった。すり
午後いちばんにおこなわれるという少年少女の部の決勝戦に間に合うようにやって来たのだけど、もうすでに席はほとんど埋まっていた。わたしたちが手にしているのは、一般観覧の自由席券だった。舞台に近い前の方の席は、熱心な観客でびっしりと占拠されている。空いているのは外縁のあたりの席ばかり。でもわたしたちにとっては、そっちの方がむしろ気が楽だった。背後に人がいないと安心するし、それにわたしたちにしてみれば、舞台までの距離なんて問題にならない。
近くにアトマ族や顕術士がいないことを確認してから、三人揃って視覚の精度を高めた。
ちょうど、決勝戦で対決する二人の少年が、東西の門をくぐって舞台上へ進み出てくるところだった。割れんばかりの拍手喝采を浴びながら、それぞれに剣を携えた少年たちは、滑らかな足取りで舞台中央へと向かう。
「なんか笑ってない?」
頬杖をつきながら、イサクがじろりと目を細めた。
「……あら、ほんとね」
わたしもそれを認めた。たしかに、二人の年若き剣士は、両者共にその
東に立つのは、逆立つ黒髪を短く整えた長身の少年。その顔つきは
西に立つのは、蜂蜜みたいな色合いの長髪を、首の後ろで緩く一つに結っている少年。彼は身体の線が細く、背丈もそれほど高くはない。向かい合う相手とは対照的に、その顔立ちはまるでイルカみたいに邪気がない。一見するとその佇まいはのんびりとしていて、剣士というよりは花屋の店員かなにかのようだけど、隙というものが不思議とどこにも見受けられない。
二人とも、作りのよく似た簡素な綿の道着を身に着けている。黒髪の少年のそれは上下ともに黒で、相手方の少年の方は夏雲のように曇りなき白。
手にした得物の規格は、見たところ全く同一。
そして、その実力も、双方全く同等だった。
勝負開始の一声が放たれたその瞬間にはもう、二振りの剣は舞台の中心点において激しくぶつかり合っていた。
目にも留まらぬ速さで刃が一閃し、切り結ばれ、火花が散り、強烈な一歩が踏み込まれ、再び爆発的に跳ねる。それが繰り返される。止めどなく、幾度も幾度も。
鈴を高速で振り鳴らすような衝突音を無限に
知らず知らず、わたしは手に汗を握っていた。両目もいっぱいに開かれていた。けれど、瞬きはほとんどしなかった。できなかった。そんな暇がなかったから。
戦いは長きに及んだ。
この二人は、まるで水と油だ。混ざり合うこともなければ、溶け合うこともない。放っておけば、きっと永遠に互いを弾き合うだろう。けれど時として、互いに絡み合うそれらが光の
しまいには、どよめきと歓声と悲鳴を上げ続ける観衆の方が、先にくたびれてしまった。片や少年たちの
しかしそうは言っても、さすがに戦いが始まった時と比べたら、両者共にやや精彩を欠き始めているのもたしかだった。
結局は、その欠け具合の微小な差が、勝敗の天秤に決定的な影響を及ぼすことになったようだ。
ほんの一瞬、息を整えるため守勢に回った
こうしてついに勝敗は決した。
審判員長が高らかに読み上げたのは勝者の名前だけだったけれど、祝福と労いの声は、敗れた方の少年に対しても等しく惜しみなく会場じゅうから注がれた。
「レイ・バックリィ、か」拍手をしながらルータが唸った。「いや、凄いものを見せてもらった。あの子はきっと大物になるね」
「あっちの負けた子も、相当だったじゃん」イサクが顎をしゃくる。
「ええと、彼は……」わたしは会場入り口でもらった案内冊子に目を落とした。「ゼーバルト・クラナッハくんね。二人とも、生粋のコランダム人みたい」
「どっちも将来が楽しみだな」
ルータが親戚のおじさんみたいにしみじみと言うその横で、イサクが突然あっと声を上げた。
「見て見て!」
滅多にお目にかかれない彼女の興奮する姿に目を丸くしつつ、わたしとルータは指示に従って観覧席の下の方を見おろした。
「まぁ!」
思わずわたしも声が漏れた。
最前列近くの座席に、見覚えのある二人の姿があった。
ハスキルとモニクだった。
表情までは見えないけれど、二人ともとても元気そうだ。どちらも、お揃いの白いマフラーを巻いている。
二人のあいだには、品の良い帽子をかぶったおばあさんの姿もある。きっと、ハスキルの祖母その人だろう。音のない世界に生きているとはいえ、あの距離であれほどの試合を観賞したのだから、さぞや
ハスキルはといえば、まるで一人だけ時間の流れが止まった世界に入り込んでしまったみたいに、ぴたりと手のひらを合わせたきり固まっている。
ところがある瞬間を境に、今度は一人だけ倍速で時間が流れる世界に入ってしまったみたいに、猛然と手を叩き始めた。対戦者と観衆に一礼して舞台を去っていく勝者の少年が、そこを降りた途端、少女たちに向かって手を振り笑って見せたのだった。
少年の背中が控室の奥へと消えていくその時まで、少女の拍手は二度と減速することはなかった。
「あの少年と知り合いなのかな」ルータが言った。
「さぁね」イサクが肩をすくめる。
「会いに行く?」わたしは二人に訊いた。
「そういえば、もし会えたら一緒にご飯行こうって誘われてたっけ」イサクが言った。
しばし逡巡してから、ルータは首を横に振った。
「おばあさんもおられることだし、今回は遠慮しておこうか。いきなり僕らみたいなのが押しかけたんじゃ、ゆっくりできないと思うよ。きっと、三人で出掛けるのもそうないことだろうし」
わたしとイサクはうなずいた。
「今度、あのばあちゃんのぶんもマフラー編んで送ったげようかな」イサクがぽつりと言った。
「素敵ね」わたしは言った。「とても良い考えだわ」
「失礼」
いきなり背後から何者かに声をかけられた。
鉄板かなにかを背中にぴたりと押し当てられたような気がするほど、硬く冷ややかな声だった。
わたしたちは一斉に振り返った。
相手が明らかに気配を忍ばせて接近してきていたことに、
「少々お時間よろしいですか」
こちらを静かに見おろして、ヤッシャ・レーヴェンイェルムが言った。
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