57 約束
文字数 3,281文字
その場所を見つけてきたのはルータだった。
タヒナータの街で暮らしはじめた頃、わたしたちはこの時の到来を――つまりクレー老師が旅立たれる時がやって来るのを――見越して、それを遂 げるのにふさわしい場所を街の周辺で探しはじめた。
けれど結局、わたしとイサクがそのために出かけることはなかった。二、三日のあいだ集中して一人で探索に回ったルータが、早々 とその場所を見つけ出してきたから。
だから、わたしとイサクはそこを見るのも訪れるのも、この夜が初めてだった。
一度、街で生活する日々の最中 に、わたしをそこへ連れてってとルータに頼んでみたことがあったけれど、彼は首を横に振った。どうせその時が来たらみんなで行くことになるんだから、というのが彼のこたえだった。まるで、その場所のことを頭から追いやっているあいだは、
それはいわゆる廃村だった。
場所は、コランダム公国領の最南部。タヒナータからいくつもの丘陵と深い森を越えた先にある、猫の額ほどのひっそりとした山間 の盆地だった。
そこに、二十軒にも満たないほどの廃屋が肩を寄せあって、寡黙に忘却の時を過ごしていた。
わたしたちが飛来した時、村はくまなく雪に覆われていた。
かつては住民たちが集 い憩っていたはずの、大きな井戸のある広場のなかほどに、わたしたちは降り立った。
舞い散る雪の粒と、風に揺らめく枯木と枯草のほかには、動くものなどなにもない。生きているものの気配も、一つだって感じられない。茅葺 と漆喰でつくられた民家や馬小屋は、まるで虫食いの跡だらけの古着みたいに疲弊し、崩れ、朽ち果てていた。明かりのない台所の出窓や、犬のいない犬小屋、花のない花壇、子供のいない広場、そして枯れきった井戸というものたちが、まさかこれほどまでに物哀しいものだとは、思いもしなかった。
両腕に老師を抱きかかえ、一言も発さないまま、ルータは村の奥へと宙を舞って移動した。わたしとイサクもそれに続いた。
その先には、小さな教会があった。
村ぜんたいを見守るように、登り坂の頂 に立つそれは、薄く赤みがかった石材で築かれた建造物だった。まるで井戸がそのまま地上に高く伸びたような円柱形をしていて、頭には横半分に切った満月みたいな丸屋根が載っている。ちゃんと頭頂部に〈大聖堂〉の印をかたどった金属製の紋章もあしらってある。
よほど頑丈に造ってあったのか、この建物だけ時の流れの外に置かれているかのように、風化による崩壊を免 れていた。教会施設としてはおそらく最小の規模のものだと思われるけれど、そこにはまだ凛とした奥ゆかしい風格が保たれていた。
ルータが老師を見送るための場所探しをここで終えたことに、合点 がいった。ここは、ふさわしい。
村は小高い山々に挟まれ、周囲には雪と藪 に埋もれた農道と獣道しかなく、いちばん近いほかの村でさえ、人の足では二日以上かかる山向こうにある。亡霊や死神だって、ここまではわざわざ訪ねてこないだろう。
教会の正面に到着すると、イサクが顕術を振るって入口の扉を強引に引き開けた。扉の前に積もっていた雪のかたまりが、爆破されたように四散した。わたしたちは息を潜めてなかへ踏み入った。
建物内部の損壊も、予想していたよりずっと酷くなかった。木製の礼拝席や祭壇はいくらか朽ちかけていたけれど、今もって在りし日の姿そのままに整然と並べてあるので、あたかもついさっきまで祈りの祭儀が執 りおこなわれていたかのよう。
天井をぐるりと一周するように等間隔で並べられた小さなステンドグラスも、まだほとんどが割れずに残っている。外からは見えなかったけど、丸屋根の頂点には円形の天窓が嵌 められていた。細いひびが数本入っているだけで、これもまだ崩落することなくぴしっと耐えている。今はそのうえに厚く雪が覆いかぶさっていて、窓としての機能は果たしていない。その向こうに広がっているはずの夜の空は、見えない。
わたしたちは長椅子を組み合わせて出来合 いの寝台をつくった。それを天窓の真下に置き、そこへ老師のお体を横たえた。祭壇の奥にたたずむ万象神イーノを抽象的にあらわした聖像が、それらのおこないをじっと見おろしていた。
わたしとイサクとで、いくつかの椅子を砕いて薪 にした。ルータが外套の懐 からマッチと新聞を取り出し、老師のかたわらに焚き火をつくった。それまで真っ暗に近かった教会のなかに暖かな光が満ち、熱が生まれ、火の揺れる音が響き、ゆっくりと煙が立ち昇った。煙は天井にぶつかるとわらわらと四方に散り、割れたステンドグラスの隙間から外へと出ていった。
次にわたしたちが取りかかったのは、念のためすべての窓や扉を閉ざすことだった。
建物の壁面には、いくつかの縦長の窓が並んでいた。わたしたちはそれらを、横倒しにした長椅子や祭壇の裏手にあった棚なんかで、ぴったりと塞いだ。出入口の両開きの扉は、もとあったように閉めきった。
三人で、老師のもとへ集った。
まもなく、その時が、やって来る。
イサクが身を投げるようにして、祖父の体にしがみついた。そしてその首もとに顔を埋めて、堰 を切ったようにはげしく泣き声をあげた。
わたしもまた両目からとめどなく涙を流して、フードを取り払った老師の頭を両腕で抱きしめた。
「間に合いましたよ、老師」わたしは言った。
音もなくさめざめと頬を濡らすルータが、右の手のひらで、そっと祖父の頬を撫でた。
「約束は守ったよ、じいちゃん」彼は語りかけた。「誰にも渡さないからね。僕たちがずっと一緒にいる」
「ここなら安心だよ」イサクが喉を震わせた。「じいちゃん。ありがとう。大好きだよ」
ここが陰気な病室なんかじゃなくて、よかった。
狭っ苦しくて薄暗い馬車の荷台なんかじゃなくて、よかった。
息ができないほど寂しい雪原なんかじゃなくて、本当によかった。
ここには、火の温もりがあるし、神さまだっている。
愛するみんなと、水入らずでいられる。
一族の大切な秘密は秘密にしたままで、安らかにあちらの世界へ送り出すことができる……。
クレー老師の意識は、もうとっくのとうに、こちら側の世界からいなくなっていた。
言葉も、身体の動きも、もはや完全に失われて久しかった。
ここに在るのは、際 の際まで天寿を全うしようとする、神聖な容 れものだけだった。
命あるものの生涯は、いわばひっくり返すことのできない砂時計みたいなものだ。流れ落ちる砂を食い止めることは誰にもできないし、最後の一粒が落ちてしまったら、そこで誰しもおとなしく地上から退出しなくてはならない。
今、わたしたちの目の前で、800年以上の時を生きた偉大な砂時計が、あと数粒の砂の落下をもって、そのつとめを終えようとしている。たぶん、きっと、朝陽が昇る前までには……
「ごめん、みんな」
ぐいっと袖で自分の顔を拭って、ルータが背筋を伸ばした。
長いこと一緒に生きてきたから、わたしは彼がこの瞬間にそう言うことを直感的に察していた。だからわたしはそれより少し早く身を起こして、彼の肩に力を込めて手を置いた。
「わたしが行くわ」彼の目を正面から見てわたしは告げた。「二人のおじいちゃんでしょ。二人で見届けてあげて」
「でも」彼は困り果てた表情を浮かべた。まるで、途方に暮れる少年のように。
「わたしね、もうきちんとお別れはすませたんだ」昨晩のことを思いだしながら、わたしはほほえんだ。「だから、大丈夫。一人で行ってくる。どうか二人はここにいて」
「……わかった」ルータはうなずいた。そしてわたしの手を両手でぎゅっと握った。「あいつを、頼む」
そこでイサクも、顔は老師の胸に押しつけたまま、片手だけわたしの方へ差し伸ばした。
わたしは二人の温かな手をつかんでめいっぱい深呼吸すると、老師の額に口づけをして、勢いよく教会を飛び出した。わたしたちの友人を助けるために。
タヒナータの街で暮らしはじめた頃、わたしたちはこの時の到来を――つまりクレー老師が旅立たれる時がやって来るのを――見越して、それを
けれど結局、わたしとイサクがそのために出かけることはなかった。二、三日のあいだ集中して一人で探索に回ったルータが、
だから、わたしとイサクはそこを見るのも訪れるのも、この夜が初めてだった。
一度、街で生活する日々の
その時
がやって来るのを遠ざけておくことができると信じているような、そんな口ぶりだった。以来、わたしは二度とその場所のことを話題に上げなかった。それはいわゆる廃村だった。
場所は、コランダム公国領の最南部。タヒナータからいくつもの丘陵と深い森を越えた先にある、猫の額ほどのひっそりとした
そこに、二十軒にも満たないほどの廃屋が肩を寄せあって、寡黙に忘却の時を過ごしていた。
わたしたちが飛来した時、村はくまなく雪に覆われていた。
かつては住民たちが
舞い散る雪の粒と、風に揺らめく枯木と枯草のほかには、動くものなどなにもない。生きているものの気配も、一つだって感じられない。
両腕に老師を抱きかかえ、一言も発さないまま、ルータは村の奥へと宙を舞って移動した。わたしとイサクもそれに続いた。
その先には、小さな教会があった。
村ぜんたいを見守るように、登り坂の
よほど頑丈に造ってあったのか、この建物だけ時の流れの外に置かれているかのように、風化による崩壊を
ルータが老師を見送るための場所探しをここで終えたことに、
村は小高い山々に挟まれ、周囲には雪と
教会の正面に到着すると、イサクが顕術を振るって入口の扉を強引に引き開けた。扉の前に積もっていた雪のかたまりが、爆破されたように四散した。わたしたちは息を潜めてなかへ踏み入った。
建物内部の損壊も、予想していたよりずっと酷くなかった。木製の礼拝席や祭壇はいくらか朽ちかけていたけれど、今もって在りし日の姿そのままに整然と並べてあるので、あたかもついさっきまで祈りの祭儀が
天井をぐるりと一周するように等間隔で並べられた小さなステンドグラスも、まだほとんどが割れずに残っている。外からは見えなかったけど、丸屋根の頂点には円形の天窓が
わたしたちは長椅子を組み合わせて
わたしとイサクとで、いくつかの椅子を砕いて
次にわたしたちが取りかかったのは、念のためすべての窓や扉を閉ざすことだった。
建物の壁面には、いくつかの縦長の窓が並んでいた。わたしたちはそれらを、横倒しにした長椅子や祭壇の裏手にあった棚なんかで、ぴったりと塞いだ。出入口の両開きの扉は、もとあったように閉めきった。
三人で、老師のもとへ集った。
まもなく、その時が、やって来る。
イサクが身を投げるようにして、祖父の体にしがみついた。そしてその首もとに顔を埋めて、
わたしもまた両目からとめどなく涙を流して、フードを取り払った老師の頭を両腕で抱きしめた。
「間に合いましたよ、老師」わたしは言った。
音もなくさめざめと頬を濡らすルータが、右の手のひらで、そっと祖父の頬を撫でた。
「約束は守ったよ、じいちゃん」彼は語りかけた。「誰にも渡さないからね。僕たちがずっと一緒にいる」
「ここなら安心だよ」イサクが喉を震わせた。「じいちゃん。ありがとう。大好きだよ」
ここが陰気な病室なんかじゃなくて、よかった。
狭っ苦しくて薄暗い馬車の荷台なんかじゃなくて、よかった。
息ができないほど寂しい雪原なんかじゃなくて、本当によかった。
ここには、火の温もりがあるし、神さまだっている。
愛するみんなと、水入らずでいられる。
一族の大切な秘密は秘密にしたままで、安らかにあちらの世界へ送り出すことができる……。
クレー老師の意識は、もうとっくのとうに、こちら側の世界からいなくなっていた。
言葉も、身体の動きも、もはや完全に失われて久しかった。
ここに在るのは、
命あるものの生涯は、いわばひっくり返すことのできない砂時計みたいなものだ。流れ落ちる砂を食い止めることは誰にもできないし、最後の一粒が落ちてしまったら、そこで誰しもおとなしく地上から退出しなくてはならない。
今、わたしたちの目の前で、800年以上の時を生きた偉大な砂時計が、あと数粒の砂の落下をもって、そのつとめを終えようとしている。たぶん、きっと、朝陽が昇る前までには……
「ごめん、みんな」
ぐいっと袖で自分の顔を拭って、ルータが背筋を伸ばした。
長いこと一緒に生きてきたから、わたしは彼がこの瞬間にそう言うことを直感的に察していた。だからわたしはそれより少し早く身を起こして、彼の肩に力を込めて手を置いた。
「わたしが行くわ」彼の目を正面から見てわたしは告げた。「二人のおじいちゃんでしょ。二人で見届けてあげて」
「でも」彼は困り果てた表情を浮かべた。まるで、途方に暮れる少年のように。
「わたしね、もうきちんとお別れはすませたんだ」昨晩のことを思いだしながら、わたしはほほえんだ。「だから、大丈夫。一人で行ってくる。どうか二人はここにいて」
「……わかった」ルータはうなずいた。そしてわたしの手を両手でぎゅっと握った。「あいつを、頼む」
そこでイサクも、顔は老師の胸に押しつけたまま、片手だけわたしの方へ差し伸ばした。
わたしは二人の温かな手をつかんでめいっぱい深呼吸すると、老師の額に口づけをして、勢いよく教会を飛び出した。わたしたちの友人を助けるために。
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