32 人間のみんなと
文字数 5,264文字
それから数日後の、いよいよ明日は大晦日 、という日の夜、わたしたち三人は新市街の劇場へオペラを聴きに行った。管理人のサラマノさんが、ラモーナの母親からの手紙と贈り物を届けにわたしたちの部屋を訪れたのは、その前日のことだった。
手紙には、たびたび娘が世話になっていることへの感謝と、多忙にかまけて挨拶が遅れたことについての謝辞と、もしお望みなら今夜と明日の夜に催 される年末の特別興行の座席を確保することが可能、という旨が書かれていた。贈り物は、宝石か工芸品かと見まごうほど精巧に作られたチョコレートの詰め合わせだった。これが収められている箱の値段だけで、ビュッフェのクッキーやら公園のハンバーガーやら露店の風船やらが、すべてまかなえてしまいそうだ(というかたぶんお釣りが来る)。
どちらもありがたく受け取ることにした。
サラマノさんを介して、わたしたちは鑑賞券を三枚購入した。割引とかはなかったけど、ちょっと腰が引けてしまうくらい良い席だった。何ヵ月も前から売り切れていて、空席待ちの人が何百人もいるとの噂の興行だったので、人混みが苦手なわたしたちも、さすがに興味を引かれてしまったのだった。
そういうわけで、例の仕立て服に着替えて、当日の夕暮れ前には、三人でアパルトマンを出た。
数十年ぶりのオペラだった。ずっと昔、まだ老師がお元気でいらして、わたしたちの知見を深めるために四人で某都市に住んでいた頃、よく演奏会や演劇に連れていってもらった。その時以来だ。
年末興行は初日から大成功を収めた。オーケストラも、ラモーナの母親をはじめとする歌手たちも、それから衣装や背景美術の造形、劇場ぜんたいの雰囲気に至るまで、なにもかもが素晴らしかった。すべてが互いに最善の干渉を及ぼし、すべてが最良の応答を返し、すべてが一つに融けあって極彩色の大波となり、劇場を隅から隅まで呑みこんだ。最後の一音が空間の彼方へ消えていき、指揮者が会心の笑顔で観客席を振り向いた瞬間の、万雷の拍手と大歓声は忘れられない。窓が割れたり天井にひびが入ったりしやしないかと、本気で心配になるほどだった。
舞台上に横一列に手を繋いで並ぶ出演者たちの中心に、ひときわ賞賛を浴びるふくよかで美しい女性がいた。娘とそっくりなまっすぐの黒髪。顔や首には玉の汗が、それさえも装飾品であるかのようにきらきらと輝いている。彼女の手に指揮者と実の娘からの花束が渡されると、喝采は耳が痛いほどになった。
うっとり夢見心地で、わたしたちは劇場をあとにした。
とてもそのまま帰る気がしなくて、どこかで夕食を取ろうという話になった。
とは言っても時期が時期だし、こんな格好で入店して周囲から浮かずにいられるたぐいのお店は、きっとどこも予約でいっぱいにちがいなかった。三人で頭をひねりながら少し歩くと、幸運にもすぐに解決策が目の前に提示された。
それはタフィー川に面した公園だった。
大河の支流みたいに脇に逸れて市街地へと吸いこまれていく幅広の用水路が、すぐ横を流れている。それら大小二つの水流が交差する角に、ちょうど切り立った崖のうえに築かれるようなかたちで、その公園は展開していた。
公園の真ん中には、四、五本の樹木が絡みあって束になっているように見える一本の大樹がそびえていた。うねる幹は太く高く、傘のように広げられた枝葉は公園の空を屋根のように覆い、大河や用水路のうえにまでせり出すほどの勢いだ。その無数の枝のいたるところに、内部にキャンドルの灯る小さなガラスのランプが提げてある。おかげで、まだ歌劇の世界と地続きの幻想のなかにいるような気分にさせられる。
大樹に背をつけるようにして、大きな屋台が二つ軒を連ねていた。こんがりと焼いたソーセージやパン、たっぷりのチーズの溶けこむ野菜シチューやグラタン、新鮮な牡蠣 の生食やフライ、そしてビールやワイン、ウィスキーサワーといったものが売られている。ぐるりと樹木を囲んでいくつものテーブルやストーブが配してあり、どこもかしこも人でいっぱいだ。夜遊びに繰り出してきた若者たちや恋人たち、夫婦たち。背広姿の勤め人もいれば、くたくたになった作業着姿の労働者たちもいる。そして、わたしたちとおなじ演目を観劇した帰りにちがいない着飾った人たちも、少なからずいた。
こんな機会を逃す手はない。香ばしい匂いに鼻孔と胃袋をわしづかみにされて、わたしたちはたぐり寄せられるように屋台へと直進した。
タフィー川を正面に臨 む、大樹のすぐ近くのテーブルが折よく空いたので、わたしたちは料理の載せられた盆を持ってそこに腰を落ち着けた。ストーブからは少し距離があるけれど、まわりに立ちこめる熱気やあつあつのシチューのおかげで、寒さなんかちっとも感じない。矢継ぎ早にそれぞれの感想――オペラの感想と料理の感想がこたまぜになった順序も内容もめちゃくちゃな感想――を口々にまくしたてながら、わたしたちはおでこや肩を寄せあって心愉 しいひと時を過ごした。
本当の意味で溶けこむことはできないとわかってはいるけれど、そしてもうとっくにあきらめもついてはいるのだけど、それでもやっぱり、ときどきは、人間のみんなと一緒に街でのびのび暮らせたらな、と思うことがある。幼かった頃には、どうしてわたしたちだけみんなと違うのと、真剣に神さまを恨んだこともあった。だけど、もうそんな季節も、とっくの昔に過ぎ去ってしまった。何年も、何十年も前に。それが良いことなのか、あるいは哀しいことなのか、もはやそれさえ、わからなくなってしまったけれど……。
「イサク、それどう?」長靴みたいに巨大なジョッキでビールを飲んでいるルータが、妹にたずねた。「うまいか?」
器用に殻から剥いだ生牡蠣を舌に載せると、イサクはうなずくんじゃなくて、逆にあごをうえへ振り上げた。そしてそのままの姿勢で断言した。
「ふもふ」(※わたしによる翻訳「すごく」)
「一つ、いい?」
彼女は今度はまともにうなずく。兄が手を伸ばして一つ取る。
「リディアも食べて」イサクがわたしにも勧めてくれる。
「ありがと」わたしは言いながら、大きなソーセージをぶつ切りにして、みんなで食べられるように皿に広げた。「これも食べてね」
こんな調子で、みんなでいろんな料理を共有した。どれもこれもびっくりするほど美味しかった。あんまり夢中で食べて飲んだので、すぐにお腹いっぱいに――ならなかった。それどころか、いつまでだって食べていられそうな気がした。ただ料理の出来 が良いからというだけではなくて、人々の解放的な笑い声や、蛍の群れのような黄金色の灯火、そして周囲に広がる街の夜景や輝く天空の星々が、なんだか無性に食欲を後押ししてくれていた。
わたしはお腹に両手を当ててうなった。
「どうしよう、止まんないわ。太っちゃうかも」
ぴたっと手を休めて、イサクも自分の下腹部に目を落とした。
「いやいやいや」ルータが大きく首を振る。「あのね、きみたちは二人とも痩せすぎだよ。もうちょっとくらい太ったって――」
彼はふいに言葉を呑みこんだ。でもそれは、わたしとイサクが二人がかりで彼を睨みつけたからではなかった。
自分がかぶっていた中折れ帽をさっと取ると、彼はそれをわたしの頭に載せた。今夜はイサクの手によってわたしの髪は緻密なお団子にしてあった。ゆったりとした帽子をかぶることで、頭部ぜんたいがすっぽり覆われた。
「なに?」わたしはぽかんとなって訊いた。
「きみの髪色は目立つ」ルータはビールジョッキの陰に隠れるように身を縮こませる。「しばらくかぶっといでよ。彼らが来た」
タフィー川と並走する車道のそのまた向こうの、堤防に接する川沿いの歩道を、男たちの一団が歩いてこちらにやって来るところだった。
ほかの食事客たちや屋台の小屋、そしてなにより大きな樹木が、わたしたちをあちらの通りから匿 ってくれている。こちらからはかろうじて向こうが見渡せる。わたしたちはさらに念を入れて、確実に向こうから顔が見えなくなる位置まで椅子の角度を調整した。
先頭を歩いているのは、ドノヴァン・ベームだ。そのすぐ後ろにヤッシャ・レーヴェンイェルム。そしてそのほかの探索隊員たちが数名、続く。ベームの頭とレーヴェンイェルムの頭のあいだあたりを、黄色い髪のアトマ族の女性がゆらゆらと漂っている。なぜかテンシュテットの姿はない。前を行く二人はそうでもないけれど、後続の部下たちは個人差こそあれみんな顔色が赤く、吐く息も荒いように見える。幾人かはだらしなく口もとをゆるめ、また幾人かは見るからにうろんな目つきをしている。どこかで一杯やってきたところなのだろう。ここらでさらにもう一杯、というわけだ。
うかつだったと悔いるほどのことではないけれど、やはりあまり気持ちの良い遭遇ではなかった。考えてみれば、このあたりは彼らが逗留しているホテルからそう遠く離れた区域ではない。じゅうぶん、すれちがう可能性だってなくはなかったのだ。
彼らは屋台で飲み物と軽食をたっぷり調達して、空いたテーブルの方へぞろぞろと移動していった。こちらからすると、ちょうど屋台と樹木を挟んだ向こう側の席だ。誰一人、わたしたちの方へ目を向けることはない。向けたとしても、あんなにふらふらしてたんじゃ、たぶん誰も気づきやしないだろうけど。男たちだけでなくて、アトマの女性もずいぶん呑んでいるみたい。ふだんはうえを向いてぴんとしている額 の触角も、今は昼寝中のナマズのひげみたいにだらりと垂れ下がっている。
わたしたち三人は互いの目を見あわせた。そして無言のうちに了承を交わしあった。これほど距離があってあれほど酔っていれば、さすがの彼女も多少の発顕因子の揺らぎには勘づくまい。これは楽観的な予想から思うことじゃない。長年の経験に基づく、妥当な判断だ。わたしたちはその確信と共に、聴覚を拡張した。彼らの息づかいや咀嚼 音がすぐ隣の席から聴こえてくるように感じられるくらいまで、音波の伝達具合を調整して。
彼らはほんとにどうしようもない会話ばかり交わしていた。新年を祖国で迎えられないことへの不満や愚痴。ありきたりな色恋沙汰の数々。部隊解体後の処遇についての懸念や昇進への期待。そしてそれらのあいだにちょくちょく挟みこまれる、屋台料理の品評。公共の場では自分たちが就いている隠密の任務について口外しないという規則でもあるのか、森や天秤竜や〈テルル〉の名前は誰の口からも語られない。わたしたち三人は素知らぬ顔で食事を続けながら、はっきり言ってとことんばかばかしい気持ちで連中の話に耳を傾けた。この時のイサクの苦 みばしった表情は、もはや言語に絶するほどだった。
一方で彼女の兄は、やけに怪しげな薄ら笑いを浮かべて、そっぽを向くように――あるいは何者かの到来をそれとなく待ち受けるかのように――堤防沿いの歩道へと視線を飛ばしていた。
すると本当に、彼が目をやっていた方角から新参者が一人、同僚たちのもとへ駆けつけた。
「すみません」
途中参加してきた若者は恥じ入るように一礼し、席を詰めてもらってテーブルに着いた。
「大丈夫だったか、お腹」ベームがなにかの食べ物にかぶりつきながらたずねる。
「はい。ご心配おかけしました」若者は息を切らせて言う。「運が良かったです。ちょうど近くにお手洗いを貸してくれる場所があって……」
聞き覚えのある声だった。たしか、銃の扱いの件ではレーヴェンイェルムに叱責され、天秤竜に襲われた時には誰よりも酷い傷を負わされた、あの年若い隊員だ。挙句には、まだ怪我も完治していないだろうに、今夜はお腹の調子まで壊してしまったみたい。なんていうか、その……ちょっと、気の毒な人だ。
「踏んだり蹴ったりだな」遠慮のない口ぶりで、そしてあきらかに酔いの回った声色で、べつの隊員が嘲笑する。「ここんとこ、おたくはまじでついてないみたいだ」
言われた方は乾いた笑いをこぼす。「いやまったく、参っちゃうよ」
「こっちにまで悪運が伝染しなけりゃいいけどな」酔漢 はさらに続ける。嘲 りのなかに、にじむような苛立ちも混ぜて。
「つまらんこと言うな」ベームが低い声で一喝する。「酒も飯 もまずくなる。それに、誰にだって不運が重なる時ってのはあるもんだ。……なぁ、きみはじゃあもう、こいつはやめとくか」
こいつ、と言いながら彼は手を揺らしてグラスの中身をちゃぷちゃぷといわせる。
「そうですね。またみんなに迷惑かけるのも、あれですし……」若者は恐縮した様子でこたえる。「今日はもう、やめときます」
「つまらんやつ」苛立ちが嘲りをはっきりと凌駕した口ぶりで、酩酊 寸前の男はなおも罵 る。
「おまえ、いい加減に――」
ごつんとグラスをテーブルに置いて、ベームが怒声を発しかけた。けれどその叱咤 をさえぎるように、酔った男はにやついた口調で声をあげた。
「ほら、おたくの隊長殿のお出ましだ」
手紙には、たびたび娘が世話になっていることへの感謝と、多忙にかまけて挨拶が遅れたことについての謝辞と、もしお望みなら今夜と明日の夜に
どちらもありがたく受け取ることにした。
サラマノさんを介して、わたしたちは鑑賞券を三枚購入した。割引とかはなかったけど、ちょっと腰が引けてしまうくらい良い席だった。何ヵ月も前から売り切れていて、空席待ちの人が何百人もいるとの噂の興行だったので、人混みが苦手なわたしたちも、さすがに興味を引かれてしまったのだった。
そういうわけで、例の仕立て服に着替えて、当日の夕暮れ前には、三人でアパルトマンを出た。
数十年ぶりのオペラだった。ずっと昔、まだ老師がお元気でいらして、わたしたちの知見を深めるために四人で某都市に住んでいた頃、よく演奏会や演劇に連れていってもらった。その時以来だ。
年末興行は初日から大成功を収めた。オーケストラも、ラモーナの母親をはじめとする歌手たちも、それから衣装や背景美術の造形、劇場ぜんたいの雰囲気に至るまで、なにもかもが素晴らしかった。すべてが互いに最善の干渉を及ぼし、すべてが最良の応答を返し、すべてが一つに融けあって極彩色の大波となり、劇場を隅から隅まで呑みこんだ。最後の一音が空間の彼方へ消えていき、指揮者が会心の笑顔で観客席を振り向いた瞬間の、万雷の拍手と大歓声は忘れられない。窓が割れたり天井にひびが入ったりしやしないかと、本気で心配になるほどだった。
舞台上に横一列に手を繋いで並ぶ出演者たちの中心に、ひときわ賞賛を浴びるふくよかで美しい女性がいた。娘とそっくりなまっすぐの黒髪。顔や首には玉の汗が、それさえも装飾品であるかのようにきらきらと輝いている。彼女の手に指揮者と実の娘からの花束が渡されると、喝采は耳が痛いほどになった。
うっとり夢見心地で、わたしたちは劇場をあとにした。
とてもそのまま帰る気がしなくて、どこかで夕食を取ろうという話になった。
とは言っても時期が時期だし、こんな格好で入店して周囲から浮かずにいられるたぐいのお店は、きっとどこも予約でいっぱいにちがいなかった。三人で頭をひねりながら少し歩くと、幸運にもすぐに解決策が目の前に提示された。
それはタフィー川に面した公園だった。
大河の支流みたいに脇に逸れて市街地へと吸いこまれていく幅広の用水路が、すぐ横を流れている。それら大小二つの水流が交差する角に、ちょうど切り立った崖のうえに築かれるようなかたちで、その公園は展開していた。
公園の真ん中には、四、五本の樹木が絡みあって束になっているように見える一本の大樹がそびえていた。うねる幹は太く高く、傘のように広げられた枝葉は公園の空を屋根のように覆い、大河や用水路のうえにまでせり出すほどの勢いだ。その無数の枝のいたるところに、内部にキャンドルの灯る小さなガラスのランプが提げてある。おかげで、まだ歌劇の世界と地続きの幻想のなかにいるような気分にさせられる。
大樹に背をつけるようにして、大きな屋台が二つ軒を連ねていた。こんがりと焼いたソーセージやパン、たっぷりのチーズの溶けこむ野菜シチューやグラタン、新鮮な
こんな機会を逃す手はない。香ばしい匂いに鼻孔と胃袋をわしづかみにされて、わたしたちはたぐり寄せられるように屋台へと直進した。
タフィー川を正面に
本当の意味で溶けこむことはできないとわかってはいるけれど、そしてもうとっくにあきらめもついてはいるのだけど、それでもやっぱり、ときどきは、人間のみんなと一緒に街でのびのび暮らせたらな、と思うことがある。幼かった頃には、どうしてわたしたちだけみんなと違うのと、真剣に神さまを恨んだこともあった。だけど、もうそんな季節も、とっくの昔に過ぎ去ってしまった。何年も、何十年も前に。それが良いことなのか、あるいは哀しいことなのか、もはやそれさえ、わからなくなってしまったけれど……。
「イサク、それどう?」長靴みたいに巨大なジョッキでビールを飲んでいるルータが、妹にたずねた。「うまいか?」
器用に殻から剥いだ生牡蠣を舌に載せると、イサクはうなずくんじゃなくて、逆にあごをうえへ振り上げた。そしてそのままの姿勢で断言した。
「ふもふ」(※わたしによる翻訳「すごく」)
「一つ、いい?」
彼女は今度はまともにうなずく。兄が手を伸ばして一つ取る。
「リディアも食べて」イサクがわたしにも勧めてくれる。
「ありがと」わたしは言いながら、大きなソーセージをぶつ切りにして、みんなで食べられるように皿に広げた。「これも食べてね」
こんな調子で、みんなでいろんな料理を共有した。どれもこれもびっくりするほど美味しかった。あんまり夢中で食べて飲んだので、すぐにお腹いっぱいに――ならなかった。それどころか、いつまでだって食べていられそうな気がした。ただ料理の
わたしはお腹に両手を当ててうなった。
「どうしよう、止まんないわ。太っちゃうかも」
ぴたっと手を休めて、イサクも自分の下腹部に目を落とした。
「いやいやいや」ルータが大きく首を振る。「あのね、きみたちは二人とも痩せすぎだよ。もうちょっとくらい太ったって――」
彼はふいに言葉を呑みこんだ。でもそれは、わたしとイサクが二人がかりで彼を睨みつけたからではなかった。
自分がかぶっていた中折れ帽をさっと取ると、彼はそれをわたしの頭に載せた。今夜はイサクの手によってわたしの髪は緻密なお団子にしてあった。ゆったりとした帽子をかぶることで、頭部ぜんたいがすっぽり覆われた。
「なに?」わたしはぽかんとなって訊いた。
「きみの髪色は目立つ」ルータはビールジョッキの陰に隠れるように身を縮こませる。「しばらくかぶっといでよ。彼らが来た」
タフィー川と並走する車道のそのまた向こうの、堤防に接する川沿いの歩道を、男たちの一団が歩いてこちらにやって来るところだった。
ほかの食事客たちや屋台の小屋、そしてなにより大きな樹木が、わたしたちをあちらの通りから
先頭を歩いているのは、ドノヴァン・ベームだ。そのすぐ後ろにヤッシャ・レーヴェンイェルム。そしてそのほかの探索隊員たちが数名、続く。ベームの頭とレーヴェンイェルムの頭のあいだあたりを、黄色い髪のアトマ族の女性がゆらゆらと漂っている。なぜかテンシュテットの姿はない。前を行く二人はそうでもないけれど、後続の部下たちは個人差こそあれみんな顔色が赤く、吐く息も荒いように見える。幾人かはだらしなく口もとをゆるめ、また幾人かは見るからにうろんな目つきをしている。どこかで一杯やってきたところなのだろう。ここらでさらにもう一杯、というわけだ。
うかつだったと悔いるほどのことではないけれど、やはりあまり気持ちの良い遭遇ではなかった。考えてみれば、このあたりは彼らが逗留しているホテルからそう遠く離れた区域ではない。じゅうぶん、すれちがう可能性だってなくはなかったのだ。
彼らは屋台で飲み物と軽食をたっぷり調達して、空いたテーブルの方へぞろぞろと移動していった。こちらからすると、ちょうど屋台と樹木を挟んだ向こう側の席だ。誰一人、わたしたちの方へ目を向けることはない。向けたとしても、あんなにふらふらしてたんじゃ、たぶん誰も気づきやしないだろうけど。男たちだけでなくて、アトマの女性もずいぶん呑んでいるみたい。ふだんはうえを向いてぴんとしている
わたしたち三人は互いの目を見あわせた。そして無言のうちに了承を交わしあった。これほど距離があってあれほど酔っていれば、さすがの彼女も多少の発顕因子の揺らぎには勘づくまい。これは楽観的な予想から思うことじゃない。長年の経験に基づく、妥当な判断だ。わたしたちはその確信と共に、聴覚を拡張した。彼らの息づかいや
彼らはほんとにどうしようもない会話ばかり交わしていた。新年を祖国で迎えられないことへの不満や愚痴。ありきたりな色恋沙汰の数々。部隊解体後の処遇についての懸念や昇進への期待。そしてそれらのあいだにちょくちょく挟みこまれる、屋台料理の品評。公共の場では自分たちが就いている隠密の任務について口外しないという規則でもあるのか、森や天秤竜や〈テルル〉の名前は誰の口からも語られない。わたしたち三人は素知らぬ顔で食事を続けながら、はっきり言ってとことんばかばかしい気持ちで連中の話に耳を傾けた。この時のイサクの
一方で彼女の兄は、やけに怪しげな薄ら笑いを浮かべて、そっぽを向くように――あるいは何者かの到来をそれとなく待ち受けるかのように――堤防沿いの歩道へと視線を飛ばしていた。
すると本当に、彼が目をやっていた方角から新参者が一人、同僚たちのもとへ駆けつけた。
「すみません」
途中参加してきた若者は恥じ入るように一礼し、席を詰めてもらってテーブルに着いた。
「大丈夫だったか、お腹」ベームがなにかの食べ物にかぶりつきながらたずねる。
「はい。ご心配おかけしました」若者は息を切らせて言う。「運が良かったです。ちょうど近くにお手洗いを貸してくれる場所があって……」
聞き覚えのある声だった。たしか、銃の扱いの件ではレーヴェンイェルムに叱責され、天秤竜に襲われた時には誰よりも酷い傷を負わされた、あの年若い隊員だ。挙句には、まだ怪我も完治していないだろうに、今夜はお腹の調子まで壊してしまったみたい。なんていうか、その……ちょっと、気の毒な人だ。
「踏んだり蹴ったりだな」遠慮のない口ぶりで、そしてあきらかに酔いの回った声色で、べつの隊員が嘲笑する。「ここんとこ、おたくはまじでついてないみたいだ」
言われた方は乾いた笑いをこぼす。「いやまったく、参っちゃうよ」
「こっちにまで悪運が伝染しなけりゃいいけどな」
「つまらんこと言うな」ベームが低い声で一喝する。「酒も
こいつ、と言いながら彼は手を揺らしてグラスの中身をちゃぷちゃぷといわせる。
「そうですね。またみんなに迷惑かけるのも、あれですし……」若者は恐縮した様子でこたえる。「今日はもう、やめときます」
「つまらんやつ」苛立ちが嘲りをはっきりと凌駕した口ぶりで、
「おまえ、いい加減に――」
ごつんとグラスをテーブルに置いて、ベームが怒声を発しかけた。けれどその
「ほら、おたくの隊長殿のお出ましだ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)