48 おまえの手は
文字数 2,393文字
面会時間を過ぎて静まり返った病院のなかを歩くのは、なんとも言えずうら寂しい感じがするものだった。まるで、自分が本来いるべきではない別の並行世界に、なにかの手違いで迷い込んでしまったような気分。
待合室も、階段も、廊下も、最小限の灯りだけ残して夜闇に浸っている。
逃げ込むように病室に入ると、ルータの姿はすでになかった。イサクがただ一人ベッドの脇の椅子に腰かけて、祖父の肩に頭を寄りかからせている。うとうとしていたらしく、足音に気付いて目を開けたけれど、わたしだとわかるとすぐにまた閉じてしまった。たった一日で、彼女もずいぶんやつれてしまった。部屋で唯一の明かりである枕もとの小さな燭台が、その心許ない少女のような面 を仄かに照らしている。
看護士のかたが持ってきてくれていた簡易ベッドが、窓際に二つ並べて置かれてあった。その上に用意されていた毛布を、わたしはイサクの肩に掛けてあげた。
部屋の隅のごみ箱をのぞき込むと、ハンバーガーの包み紙が丸めて捨ててあった。
「イサク」わたしは彼女の耳もとでささやいた。「わたし起きてるから、このまま少し眠ったらどう」
渋るかと思いきや、よほど疲れ切っていたのか、彼女は肩を支えるわたしに従って大人しくベッドに横になった。
「あとで起こして」蚊の泣くような声で言う。
「うん」わたしは彼女の体にもう一枚の毛布も掛けてあげた。「おやすみ」
イサクが寝息を立て始めるのを見届けると、わたしは窓越しに川向うの我が家――まだ我が家と呼んでもいいよね――へ目を向けた。
居間と、ルータの部屋にだけ、明かりが点けられている。
彼は自室と居間を、いろんな荷物を抱えて行ったり来たりしている。
しばらくそのまま待っていると、彼の方もこちらに気付いて、カーテンの隙間から手を振ってくれた。わたしも返した。
それから、ふいに上階の様子が目に入った。今夜は、ラモーナの一家は全員が揃っているみたい。ほぼすべての部屋に明々 と照明が輝いている。どうやら家族での食事を終えて、団欒 の時を過ごしているようだ。三人ぶんのシルエットが、窓の向こうで影絵遊びのようにひょこひょこと動いている。結局、一度もあの子の両親とは顔を合わせることがなかった。くれぐれも、家族みんなで幸せになるといいわ。素直で賢いラモーナ。白猫のケルビーノと仲良くね。それと、ブレスレットを大切に。
わたしは上着を脱ぎ、壁に掛けた。ちょうどその上の方に、わたしがこの手で描いた絵が飾ってある。天秤竜の森から望む、遥かな山並みの光景。我ながら、上手く空気感を捉えられていると思う。
わたしは深呼吸をする。
絵のなかを吹き渡る風で、胸を満たすように。
老師のおそばに歩み寄り、ルータが座っていたとおぼしき丸椅子に目を落とす。そこには、わたしが食堂で読んだのとおなじ朝刊が置いてある。院内の売店で買い求めたのだろう。彼に読んでもらおうと思って持ってきていたけれど、その必要はなかったみたい。彼も目を通したにちがいない。友人の晴れ舞台に関する記事を。
さっきまでイサクが座っていた椅子に、わたしは腰を下ろした。
しばらく息を潜めて、海底の遺跡のように深い静寂に沈む老師のお顔を、じっくりと見つめた。
淡い炎の色に染まる幾多の皺 を、老いてなお凛々しい鼻柱を、雪より白く美しい髪と髭を。そして、二度とこの目で見ることは叶わないはずの、青の瞳を秘めしまぶたを。
わたしは両手で彼の左手を包み、そろりと持ち上げた。
なんて、なんて硬くて、細くて、冷たくて、骨ばった手。
巨大な鈍器で胸を思いきり殴りつけられたような衝撃を伴って、八十年ぶんにも及ぶ膨大な量の幸福な記憶が、一挙にわたしを襲った。
わたしは縋り付くように老師の手を握りしめ、自分の頬に強く押し当てた。
この大きな手に、かつては新鮮な血が流れ、豊かな肉があり、不断の温もりがあり、光輝く生気が満ちていた。
この手で何度も、何度も、幼いわたしたちを抱きかかえ、手を取り、あやし、導き、寝かしつけ、頭や頬や背を撫でてくれた。
そのすべてを思い出せはしないけれど、そのすべてを、わたしは生涯忘れない。
深く息を吸って、目を閉じた。
流れるな、とわたしは涙に命じた。
歯を食いしばり、舌が痺れてしまうほど強く、痛く、沈黙した。
そして、そっと目を開けた。
わたしの呼吸は、文字どおり完全に止まった。
老師が両目を開いて、わたしを見あげていた。
わたしにはわかった。
その瞬間、老師は薄れゆく意識のなかで、いっときすべての雲霧を払い除け、なにもかもを鮮明に思い出されたということが。
「リディア」
老師は舌の根もとあたりで、ささやかな音の振動を発した。
「はい、老師」その手を握ったまま、わたしはすぐさま応じた。「わたしです。ここにいます」
「絵をありがとう」老師は言われた。そして、ほほえまれた。「おまえの手は、綺麗だね」
わたしは声を上げて泣いた。こんなに泣きじゃくるのは、子供じゃなくなって以来、初めてのことだった。
再び見ると、もう老師はそこにおられなかった。
まだ息はある。
まだ心臓は動いている。
でも、まぶたは再び閉ざされ、二度と光は戻らない。
そのことが、わたしにははっきりと感じられた。
「ありがとうございました。老師」
わたしは心の限りを尽くして、彼の肩を抱き締めた。
そしてその額に、口付けをした。
背後でベッドの軋む音がして、その直後には、イサクがわたしの背中に覆いかぶさるように抱きついていた。彼女もまた、ためらいなく嗚咽していた。
もう、
行かないで、
も、
ここにいて、
も、
帰ってきて、
も、
なにもなかった。
ただ、ただ言葉にならない純粋な感謝だけが、ここにはあった。
泣き疲れて気を失ってしまうまで、わたしたちは夜通し涙を流した。
そして訣別の朝を迎えた。
待合室も、階段も、廊下も、最小限の灯りだけ残して夜闇に浸っている。
逃げ込むように病室に入ると、ルータの姿はすでになかった。イサクがただ一人ベッドの脇の椅子に腰かけて、祖父の肩に頭を寄りかからせている。うとうとしていたらしく、足音に気付いて目を開けたけれど、わたしだとわかるとすぐにまた閉じてしまった。たった一日で、彼女もずいぶんやつれてしまった。部屋で唯一の明かりである枕もとの小さな燭台が、その心許ない少女のような
看護士のかたが持ってきてくれていた簡易ベッドが、窓際に二つ並べて置かれてあった。その上に用意されていた毛布を、わたしはイサクの肩に掛けてあげた。
部屋の隅のごみ箱をのぞき込むと、ハンバーガーの包み紙が丸めて捨ててあった。
「イサク」わたしは彼女の耳もとでささやいた。「わたし起きてるから、このまま少し眠ったらどう」
渋るかと思いきや、よほど疲れ切っていたのか、彼女は肩を支えるわたしに従って大人しくベッドに横になった。
「あとで起こして」蚊の泣くような声で言う。
「うん」わたしは彼女の体にもう一枚の毛布も掛けてあげた。「おやすみ」
イサクが寝息を立て始めるのを見届けると、わたしは窓越しに川向うの我が家――まだ我が家と呼んでもいいよね――へ目を向けた。
居間と、ルータの部屋にだけ、明かりが点けられている。
彼は自室と居間を、いろんな荷物を抱えて行ったり来たりしている。
しばらくそのまま待っていると、彼の方もこちらに気付いて、カーテンの隙間から手を振ってくれた。わたしも返した。
それから、ふいに上階の様子が目に入った。今夜は、ラモーナの一家は全員が揃っているみたい。ほぼすべての部屋に
わたしは上着を脱ぎ、壁に掛けた。ちょうどその上の方に、わたしがこの手で描いた絵が飾ってある。天秤竜の森から望む、遥かな山並みの光景。我ながら、上手く空気感を捉えられていると思う。
わたしは深呼吸をする。
絵のなかを吹き渡る風で、胸を満たすように。
老師のおそばに歩み寄り、ルータが座っていたとおぼしき丸椅子に目を落とす。そこには、わたしが食堂で読んだのとおなじ朝刊が置いてある。院内の売店で買い求めたのだろう。彼に読んでもらおうと思って持ってきていたけれど、その必要はなかったみたい。彼も目を通したにちがいない。友人の晴れ舞台に関する記事を。
さっきまでイサクが座っていた椅子に、わたしは腰を下ろした。
しばらく息を潜めて、海底の遺跡のように深い静寂に沈む老師のお顔を、じっくりと見つめた。
淡い炎の色に染まる幾多の
わたしは両手で彼の左手を包み、そろりと持ち上げた。
なんて、なんて硬くて、細くて、冷たくて、骨ばった手。
巨大な鈍器で胸を思いきり殴りつけられたような衝撃を伴って、八十年ぶんにも及ぶ膨大な量の幸福な記憶が、一挙にわたしを襲った。
わたしは縋り付くように老師の手を握りしめ、自分の頬に強く押し当てた。
この大きな手に、かつては新鮮な血が流れ、豊かな肉があり、不断の温もりがあり、光輝く生気が満ちていた。
この手で何度も、何度も、幼いわたしたちを抱きかかえ、手を取り、あやし、導き、寝かしつけ、頭や頬や背を撫でてくれた。
そのすべてを思い出せはしないけれど、そのすべてを、わたしは生涯忘れない。
深く息を吸って、目を閉じた。
流れるな、とわたしは涙に命じた。
歯を食いしばり、舌が痺れてしまうほど強く、痛く、沈黙した。
そして、そっと目を開けた。
わたしの呼吸は、文字どおり完全に止まった。
老師が両目を開いて、わたしを見あげていた。
わたしにはわかった。
その瞬間、老師は薄れゆく意識のなかで、いっときすべての雲霧を払い除け、なにもかもを鮮明に思い出されたということが。
「リディア」
老師は舌の根もとあたりで、ささやかな音の振動を発した。
「はい、老師」その手を握ったまま、わたしはすぐさま応じた。「わたしです。ここにいます」
「絵をありがとう」老師は言われた。そして、ほほえまれた。「おまえの手は、綺麗だね」
わたしは声を上げて泣いた。こんなに泣きじゃくるのは、子供じゃなくなって以来、初めてのことだった。
再び見ると、もう老師はそこにおられなかった。
まだ息はある。
まだ心臓は動いている。
でも、まぶたは再び閉ざされ、二度と光は戻らない。
そのことが、わたしにははっきりと感じられた。
「ありがとうございました。老師」
わたしは心の限りを尽くして、彼の肩を抱き締めた。
そしてその額に、口付けをした。
背後でベッドの軋む音がして、その直後には、イサクがわたしの背中に覆いかぶさるように抱きついていた。彼女もまた、ためらいなく嗚咽していた。
もう、
行かないで、
も、
ここにいて、
も、
帰ってきて、
も、
なにもなかった。
ただ、ただ言葉にならない純粋な感謝だけが、ここにはあった。
泣き疲れて気を失ってしまうまで、わたしたちは夜通し涙を流した。
そして訣別の朝を迎えた。
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