27 冬の空洞
文字数 5,585文字
「さて。それじゃ行くとするかな」椅子から立ち上がったルータが、首にマフラーを巻きながら言った。「二人は今日はどうするんだ?」
並んでソファに座っていたイサクとわたしは、共に彼を見あげて肩をすくめた。
「別に」イサクが言った。
「まだなにも考えてないわ」わたしが続いた。
「そうか」うなずくと、彼はいつかわたしがあげた毛糸の帽子をかぶった。「僕は今日はどこかで伝報 を打ったあとは、図書館で一日過ごすつもりだ。夕方には戻るよ」
「わかったわ」
わたしが言った。イサクは返事をしない。もう顔を上げることもやめて、膝の上に広げた雑誌に退屈そうな視線を落としている。休日の朝で、この部屋も、街の外も、真綿 のような静けさに包まれている。次々と雑誌のページがめくられる音が、やけに誇張されてしゃりしゃりと響く。
「夕方にはまた三人でじいちゃんのところへ行こう」ルータが両手を上着のポケットに入れて言った。
「わかったわ」わたしは言った。
「うん」彼はうなずいた。「それじゃ……」
「行ってらっしゃい」下を向いたままイサクが言った。
彼はもう一度うなずいて、それ以上はなにも言わずに玄関のドアから出ていった。
この日は、あの病院での騒動があった日の翌日だった。
ルータは、テンシュテットと約束した食事会の日取りをどこかの伝報を借りて連絡するために出掛けたのだった。昨晩は青年に向かってあんなふうに言いはしたけど、本当のところは、わたしたちには当面やるべきことなんか一つもなくて、夜はだいたい暇だった。でもわたしたちはそれなりに忙しい宝石商で通ってるんだから、丸一晩くらいは予定を確認したり調整したりする間を要してしかるべきなのだ。今日から二日後の夜でどうかと提案するように、三人で話をまとめた。別に今夜か明日でもかまやしないんだけど、まぁ一応それっぽく間隔を空けることにしたわけだった。
「もう捨てたかと思ってたわ」言いながらわたしは手を伸ばして、テーブルから浮かせて運んだコーヒーカップをつかんだ。そしてひとくち飲んだ。「あの、彼から渡された、連絡先のメモ」
「あぁ……うん」イサクは寝巻の袖で目もとを擦ってあくびをする。「とっといたみたいだね」
わたしは首を少し傾けて、彼女が開いている雑誌をぼんやりと眺めた。最新のファッションを紹介する写真と記事が、何ページも途切れることなく続く。どれも何十年か前に流行したものと似ているような気がする。衰退と再評価が判で押したみたいにきっちりと繰り返される世界だ。
ふと、子供服の広告写真に目が留まる。
「ラモーナ、どうしてるかな」
ふいに連想されたその名をつぶやき、わたしは立ち上がって窓辺へ向かった。
今日は、青空と呼ぶには青が足らず、曇りと呼ぶには雲も足りない、どっちつかずの空模様だった。雨の気配も、雪の気配も、あるいは竜巻や突風や雷や地割れや巨大隕石落下の気配も、なにもない。まさに、ありとあらゆる特性を剥 ぎ取られた、冬の空洞ともいうべき一日だ。
アパルトマンの前庭には誰の姿もない。寒空の下、見当違いなほどに鮮やかな緑の樹々が、ただ物静かに佇んでいるばかり。風さえ吹いていない。白猫の姿もない。
「今日は世間も休日みたいだし、お父さんかお母さんがさすがに一緒にいるんじゃないの」雑誌を閉じてイサクが言った。
「それもそうね」
その時、呼び鈴が鳴った。
直感的に、今回は管理人のサラマノさんか、ラモーナのどちらかだろうという気がした。
わたしがドアを開けると、そこにはそのどちらもがいた。
「突然ごめんなさい」余所行 きの格好をしたサラマノさんが言った。左手には小ぶりのエナメル製の鞄を持ち、右手はラモーナの肩を抱いている。「ちょっとよろしいかしら」
「ええ」わたしはすんなりと応じる。「どうされました?」
彼女は説明した。
今日ラモーナは、久しぶりに父親と二人で公園へ出掛ける予定だったのだが、父親に緊急の用事ができてしまって、それが叶わなくなった。母親は朝から晩まで、年末の特別興行に向けての通し稽古のため戻らない。いつも来てくれる家政婦や家庭教師たちも、みんな家庭の都合で出て来られない。それで最後の砦 であるサラマノさんのところに連れてこられたのだけど、折しも今日に限って、彼女は遠方に住む姉夫婦と一年ぶりに会う日だというので……あとは割愛 。
「ごめいわくでは、ありませんか」
ラモーナが潤んだ瞳でわたしを見あげた。
「ぜ~んぜん」わたしはほほえみ、彼女の手を握った。「お姉ちゃんたちも暇してたんだ。こっちからお願いしたいくらいよ。ラモーナ、今日一日、わたしたちと一緒に遊んでくれる?」
涙をぐっとこらえて、少女は前髪が床に着くくらい深くお辞儀をした。
「もちろんです。よろこんで」
安堵の表情を浮かべたサラマノさんは、日暮れ前の帰宅を約束して階段を駆け下りていった。
「どこの公園に行くつもりだったの?」いつのまにかわたしの隣にやって来ていたイサクがたずねた。
「えっと、あの、旧市街のほうです。いつもは車でいきます。そこにはまわるお馬さんがあります」ラモーナがこたえる。
わたしは首をかしげる。「イサク、知ってる?」
彼女は首を振る。「でもすぐ見つかるよ、きっと」
わたしは改めてラモーナの服装を観察した。頭頂にぽんぽんの付いたフェルト生地の丸帽子、羽根綿の詰まったもこもこの青い上着、黒と白の水玉模様のタイツ。足首に毛皮飾りのついた丈の短いブーツ。長い黒髪はぴんと張った糸のようにまっすぐ垂れ、肌は相も変わらず真っ白できめ細やかで、殻を剥いたばかりの茹で卵みたいにつるつるしている。ちょっと泣いたのか、両目の縁 がほんのり赤い。くりっとした大きな黒い瞳が、まっすぐにわたしを見つめている。
「待っててね」わたしは言った。「お姉ちゃんたちも、あったかい格好に着替えるから」
はいと彼女はこたえ、おとなしく椅子に座って温かいココアを飲みながら、わたしたちが支度するのを興味深げに見物していた。
用意が整うと、街の地図を持って三人で出発した。
回転木馬があるというその公園は、旧市街の中心部にあった。
樹々も芝生もすっかり冬枯れしていて、それだけ見ると寒々しいけど、そんなことには気が向かないくらい多くの市民たちで賑わっている。温かい料理や飲み物を出す食堂、動物の形の風船を売る小屋、それに家族連れで込み合っているスケートリンクと、順番待ちの行列ができている回転木馬。
頬を子供らしい赤みで染めたラモーナは、わたしとイサクの手をぐいぐいと引っ張って、早く並びに行きましょうとせがんだ。周りを見渡すと、ラモーナと同年代の子たちはみんな、保護者や年長者に付き添われて一緒に乗っているみたいだった。
「ねぇ、ラモーナ」わたしは呼びかけた。「あのね、わたしこういうのすぐ酔っちゃう質 なの。だから、イサクお姉ちゃんと二人で乗ってくれる?」
「え」イサクが目を瞬 かせた。「あぁ、そういえばリディアって、そうだったっけ」
ラモーナは、そのうるうると輝く黒真珠のような眼 でもって、じっとイサクの顔色を窺った。まるで死活問題に直面しているみたいな、切実極まりない形相だ。
「……いいよ。行こう」
ふっと笑って、イサクが言った。
わたしは食堂の屋外席に座ってコーヒーを飲みながら、二人が行列に加わり、やがて一緒に一頭の木馬にまたがるのを、なんだか泣けてくるほど穏やかな心持ちで眺めた。
ぬいぐるみでも抱えるみたいにして、イサクが少女の体を背後から抱きしめた。ラモーナはぴょこんと突き出た馬の両耳を左右の手でしっかりと握り、熱く白い息を機関車のようにふうふうと吐き出している。
馬たちが動きだすと、少女の長い髪がふわふわと向かい風に吹き上げられ、それがイサクの顔いっぱいに絡みついた。わたしは可笑しくて、口もとをマフラーで隠して長いこと笑った。二、三周するうちに周りの景色に目をやる余裕が出てきたのか、二人してこちらに向かって手を振ってくれた。わたしも振り返した。
それからふと、今頃は街のどこかで一人で過ごしているはずのルータのことを考えた。
もう伝報は打ったのかしら。図書館に行くって言ってたっけ。でもその前に、お昼ご飯でも食べるかな。いや、彼のことだから、まっしぐらに書物のもとへ向かうかもしれない。ちゃんと暖かい服装してたっけ。体を冷やしていなければいいんだけど。
彼もここにいて、熱いコーヒーを飲みながら、くるくると回る妹と少女を眺めていたらよかったのに。
あるいは、彼も一緒に木馬に乗っていたらよかったのに。
彼に同性の友人がいたのは――と、わたしは前触れなく考え始めた――いったい、いつが最後だったろう。
少なくとも、60年、いや、70年以上、そんな関係になった相手はいなかったんじゃないかしら。一族の生き残りがわたしたちだけになってしまって、四人で家族のように暮らし始める前には、少しはそういう相手もいたはずよね。でも、それ以降は……
気が付くとわたしは、食堂の内外の席や、木馬の周りに集まっている人々のなかに、背の高い金髪の青年の姿を探していた。
「テンでいいよ、か……」
わたしはマフラーのなかでぽつりとつぶやいた。
テンシュテット・レノックス。
罪なき竜と森に暴虐を為す王国の、その中枢に関わる人物。
長き年月を経て再開された楽園探索を一任される、職業軍人。
血に染まりし聖なる森を蠅 のように嗅ぎまわり、挙句わたしたちの愛した家の残骸を無邪気に拾い集めてみせた、愚かな青年。
そう、愚かなんだ、とわたしは思う。愚かで、そして哀れだ。
たった一度食事を共にしただけのわたしにだって、痛いほど明白なんだもの。彼は、彼に課せられたこの一連の任務を、決して誇りに思っていない。
まぁ、悪い奴じゃないんだけどね。と言ったのはイサクだ。
昨夜、アパルトマンの部屋で会食の日取りを話し合う席で、彼女はそう言った。わたしもルータも、それについては異論はなかった。でも続けて、彼女はこうも言った。でも、悪い奴だけどね。
やはりこれについても、異論はなかった。
いったいなにが――と、わたしは考える。というより、考え込んでしまう――いったい、この世のいかなる摂理が、自分自身の望まないことに手を染めなくては生きていかれないように、わたしたちを宿命付けているのだろうか。
とりとめもなくそんなことを思案しているうちに、すっかり満足した様子の二人が木馬を降りて戻ってきた。その後は食堂の屋内席に移り、グリルした鶏のハンバーガーや具沢山のクラムチャウダーの昼食を取った。場違いなほど完璧な作法に則 った所作でスープを飲むラモーナに対して、わたしはちょっと怖気 付きながらたずねた。
「こないだのビスケットやチョコレート、おいしかった?」
「はい。とっても」少女は口もとをナプキンで押さえ、両目を細めてこたえた。「そのせつは、ありがとうございました」
「いいんだよ」イサクが苦笑する。「どうせあたしたちだけじゃ食べ切れなかったし」
「でも、ラモーナ」わたしは少し身を乗り出した。「あんなふうに誰かから物をもらって帰って、お父さんやお母さんに怒られたりはしないの?」
少女は首を振った。「見るからにへんなものだったり、あやしかったりしないかぎり、きちんとお礼をおつたえしさえすれば、もらえるものはもらっておくのが……えっと……くされ」
「へ?」わたしとイサクは目を点にした。
「いえ、ちがいます」耳の先まで真っ赤にして、ラモーナは訂正する。「あの、え~っと、あとがくされ……あとでくされ……」
「後腐 れ?」イサクが助け舟を出す。
「そうです!」喉に刺さった魚の骨が抜けたみたいな顔をして、少女は大きくうなずく。「そう、あとぐされがなくていいのよって、母さまがよく言います」
わたしとイサクは顔を見あわせ、二人してぽかんとした。その様子を見て、ラモーナは早口で補足した。
「母さまはオペラで歌を歌うので、しょっちゅうたくさんの人からおくりものをいただくんです」
納得がいったわたしたちは、なるほどとうなずいた。
「いちいちことわったりえんりょしたりするのは、くれる人にとっても、もらう人にとっても、ただのほねおりぞん、なんだそうです」
骨折り損。
「……たしかに、それはまぁ、そうかもね」イサクが妙に感心しながら、肩をすくめる。
「そう。ならよかったわ」わたしは吐息をついた。
それからふと、窓の外の風船屋さんに目が留まったわたしは、思いついて少女に提案した。
「じゃあせっかくだから、初めて一緒にお出掛けした記念に、あなたに風船をプレゼントさせてくれる?」
手にしていたナプキンを両手でぎゅっと握りしめ、少女は大輪の笑顔を咲かせた。
それで食事の後は三人でそこを訪ねた。ラモーナは猫の形をした白い風船に即決した。店主はぷかぷかと浮かぶ風船の紐 を少女の手首に丁寧に結び付けてくれた。
「なんかケルビーノに似てるね」イサクが指摘した。
「さすがにあの子ほど綺麗な目はしてないけど」どぎつい紫色の塗料で描かれた二つの目玉と睨めっこして、わたしは言った。
「これだってきれいです」ラモーナは声を弾ませ、輝くまなざしでわたしたちを見あげた。「お二人とも、ほんとうにありがとうございます。ずっとたいせつにします。……あぁ、いつまでもしぼんでしまわなければいいのに」
なぜかその一言に静かに痛く胸を打たれて、わたしは思わず彼女の体を後ろから抱きしめた。
「しっかりつかまえておくのよ。お空に逃げていっちゃわないように」
「はい」少女は小さな手のひらで、力いっぱい紐を握りしめた。
ただの空洞みたいだった冬の一日は、こんなふうにしてささやかな温もりで満たされていった。
並んでソファに座っていたイサクとわたしは、共に彼を見あげて肩をすくめた。
「別に」イサクが言った。
「まだなにも考えてないわ」わたしが続いた。
「そうか」うなずくと、彼はいつかわたしがあげた毛糸の帽子をかぶった。「僕は今日はどこかで
「わかったわ」
わたしが言った。イサクは返事をしない。もう顔を上げることもやめて、膝の上に広げた雑誌に退屈そうな視線を落としている。休日の朝で、この部屋も、街の外も、
「夕方にはまた三人でじいちゃんのところへ行こう」ルータが両手を上着のポケットに入れて言った。
「わかったわ」わたしは言った。
「うん」彼はうなずいた。「それじゃ……」
「行ってらっしゃい」下を向いたままイサクが言った。
彼はもう一度うなずいて、それ以上はなにも言わずに玄関のドアから出ていった。
この日は、あの病院での騒動があった日の翌日だった。
ルータは、テンシュテットと約束した食事会の日取りをどこかの伝報を借りて連絡するために出掛けたのだった。昨晩は青年に向かってあんなふうに言いはしたけど、本当のところは、わたしたちには当面やるべきことなんか一つもなくて、夜はだいたい暇だった。でもわたしたちはそれなりに忙しい宝石商で通ってるんだから、丸一晩くらいは予定を確認したり調整したりする間を要してしかるべきなのだ。今日から二日後の夜でどうかと提案するように、三人で話をまとめた。別に今夜か明日でもかまやしないんだけど、まぁ一応それっぽく間隔を空けることにしたわけだった。
「もう捨てたかと思ってたわ」言いながらわたしは手を伸ばして、テーブルから浮かせて運んだコーヒーカップをつかんだ。そしてひとくち飲んだ。「あの、彼から渡された、連絡先のメモ」
「あぁ……うん」イサクは寝巻の袖で目もとを擦ってあくびをする。「とっといたみたいだね」
わたしは首を少し傾けて、彼女が開いている雑誌をぼんやりと眺めた。最新のファッションを紹介する写真と記事が、何ページも途切れることなく続く。どれも何十年か前に流行したものと似ているような気がする。衰退と再評価が判で押したみたいにきっちりと繰り返される世界だ。
ふと、子供服の広告写真に目が留まる。
「ラモーナ、どうしてるかな」
ふいに連想されたその名をつぶやき、わたしは立ち上がって窓辺へ向かった。
今日は、青空と呼ぶには青が足らず、曇りと呼ぶには雲も足りない、どっちつかずの空模様だった。雨の気配も、雪の気配も、あるいは竜巻や突風や雷や地割れや巨大隕石落下の気配も、なにもない。まさに、ありとあらゆる特性を
アパルトマンの前庭には誰の姿もない。寒空の下、見当違いなほどに鮮やかな緑の樹々が、ただ物静かに佇んでいるばかり。風さえ吹いていない。白猫の姿もない。
「今日は世間も休日みたいだし、お父さんかお母さんがさすがに一緒にいるんじゃないの」雑誌を閉じてイサクが言った。
「それもそうね」
その時、呼び鈴が鳴った。
直感的に、今回は管理人のサラマノさんか、ラモーナのどちらかだろうという気がした。
わたしがドアを開けると、そこにはそのどちらもがいた。
「突然ごめんなさい」
「ええ」わたしはすんなりと応じる。「どうされました?」
彼女は説明した。
今日ラモーナは、久しぶりに父親と二人で公園へ出掛ける予定だったのだが、父親に緊急の用事ができてしまって、それが叶わなくなった。母親は朝から晩まで、年末の特別興行に向けての通し稽古のため戻らない。いつも来てくれる家政婦や家庭教師たちも、みんな家庭の都合で出て来られない。それで最後の
「ごめいわくでは、ありませんか」
ラモーナが潤んだ瞳でわたしを見あげた。
「ぜ~んぜん」わたしはほほえみ、彼女の手を握った。「お姉ちゃんたちも暇してたんだ。こっちからお願いしたいくらいよ。ラモーナ、今日一日、わたしたちと一緒に遊んでくれる?」
涙をぐっとこらえて、少女は前髪が床に着くくらい深くお辞儀をした。
「もちろんです。よろこんで」
安堵の表情を浮かべたサラマノさんは、日暮れ前の帰宅を約束して階段を駆け下りていった。
「どこの公園に行くつもりだったの?」いつのまにかわたしの隣にやって来ていたイサクがたずねた。
「えっと、あの、旧市街のほうです。いつもは車でいきます。そこにはまわるお馬さんがあります」ラモーナがこたえる。
わたしは首をかしげる。「イサク、知ってる?」
彼女は首を振る。「でもすぐ見つかるよ、きっと」
わたしは改めてラモーナの服装を観察した。頭頂にぽんぽんの付いたフェルト生地の丸帽子、羽根綿の詰まったもこもこの青い上着、黒と白の水玉模様のタイツ。足首に毛皮飾りのついた丈の短いブーツ。長い黒髪はぴんと張った糸のようにまっすぐ垂れ、肌は相も変わらず真っ白できめ細やかで、殻を剥いたばかりの茹で卵みたいにつるつるしている。ちょっと泣いたのか、両目の
「待っててね」わたしは言った。「お姉ちゃんたちも、あったかい格好に着替えるから」
はいと彼女はこたえ、おとなしく椅子に座って温かいココアを飲みながら、わたしたちが支度するのを興味深げに見物していた。
用意が整うと、街の地図を持って三人で出発した。
回転木馬があるというその公園は、旧市街の中心部にあった。
樹々も芝生もすっかり冬枯れしていて、それだけ見ると寒々しいけど、そんなことには気が向かないくらい多くの市民たちで賑わっている。温かい料理や飲み物を出す食堂、動物の形の風船を売る小屋、それに家族連れで込み合っているスケートリンクと、順番待ちの行列ができている回転木馬。
頬を子供らしい赤みで染めたラモーナは、わたしとイサクの手をぐいぐいと引っ張って、早く並びに行きましょうとせがんだ。周りを見渡すと、ラモーナと同年代の子たちはみんな、保護者や年長者に付き添われて一緒に乗っているみたいだった。
「ねぇ、ラモーナ」わたしは呼びかけた。「あのね、わたしこういうのすぐ酔っちゃう
「え」イサクが目を
ラモーナは、そのうるうると輝く黒真珠のような
「……いいよ。行こう」
ふっと笑って、イサクが言った。
わたしは食堂の屋外席に座ってコーヒーを飲みながら、二人が行列に加わり、やがて一緒に一頭の木馬にまたがるのを、なんだか泣けてくるほど穏やかな心持ちで眺めた。
ぬいぐるみでも抱えるみたいにして、イサクが少女の体を背後から抱きしめた。ラモーナはぴょこんと突き出た馬の両耳を左右の手でしっかりと握り、熱く白い息を機関車のようにふうふうと吐き出している。
馬たちが動きだすと、少女の長い髪がふわふわと向かい風に吹き上げられ、それがイサクの顔いっぱいに絡みついた。わたしは可笑しくて、口もとをマフラーで隠して長いこと笑った。二、三周するうちに周りの景色に目をやる余裕が出てきたのか、二人してこちらに向かって手を振ってくれた。わたしも振り返した。
それからふと、今頃は街のどこかで一人で過ごしているはずのルータのことを考えた。
もう伝報は打ったのかしら。図書館に行くって言ってたっけ。でもその前に、お昼ご飯でも食べるかな。いや、彼のことだから、まっしぐらに書物のもとへ向かうかもしれない。ちゃんと暖かい服装してたっけ。体を冷やしていなければいいんだけど。
彼もここにいて、熱いコーヒーを飲みながら、くるくると回る妹と少女を眺めていたらよかったのに。
あるいは、彼も一緒に木馬に乗っていたらよかったのに。
彼に同性の友人がいたのは――と、わたしは前触れなく考え始めた――いったい、いつが最後だったろう。
少なくとも、60年、いや、70年以上、そんな関係になった相手はいなかったんじゃないかしら。一族の生き残りがわたしたちだけになってしまって、四人で家族のように暮らし始める前には、少しはそういう相手もいたはずよね。でも、それ以降は……
気が付くとわたしは、食堂の内外の席や、木馬の周りに集まっている人々のなかに、背の高い金髪の青年の姿を探していた。
「テンでいいよ、か……」
わたしはマフラーのなかでぽつりとつぶやいた。
テンシュテット・レノックス。
罪なき竜と森に暴虐を為す王国の、その中枢に関わる人物。
長き年月を経て再開された楽園探索を一任される、職業軍人。
血に染まりし聖なる森を
そう、愚かなんだ、とわたしは思う。愚かで、そして哀れだ。
たった一度食事を共にしただけのわたしにだって、痛いほど明白なんだもの。彼は、彼に課せられたこの一連の任務を、決して誇りに思っていない。
まぁ、悪い奴じゃないんだけどね。と言ったのはイサクだ。
昨夜、アパルトマンの部屋で会食の日取りを話し合う席で、彼女はそう言った。わたしもルータも、それについては異論はなかった。でも続けて、彼女はこうも言った。でも、悪い奴だけどね。
やはりこれについても、異論はなかった。
いったいなにが――と、わたしは考える。というより、考え込んでしまう――いったい、この世のいかなる摂理が、自分自身の望まないことに手を染めなくては生きていかれないように、わたしたちを宿命付けているのだろうか。
とりとめもなくそんなことを思案しているうちに、すっかり満足した様子の二人が木馬を降りて戻ってきた。その後は食堂の屋内席に移り、グリルした鶏のハンバーガーや具沢山のクラムチャウダーの昼食を取った。場違いなほど完璧な作法に
「こないだのビスケットやチョコレート、おいしかった?」
「はい。とっても」少女は口もとをナプキンで押さえ、両目を細めてこたえた。「そのせつは、ありがとうございました」
「いいんだよ」イサクが苦笑する。「どうせあたしたちだけじゃ食べ切れなかったし」
「でも、ラモーナ」わたしは少し身を乗り出した。「あんなふうに誰かから物をもらって帰って、お父さんやお母さんに怒られたりはしないの?」
少女は首を振った。「見るからにへんなものだったり、あやしかったりしないかぎり、きちんとお礼をおつたえしさえすれば、もらえるものはもらっておくのが……えっと……くされ」
「へ?」わたしとイサクは目を点にした。
「いえ、ちがいます」耳の先まで真っ赤にして、ラモーナは訂正する。「あの、え~っと、あとがくされ……あとでくされ……」
「
「そうです!」喉に刺さった魚の骨が抜けたみたいな顔をして、少女は大きくうなずく。「そう、あとぐされがなくていいのよって、母さまがよく言います」
わたしとイサクは顔を見あわせ、二人してぽかんとした。その様子を見て、ラモーナは早口で補足した。
「母さまはオペラで歌を歌うので、しょっちゅうたくさんの人からおくりものをいただくんです」
納得がいったわたしたちは、なるほどとうなずいた。
「いちいちことわったりえんりょしたりするのは、くれる人にとっても、もらう人にとっても、ただのほねおりぞん、なんだそうです」
骨折り損。
「……たしかに、それはまぁ、そうかもね」イサクが妙に感心しながら、肩をすくめる。
「そう。ならよかったわ」わたしは吐息をついた。
それからふと、窓の外の風船屋さんに目が留まったわたしは、思いついて少女に提案した。
「じゃあせっかくだから、初めて一緒にお出掛けした記念に、あなたに風船をプレゼントさせてくれる?」
手にしていたナプキンを両手でぎゅっと握りしめ、少女は大輪の笑顔を咲かせた。
それで食事の後は三人でそこを訪ねた。ラモーナは猫の形をした白い風船に即決した。店主はぷかぷかと浮かぶ風船の
「なんかケルビーノに似てるね」イサクが指摘した。
「さすがにあの子ほど綺麗な目はしてないけど」どぎつい紫色の塗料で描かれた二つの目玉と睨めっこして、わたしは言った。
「これだってきれいです」ラモーナは声を弾ませ、輝くまなざしでわたしたちを見あげた。「お二人とも、ほんとうにありがとうございます。ずっとたいせつにします。……あぁ、いつまでもしぼんでしまわなければいいのに」
なぜかその一言に静かに痛く胸を打たれて、わたしは思わず彼女の体を後ろから抱きしめた。
「しっかりつかまえておくのよ。お空に逃げていっちゃわないように」
「はい」少女は小さな手のひらで、力いっぱい紐を握りしめた。
ただの空洞みたいだった冬の一日は、こんなふうにしてささやかな温もりで満たされていった。
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