13 わたしの心を、ここに
文字数 6,467文字
その夜はわたしたちと一緒にシュロモ先生もハスキルの家に泊まった。陽 が昇ったら自分の車に老師を乗せてそのまま病院へ連れていくというのだった。わたしたちに異存はなかった。むしろ心からありがたかった。
用意の良いことに、先生は寝袋と寝巻、それに愛用のナイトキャップまで持参していた。早業 でも披露するみたいに瞬時に寝支度を整えると、彼は寝袋にすっぽりと潜り込んで、まるで浜辺に打ち上げられた鯱 みたいに――あるいは本物の鉄製の樽 みたいに――居間の片隅にごろんと転がった。そして、なにかあったら遠慮なく起こすように、と一言だけ告げると、十秒後には品の良い寝息を立て始めた。
唖然とするわたしたちをよそに、ハスキルとモニクは笑いをこらえながら部屋の環境を整えてくれた。
隙間風を追い出すために、すべての雨戸が締め切られた。カウチの上に毛布を何枚か積み重ねて、即席の寝床がこしらえられた。そこにイサクとわたしが、二人で一枚の毛布にくるまって横になった。ルータは家主のおばあさんの安楽椅子をお借りした。ハスキルは二階の自分の部屋に戻っていった。モニクは、どうやって夜を明かしたのか、よくわからない。少女がおやすみを言って自室へ上がっていった直後、階段の脇に椅子を運んでそこに腰をおろし、なにかの書物を読み始めたところまでは、覚えてる。でもそのあとは、なにも記憶に残っていない。もしかしたら、椅子に座ったまま眠ったのかもしれない。彼女がそうする姿は、容易に想像できた。なにしろ彼女は、かつて歴戦の傭兵だったというのだから。
横になった途端、わたしの意識はまるで泥沼に浮かべられた鉛玉 のように、ずぶずぶと暗い底に向かって沈んでいった。まぶたを閉じる寸前に、背板を倒した椅子に横たわるルータと目が合った。彼はにこりとほほえみ、うなずいた。わたしもそうした。
わたしの腕のなかでは、イサクがもう昏々 と眠り込んでいた。しっとりとした肌の温もりと、慎ましやかな心臓の鼓動が、わたしの心を束の間の安らぎの奥地へ、誘 ってくれた。……
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
……夢のなかでわたしは、今はもうなくなってしまったあの森の家に、モニクとハスキル、それにシュロモ先生を、客人として招待していた。クレー老師も元気に立ち上がって、新しい友人たちを出迎えた。
食料を蓄えておく木箱を開けると、どういうわけか、そこにはこれまで見たこともない黄金色の果実がぎっしり詰まっていた。一つ一つが見事なまでの完全な球体で、両手で抱えて持ち上げるのがやっと、というくらいに大きくて重い。
でも夢のなかのわたしは、特に疑問を抱くこともなくその果実を次々と取り出し、剣のように巨大なナイフで片っ端からざくざくと切り分けていった。
果肉は血よりも濃く太陽より明るい真紅の一色で、柔らかいけれど歯ざわりが爽やかで、うっとりするほど甘く瑞々 しくて、わたしたちはみんなでそれを夢中になって食べた。
遠慮をしたり、恥ずかしがったり、作法を気にしたりすることもなく、誰もが素手でわしづかみにしてむしゃむしゃと果肉に顔を埋 めた。そうしながら、口々に冗談を言い合い、その一つ一つに全員で大笑いしながら、わたしたちはたくさんの果実を平らげた。
「あぁ、おいしかった」満足感でいっぱいになったお腹を抱えて、わたしは言った。
「おいしかったね」テーブルの向かい側に座っているクレー老師が、口もとの髭をごしごしと拭きながら笑った。「みんな、どうもありがとう」……
目が覚めた時、わたしはなぜだかひどく泣いていた。頬に触れているイサクの髪の毛が、雨に打たれたみたいに濡れて小さな束になっていた。
いったん目は開 きはしたのだけど、まだ恐ろしく眠たくて、体は相変わらず鉛みたいに重たくて、今再び閉じてしまったまぶたをもう一度開くことさえできそうにない。
今、何時なんだろう。
夜明けは、まだなのかな。
老師は、大丈夫かしら。
モニクは、結局寝たのかな。
ルータは、寒くないかしら……
いろいろな思念が一挙に押し寄せてきて、そしてまた一挙にどこかへ押し流されていった。
真っ暗闇のなかで、わたしはもう一度眠りへと向かった。今の今まで体験していたばかりなのに、もうすでに忘れ去りつつあった夢の情景の残影を、そっと搔き集めながら。
ごめんね。
ありがとう。
わたしは声を出さずに言った。
もう二度と帰ってはこない、自分のこの手で砕いて埋めてしまった、我が家に向けて。
涙はいつ止まったのかわからない。
その前にわたしはまた別の夢に落ちていっていたから。
今度の夢はなにもない、ただの無だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜が明ける頃、雨もほとんど上がった。まだ少しぱらついてはいたけれど、雨自身も降っているのかどうかきちんと自覚できていないような、しめやかな降り方だった。
わたしたちが起き出す時に、クレー老師もいっとき意識を取り戻した。容態はいくらか安定しているように見えた。でもやっぱり体力の消耗は甚 だしく、ろくに口を動かすことさえできないようだった。これまでの経緯 を説明するルータの声にじっと耳を傾けると、ほんのしるし程度に浅くうなずいて、そのまま再び眠りに入ってしまった。
起き抜けとは思えないほど活力全開のシュロモ先生と、最後まで寝たのかどうかわからずじまいだったモニクとで、先生の愛車の後部席にクレー老師の身を運んでくれた。
全身に雨粒をまとった純白の高級車は、まるでどこかの貴族が所有するヨットかなにかみたいに、緑草 の海の上で壮麗に輝いていた。
見送りに出てきてくれたハスキルとモニクに厚く感謝を伝えると、ルータは緊張した面持ちで助手席のドアに手を掛けた。後ほど市内で合流することをわたしとイサクに約束して、彼は祖父に付き添って一足先に出発した。
走り去る車の後ろ姿と、車窓から突き出されて大きく振られる手を、こちらも手を振り返して最後まで見送った。
取り残されてしまったようにぽつんと立ち尽くすわたしとイサクを、ハスキルが朝食に招待してくれた。
とてもありがたかったし、たしかにすごくお腹も減ってはいたのだけど、やはりわたしたちは丁重に辞去させてもらった。もうこれ以上の厚意を賜 るのは、あまりにも身に余ると感じたから。しかし少女は寂しがった。きっとわたしたちと一緒に食卓を囲むのを、楽しみにしていてくれたんだと思う。少し胸が痛んだけれど、しばらく自分たちだけで話し合いをしなくてはいけないし、それにおばあさまがお目覚めになられた時に驚かせたくはないですし云々 、とわたしは伝えた。彼女は素直に了解してくれた。そして傘を差すモニクに肩を抱かれて、家へ戻っていった。
その折に、わたしはモニクに馬車を呼んでもらうようお願いした。彼女は黙ってうなずき、少女を家に送り届けると、自分はすぐに工場 へと向かった。伝報を打つ機器が置かれている事務室は工場の玄関のすぐ隣にあり、彼女はそのなかから窓越しにわたしたちの姿を視界に収めたまま、手早く交信をおこなった。それが済むと玄関先から大きな声で簡潔に告げた。
「ここで待ってな。じきに来る」
「ありがとうございます」わたしとイサクは声を揃えた。
広場に二人きりになると、わたしたちは家の裏手に置いておいた荷車を引いて、ここの敷地の正門が据えられた垣根の方へ、とぼとぼと歩いていった。
霧吹きで散布されるような小雨は、まだ降り続いていた。けれどわたしは、そしてきっとイサクも、そんなものは少しも気にならなかった。凍てつく夜の雨に散々 打たれた記憶が、まだ骨身の芯までまざまざと残っていた。あれに比べれば、この程度の雨は存在しないに等しい。
「見て」
ふいにイサクが遠くを指差した。
それは、東の空を示していた。
天を隙間なく覆う灰色の雲の表面に、鋭いひび割れが生じたところだった。
そして、割れた箇所を点検する人が上から照明を当てでもしたかのように、そこから強烈な光線が射し込んできた。
息を呑むほど透き通った、白金の光だった。
宇宙の彼方の穢 れなき場所で生まれ、果てしのない暗黒の空間を貫き届けられる、まさに恵みの光明だ。
この瞬間の到来を待ち侘びていた地上の鳥たちが、一斉に夜明けの歌を歌い始めた。夜闇のなかでは影の国の亡者のように見えた雑木林の樹々 も、生まれ変わったかのように青々とした煌めきを放ち始めた。
やがて、雲のことごとくが去り、愛すべき青空が帰還した。
どちらからともなく、わたしとイサクは互いの手を取りあった。そして一緒に目を細めて、東の地平線に見入った。
太陽って、こんなにも温かかったかしら。
そう思わずにはいられなかった。
隣を見やると、イサクはまるで生まれて初めて蜂蜜を舐 めた幼子 のような表情を浮かべて、一心不乱に朝焼けの光を味わっていた。わたしと目が合うと、ほんの一瞬照れたように唇を震わせたけれど、すぐに飾らない笑顔を見せてくれた。わたしも笑った。笑いながら、繋いだ手をぎゅうと握りしめた。
「ありがとう、イサク」わたしは言った。
「なにが」
「あなたがここに導いてくれたのよ」
ぽかんとした顔で、イサクは青空を仰いだ。そしてふと振り返り、礼拝堂の屋根を見あげた。そこには、夜雨 の最中 に彼女が見出した祈りの紋章が、朝陽を浴びて燦然と輝いている。
「あたしじゃない」イサクはぽつりと言った。「きっと、導いてくれたのは、イーノの神さま」
わたしは空とおなじ色の彼女の瞳を見つめて、深くうなずいた。
その時、わたしたちの背後から、なにかが軋むような物音が聴こえた。
ハスキルの家のドアが開かれる音だった。
ひょこっと外へ飛び出してきた少女は、まだ寝巻姿のままで、その腕に籐 で編まれたバスケットを抱えてわたしたちのもとへ駆けつけた。
「ハスキルさん」わたしはとっさに呼びかけた。同時に、少女の寝巻の裾に泥が跳ねかかるのを目にした。「あぁ、いけません。服が――」
「あの!」
少女はわたしの声が耳に入っていない様子だった。泥もまったく目に入っていなかった。わたしたちの目の前で急停止すると、いそいそと籠を開けて、なかから布巾 で包まれたなにかを取り出してわたしの手に持たせた。
「これは……?」ほかほかと熱を帯びているそれをそっと持ち上げて、わたしは首を捻った。
「サンドイッチです」少女は息を切らせながら言った。そしてぐいっと眼鏡の位置を直して、にっこり笑った。「よかったら、道中 召し上がってください。大急ぎで作ったけど、わたしのとっておきなんです」
わたしとイサクは顔を見あわせた。これは、さすがに遠慮できない。こんな素敵なものを断るなんてこと、いったい誰にできるだろう。
「なにからなにまで、本当にありがとう」
わたしは言いながら、胸にサンドイッチの包みを抱きしめた。まるで生まれたばかりの仔猫でも抱くように。それは、とても温かった。
「いい匂い」イサクが鼻を膨らませた。「おいしそう。あとで、いただくね」
少女は満足げにうなずいた。
かと思ったら、急に目を伏せた。
「……どうかしましたか?」わたしはたずねた。
少女は再び顔を上げて、じっとわたしの目をのぞき込んだ。
「ちょっと変なことをおたずねしますが……」少女は遠慮がちに口を開いた。「もしかしてあなたは、絵を描かれるのではありませんか」
「え?」わたしは目を丸くした。「絵って、あの、描く絵のことですか?」
「はい」少女はキャンバスの上で筆を動かす仕草をする。「この、描く絵です」
「ええ、はい。わたしはよく絵を描きます」つられてわたしもちょこちょこと手を振りつつ、うなずいた。「でも、どうして?」
「それ」少女はわたしの臍 のあたりを指し示した。
わたしとイサクは腰を折り曲げてその部分を注視した。今わたしは、質素な緑色のセーターに茶色のジャケットを羽織っていた。それに太い革のベルトを腰に巻いていたので、その金属製のバックルに彫られた模様が少し目を引きはするけれど、取り立てて変わったところは見あたらない。
「なにかありますか?」わたしは首をかしげた。
ハスキルはふっと口もとを綻 ばせ、今度は直接その指先でわたしの臍を突っついた。
「ここです、ここ」
「え……あっ」
少女の指が触れているところに、干し葡萄 一粒ぶんくらいの大きさの、服の生地の緑よりほんのわずかに明るい緑色の染みがあった。これはたしかに、絵の具が付着した跡だ。いつの間に着いたのだろう。
「よく見えたね、こんなの」イサクが感心した。
「ほんと」わたしも同意した。「今の今まで気付きもしませんでした。素晴らしい観察力をお持ちですね、ハスキルさんは」
少女は照れくさそうに、鼻の頭をちょこっと掻 いた。
「もしかして、あなたも絵を描かれるんですか」わたしはたずねた。
途端に目を輝かせて、少女は勢いよく首を縦に振った。
「大好きなんです、絵を描くのが。小さい頃から」
「じゃあ大きくなったら画家になるの?」イサクがたずねた。
少女はほんのわずかにうつむいて、思慮深げな吐息をついた。
「そうですね、はい……なれたらいいなぁ、と思います。でも……」少女は息を吸い込みながら、ゆっくりと顔を上げる。「でも、父さんや母さんみたいに、子供たちを教えたり、困っている人を助けたりする人にも、なりたいんです」
「全部やったらいいじゃない」イサクが当然のことのように言った。
「へっ?」少女は目を点にした。「全部……?」
「そうだね」わたしも大いに賛同した。「ハスキルさんなら、きっと全部やっていけます。心に描いた全部の夢を、みんな叶えられますよ」
次の瞬間、まったく思いがけないことに、少女の両の瞳から一滴ずつ、真珠のような涙が零れ落ちた。
「そうでしょうか」少女は微笑した。「そうなったら、いいなぁ」
イサクの手にサンドイッチの包みを託すと、わたしはしゃがみ込んで少女の体を抱きしめた。
艶々 とした絹のような髪が、わたしの頬にかかった。とても優しい香りがした。花のような、蜜のような、遠い昔にどこか懐かしい場所で一度きり浴びた風のような、そういう香り。体はぽかぽかと温かく、肌は綿のように柔らかく、そしてすべてが潤いを湛 えていて、新鮮な生命 のぬくもりに満たされている。この小さな体に、美しく大きな夢と希望の数々が、たっぷりと詰まっているのだ。
ねぇ、ハスキルさん。
わたしは心のなかで語りかけた。
どんなに長く、永 く生きたって、心ってちっとも頑丈にならないし、成熟もしてくれないんだ。いつまでも迷うし、傷つくし、怖いし、それどころか、生きれば生きるほど、悲しみも寂しさも増していく。耐えられないほど苦しいことだって、次から次へと襲ってくる。なにもかもなげうって、逃げ出してしまいたくなることも、一度や二度じゃないわ。……けれど。けれど、それでも――
「どうか、あなたの夢が永遠に輝きますように」わたしは少女の耳もとで言った。背中に回された細い二本の腕に、きゅっと力が込められるのを感じながら。「そして、あなたとあなたの子孫たちが、未来永劫、幸福でありますように。あなたがわたしたちに注いでくれた優しさや真心 が、おなじようにあなたにも、世界じゅうから注がれますように」
ゆっくりと体を離すと、わたしはまだ少女の肩に両手を置いたまま、彼女の太陽みたいな瞳のなかに祝福の息を吹き込むようにして、告げた。
「わたしの名前は、リディア。わたしの心を、ここに残していきます。あなたとあなたの愛する人たちを、いつまでもお護りするように」
「ありがとう」ハスキルはほほえんだ。宇宙が閉じてしまったあともこれだけはずっと残り続けるだろうと思われるほどの、完璧な笑顔だった。「わたしもずっと、リディアさんたちのご無事をお祈りしています。どうかみなさんに、イーノのご加護がありますように」
やがて迎えの馬車が来た。
用意の良いことに、先生は寝袋と寝巻、それに愛用のナイトキャップまで持参していた。
唖然とするわたしたちをよそに、ハスキルとモニクは笑いをこらえながら部屋の環境を整えてくれた。
隙間風を追い出すために、すべての雨戸が締め切られた。カウチの上に毛布を何枚か積み重ねて、即席の寝床がこしらえられた。そこにイサクとわたしが、二人で一枚の毛布にくるまって横になった。ルータは家主のおばあさんの安楽椅子をお借りした。ハスキルは二階の自分の部屋に戻っていった。モニクは、どうやって夜を明かしたのか、よくわからない。少女がおやすみを言って自室へ上がっていった直後、階段の脇に椅子を運んでそこに腰をおろし、なにかの書物を読み始めたところまでは、覚えてる。でもそのあとは、なにも記憶に残っていない。もしかしたら、椅子に座ったまま眠ったのかもしれない。彼女がそうする姿は、容易に想像できた。なにしろ彼女は、かつて歴戦の傭兵だったというのだから。
横になった途端、わたしの意識はまるで泥沼に浮かべられた
わたしの腕のなかでは、イサクがもう
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
……夢のなかでわたしは、今はもうなくなってしまったあの森の家に、モニクとハスキル、それにシュロモ先生を、客人として招待していた。クレー老師も元気に立ち上がって、新しい友人たちを出迎えた。
食料を蓄えておく木箱を開けると、どういうわけか、そこにはこれまで見たこともない黄金色の果実がぎっしり詰まっていた。一つ一つが見事なまでの完全な球体で、両手で抱えて持ち上げるのがやっと、というくらいに大きくて重い。
でも夢のなかのわたしは、特に疑問を抱くこともなくその果実を次々と取り出し、剣のように巨大なナイフで片っ端からざくざくと切り分けていった。
果肉は血よりも濃く太陽より明るい真紅の一色で、柔らかいけれど歯ざわりが爽やかで、うっとりするほど甘く
遠慮をしたり、恥ずかしがったり、作法を気にしたりすることもなく、誰もが素手でわしづかみにしてむしゃむしゃと果肉に顔を
「あぁ、おいしかった」満足感でいっぱいになったお腹を抱えて、わたしは言った。
「おいしかったね」テーブルの向かい側に座っているクレー老師が、口もとの髭をごしごしと拭きながら笑った。「みんな、どうもありがとう」……
目が覚めた時、わたしはなぜだかひどく泣いていた。頬に触れているイサクの髪の毛が、雨に打たれたみたいに濡れて小さな束になっていた。
いったん目は
今、何時なんだろう。
夜明けは、まだなのかな。
老師は、大丈夫かしら。
モニクは、結局寝たのかな。
ルータは、寒くないかしら……
いろいろな思念が一挙に押し寄せてきて、そしてまた一挙にどこかへ押し流されていった。
真っ暗闇のなかで、わたしはもう一度眠りへと向かった。今の今まで体験していたばかりなのに、もうすでに忘れ去りつつあった夢の情景の残影を、そっと搔き集めながら。
ごめんね。
ありがとう。
わたしは声を出さずに言った。
もう二度と帰ってはこない、自分のこの手で砕いて埋めてしまった、我が家に向けて。
涙はいつ止まったのかわからない。
その前にわたしはまた別の夢に落ちていっていたから。
今度の夢はなにもない、ただの無だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜が明ける頃、雨もほとんど上がった。まだ少しぱらついてはいたけれど、雨自身も降っているのかどうかきちんと自覚できていないような、しめやかな降り方だった。
わたしたちが起き出す時に、クレー老師もいっとき意識を取り戻した。容態はいくらか安定しているように見えた。でもやっぱり体力の消耗は
起き抜けとは思えないほど活力全開のシュロモ先生と、最後まで寝たのかどうかわからずじまいだったモニクとで、先生の愛車の後部席にクレー老師の身を運んでくれた。
全身に雨粒をまとった純白の高級車は、まるでどこかの貴族が所有するヨットかなにかみたいに、
見送りに出てきてくれたハスキルとモニクに厚く感謝を伝えると、ルータは緊張した面持ちで助手席のドアに手を掛けた。後ほど市内で合流することをわたしとイサクに約束して、彼は祖父に付き添って一足先に出発した。
走り去る車の後ろ姿と、車窓から突き出されて大きく振られる手を、こちらも手を振り返して最後まで見送った。
取り残されてしまったようにぽつんと立ち尽くすわたしとイサクを、ハスキルが朝食に招待してくれた。
とてもありがたかったし、たしかにすごくお腹も減ってはいたのだけど、やはりわたしたちは丁重に辞去させてもらった。もうこれ以上の厚意を
その折に、わたしはモニクに馬車を呼んでもらうようお願いした。彼女は黙ってうなずき、少女を家に送り届けると、自分はすぐに
「ここで待ってな。じきに来る」
「ありがとうございます」わたしとイサクは声を揃えた。
広場に二人きりになると、わたしたちは家の裏手に置いておいた荷車を引いて、ここの敷地の正門が据えられた垣根の方へ、とぼとぼと歩いていった。
霧吹きで散布されるような小雨は、まだ降り続いていた。けれどわたしは、そしてきっとイサクも、そんなものは少しも気にならなかった。凍てつく夜の雨に
「見て」
ふいにイサクが遠くを指差した。
それは、東の空を示していた。
天を隙間なく覆う灰色の雲の表面に、鋭いひび割れが生じたところだった。
そして、割れた箇所を点検する人が上から照明を当てでもしたかのように、そこから強烈な光線が射し込んできた。
息を呑むほど透き通った、白金の光だった。
宇宙の彼方の
この瞬間の到来を待ち侘びていた地上の鳥たちが、一斉に夜明けの歌を歌い始めた。夜闇のなかでは影の国の亡者のように見えた雑木林の
やがて、雲のことごとくが去り、愛すべき青空が帰還した。
どちらからともなく、わたしとイサクは互いの手を取りあった。そして一緒に目を細めて、東の地平線に見入った。
太陽って、こんなにも温かかったかしら。
そう思わずにはいられなかった。
隣を見やると、イサクはまるで生まれて初めて蜂蜜を
「ありがとう、イサク」わたしは言った。
「なにが」
「あなたがここに導いてくれたのよ」
ぽかんとした顔で、イサクは青空を仰いだ。そしてふと振り返り、礼拝堂の屋根を見あげた。そこには、
「あたしじゃない」イサクはぽつりと言った。「きっと、導いてくれたのは、イーノの神さま」
わたしは空とおなじ色の彼女の瞳を見つめて、深くうなずいた。
その時、わたしたちの背後から、なにかが軋むような物音が聴こえた。
ハスキルの家のドアが開かれる音だった。
ひょこっと外へ飛び出してきた少女は、まだ寝巻姿のままで、その腕に
「ハスキルさん」わたしはとっさに呼びかけた。同時に、少女の寝巻の裾に泥が跳ねかかるのを目にした。「あぁ、いけません。服が――」
「あの!」
少女はわたしの声が耳に入っていない様子だった。泥もまったく目に入っていなかった。わたしたちの目の前で急停止すると、いそいそと籠を開けて、なかから
「これは……?」ほかほかと熱を帯びているそれをそっと持ち上げて、わたしは首を捻った。
「サンドイッチです」少女は息を切らせながら言った。そしてぐいっと眼鏡の位置を直して、にっこり笑った。「よかったら、
わたしとイサクは顔を見あわせた。これは、さすがに遠慮できない。こんな素敵なものを断るなんてこと、いったい誰にできるだろう。
「なにからなにまで、本当にありがとう」
わたしは言いながら、胸にサンドイッチの包みを抱きしめた。まるで生まれたばかりの仔猫でも抱くように。それは、とても温かった。
「いい匂い」イサクが鼻を膨らませた。「おいしそう。あとで、いただくね」
少女は満足げにうなずいた。
かと思ったら、急に目を伏せた。
「……どうかしましたか?」わたしはたずねた。
少女は再び顔を上げて、じっとわたしの目をのぞき込んだ。
「ちょっと変なことをおたずねしますが……」少女は遠慮がちに口を開いた。「もしかしてあなたは、絵を描かれるのではありませんか」
「え?」わたしは目を丸くした。「絵って、あの、描く絵のことですか?」
「はい」少女はキャンバスの上で筆を動かす仕草をする。「この、描く絵です」
「ええ、はい。わたしはよく絵を描きます」つられてわたしもちょこちょこと手を振りつつ、うなずいた。「でも、どうして?」
「それ」少女はわたしの
わたしとイサクは腰を折り曲げてその部分を注視した。今わたしは、質素な緑色のセーターに茶色のジャケットを羽織っていた。それに太い革のベルトを腰に巻いていたので、その金属製のバックルに彫られた模様が少し目を引きはするけれど、取り立てて変わったところは見あたらない。
「なにかありますか?」わたしは首をかしげた。
ハスキルはふっと口もとを
「ここです、ここ」
「え……あっ」
少女の指が触れているところに、干し
「よく見えたね、こんなの」イサクが感心した。
「ほんと」わたしも同意した。「今の今まで気付きもしませんでした。素晴らしい観察力をお持ちですね、ハスキルさんは」
少女は照れくさそうに、鼻の頭をちょこっと
「もしかして、あなたも絵を描かれるんですか」わたしはたずねた。
途端に目を輝かせて、少女は勢いよく首を縦に振った。
「大好きなんです、絵を描くのが。小さい頃から」
「じゃあ大きくなったら画家になるの?」イサクがたずねた。
少女はほんのわずかにうつむいて、思慮深げな吐息をついた。
「そうですね、はい……なれたらいいなぁ、と思います。でも……」少女は息を吸い込みながら、ゆっくりと顔を上げる。「でも、父さんや母さんみたいに、子供たちを教えたり、困っている人を助けたりする人にも、なりたいんです」
「全部やったらいいじゃない」イサクが当然のことのように言った。
「へっ?」少女は目を点にした。「全部……?」
「そうだね」わたしも大いに賛同した。「ハスキルさんなら、きっと全部やっていけます。心に描いた全部の夢を、みんな叶えられますよ」
次の瞬間、まったく思いがけないことに、少女の両の瞳から一滴ずつ、真珠のような涙が零れ落ちた。
「そうでしょうか」少女は微笑した。「そうなったら、いいなぁ」
イサクの手にサンドイッチの包みを託すと、わたしはしゃがみ込んで少女の体を抱きしめた。
ねぇ、ハスキルさん。
わたしは心のなかで語りかけた。
どんなに長く、
「どうか、あなたの夢が永遠に輝きますように」わたしは少女の耳もとで言った。背中に回された細い二本の腕に、きゅっと力が込められるのを感じながら。「そして、あなたとあなたの子孫たちが、未来永劫、幸福でありますように。あなたがわたしたちに注いでくれた優しさや
ゆっくりと体を離すと、わたしはまだ少女の肩に両手を置いたまま、彼女の太陽みたいな瞳のなかに祝福の息を吹き込むようにして、告げた。
「わたしの名前は、リディア。わたしの心を、ここに残していきます。あなたとあなたの愛する人たちを、いつまでもお護りするように」
「ありがとう」ハスキルはほほえんだ。宇宙が閉じてしまったあともこれだけはずっと残り続けるだろうと思われるほどの、完璧な笑顔だった。「わたしもずっと、リディアさんたちのご無事をお祈りしています。どうかみなさんに、イーノのご加護がありますように」
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