31 風だってたまには休んだらいい
文字数 4,685文字
次の日は冬の中休 みといった感じの一日で、朝からくっきりと晴れ渡った。あんまり気持ちの良い天気だったから、ことあるごとに空を見上げたけれど、陽が沈むまでに二つか三つくらいの雲しか見かけなかった。来る日も来る日も律儀にやって来ていた北風も、この日は休暇をもらって家でゆっくりすることにしたみたいだった。そう、風だってたまには休んだらいいのよ。
わたしは朝のうちから一人で出かけた。画材店や、その他もろもろのお店をのんびり巡るつもりだった。ルータとイサクは、わたしが玄関を出る時にはまだ寝巻姿でコーヒーを飲んでいた。二人は今日は散歩に出るくらいしか外出の予定はないとのことだった。じゃあ夕飯の買い物もしてくるねと言って、わたしは青空の下 へ繰り出した。
街を包む空気は冴えざえと澄みきっていて、深く吸いこむと肺が浄化されるような気さえした。さんさんと放射される日光が、建物の軒下や道路のすみっこにこびりついていた頑固な雪や氷を、昼になる前にはすっかり溶かしてしまった。まだまだマフラーや手袋がないと辛 い季節ではあるけれど、景観としては、もう春か夏が来たみたいに暖かそうに見えた。わたしの歩調も知らず知らず軽快になった。
長い登り坂を跳ねるように昇っていく途中で、わたしとおなじくらいの年齢の女性が重そうな荷物を抱えて四苦八苦していらしたので、坂が終わるところまで代わりに持って一緒に歩いた。
「ありがとう、お嬢さん」彼女はたくさんの皺が刻まれた小さな白い手を、わざわざ手袋を脱いで差し出してくれた。「ほんとに、助かりました」
「お安い御用です」わたしも素手で握手を返した。彼女の手はびっくりするくらい硬くて、でもほかほかと温かかった。「残りの道中も、お気をつけて。良い一日を」
そこで別れたけれど、何度か振り返って見るたびに、いつまでも手を振ってくれている彼女の姿が目に映った。わたしもその都度、それにこたえた。
「長生きしてね、お嬢さん」遠く離れてから、最後の手を振ってわたしはつぶやいた。
それからその足で画材店へ向かい、新しいスケッチブックや木炭鉛筆、それにいくつかの水彩絵具と絵筆を何本か購入した。
ほかのお店もいろいろ回るつもりでいたけど、なんだかわくわくする気持ちが抑えられなくなってしまって、そのままなにか良い題材はないものかと探検に出発した。偶然にも、近くの中等学校の生徒とおぼしき少年少女が数人、タフィー川の岸辺に横一列に腰かけて、目の前に居並ぶ大水車の列をスケッチしていた。たしかにそれらは、魅力的なモチーフだった。でも彼らに混ざるのはちょっと気後 れしてしまって、なかなか川のほとりへ降りる決心がつかなかった。
ほかを当たろうと踵 を返したその時、乾いた空気を熱く貫く汽笛の音が、わたしの鼓膜にまっすぐ飛びこんだ。
そしてその瞬間、いやがおうにも思い立ってしまった。列車の絵を描きに行こう――じゃなくって、駅の伝言板を見に行ってみよう、と。
駅は昨夜と変わらず賑やかだった。まるで人々はみんなここで一夜を明かして、今までずっと居残っていたんじゃないかと錯覚してしまうくらいに、場の雰囲気にも変わりがなかった。ただ違っているのは、今は月が眠っていて太陽が目覚めているということだけだ。
初めてちゃんと見たのだけど、伝言板は二種類あった。
一つは待合所の壁の一面を占める、幅の広い大きな黒板。そこには白いチョークで、まるで絡みあうツタのように、たくさんの文字や記号やちょっとしたいたずら書きなんかがひしめきあっている。
もう一つは、切符を販売するガラス張りの窓口のあちら側、駅員さんが座っている椅子の背後の壁に掲げられている、小さくて清潔な黒板。その脇に案内書きが貼りだされていて、これが有料の伝言板である旨 が説明されている。代金を支払うぶん、見知らぬ他人の手が届く心配がないというわけだ。
テンシュテットはもちろん、こちらの伝言板を使っていた。
〈青い瞳の友人たちへ。
先日は楽しい時間をありがとう。
是非また近いうちにみんなに会いたい。
もしよかったら都合の良い日時を教えてほしい。
僕は少なくとも来月まではおなじ宿に泊まっているから。
妹もすごくきみたちに会いたがってる。
あいつもやはり来月までこの街にいる。
どうかこの伝言がきみたちの目に留まりますように。〉
その結尾には、格調高い筆致で青年の名前の頭文字が記されていた。
いっとき立ち止まっていたわたしは、さっと回れ右して、再び流動する群衆の一員となった――のだけど、またもや一目散に方向転換して、用もないのに改札の方へと突き進んだ。そして改札口すれすれの手前で直角に左に折れ、そのまま壁際にたむろする人垣のなかに紛れこんだ。
わたしが機転を利かすのが早かったから、ひらひらと表玄関から飛んで入ってきたアトマ族の黄色い髪の女性は、こちらの姿を目にすることはなかったはずだ。
人波の奥から、わたしは発顕因子を封じた体を静止させて、彼女の様子をうかがった。
いったいこんな時間にこんな場所で、なにをしているのだろう?
彼女は天井すれすれの高度に浮かび、両目と二本の触角をきょろきょろと動かしながら、気だるげに宙を移動している。今日はタヌキみたいな色あいの毛皮のロングコートを着ていて、両手はそれのポケットに差し入れられている。とくに目立つものは所持していない。長い髪もざっくりと束ねられて、上着のなかにたくしこまれている。同行者は、見たところいない。彼女一人きりだ。
たぶんこの駅を訪れるのは初めてだったのだろうと思う。彼女はアトマの人たちが周囲の気配を探る時に特有の静まりかえった佇まいで、あたりをじっと観察した。
まず向かったのは、共用の伝言板の前だった。
アトマの目からしてみれば視界を左から右へ覆うほど広大なそれを、彼女は流し読みするみたいに首を振って眺め渡した。その作業はあっというまに終わった。そもそもここでは目当てのものが見つからないことを、はじめから承知していたかのようだった。
あくびをして目をしばたたかせると、彼女は羽を広げてもう一方の伝言板へ向かった。先ほど見たものより面積比にして三分の一ほどの大きさの黒板を、彼女は先ほどより三倍の時間をかけてまじまじと検分した。
探していたものはそこにあったのだろう。なにかに納得したように首をすくめると、両手はポケットに突っこんだまま、最後にもう一度すばやく構内を見まわして、彼女は表へ漂い出ていった。
わたしは用心してあとを追い、駅の玄関先の庇 の下で立ち止まった。
そのあたりで人を見送ったり迎えたりしている人たちに溶けこみ、さらに門柱の陰にぴったりと身を隠して、飛翔する小さな後ろ姿に両眼の照準を固定した。
駅前広場の隅のあたりに彼女が至ると、その付近の木陰に停車していた一台の蒸気自動車が、しずしずと動き出した。車はそれから一度も停まることなく前進しつづけ、ただ助手席の窓だけが全開にされた。アトマの女性は棒高跳びでもするみたいに身をくねらせてそこに飛びこみ、ハンドルを握っているヤッシャ・レーヴェンイェルムの肩に着地した。
車内には彼一人だ。ほかには誰もいない。
窓がすぐに閉じられたので、彼らが会話を交わす様子さえ見られなかった。車はまたたくまに円環の広場を一周し、そのままピンボールの玉みたいに街の通りへ向かって弾き出されていった。
今日のあの男は、森に入るような装備ではなかった。一般人のような服装をしていた。
それでやっと思い至る。そういえば、昨日と今日は週末だった。どうりで駅に人が多いわけだ。妖精郷探索隊の人たちも、おそらくは一般の暦 に準じて活動しているのだろう。
隊長は今頃なにをしてるのかな、とわたしはふいに思う。自分の私信が同僚に監視されていることも知らずに……。
わたしはため息をつき、広場へ降りていって太陽を頭から浴びた。気を取り直すのに、ちょっと時間がかかった――というか、気味のわるいざわめきが胸の内から完全に消えてしまうことは、それからずっとなかった。ともかく今のところは、当初の予定どおり買い物へ出かけることにした。ここで目撃したものについては、あとできっとルータたちに話す。話したところで、わたしたちにはなにをどうすることもできないとしても。
夕方前に部屋へ帰ると、居間でイサクが一人、うたた寝をしていた。
わたしは両手いっぱいの荷物をそっと降ろして、新品のマグカップにとびきり甘くしたミルクコーヒーを作って、一人で屋上へあがった。
平らな石床の真ん中あたりにブランケットが一枚敷かれ、そのうえでルータが両手を枕にして寝転んでいた。服は朝に見た時の寝巻ではなく、外出着に替わっている。顔のうえには今日の昼間にどこかで購入したものとおぼしき真新しい旅行雑誌がページを開いて載せてあり、かたわらには中身が空のワイングラスと、中身がきっちり半分ほど減った赤ワインのボトルが置いてある。
わたしが近づくと、彼は雑誌を取り払って目を細めた。眠っていたわけではないみたいだ。
「おかえり」彼は言った。
「ただいま」わたしは言った。そして彼の隣に座り、疲れた体に甘い飲み物をひとくち沁 みこませた。
「良い一日だった?」寝そべったまま彼が訊く。
わたしはうなずく。そしていきなり本題に入る。
「彼に連絡を取る?」
ルータはもぞもぞと起きあがり、背中を丸めるようにしてあぐらをかいた。
夕暮れの黄金の光源をちらりと一瞥して、彼は身震いするみたいに肩をすくめた。
「好きにすれば、だってさ」彼はこそっと笑う。「あのイサクが」
仏頂面が目に浮かんで、わたしも小さく吹き出す。「そうね。わたしもまぁ、同意見かな」
困り顔で、彼はぼんやりと空を見上げる。わたしもそれに続く。
久しくなかった、鮮やかで美しい青空の一日だった。それがまもなく、終わろうとしている。都市を呑みこむほど巨大な光も、あと数十分もすれば暗い大地の底へ沈んでしまう。そして夜闇がやって来る。すべてのもののうえに、等しく、避けがたい宿命として。終わってほしくない一日というのは、いつ以来だったろう。
「あなたにまかせるわ」
彼の背にそっと言葉を寄り添わせるように、わたしは言った。
彼はこくりとうなずいた。なんだかまるで、傷ついた子供のように、寄る辺なさげに。
日没直前に三人でお見舞いに行き、老師の容態に大きな変化がないことをたしかめると、部屋に戻ってみんなで食事にした。その席でわたしは昼に駅で見たもののことを話した。けれどやっぱり、それでどうなるものでもなかった。三人そろって、やるせなく眉をひそめただけだった。
あとから振り返ると、この晴れ間に恵まれたなんてことのない一日が、わたしには嵐の前の静けさの頂点を記録した瞬間だったように思える。
この後まもなく、わたしたちとわたしたちに関わる全員を巻きこむ急転直下の混乱が持ちあがるのだけれど、もちろんそんなことは、静けさのなかに浸っているうちには想像にも及ばない。
運命が本気で殴りかかってきたなら、わたしたちはそれから逃れることは決してできない。ただ、黙してぶたれるか、精一杯にかわすか、あるいはすぐさま反撃に出るかを、選ぶくらいのことしかできない。
けれどすべての事態が落ち着いたあとで省 みても、当時のわたしたちがそのうちのどの手段を選んでいたのか、自分自身でさえさっぱりわからない。とどのつまりは、そういうものなのだ。
わたしは朝のうちから一人で出かけた。画材店や、その他もろもろのお店をのんびり巡るつもりだった。ルータとイサクは、わたしが玄関を出る時にはまだ寝巻姿でコーヒーを飲んでいた。二人は今日は散歩に出るくらいしか外出の予定はないとのことだった。じゃあ夕飯の買い物もしてくるねと言って、わたしは青空の
街を包む空気は冴えざえと澄みきっていて、深く吸いこむと肺が浄化されるような気さえした。さんさんと放射される日光が、建物の軒下や道路のすみっこにこびりついていた頑固な雪や氷を、昼になる前にはすっかり溶かしてしまった。まだまだマフラーや手袋がないと
長い登り坂を跳ねるように昇っていく途中で、わたしとおなじくらいの年齢の女性が重そうな荷物を抱えて四苦八苦していらしたので、坂が終わるところまで代わりに持って一緒に歩いた。
「ありがとう、お嬢さん」彼女はたくさんの皺が刻まれた小さな白い手を、わざわざ手袋を脱いで差し出してくれた。「ほんとに、助かりました」
「お安い御用です」わたしも素手で握手を返した。彼女の手はびっくりするくらい硬くて、でもほかほかと温かかった。「残りの道中も、お気をつけて。良い一日を」
そこで別れたけれど、何度か振り返って見るたびに、いつまでも手を振ってくれている彼女の姿が目に映った。わたしもその都度、それにこたえた。
「長生きしてね、お嬢さん」遠く離れてから、最後の手を振ってわたしはつぶやいた。
それからその足で画材店へ向かい、新しいスケッチブックや木炭鉛筆、それにいくつかの水彩絵具と絵筆を何本か購入した。
ほかのお店もいろいろ回るつもりでいたけど、なんだかわくわくする気持ちが抑えられなくなってしまって、そのままなにか良い題材はないものかと探検に出発した。偶然にも、近くの中等学校の生徒とおぼしき少年少女が数人、タフィー川の岸辺に横一列に腰かけて、目の前に居並ぶ大水車の列をスケッチしていた。たしかにそれらは、魅力的なモチーフだった。でも彼らに混ざるのはちょっと
ほかを当たろうと
そしてその瞬間、いやがおうにも思い立ってしまった。列車の絵を描きに行こう――じゃなくって、駅の伝言板を見に行ってみよう、と。
駅は昨夜と変わらず賑やかだった。まるで人々はみんなここで一夜を明かして、今までずっと居残っていたんじゃないかと錯覚してしまうくらいに、場の雰囲気にも変わりがなかった。ただ違っているのは、今は月が眠っていて太陽が目覚めているということだけだ。
初めてちゃんと見たのだけど、伝言板は二種類あった。
一つは待合所の壁の一面を占める、幅の広い大きな黒板。そこには白いチョークで、まるで絡みあうツタのように、たくさんの文字や記号やちょっとしたいたずら書きなんかがひしめきあっている。
もう一つは、切符を販売するガラス張りの窓口のあちら側、駅員さんが座っている椅子の背後の壁に掲げられている、小さくて清潔な黒板。その脇に案内書きが貼りだされていて、これが有料の伝言板である
テンシュテットはもちろん、こちらの伝言板を使っていた。
〈青い瞳の友人たちへ。
先日は楽しい時間をありがとう。
是非また近いうちにみんなに会いたい。
もしよかったら都合の良い日時を教えてほしい。
僕は少なくとも来月まではおなじ宿に泊まっているから。
妹もすごくきみたちに会いたがってる。
あいつもやはり来月までこの街にいる。
どうかこの伝言がきみたちの目に留まりますように。〉
その結尾には、格調高い筆致で青年の名前の頭文字が記されていた。
いっとき立ち止まっていたわたしは、さっと回れ右して、再び流動する群衆の一員となった――のだけど、またもや一目散に方向転換して、用もないのに改札の方へと突き進んだ。そして改札口すれすれの手前で直角に左に折れ、そのまま壁際にたむろする人垣のなかに紛れこんだ。
わたしが機転を利かすのが早かったから、ひらひらと表玄関から飛んで入ってきたアトマ族の黄色い髪の女性は、こちらの姿を目にすることはなかったはずだ。
人波の奥から、わたしは発顕因子を封じた体を静止させて、彼女の様子をうかがった。
いったいこんな時間にこんな場所で、なにをしているのだろう?
彼女は天井すれすれの高度に浮かび、両目と二本の触角をきょろきょろと動かしながら、気だるげに宙を移動している。今日はタヌキみたいな色あいの毛皮のロングコートを着ていて、両手はそれのポケットに差し入れられている。とくに目立つものは所持していない。長い髪もざっくりと束ねられて、上着のなかにたくしこまれている。同行者は、見たところいない。彼女一人きりだ。
たぶんこの駅を訪れるのは初めてだったのだろうと思う。彼女はアトマの人たちが周囲の気配を探る時に特有の静まりかえった佇まいで、あたりをじっと観察した。
まず向かったのは、共用の伝言板の前だった。
アトマの目からしてみれば視界を左から右へ覆うほど広大なそれを、彼女は流し読みするみたいに首を振って眺め渡した。その作業はあっというまに終わった。そもそもここでは目当てのものが見つからないことを、はじめから承知していたかのようだった。
あくびをして目をしばたたかせると、彼女は羽を広げてもう一方の伝言板へ向かった。先ほど見たものより面積比にして三分の一ほどの大きさの黒板を、彼女は先ほどより三倍の時間をかけてまじまじと検分した。
探していたものはそこにあったのだろう。なにかに納得したように首をすくめると、両手はポケットに突っこんだまま、最後にもう一度すばやく構内を見まわして、彼女は表へ漂い出ていった。
わたしは用心してあとを追い、駅の玄関先の
そのあたりで人を見送ったり迎えたりしている人たちに溶けこみ、さらに門柱の陰にぴったりと身を隠して、飛翔する小さな後ろ姿に両眼の照準を固定した。
駅前広場の隅のあたりに彼女が至ると、その付近の木陰に停車していた一台の蒸気自動車が、しずしずと動き出した。車はそれから一度も停まることなく前進しつづけ、ただ助手席の窓だけが全開にされた。アトマの女性は棒高跳びでもするみたいに身をくねらせてそこに飛びこみ、ハンドルを握っているヤッシャ・レーヴェンイェルムの肩に着地した。
車内には彼一人だ。ほかには誰もいない。
窓がすぐに閉じられたので、彼らが会話を交わす様子さえ見られなかった。車はまたたくまに円環の広場を一周し、そのままピンボールの玉みたいに街の通りへ向かって弾き出されていった。
今日のあの男は、森に入るような装備ではなかった。一般人のような服装をしていた。
それでやっと思い至る。そういえば、昨日と今日は週末だった。どうりで駅に人が多いわけだ。妖精郷探索隊の人たちも、おそらくは一般の
隊長は今頃なにをしてるのかな、とわたしはふいに思う。自分の私信が同僚に監視されていることも知らずに……。
わたしはため息をつき、広場へ降りていって太陽を頭から浴びた。気を取り直すのに、ちょっと時間がかかった――というか、気味のわるいざわめきが胸の内から完全に消えてしまうことは、それからずっとなかった。ともかく今のところは、当初の予定どおり買い物へ出かけることにした。ここで目撃したものについては、あとできっとルータたちに話す。話したところで、わたしたちにはなにをどうすることもできないとしても。
夕方前に部屋へ帰ると、居間でイサクが一人、うたた寝をしていた。
わたしは両手いっぱいの荷物をそっと降ろして、新品のマグカップにとびきり甘くしたミルクコーヒーを作って、一人で屋上へあがった。
平らな石床の真ん中あたりにブランケットが一枚敷かれ、そのうえでルータが両手を枕にして寝転んでいた。服は朝に見た時の寝巻ではなく、外出着に替わっている。顔のうえには今日の昼間にどこかで購入したものとおぼしき真新しい旅行雑誌がページを開いて載せてあり、かたわらには中身が空のワイングラスと、中身がきっちり半分ほど減った赤ワインのボトルが置いてある。
わたしが近づくと、彼は雑誌を取り払って目を細めた。眠っていたわけではないみたいだ。
「おかえり」彼は言った。
「ただいま」わたしは言った。そして彼の隣に座り、疲れた体に甘い飲み物をひとくち
「良い一日だった?」寝そべったまま彼が訊く。
わたしはうなずく。そしていきなり本題に入る。
「彼に連絡を取る?」
ルータはもぞもぞと起きあがり、背中を丸めるようにしてあぐらをかいた。
夕暮れの黄金の光源をちらりと一瞥して、彼は身震いするみたいに肩をすくめた。
「好きにすれば、だってさ」彼はこそっと笑う。「あのイサクが」
仏頂面が目に浮かんで、わたしも小さく吹き出す。「そうね。わたしもまぁ、同意見かな」
困り顔で、彼はぼんやりと空を見上げる。わたしもそれに続く。
久しくなかった、鮮やかで美しい青空の一日だった。それがまもなく、終わろうとしている。都市を呑みこむほど巨大な光も、あと数十分もすれば暗い大地の底へ沈んでしまう。そして夜闇がやって来る。すべてのもののうえに、等しく、避けがたい宿命として。終わってほしくない一日というのは、いつ以来だったろう。
「あなたにまかせるわ」
彼の背にそっと言葉を寄り添わせるように、わたしは言った。
彼はこくりとうなずいた。なんだかまるで、傷ついた子供のように、寄る辺なさげに。
日没直前に三人でお見舞いに行き、老師の容態に大きな変化がないことをたしかめると、部屋に戻ってみんなで食事にした。その席でわたしは昼に駅で見たもののことを話した。けれどやっぱり、それでどうなるものでもなかった。三人そろって、やるせなく眉をひそめただけだった。
あとから振り返ると、この晴れ間に恵まれたなんてことのない一日が、わたしには嵐の前の静けさの頂点を記録した瞬間だったように思える。
この後まもなく、わたしたちとわたしたちに関わる全員を巻きこむ急転直下の混乱が持ちあがるのだけれど、もちろんそんなことは、静けさのなかに浸っているうちには想像にも及ばない。
運命が本気で殴りかかってきたなら、わたしたちはそれから逃れることは決してできない。ただ、黙してぶたれるか、精一杯にかわすか、あるいはすぐさま反撃に出るかを、選ぶくらいのことしかできない。
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