42 麓の木
文字数 3,628文字
さっそくその翌々日に取引があった。
今回はルータが単独で向かった。というのも、この日は朝から晩まで全世界が氷漬けになったみたいに、格別に冷え込んだから。女の子はあんまり体を冷やしちゃいけないぜと彼が言うので、なにを今さらとわたしは笑った。でもせっかくだからお言葉に甘えさせてもらうことにした。彼ならあの程度の相手であれば一人で容易く対処できるし、それに今回の商材はこれまでの半分にも満たないほどの大きさで、彼自身が一人でさっと行ってさっと帰ってくる方が気が楽だと言うから。行ってらっしゃい、とイサクとわたしは手を振った。
一張羅に身を包んだ彼を見送ったのは、夜の九時ちょうどのことだった。
アリアナイトを収めたプレゼント用の箱を小脇に抱えて、何事もなければ十時半くらいには戻るよ、と言って出ていった彼が戻ってきたのは、もう十一時になろうかという頃だった。
プレゼントの箱は、その手になかった。手ぶらだ。
そして出掛ける時にはあれほど平然としていた顔つきは、彼にしてはめずらしく、仄かに気色 ばんで火照 っていた。
「なにがあったの」玄関のドアを閉めるやいなや、わたしはたずねた。
ルータはすぐにはこたえず、かぶりを振ってため息をつくと、帽子と色付き眼鏡とネクタイをむしり取ってソファの上に投げ出した。そして食卓の椅子にどかっと座り込み、不敵な笑みを浮かべて言った。
「こいつは、明日の朝刊が見物 だな」
「もったいつけてないでさっさと話して」腕組みしてイサクが問い詰める。
「軍警察が来た」
「なんですって?」わたしは顔をしかめた。
「どこに」イサクがさらに迫る。
「どこにって、あの連中の店に決まってるだろ」ルータがひらりと手を振る。
わたしは椅子を一脚引いて腰を下ろした。「詳しく教えて」
その夜もルータは約束の時間きっかりに取引の場に姿を現した。
早いものでこれで三度目になる、〈ハリー&ライム商会〉タヒナータ支部との取引。場所はこれまでとおなじく、例の気取ったバーの地下室。相手はハリーとライムの二人と盃 を交わした何番目かの息子であり(何番目だったっけ)、店の支配人であるヴォルフ・ホッター。そして、その部下たち。顔ぶれに変わりはない。
おざなりの挨拶を一言二言交わすと、ルータはさっそく彼らが待望するプレゼントを差し出した。丁寧にリボンと包装紙が解かれ、慎重に箱が開かれ、お馴染みの青い輝きが男たちの頬や眼 を照らす。すぐさま鑑定がおこなわれ、それが紛れもない極上の原石であることが宣言される。毎度繰り返される手続き。もはや向こうもこちらも慣れたものだ。
満足げな笑みを滲ませたヴォルフが、踵を返して金庫の方へ向かった。
奇妙なざわめきをルータが感知したのは、その直後のことだった。
今夜はなにかあるのか、と彼は近くにいたヴォルフの部下にたずねた。
男は首をかしげる。なにか、とは?
だからさ、なにか特別な会合とかパーティでもあるのか、ってことだよ。
眉間にうっすらと皺を寄せて、男は他の仲間に声をかける。おい、今日ってそういうのあったか?
訊かれた男は首を振る。さぁ、自分はなにも聞いてない。
どうかされたのですか、と最初に話しかけられた男がルータの顔をのぞき込む。
顎の先を軽く摘まんで、ルータは沈黙する。
ソファに座ったまま、深く耳を澄ます。
天井を隔てた階上から、みずから進んで正気を失おうと躍起になっている紳士淑女たちの笑い声や足音が伝わってくる。いずれもお世辞にも品が良いとは言えない響きだけれど、別に胸騒ぎを覚えるほどのものではない。
次いで両の耳を手で覆い、鼓膜に触れるすべての音波を意図的に無視してみる。
しかしそれでも、正体不明の不快感は消えない。まるで、自分のいる部屋の窓を突然すべて黒く塗り潰されてしまったような、なんとも気味の悪い息苦しさを感じる。
上階 でなにかあったんですかね、と別の若い男(名前は忘れたけど、顔じゅう絆創膏のあの子だ)がつぶやいた。ルータが視線を天井に向けているのを察したからだった。
自分が見てきましょうか、と部屋の出入口付近に立っていた男が挙手した。
ルータはその男の顔を一瞥し、それからさっと室内を見回した。この部屋には、出入口は一つしかない。
いや、と言ってルータは立ち上がった。僕が見てこよう。戻るまでに箱に対価を詰めて包装し直しておけ。
そして彼は部屋の外へ出た。
上階に続く階段があるのと反対の方向に廊下を進むと、突き当たりに錆だらけの大きな鉄扉 があった。避難経路を示す記号の描かれた金属の札が、扉の表面に打ち付けられている。
おそらくはこれまで一度も使われたことがないであろうその扉に耳を寄せ、ルータはじっくりと周囲のイーノの流れを探った。あちこち人が動き回っている気配は多少あるが、これといって目ぼしい反応はない。だが、肌をこそこそと撫でるような不穏な予感は、まだ消えずにいる。
回れ右して階段へ向かう。
しっとりとした分厚い布地の張られた一段一段を、静かに踏みしめて上っていく。
やがてドアが見えてくる。一階の、バーカウンターの脇へと通じているドアだ。
ノブに手を掛け、そっと回し、音もなく滑り込むように、彼はその先へと進んだ。
店の正面玄関から飛び込んできた憲兵たちが、店内にいる全員に「動くな」と指示を発したのは、まさにその瞬間だった。
ルータは床に口付けするほど深く屈 むと、その体勢を維持したまま、まさに迸 る電流のような速度でひとっ飛びした。
そして、その向こう側にも兵が配置されているのは確実だと予見できてはいても、やむを得ずカウンターの裏側にある通用口のドアを蹴破り、屋外へと飛び出した。
思ったとおり、そこにも武装した憲兵たちが多数待ち受けていた。
銃剣を構え叫ぶ彼らの間を、ルータはまるで海中を旋回する魚のごとく瞬時に駆け抜けた。
そしてそのまま建物の裏手の生垣 に突入し、その内に身を潜めた。
残像も残らないほどの速度で移動した彼の姿をまともに視認できた者は、ただの一人もいなかった。ルータ自身にさえ、自分がどういう経路を辿ってここまで逃れたのか、正確には思いだせないほどだった。
建物のあらゆる部屋の内から、怒号、悲鳴、罵声に銃声、そしていろんな物がばりばりと割れて砕けて弾ける音が、まるで鉄砲水のように次から次へと飛び出してくる。通用口から逃げ出した何物かを執拗に探す兵士も数名いて、ルータは彼らの接近を許す前に再び移動を開始した。
顕術で枝葉を捩 じ曲げて作った生垣の内部のトンネルを、砲身を通過する弾丸のように潜り抜けた。
その途中、地下の廊下に通じているものとおぼしき非常口の扉の前に、十名を超す憲兵たちが貼りついているのが見えた。あらま、とルータは帽子を手で押さえながらつぶやいた。万事休すだな、ヴォルフくん。
その後なに食わぬ顔で敷地の外へ脱出すると、複雑に入り組む路地裏をあちらへこちらへと彷徨って、やがて大きな通りへと出た。そこで人目を忍びつつ、服をはたいてネクタイを正した。帽子もかぶり直した。そして手持ち無沙汰になってしまった両手をポケットに突っ込み、さて今回の報酬は誰が払ってくれるんだろうなと考えながら、雪のそぼ降る夜の街へと姿を消した。
「で、誰が払ってくれるの」イサクが質す。
話し終えて息を整えるルータの手に、わたしは温かいコーヒーの注がれたマグカップを渡した。ありがとうをささやいて、彼はしみじみとそれに口を付けた。そして深呼吸を二度繰り返し、なだめるように妹を見やった。
「まぁ、そうかりかりしなさんな。大丈夫、連中はこれくらいのことじゃ動じないよ。組織の末端の一つが地方都市の片隅で挙げられたからって、それでどうということはない。麓 の木が一本倒れたくらいじゃ、山は揺るがない」彼はもうひとくちコーヒーを飲む。そして瞬間的に目を細める。「さっそく明日、橋役 のところに行ってくる」
「それで?」
「たぶんもう本家にも騒ぎのことは伝わってるはずだ。補填について、なにか話があるだろうさ」
「ふん……」イサクは両手を部屋着のガウンのポケットに深く差し入れる。「ま、甘やかさないようにね。わざわざあんな馬鹿寒い思いまでして採 ってきたんだからさ」
「わかってるさ」
「この街の橋役はどこにいるの」
わたしはたずねた。商会とのやり取りや交渉を自身に一任するルータに対して、こういう質問をすることは非常に稀 なのだけど、今回ばかりはちょっと気に掛かったから。
でもやっぱり、ルータは微笑して首を振るだけだった。そんなの知らなくていい、ということみたい。
「着替えてくる」
彼は席を立ち、カップを持ったまま自室へ引き揚げていった。それからしばらく戻ってこなかった。
「……この街じゃ、もうやってけないね」
ぼそっとイサクが言った。わたしもそうなると思うと言った。そしてそのとおりになった。
今回はルータが単独で向かった。というのも、この日は朝から晩まで全世界が氷漬けになったみたいに、格別に冷え込んだから。女の子はあんまり体を冷やしちゃいけないぜと彼が言うので、なにを今さらとわたしは笑った。でもせっかくだからお言葉に甘えさせてもらうことにした。彼ならあの程度の相手であれば一人で容易く対処できるし、それに今回の商材はこれまでの半分にも満たないほどの大きさで、彼自身が一人でさっと行ってさっと帰ってくる方が気が楽だと言うから。行ってらっしゃい、とイサクとわたしは手を振った。
一張羅に身を包んだ彼を見送ったのは、夜の九時ちょうどのことだった。
アリアナイトを収めたプレゼント用の箱を小脇に抱えて、何事もなければ十時半くらいには戻るよ、と言って出ていった彼が戻ってきたのは、もう十一時になろうかという頃だった。
プレゼントの箱は、その手になかった。手ぶらだ。
そして出掛ける時にはあれほど平然としていた顔つきは、彼にしてはめずらしく、仄かに
「なにがあったの」玄関のドアを閉めるやいなや、わたしはたずねた。
ルータはすぐにはこたえず、かぶりを振ってため息をつくと、帽子と色付き眼鏡とネクタイをむしり取ってソファの上に投げ出した。そして食卓の椅子にどかっと座り込み、不敵な笑みを浮かべて言った。
「こいつは、明日の朝刊が
「もったいつけてないでさっさと話して」腕組みしてイサクが問い詰める。
「軍警察が来た」
「なんですって?」わたしは顔をしかめた。
「どこに」イサクがさらに迫る。
「どこにって、あの連中の店に決まってるだろ」ルータがひらりと手を振る。
わたしは椅子を一脚引いて腰を下ろした。「詳しく教えて」
その夜もルータは約束の時間きっかりに取引の場に姿を現した。
早いものでこれで三度目になる、〈ハリー&ライム商会〉タヒナータ支部との取引。場所はこれまでとおなじく、例の気取ったバーの地下室。相手はハリーとライムの二人と
おざなりの挨拶を一言二言交わすと、ルータはさっそく彼らが待望するプレゼントを差し出した。丁寧にリボンと包装紙が解かれ、慎重に箱が開かれ、お馴染みの青い輝きが男たちの頬や
満足げな笑みを滲ませたヴォルフが、踵を返して金庫の方へ向かった。
奇妙なざわめきをルータが感知したのは、その直後のことだった。
今夜はなにかあるのか、と彼は近くにいたヴォルフの部下にたずねた。
男は首をかしげる。なにか、とは?
だからさ、なにか特別な会合とかパーティでもあるのか、ってことだよ。
眉間にうっすらと皺を寄せて、男は他の仲間に声をかける。おい、今日ってそういうのあったか?
訊かれた男は首を振る。さぁ、自分はなにも聞いてない。
どうかされたのですか、と最初に話しかけられた男がルータの顔をのぞき込む。
顎の先を軽く摘まんで、ルータは沈黙する。
ソファに座ったまま、深く耳を澄ます。
天井を隔てた階上から、みずから進んで正気を失おうと躍起になっている紳士淑女たちの笑い声や足音が伝わってくる。いずれもお世辞にも品が良いとは言えない響きだけれど、別に胸騒ぎを覚えるほどのものではない。
次いで両の耳を手で覆い、鼓膜に触れるすべての音波を意図的に無視してみる。
しかしそれでも、正体不明の不快感は消えない。まるで、自分のいる部屋の窓を突然すべて黒く塗り潰されてしまったような、なんとも気味の悪い息苦しさを感じる。
自分が見てきましょうか、と部屋の出入口付近に立っていた男が挙手した。
ルータはその男の顔を一瞥し、それからさっと室内を見回した。この部屋には、出入口は一つしかない。
いや、と言ってルータは立ち上がった。僕が見てこよう。戻るまでに箱に対価を詰めて包装し直しておけ。
そして彼は部屋の外へ出た。
上階に続く階段があるのと反対の方向に廊下を進むと、突き当たりに錆だらけの大きな
おそらくはこれまで一度も使われたことがないであろうその扉に耳を寄せ、ルータはじっくりと周囲のイーノの流れを探った。あちこち人が動き回っている気配は多少あるが、これといって目ぼしい反応はない。だが、肌をこそこそと撫でるような不穏な予感は、まだ消えずにいる。
回れ右して階段へ向かう。
しっとりとした分厚い布地の張られた一段一段を、静かに踏みしめて上っていく。
やがてドアが見えてくる。一階の、バーカウンターの脇へと通じているドアだ。
ノブに手を掛け、そっと回し、音もなく滑り込むように、彼はその先へと進んだ。
店の正面玄関から飛び込んできた憲兵たちが、店内にいる全員に「動くな」と指示を発したのは、まさにその瞬間だった。
ルータは床に口付けするほど深く
そして、その向こう側にも兵が配置されているのは確実だと予見できてはいても、やむを得ずカウンターの裏側にある通用口のドアを蹴破り、屋外へと飛び出した。
思ったとおり、そこにも武装した憲兵たちが多数待ち受けていた。
銃剣を構え叫ぶ彼らの間を、ルータはまるで海中を旋回する魚のごとく瞬時に駆け抜けた。
そしてそのまま建物の裏手の
残像も残らないほどの速度で移動した彼の姿をまともに視認できた者は、ただの一人もいなかった。ルータ自身にさえ、自分がどういう経路を辿ってここまで逃れたのか、正確には思いだせないほどだった。
建物のあらゆる部屋の内から、怒号、悲鳴、罵声に銃声、そしていろんな物がばりばりと割れて砕けて弾ける音が、まるで鉄砲水のように次から次へと飛び出してくる。通用口から逃げ出した何物かを執拗に探す兵士も数名いて、ルータは彼らの接近を許す前に再び移動を開始した。
顕術で枝葉を
その途中、地下の廊下に通じているものとおぼしき非常口の扉の前に、十名を超す憲兵たちが貼りついているのが見えた。あらま、とルータは帽子を手で押さえながらつぶやいた。万事休すだな、ヴォルフくん。
その後なに食わぬ顔で敷地の外へ脱出すると、複雑に入り組む路地裏をあちらへこちらへと彷徨って、やがて大きな通りへと出た。そこで人目を忍びつつ、服をはたいてネクタイを正した。帽子もかぶり直した。そして手持ち無沙汰になってしまった両手をポケットに突っ込み、さて今回の報酬は誰が払ってくれるんだろうなと考えながら、雪のそぼ降る夜の街へと姿を消した。
「で、誰が払ってくれるの」イサクが質す。
話し終えて息を整えるルータの手に、わたしは温かいコーヒーの注がれたマグカップを渡した。ありがとうをささやいて、彼はしみじみとそれに口を付けた。そして深呼吸を二度繰り返し、なだめるように妹を見やった。
「まぁ、そうかりかりしなさんな。大丈夫、連中はこれくらいのことじゃ動じないよ。組織の末端の一つが地方都市の片隅で挙げられたからって、それでどうということはない。
「それで?」
「たぶんもう本家にも騒ぎのことは伝わってるはずだ。補填について、なにか話があるだろうさ」
「ふん……」イサクは両手を部屋着のガウンのポケットに深く差し入れる。「ま、甘やかさないようにね。わざわざあんな馬鹿寒い思いまでして
「わかってるさ」
「この街の橋役はどこにいるの」
わたしはたずねた。商会とのやり取りや交渉を自身に一任するルータに対して、こういう質問をすることは非常に
でもやっぱり、ルータは微笑して首を振るだけだった。そんなの知らなくていい、ということみたい。
「着替えてくる」
彼は席を立ち、カップを持ったまま自室へ引き揚げていった。それからしばらく戻ってこなかった。
「……この街じゃ、もうやってけないね」
ぼそっとイサクが言った。わたしもそうなると思うと言った。そしてそのとおりになった。
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