14 新しい服を買いに行こう

文字数 7,894文字

「あっ。ほら見て、じいちゃん」イサクが窓の外へ向けた指をじぐざぐに揺らし、やがてぴたりと止めた。「今、白い猫が走ってって屋上に飛び乗ったでしょ? あれだよ。あの建物」
 枕から少し頭を浮かせて、クレー老師は目を凝らした。なにか言いたそうにしたので、その口もとにかぶせてある牡蠣(かき)の殻みたいな形をした酸素供給の器具を、ルータが外してあげた。
「……あの茶色のやつかな」かすれた声で老師が言った。
「そうそう」祖父にぴたりと寄り添いながら、イサクがうなずいた。「なかなか良い感じでしょ。七階建てなんだよ」
「ぼくらの部屋は六階だよ」ベッドの脇に立つルータが続いた。
 老師は髭をくしゃっとさせてほほえむと、手のひらを孫娘の頭にぽんと載せた。そしてさらに少しだけ首を伸ばし、大きな川を挟んだ向こう岸の通りに立つその建物を、じっくりと眺めた。
 それは、いわゆるアパルトマンと呼ばれる集合住宅型の建物だった。わたしたちはつい昨日、そのなかの一室を下見してきたばかりだった。煮詰めた林檎みたいな色の外壁に包まれた、かなりの年季を積んだ建物だったけれど、中身の方は驚くほど小綺麗(こぎれい)な現代風様式に改装されていて、部屋の数も各室の広さもじゅうぶんで、おまけにどの部屋にも一通りの家具まで完備されていた。
 三日間に渡ってあちこち家探(やさが)しに奔走した結果、老師の病院から川を一つ隔てただけという願ってもない好立地の物件を発見した瞬間、わたしたちは飛びつくように即決したのだった。
 古都タヒナータは、大陸最北端に起源を持つとされる〈タフィー川〉という大河によって、きっぱりと東西に分断されている。
 正式な名称ではないのだけど、人々は川の左側の区域を〈旧市街〉と呼び、右側を〈新市街〉と呼んでいた。
 けれど一見しただけでは、新旧の街並みにそこまで目立った外観上の違いは見られない。どちらの市街にもおなじように古い石造の家屋や建築物が立ち並び、至るところに街路樹や花々の植え込みが溢れている。ただ新市街の方は、その一隅(いちぐう)に立つわたしたちの新居がそうであるように、外見(そとみ)の古めかしさは保ったまま、内面は時代に合わせて新装あるいは改装された建物や施設が多かった。新興の企業や大手の会社なんかも、だいたいがこちら側に拠点を構えている。
 一方の旧市街は、その名の通り全部が古かった。真新しいものなんか、どこにも見あたらない。住宅や店舗はその外観だけでなく内観も、百年前からほとんど変わっていない。でもだからといって、この古い方の街が(さび)れているというわけではない。右岸のように大型の商業施設や銀行、ホテル、劇場といったものこそないけれど、何世紀も続いている市場や大衆食堂、職人たちの工房、それに得体の知れない露店や雑貨店なんかが軒を連ねていて、外国からの観光客たちはむしろ左岸を目当てに訪れる人が大半を占めているようだった。
 シュロモ・ウェラー先生が院長を務めておられる〈聖アキレア記念病院〉は、この旧市街の北部地域にあった。
 くすんだ水色の漆喰に塗り固められた、これまた年代ものの建物で、その最上階である四階の部屋がクレー老師にあてがわれた。それは六人の患者が入る大部屋だった。老師が運び込まれた時、すでに同室の他のベッドはすべて埋まっていた。いずれの患者も、老師に負けず劣らずの重い病状を抱えているようだった。ベッドとベッドのあいだにはかさかさとした木綿のカーテンが掛けてあって、患者どうしの交流はまったくない。せいぜい、それぞれの見舞い人どうしが擦れ違いざまに挨拶を交わすくらいのものだ。こんな具合だから、さして素性の隠匿(いんとく)に気を揉む必要はなさそうだった。一応、個室が空き次第、すぐに移してもらうことができるよう手配はしておいたけれど。
「こちらを見ているね」正午の(まばゆ)い光を浴するアパルトマンに視点を定めたまま、老師がつぶやくように言った。「私たちが見ていることを、感じ取っているんだ」
「え?」イサクがむっくりと立ち上がり、窓辺に近づいた。「……ほんとだ。顔をこっちに向けてる」
「まさかぁ」続いてルータが妹の横に立った。「いくらなんでもそれはないだろ。だって優に100エルテムは離れてるんだぜ」
 わたしはベッドのかたわらで老師の手を握りながら、兄妹の肩越しに川向(かわむこ)うを眺めた。たしかに、鮮やかに輝く茶色の建物の屋上で立ち止まった白猫は、体は歩行の途中の姿勢で静止させたまま、首だけ直角に曲げて、こちらに顔面を向けているようだった。
 すっと両目を細めて、わたしは顕術で視覚の精度を上げた。胡麻粒(ごまつぶ)ほどの大きさに見えていた対象が、一瞬のうちにプラムの実ほどに拡大される。
 その拍子に、はっと息を呑んだ。
 右と左で、瞳の色が異なる猫だった。片方が金で、片方が青。どちらも怖いくらいに奥の奥まで澄み切っていて、それぞれの中心には秘密めいた鍵穴のような瞳孔が浮かんでいる。それらが結ぶ焦点は、どうやら本当に、こちらに向けられているようだった。
 思わずわたしたちは互いの顔を見あわせた。
「……猫って、不思議な生き物ね」わたしは呆気に取られて言った。
 そこで突然、砂利(じゃり)を靴底で(こす)りつけるような音と共に、老師が咳き込んだ。孫たちは慌ててベッドに駆け戻り、ルータが再び酸素供給器を手に取った。
 口を塞がれる前に、老師は精一杯の笑顔を浮かべて、わたしたち一人一人の顔を見つめた。
「素敵な家だね」
 老師は言われた。わたしたちはうなずいた。そしてルータが、元あったとおりに器具を装着し直した。瘦せこけた大きな胸の上に、イサクが両の手のひらをぺったりと置いた。まるで、みずからの生気と体温を分け与えるように。
「待ってるからね、じいちゃん。元気になったら、またみんなで一緒に暮らそうね」彼女は言った。
 目尻にたくさんの皺を寄せて、老師はにっこりとほほえんだ。でももう、言葉はなにも出てこなかった。
「また来るからね、じいちゃん」
 呼吸が落ち着くと同時に両目を閉じてしまった祖父の耳もとで、ルータがささやいた。


 病室を出たわたしたちは、長いまっすぐな廊下の突き当たりにある階段へと向かった。
 廊下のなかほどに、看護士たちの詰所があった。酒場や喫茶店にあるようなカウンターテーブルだけで通路から仕切られている空間で、医療器具や薬品の収納された棚と書棚でぐるりを囲まれている。中央には大きな円卓が置かれ、その周りに車輪の付いた小型の作業台がいくつか並んでいる。奥の方には簡素な流し台と食器棚も見える。
 白衣をまとった数名の男女がそこで忙しそうに業務に当たっていたけれど、わたしたちが前を通りすぎる時には、何人かが律儀に手を止めて会釈を送ってくれた。わたしたちは丁重にこうべを垂れて返した。
 階段の踊り場の壁は、一面のガラス窓になっていた。真四角形の分厚いガラスの(かたまり)をびっしり連結して作られた、(ゾウ)の横っ腹みたいに大きな窓だ。よく見ると、(すみ)っこの方に鍵が埋め込まれている。でも少なくとも三年以上は、この窓が開かれたことはないみたい。鍵の金具には積もった埃が石のように凝固し、いかにも手強(てごわ)そうな緑色の(さび)も浮いている。
 荷物を抱えて階段を上ってくる運送業者の人たちに道を譲るため、わたしたちは横一列に並んでその窓に背中をつけた。窓はじんわりと温かかった。陽射しがガラスの内部で乱反射して、窓全面が白濁色に発光していた。わたしは首だけ傾けて、窓の外を眺めた。眩しさとガラスの厚みのためによく見通せないけれど、その先にはそもそも見るべきものは特にないようだった。ただ暗く入り組んだ路地裏の通路が、迷路みたいに広がっているだけだ。
「あれ」ふいにルータが声を上げた。
「おや」シュロモ先生が立ち止まった。
 荷運びの行列の最後尾に同行していた院長先生は、業者の人たちに先へ行くよう指示を与えると、わたしたちに面と向かった。
「来ていたのかね」白衣のポケットから両手を出しながら、医師は言った。
 今日も先生は初めて会った時とおなじ服装をしていた。ただ蝶ネクタイの色だけが違っていて、今日は黒地に銅色の花柄模様だった。
「はい。今、少しだけ話をしてきました」ルータがこたえた。
「話が、できた?」
「うん」イサクがうなずいた。「ほんの少しだけど、ちゃんと声を出して喋ってくれました」
「ほう。とりあえずは、順調に落ち着いてきておられるようだね」
「おかげさまです、本当に」わたしが言った。「シュロモ先生にはお世話になりっぱなしで、感謝の言葉もありません」
 医師はさっと首を振った。まるで、飛んでいる蚊を頬で叩き落とそうとでもするみたいな感じで。
「……あの、ほんとにご迷惑じゃなかったでしょうか」
 少し間を置いて、ルータが遠慮がちにたずねた。
「なにが?」先生はかすかに眉を上げる。
「もちろん、賃貸物件の契約や、保証人その他諸々(もろもろ)の件です」
「問題ない」あっさりと先生は返す。「だってきみたち、もう前金やらなんやら、そっくり納めてしまったらしいじゃないか。私はただ契約書に署名して、名前と信用を貸しただけのことだ。迷惑というほどのものはなにもない」
「恩に着ます。シュロモ先生」ルータが頭を下げた。
「かまわない。ハスキルから、きみたちのことをくれぐれもよろしく頼むと、言いつけられているからな」
 その名を耳にした途端、わたしたちの胸にぽっと火が灯った。
「もう少し落ち着いたら、ちゃんとお礼をしようって考えてるんです」わたしはイサクと手を繋いで言った。
「あの子はそんなのちっとも期待しちゃおらんだろうが」先生は微笑を浮かべた。「でも、そうしてやるといい。きっと喜ぶ」
「もちろん、モニクさんにも」ルータが横から言った。
 シュロモ先生はにやりと笑い、手を振りながら颯爽と踵を返すと、そのまま階段を上って行ってしまった。
 かと思うと、最上段で急に立ち止まり、振り返ってわたしたちを見おろした。
 そして周囲に人が来ないのを見計らってから、低い声で告げた。
「おじいさんの入院は、きっと長引く。きみたちが借りた部屋も、決して安くはない。そういった点について」医師はそこで一瞬言葉を区切った。「そういった点について、本当に無理はないのだろうね」
 シュロモ先生らしい、実に直截(ちょくせつ)的で、かつ、絶妙に婉曲(えんきょく)的な問い方だった。
 わたしたちは三人揃ってうなずいた。
「ええ。ご心配には一切及びません」ルータがきっぱりと言った。
 それを確かに聞き届けると、先生は白衣を翻してあっという間に上階へと消えてしまった。
 ふっと息をついて一歩踏み出し、ルータはわたしたちに呼びかけた。
「それじゃ、行こうか」


 一階の待合室を抜けて外へ出る間際に、わたしは二人を呼び止めた。そしてイサクが羽織っているジャンパーの前を閉じて、(えり)もぴんと立ててあげた。ルータにもダッフルコートの前をきちんと留めるように言った。わたし自身も、毛糸のマフラーをきつく巻き直した。マフラーはちょっと埃っぽくて、雨に濡れたあとの匂いがした。
 この日は、世間で言うところの休日だった。
 大気はきりりと冷えきっているけれど、風は微風(そよかぜ)と呼んでいいほど穏やかで、空はいかなる濁りも含まず青かった。こんなに青い空は久しく見たことがなかったと、わたしは雑踏のなかで白い息を吐きながら思った。まるで、もう二度と雨雲や宵闇を招き入れることなく、いつまでも完璧に青いままで()り続けることを決意したかのような、毅然(きぜん)とした青空だった。そのなかを舞う鳥たちも、今日はいつにも増して堂々と翼を広げているように見える。
「わっ」わたしのお尻に顔をぶつけた幼い男の子が、驚いて頭上を見あげた。「ごめんなさい。余所見(よそみ)してて……」
 わたしは首を振った。「ううん。こっちこそ、ぼんやりしてたみたい」
 少年は安堵の笑みを浮かべると、少し離れたところで露店を眺めている両親のもとへ駆けていった。一目で外国からの旅行者だとわかる家族連れだった。
「こりゃまた、けっこうな(にぎ)わいようだな」
 うっすらと赤らんだ鼻を指先で撫でながら、ルータが言った。わたしはうなずきながら、それとなくあたりを見回した。
 石畳のくねくねとした街路は、休日の昼食時らしくたくさんの人で溢れ返っていた。通りの両壁を()す石造りの店舗や家屋群は、いずれも積年の雨風の跡や(すす)汚れをその身にまとって、なんとも言えず味わい深い風合(ふうあい)を醸し出している。まるで、この市街そのものが中世時代の物語を描いた演劇の舞台装置みたい。
 ふと耳を澄ますと、どこかで太鼓や笛やフィドルを演奏している楽団がいるらしく、その愉快な音色が姿の見えない蝶の群れとなって、自由気ままに街の空を舞っていた。
 わたし、今、人間たちの街にいるんだ。
 そして、これからしばらく、ここで生きていくことになるんだ。
 四方から押し寄せる人々の靴音や話し声に取り巻かれながら、わたしはなかば呆然と感慨に(ふけ)った。
「……あのさ」出し抜けにイサクが歩調を緩めた。そして両手で臍のあたりを押さえた。「あたし、お腹すいたみたい」
「そうだな。荷物取りに行く前に、腹ごしらえしとくか」ルータが提案した。
「賛成。美味しそうなお店、探そうよ」わたしは言った。
 荷物というのは、あの森の家を出る時にまとめて荷車に詰め込んだ家財類のことだった。
 ハスキルとモニクの暮らす丘を出たあと、わたしたちはまず新市街の一画で営まれている貸倉庫を一つ借りて、そこにそれらを保管しておいた。そして老師の入院のあれこれが一段落ついてから今日の朝に至るまで、わたしたち自身は鉄道駅の近くにある軽装旅行者用の宿の一室を拠点にしていた。リュックサック一つ(かつ)いで各地を歩き回る(たぐい)の若者ばかりが集う施設で、料金を支払いさえすれば他になんの手続きも不要なところが、わたしたちにとっては都合が良かった。こちらがだんまりを決め込んでいたら他の利用者たちも干渉してくることはないし、一応は雨の漏らない屋根の下で毛布にくるまって眠ることもできた……のだけど、なにしろ部屋は不潔で狭っ苦しくて、備え付けのベッドや寝具はことごとく(カビ)臭くって、枯草みたいにくたびれ果てていて、今朝そこを出た時には、ほんとのところ、わたしは心の底からほっとしてしまった。
 空き腹を抱えた一行は、タフィー川に沿うようにして旧市街を南下していった。川の上には、大小いくつもの橋が架かっていた。わたしたちはそのうちの一つを渡って新市街に入った。そして河岸付近で最初に目に留まったレストランに決めた。
 奥まった窓際の席に案内されたわたしたちは、人間たちの狭間でひっそりと額を寄せあい、一つの小さなテーブルを囲んだ。
 ほぼ全席が客で埋まっていた。いろんな人がいた。いかにも旅行者然とした人たちもそれなりにいたけれど、地元の市民らしき客がほとんどのようだった。質素で身軽な服装のわたしたちも、たぶん後者の一員に見られていたことだと思う。周囲の誰も、こちらを見向きすることはない。怪しんだり、じろじろ眺めてきたりする者もいない。
 実際、わたしたちは、すっかり溶け込んでいた。……まぁ、姿形は人間となにも変わらないのだから、当然と言えば当然のことなのかもしれないけれど。
 注文をすませると、先に温かいスープをもらって、それを乾杯の代わりにした。本当はワインなりなんなり頼みたかったけど、そういうことをする年齢には、わたしたちは見えないから(特にイサクが)。ちゃんとした乾杯は、今夜、新しい部屋で、三人水入らずでしたらいいんだ。
 しばし口をつぐんで、わたしたちは黙々とスープを胃に流し込んだ。冷えた体を温めながら、わたしは川を少し下った先で水面に整列している無数の水車を眺めていた。隣でイサクも、やはりおなじものを見ていた。向かいに座るルータの瞳には、わたしたち二人の姿と、店内の奥であかあかと燃える暖炉の炎が映り込んでいた。
 それから、ふと、わたしは何者かの視線を感じた。
 一瞬息を止めて、冷静にまわりを見渡すと、わたしたちから遠く離れたテーブル席で母親に抱かれている、一人の赤ん坊と目が合った。生まれてからまだ何日も経っていなさそうな、性別すら判然としない、とても小さな子だった。頭のてっぺんから爪先まで、ぴったりとしたピンク色の毛糸の服で包まれていて、まるまるとした白肌の顔だけが、まるで出来たてのおまんじゅうみたいに光っている。
 その(おもて)に輝く黒真珠のような一対の瞳が、わたしの目を食い入るようにじっと見つめていた。
 昼と夜の違いも、水車と暖炉の違いも、そして自己と世界の違いも認めず、まだ万物を一つのものとして捉えているまなざしだ。いつまでも見つめ返していたくなるような、同時に、今すぐ視線を逸らしてしまいたくもなるような、そんな、怖いほどに透明なまなざし。
 りーん、と鋭い音を響かせて、その子が揺らした足に蹴り上げられたナイフが、テーブルから床に落ちた。母親がすぐさま身を屈めてそれを拾おうとしたところに、給仕係の一人が矢のように駆けつけた。わたしは反射的に、顕術でそれを拾ってあげようかとも思ったけれど、もちろんそんなことはしなかった。人間たちの前では無闇にその力を披露しないことを、わたしたちの一族は何百年も前から誓っている。
 新しいナイフが運ばれてくると、赤ん坊の関心はわたしから外れてそちらに向けられた。
「……ねぇ」いつしかわたしは、ほとんど無意識のうちに口を開いていた。「良い機会だからさ、これからみんなで新しい服を買いに行こうよ」
 二人は食事の手を止めて、ぽかんとした表情を浮かべた。そしてどことなくばつが悪そうな感じで、自分たちが身に着けているものを見おろした。イサクはセーターの袖口のほつれた部分や、薄くなったデニムの(もも)のあたりをこそこそと撫でた。その兄は、日に焼けて毛羽立ったシャツとズボンをじろりと見やった。わたしは先日ハスキルに指摘された絵具の染みを眺め、今は椅子に掛けてあるマフラーに染み付いた埃や雨の匂いのことを思いだしていた。
「……そうだな」ルータが真剣な面持ちでうなずいた。「この際だから、いっそのことなにもかも新調してしまおう」
「うんうん。心機一転ってやつだね」わたしも大いにうなずいた。
「ふん……まぁ、いいけど」イサクは肩をすくめた。
「あ」
 食事を再開した矢先、ルータが変な声を漏らした。
「なにさ」イサクが露骨に眉をひそめた。
「ほら。それとさ、画材屋にも行かなきゃな」
「あぁ……。ねぇリディア、あの絵も荷物に入れてたよね?」
「ええ。入れたわ」
「病室に飾らせてもらおうぜ」ルータが嬉々として提案した。「綺麗に、額装してもらってさ。きっと喜ぶよ、じいちゃん」
「いいね。たまには気の利いたこと言うね、ルータ兄ぃも」
「なんだかちょっと、照れくさいな……」
 いろんな人が出入りする部屋に自分の作品が飾られるところを想像して、わたしはぼそっと唸った。
 そこへ料理が運ばれてきた。
「お待たせしました」身なりの良い若い男性の給仕が、まるで昔からの常連客に向けるような親密な笑顔と共に、それらをわたしたちの前に並べてくれた。「どうぞごゆっくりお過ごしください」
「ありがとう」わたしは言った。
 最初のひとくちを口に運ぶとき、なにげなくさっきの母子の方へ目をやった。母親が耳もとでささやきかけるなにかの言葉に反応して、赤ん坊は幸せそうに両手をぱたぱたさせていた。
 街のどこかにある時計塔が、午後一時の鐘を鳴らした。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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