15 新たな出逢い

文字数 7,695文字

 わたしたちの新たな住処(すみか)であるアパルトマンには、公園と見間違うくらいに立派な前庭(まえにわ)がついていた。青々とした冬芝(ふゆしば)が一面に張られ、その上に不規則な間隔を空けて植えられた十本ばかりの常緑樹が、それぞれ空いっぱいに枝葉を広げていた。
 樹々のあいだを縫うように伸びる白い石畳の歩道が、敷地の門と建物の玄関を繋いでいる。けれどわざわざその曲がりくねった、決して短くはない道を、律儀に使う人はあまり――というかほとんど――いないみたい。門から玄関への最短経路となる直線上に、入居者たちによって踏みしだかれた(わだち)が形成されていた。長いこと森の奥地で暮らしてきたわたしたちにとっては、芝生というものはなんだかとても貴重で不可侵なものに思えて、それを踏みつけるなんてことはできなかった。だからいつも、きちんと歩道を通った。
 わたしたちの他にその道を使う住人は、わたしの見た限りだと、片手で数えられるほどしかいなかった。そのなかで、わたしたちと知己(ちき)を得ることになった二人の女性がいた。
 一人は、このアパルトマンの管理人を務めている、サラマノという姓の初老のご婦人。
 数年前に夫を亡くして以来、彼女はこの建物の一階に一人きりで暮らしていた。手足の生えたカボチャみたいに丸々とした体つきの女性で、いつ見かけても淡い紫色の髪をぴっちりとしたお団子にまとめ、細い銀鎖の付いた鼻眼鏡を掛けていた。口数は多くなかったけれど、顔を合わせるたびに彼女はいつも愛想よくほほえみかけてくれた。わたしたちが何者であるのかなんて、気にする素振りも見せずに。
 もう一人は、ラモーナという名前の幼い女の子だった。
 彼女はわたしたちの一つ上の階、つまり最上階である七階の部屋に、両親と共に三人で暮らしていた。父親は高名な心理療法の医師で、母親は売れっ子の若手オペラ歌手だった。この二人は親子ほども(とし)の離れた夫婦だったのだけど、なにしろ両者が一緒にいるところを一度も見かけることがなかったので、最後までその家庭の実態は謎に包まれたままだった。
 わたしに知ることができたのは、とにかく夫婦共に多忙を極める日々を送っているということだけだった。
 二人は毎晩遅くに帰宅し、朝は平日休日問わず早くに出掛けていった。毎朝、夫妻と入れ替わりで家政婦や家庭教師がやって来た。来年から初等学校に通うことになる年齢のラモーナは、そういったお世話係の女性たちの保護下で、日中のほとんどの時間を自宅か前庭で過ごしているようだった。見たところ、おなじ住居のなかにも近所にも、少女と友だち付き合いをする相手はいないようだった――あ、いいえ、一人、じゃなくて一匹だけいた。あの、クレー老師の病室から見かけた、金と青の瞳を持つ白猫。このアパルトマンを拠点にして気ままな生を謳歌するその(めす)猫は、ラモーナによって〈ケルビーノ〉という名を与えられていた。
 ケルビーノは、特に人間を拒絶するようなことはなかったけど、その神々(こうごう)しくさえある姿容(しよう)に相応しく、簡単には喉を鳴らさない気位(きぐらい)の高さも持ち合わせていた。彼女がすんなりと体を触らせ、ごろごろと鼻歌を歌うのは、彼女のいちばんの友だちである少女と一緒にいる時だけだった。
 わたしたちが初めてラモーナと言葉を交わすことになったまさにその時、白猫は少女の腕に抱きかかえられていた。
 それは、わたしたちの入居から数日経ったある日の、気持ち良く晴れた午前中のことだった。
 ルータとイサク、それにわたしの三人は、老師の病室を訪ねるためにアパルトマンの玄関を出たところだった。庭の緑が季節外れなほど鮮やかに煌めき、その向こうで泰然(たいぜん)と流れる川の水面は、まるで砂金をちりばめたように眩く輝いていた。わたしは腕のなかに一枚の絵を抱えていた。この前日に画材店で額装してもらったばかりの、例の山並みを描いた水彩画だ。
 快晴とはいえ、木陰の空気は凍るほど冷たくて、庭に出ている人の姿はほとんどなかった。ただ一人、陽当たりの良い場所に置かれた木製のテーブルに座っている中年の女性が、寒そうに両手を揉み合わせていた。わたしたちと互いの存在を認めあうと、あちらから先に会釈を送ってきた。こちらも丁寧に返した。フリルの付いたエプロンを着けていたので、最初はここを公園だと勘違いして入り込んできたどこかの奥さんかとも思ったけれど、そうじゃなかった。彼女はいくぶん張り詰めた目つきで、門の方を眺めていた。門の脇に、川面の光を背景にして、白猫を抱き上げる少女の姿があった。
 猫の毛色とは対照的に、少女のまっすぐで長い髪はビロードのように(なめ)らかな黒だった。それにワンピースもコートも靴下も革靴も、さらには両の瞳までも、すべてが髪とおなじ色。エプロンの女性は、その少女の姿を視界の真ん中に据えて動かさずにいるようだった。
 歩道のなかほどで、少女とわたしたちは初めて顔を合わせた。
「こんにちは」重たそうに猫を担いだ少女が、品の良い笑顔を浮かべた。
「はい、こんにちは」先頭にいたわたしが、一行を代表してこたえた。
 少女の肩の上に顔を載せていた猫が、いかにも怪訝(けげん)そうにこちらを振り向いた。その瞬間、左右の目の色が違うあの白猫だということに気付いて、わたしたちはあっと声を漏らした。
「きみの猫ですか?」ルータがたずねた。
 少女は首を振った。「いいえ。ケルビーノは、たいせつなともだちではありますけど、わたしのものではありません」
 そのおとなびた口調に面食らって、わたしたちは目を丸くした。
「じゃあ、このあたりに住んでる野良の子ってこと?」今度はイサクが訊いた。
「はい。そういうことになるとおもいます」
「ケルビーノっていうんだ、この子」わたしが言った。「あなたが名付け親?」
「はい。きょねん、わたしがつけました」
 真面目な顔つきで返答すると、少女はふいに視線を横へやった。その先では、エプロン姿の女性が立ち上がって、こちらをじっと見ていた。わたしたちはそちらを振り返り、おおよその事情を把握すると、女性に向かって安全を保証する微笑を送った。先方は特に警戒する様子もなくそれを受け取ってくれた。そしてまた静かに腰を降ろした。
「……あの」家政婦の女性が落ち着くのを待って、少女は口を開いた。「しつれいですが、あなたのもっていらっしゃるそれは、なんですか?」
「これ?」わたしは包装紙にくるまれている自分の作品に目を落とした。「あぁ、これはね、絵なんです。わたしたちは、今からこれをある場所まで届けに行くところなの」
「へぇ……」少女の黒い瞳の表面が、一瞬波打つような光を放った。「絵、ですか……。そうですか……絵……」
「……ほら、早く見せたげなよ」くすっと笑って、ルータがわたしに耳打ちした。
 わたしはその場にしゃがみ込んで絵の包装を解いた。
 遥かな山並みの光景が、少女の眼前に広がった。
 葡萄(ぶどう)の果実と(つる)の模様が彫り込まれた黄銅の額縁が、画面のなかの青や白や灰緑(かいりょく)を上手く引き立ててくれている。
 両目をいっぱいに開いて、ラモーナは気持ち良いくらい夢中になって、長々と絵のなかの世界に浸ってくれた。
「このお姉ちゃんが描いたんだよ」
 イサクがわたしを指してそう言うと、少女はますます瞳を輝かせ、彼女の語彙に含まれるありったけの賞賛の言葉を並べて、わたしを褒め称えてくれた。
 再び包装紙を絵に巻きながら、わたしたちは互いに自己紹介をした。
「リディアさん。ルータさんに、イサクさん」少女は一人一人と目を合わせて、間違いがないようにゆっくりと繰り返した。そして、もぞもぞし始めた猫を解放してやりながら、眩しそうに建物の上方を見あげた。「では、あなたがたが、わたしたちの下のかいにひっこしてこられたかたがただったのですね」
「そういうことです」ルータがひざまずいて片手を差し出した。まるで一人前の淑女に対してするように。「これからよろしくお願いしますね。ラモーナさん」
 頬を薄く赤らめて、少女はその手を握った。
「こちらこそ、よろしくおねがいします。なにかおこまりごとがありましたら、いつでもお声をかけてください」
 最後にぺこりとお辞儀をして、ラモーナは自分を追ってくるケルビーノと一緒に、家政婦のもとへ駆けていった。その艶やかな黒髪を、イルカのように優美に踊らせながら。
 思いがけない新たな出逢いにほっこりと胸を温めたわたしたちは、足取りも軽く門を出た。


 病室に着いた時、クレー老師はちょうど点滴を受けているところだった。容態は落ち着いてはいるが、昨夜遅くに発熱と咳が見られたため、今日は大事を取っているとのことだった。
 いつもの酸素供給器を装着して、老師は寝息さえ立てずに眠り込んでいた。絵を見てもらえないのは残念だったけれど、無理に起こすことはしなかった。わたしたちに応対してくれた看護士の女性に、壁に絵を飾らせてもらうことはできるだろうかとたずねると、即時こともなげに許可してくれた。シュロモ院長に許諾を求める必要はないのかと問うたら、彼女は一笑(いっしょう)()すように首を振った。そんなの、あの先生が気にするわけないわ、と彼女は言った。なにしろ以前には、愛器のチェロを持ち込みたいっていう入院患者のわがままだって、聞いてあげたこともあるのよ。まぁさすがに、屋上でしか演奏はさせなかったけれどもね。
 わたしたちは老師が足を向けている方の壁の、天井すれすれのあたりに絵を掛けさせてもらった。この位置なら、ベッドに横になったままでも、少し首を起こすだけで眺めることができるはず。
「まるで、窓が一つ増えたみたいだな」ルータが満足げに言った。
 わたしたちは老師を起こさないように、そっと彼の手を代わりばんこに一撫(ひとなで)でして、病院を後にした。
 それでもう今日やるべきことはなくなってしまった。来週にはちょっとした予定が待ち受けているけど、それまでは大した用事はない。(まご)うことなき、暇というやつだ。
「……とりあえず、なんか食べ行こうか」あくびを噛み殺しながら、イサクが言った。
 それで一行は、気まぐれに乗合(のりあい)馬車なんかに乗って、そのまま成り行き任せに新市街の中心部まで足を伸ばした。適当に入った喫茶店でお腹を満たし、近隣の商社に勤める背広姿の人々に紛れて再び街の通りへ出ると、またなにもすることがなくなった。昼休憩を終えた人間たちが各自の持ち場にぞろぞろと戻っていくのをぼんやり眺めながら、仕方なしにあてもなくほっつき歩いた。
 このところの慌ただしさがようやく収まったところで、三人ともすっかり気が抜けていた。やらなきゃいけないことや考えなきゃいけないことは多々あるにはあるのだけれど、なんだか今日はなにをするのも億劫だった。
 かと言って、なぜだかすぐに帰宅したい感じでもない。
「ねぇ、前に言ってた冒険小説の新しいやつって、もう出たの?」歩きながらわたしはルータに訊いた。
「いいや、まだ。たしか、明々後日(しあさって)とかだったかな、発売日」
「ふぅん……」
 腑抜けた息を吐いて、わたしは空を見あげた。誰かが雑に放り投げた紙屑(かみくず)みたいな雲がいくつか、どこへ行く気もなさそうにぷかぷかと浮かんでいる。昼下がりの太陽は暖かく、立ち止まるとさすがに風が冷たいけど、体を動かし続けていたら汗さえかきそうだった。
 そこで突然、イサクがわたしのコートの裾を引っ張った。
「わっ」わたしは足を止めた。「なに?」
「あれ」眼鏡の真ん中を指先で押し上げつつ、イサクが顎をしゃくってなにかを示した。
 この時わたしたちは大通りの歩道を歩いていた。左手には蒸気自動車や馬車がずらりと行列を成す車道が伸び、右手には石畳の大広場が開けていた。広場の中央には堂々たる三段構造の噴水がそびえ、その隣には誰だか知らない偉人の石像が立っている。その周りを、いろんな方角からやって来るいろんな人たちがいろんな目的のために行き交っている。
 わたしとルータはイサクに促された方向へ目を向けた。
 噴水と石像のあいだに、コーヒーやお菓子を売る屋台が出ている。あれのことかと確認しようとすると、先んじてイサクが首を振った。そしてさっと腕を上げて、なにもない一点を指差した。いえ、なにもないことはなかった。よく見るとそこには、一輪の花が落ちていた。花弁の厚い、紫色の花だ。
 わたしたちがそれに目を留めたことを認めても、イサクはまだ手を降ろさなかった。彼女は突き出した指先を水平方向に滑らせて、さらに別の地点を指し示した。
 その先には、またもや一輪の花が落ちていた。今度は赤い薔薇。
 そしてここまで目が及ぶと、もうイサクの指摘は必要なくなった。薔薇から少し離れたところに、また違う色の花が一輪、落ちている。さらにその向こうに、また別種の一輪。そこからまた向こうに、一輪……。
 そんな調子で、まるでなにかの動物を(えさ)でおびき出そうとでもしているみたいに、点々と続く花の道筋が広場の(はじ)から端までを横断していた。それらのいくつかには、誰かの足や自転車に踏まれた形跡があったけど、いずれの花弁も葉も茎も、まだ鮮度を保っているように見える。あたりを歩く人々は、誰もそれらに注意を払ってはいないみたい。というか、ほとんど誰も気付きさえしていない。しかし見れば見るほど、なんとも言えず不思議な現象ではあった。
「追っかけてみよう」ルータが妙に楽しげに提案した。
 こうして、暇を持て余したわたしたちは、花々が結ぶ線上をぶらぶらと辿っていった。
 広場を出ても、花の経路は途絶えることなく続いていた。
 まず車道を渡り、最初の角を曲がってしばらく直進し、それから近道でもするように急に左折して細い路地に入る。そこからまた道なりにまっすぐ行くと、さっきとは別の目抜き通りに出る。そしてその通りに面した巨大なホテルの玄関先で、ついに花の道は終わっていた。
 終着点には、一台の三輪自転車が停まっていた。今しも運転手の青年がそれから降りて、車体の後方に載せられた箱型の荷台を点検し、その後部の扉を固定する鎖を結び忘れていたことに気付いたところ。
 開けっぱなしにされていた荷台の扉の内側には、たくさんの種類の花が収められた木箱が積んであった。それらを支えていて(しか)るべき扉が閉じられていなかったことで、木箱は大きく後ろ向きに傾いていた。そしてそこから、今もまた、はらりと一輪の花が零れ落ちた。
 ホテルの玄関から出てきた従業員の男性が、何事が起こったのかを把握すると、呆然とした表情で来た道を振り返って頭を抱えている青年の肩を、大笑いしながらぽんぽんと叩いて慰めた。
 わたしたちは通りを挟んだこちら側からその様子を眺め、顔を見あわせ苦笑した。
「ま、こんな程度のことだろうと思ったよ」イサクが肩をすくめた。
「ちょっとした余興にはなったじゃないか」両手をズボンのポケットに突っ込み、ルータが笑った。「なかなか愉快な追跡劇だった。もうちょっと続けたかったな」
 それから彼はわたしの方を振り返って、さらになにか言おうとしかけた。
 でもそのために開かれた口は瞬時に閉じられ、(かた)やその両目は大きく見開かれた。
 わたしは彼の視線を追って、すぐに背後へ目を向けた。
 彼方の(かど)を曲がって、わたしたちのいる通りに飛来した小さな人影があった。
 あたり一帯は自動車や馬車や通行人たちで混雑していたけれど、その身に羽を備える彼女にとって、そんな状況はなんの障害にもならない。路上に立つ警官の手旗信号も易々(やすやす)と無視して、彼女は人間たちの遥か頭上を悠然と飛んでいた。
 信号で停車中の車の窓から身なりの良い男の子が体を乗り出して、街なかではあまり見かけることのないアトマ族の姿に喜び、大きく両手を振った。にっこりと色っぽい笑みを浮かべたアトマの女性は、空高くから少年にキスを投げてよこした。これには少年の父親らしき人物も反応し、運転席の窓を開けて口笛を吹くと、おまけに車の警笛も何度か叩き鳴らした。
 彼女がわたしたちの目の前にあるホテルに近付いてきた時には、すでにわたしたちは自分たちに宿る発顕因子の気配を完全に消していた。人間たちには至極困難な芸当だそうだけれど、わたしたちの一族やアトマ族の人たちは、こうした波動操作術を誰もが得意としている。
 アトマの女性はこちらにはまったく目もくれず、ふわふわとホテルの玄関に吸い込まれていった。長くうねる真っ黄色の髪を、自信たっぷりになびかせて。
「あの人だわ」わたしは言った。
 森を去る直前に雨のなかで見かけた時には、彼女はホルンフェルス王国の軍服を身にまとっていた。でも今は、若草色の下地に銀色の草模様が縫い付けられたイブニングドレスを着ている。髪は結ばれていない。化粧は濃いほどじゃないけど、過不足なく丁寧に施されていて、口紅とお揃いの暗い茜色のハイヒールを履いている。自分の耳より大きな円形の水晶イヤリングを、両耳に着けている。
 わたしは今一度、ホテルの全貌を見渡した。
 赤褐色の石材と漆黒の木材で築かれた、由緒ある古城のように荘重(そうちょう)な建造物だ。五階ぶんの壁一面に整列する窓の一つ一つに、手の込んだ彫刻の(ひさし)と柵が取り付けられている。玄関口では出入りする人々の流れがいっときも絶えず、通りの向こうからひっきりなしに馬車や自動車がやって来ては客を降ろし、また去っていく。缶詰みたいな形状の帽子をかぶった制服姿のドアマンたちが、入れ替わり立ち替わり、新客の荷物を(すく)い上げていく。
 一歩後ろに退()がって、わたしは兄妹のいでたちを上から下まで眺めた。
 ルータは鳶色(とびいろ)のシャツの上に細身の黒革ジャケット。下はすっきりとした形の灰色のデニムに、白茶(しらちゃ)色のモカシン。そしてここ最近常に着けている銀の腕時計が、左の手首にちらりとのぞいている。
 イサクの方は、太糸で編まれた水色のセーターに、群青色のショートコート。タイツみたいにぴったりとした綿のズボンは、かすかに青みがかった黒。履物は駱駝色(らくだいろ)の運動靴。
 そしてわたし自身は、首長の黒のニットに、薄灰色のエプロン型ワンピース。それにまっさらな砂浜色のトレンチコートを羽織り、黒のブーツを履いている。頭の後ろには、今朝イサクが結んでくれた黒い羽根付きリボン。
 今わたしたちが身に着けているものは、いずれも先日この街で新しく買い求めたばかりの品物だ。質素に見えて、どの品もかなり値の張る高級品だった。
 あの時、とっさに思いついて服を買い換えておいてよかった。この衣装なら、こういうちょっと敷居の高いホテルに少年少女――のような背格好をした者――たちだけで足を踏み入れても、特に怪しまれることはないだろう。
 騒々しい街角で、わたしたちは人知れず目配せしあった。そして体内の発顕因子は抜かりなく封じたまま、さりげない足取りで通りを横切った。するすると人波をかいくぐり、誰にも見咎(みとが)められることなく玄関に辿り着き、大きな回転扉から建物のなかへと侵入した。
 さっきまでぼんやりとふやけていた頭は、今や雪の結晶のように鋭く冴えていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み