44 猫様様

文字数 3,571文字

 まず、この街に来て間もない頃に購入して以来ずっと着けていた腕時計をルータが紛失したのは、やはりあの公園での事故の時と見て間違いないだろう。
 彼は暗黒の水路へと転落する友人を救出するために、後先考えず身を(てい)してバイクに飛びかかった。その結果、頬に浅い切り傷を、肩と胸に軽い打撲を負い、お気に入りの革ジャケットには数カ所に傷跡が残り、愛用の時計はその腕から外れ落ちてしまった。
 事故の際に生じた衝撃音は相当なものだった。
 近くにいた人々のほとんどは、ただ戦慄するか、悲鳴を上げるか、あるいは本能に従って一目散にその場を離れようとしていた。そんななか、こうした有事にも動じない胆力(たんりょく)を備えた幾人かの男たちは、条件反射的に駆け出して現場を目指していた。
 ルータたちが文字どおりに目にも留まらぬ速度で飛び去った後、わたしとイサクは野次馬の人だかりに混じって、恐るおそる事故現場に近付いた。
 水路脇の両岸には、牛が昼寝をできるくらいの幅の通路があった。バイクは幸いにも、水の上ではなくその通路の上に落下していた。一度向かいの岸壁に衝突したらしく、その跡には大きな獣がでたらめに爪で引っ掻いたような傷が刻まれ、車体は見るも無残に大破していた。ハンドルは捩じ曲がり、側面鏡は二つとも根もとから折れて粉々に割れ、タイヤは寝惚けた犬みたいにだらりと沈黙していた。
 早くも下に降りてその場を検分している数名のなかには、訓練された軍人でありバイクの持ち主の関係者でもある二人の男と、一人のアトマ族の女性の姿があった。
 彼らはバイクに乗っていた青年の姿がどこにも見あたらないことに困惑し、みんなで暗い水の流れの進む先へと視線を注いだ。
 気を利かせた誰かが大きなランプを運んできて、上からその一帯を照らした。しばらくして軍警察の車がさかんに警笛を鳴らしながら駆けつけたけれど、その時にはすでに、わたしたちはそこから立ち去っていた。……


 事故当時の状況を改めて思い返すと、自分たちがいかにその場の混乱する雰囲気に呑み込まれていたかということが、よくわかる。そして、遂にわたしたちの一族が公衆の場で顕術の本領を発揮し、あまつさえそれが確実に一人の人間の知るところとなってしまったという事実に、どれほど驚き打ちのめされていたか、ということも。実際、気が動転したなんてものじゃなかった。成す術もなく二人で歩いて帰る道すがら、わたしとイサクは固く手を繋ぎ合ったまま、どちらも一言も口が利けないほどだった。
 おかげで、実に情けないことだけれど、思い至るのにずいぶん時間を要してしまった。
 あの時、事故現場周辺の大気に満ちるイーノは、ほんの一瞬のこととはいえ、激しく揺らいだはずだ。
 もちろん普通の人間たちは、誰もそんなことに気付きはしない。
 しかしあの場には、それをはっきりと感知することができる者が、ただ一人だけいた。
 きっと彼女にしてみれば、突発的に出現した飛行顕術の波動は、(なぎ)の水面に岩が投げ込まれたような衝撃として感じられたに違いない。たとえ酔っ払っていたとしても、それに気付かないほど鈍感なアトマ族なんていやしない。
 彼女はそれを知って、どうしたか?
 おそらくは、彼女が懇意にしている人間に伝えただろう。それもその場で、すぐに。
 報告を受けた男は眉をひそめ――るくらいはしてもいいはずだ、あの鉄仮面でも――、今しがた水路脇の通路で見つけたばかりの、バイクの操縦者の所有物ではない腕時計を、そっとポケットに収めただろう。
 そして彼は機が訪れるのを待って、それを所有者の手に返却した。
 無論、ただで返すわけがない。
 彼は相手に、ちょっとした揺さぶりをかけた。
 相手は無難にそれを潜り抜けたかに見えた――が、実のところ完全には、上手く(かわ)すことができていなかったのだろう。
 男の目論見どおり、相手は自覚のないままに揺さぶられていた。恐ろしいほど鋭い観察眼を持つ男は、その動揺を、ほんの微細な心身のこわばりを、確かに見抜いていた。
 男が抱いていた不審の念は、このあたりでいよいよ深まったに違いない。
 それから数日が経ち、まさに奇跡としか言い様のない無事の生還を果たしたバイクの操縦者は、男が逗留しているのとおなじ宿から、最近できたばかりの友人を訪ねるために一人で外出していった。
 しかし、彼は一人ではなかった。
 男がこの機会を見逃すはずもない。
 青年の背後には、その身に宿る発顕因子が放つ波動を自在に操作する能力――つまり自分の気配を自分の意思でほぼ完全に消してしまえる能力――に長けた小さな女性が、適度な距離を空けてぴったりとついていた。そうとしか考えられない。
 それで結局、彼女は、そして彼女に指示を与えた男は、正体も得体も不明の三人組が住む場所を知ることとなった。
 以降、男と小さな女性の二人は、休日や自由な時間の多くを、わたしたちの尾行や身辺調査に費やしたことだろう。
 やがて彼らは、一人の幼い少女に目をつけた。調査対象が暮らす建物の前でたびたび見かける、とても

子だ。
 男は髭をあたり、片眼鏡(モノクル)を掛けて帽子をかぶり、貸衣装屋を訪れるなりなんなりして、すっかり紳士的な姿に変身した。一人きりの時に、鏡の前で愛想良く振舞う練習くらいはしたかもしれない(きっとしただろう)。
 あの年頃の女の子を夢中にさせる物のことなど知るはずもない彼は、仲間の小さな女性にその物資の調達も命じた。彼女は自分の髪によく似た色の可愛らしいブレスレットを見つけてきた。
 彼らは気配を殺してアパルトマンの近くに張り込み、然るべき機会の到来を待った。
 そしてその時が訪れると、思惑どおり上手くやってのけた。
 幸いにもいっとき保護者の目から離れることになった少女に対して、彼は迅速に聞き込みをおこなったはずだ。ここに住んでいる三人の若者のことを知らないか、と。
 少女はもちろんそれを知っている。
 彼は続けたはずだ。
 三人はいつ頃からここに住んでいるのか。どういった生活を送っているのか。三人以外にも同居している人はいるのか。なにか変わった様子はないか、等々。
 知り及ぶ範囲内でこたえられるだけのことを、少女はおそらく正直にこたえたはずだ。こたえてしまったのだと思う。
 でもいったい、誰に責められるだろう。
 今や彼女の手のなかには、口外無用の約束と引き換えに、世にも愛らしい贈り物が握りしめられているのだ。彼女はそれに夢中だ。すっかり心を、理性を、奪い取られてしまっている。彼女はそれを手放したくない。
 というかそもそも、こんなにりっぱな紳士のかたと、ちょっとおしゃべりをしただけじゃない。きっと、いけないことなんか、なんにもないわ。べつに、ひどいうそをつくわけでもないのだし。ただ、あのかたがたに、あのかたがたのことをきかれたことを、おつたえしないだけで、いいのだもの……
 というのはわたしの勝手な想像だけれど、でもきっと、だいたいこんな具合の省察と葛藤が小さな胸の内でおこなわれ、そして、(おの)ずと解決したんじゃないかと思う。
 ともかくこうして、〈学者さん〉は求めていた情報のいくつか入手し、ますます疑念を募らせることになったわけだ。あの三人は……
 つい先月、突然ここへ引っ越してきた。
 まだとても若いのに、これほどの高級住宅に両親や親類のような同居者は伴わず、三人だけで暮らしている。
 三人ともほぼ毎日外出するけれど、どうやら学校や仕事へ行っている様子はない。部屋にいる時間が長い。
 時々暗くなってから、一人か、二人か、あるいは三人全員で、正装してプレゼントや花束を抱えて出掛けていく。でも、だいたい二、三時間くらいで帰ってくる。プレゼントや花はあまり相手に気に入ってもらえないのか、大抵の場合そのまま持って帰ってくる。……
 あのアトマの女性が、アリアナイトの採掘地まで尾行してきていたのかどうかは、わからない。けれどたぶん、その可能性はかなり低いんじゃないかと思われる。あの日は平日だったから、彼女は仲間たちと一緒に昼間は森へ入っていたはず。
 問題はその後だ。
 夜に、帰宅したわたしたちの様子を窓の外からのぞき見ていた可能性は、とても高い。
 あの時、ケルビーノがベランダの手摺を駆けて追い回していたのは、寒空の下でじっと身を潜めていたアトマ族だったんじゃないかと思う。
 ケルビーノが追い払ってくれたおかげで、たぶんアリアナイトをリュックサックから取り出す瞬間は、彼女に目撃されずにすんでいたはずだ。もしこの時点で見られていたら、すぐさま通報されて軍警察が押し掛けてきていたかもしれない。もしそうなっていたら、どれほど手荒な真似をしなくちゃいけなくなっていたことか……。まったく、猫様様(さまさま)だ。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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