序 わたしの語る物語

文字数 6,370文字

 あなたがいてくれて、ありがとう。
 あなたというのは、もちろん、今ここでわたしの書いたこれらの言葉を読んでくれている、ほかの誰でもない、あなたのこと。
 どうやってあなたがここに辿り着いたのか、そしていったいどんな巡りあわせでこの手記を発見し、その手に取ってページを開くことになったのか、わたしにはなにもわからない。きっと一生、わからない。あなたとわたしは、互いの生涯において、きっと一度たりと顔を合わせることは叶わないでしょう。
 それでも、わたしはあなたにありがとうと言いたい。
 あなたがいてくれて、本当にありがとう、と。
 今あなたがこれを読んでくれているという事実が、わたしが書き記したこの物語があなたのもとへ届いたということの証そのもの。もはや今のわたしにとっては、それだけが、その証の実現と実在を信じることだけが、生きるよすがと呼ぶべきもの。それだけが、なによりかけがえのない、今日という日を生きるための目的。もしそれがなかったら、とてもじゃないけど、もうやっていられない。あなたとの出逢いを信じることができなかったら、もうとっくの昔に、わたしの魂は、母さんたちのいる場所へ召されていたにちがいないわ……。
 そう、母さん……わたしを産んでくれた、この世でただ一人の、わたしの実の母親。こうして話を始めるとなると、わたしのこの地上での生の開始の地点、つまり母さんのお腹から出てきたところから始めなくちゃいけないのかもしれないけれど、いくらなんでもそれじゃ長くなりすぎるわね。ただでさえ、わたしの血族はみんな気が遠くなるくらいに長生きなのだし。このわたしにしたって、見た目はいまだにふつうの人間の少女みたいだけど、これでけっこうな歳なんだ。
 わたしが今いるこのちっぽけな部屋のなかにも、一つだけまともな鏡がある。壁に掛けられたそれに映る自分を見ていると、最近よく思うわ。母さんの若い頃に、今の自分はそっくりだって。
 と言っても、最後にこの目で母さんの顔を見たのは、もうほんとにずっとずっと昔のことだから、それが正確な比較なのかどうか、確信は持てない。じゃあなぜそんなことが言えるのかというと……
 ここに、わたしの手もとに、何冊かのスケッチブックがある。
 いつか、なにかの本で読んだことがあるわ。人は誰でも、自分のなかに一つくらいは、生まれた時からその手に宿している才覚があるものだって。
 わたしの場合、それは絵を描くことだった。
 ちゃんとした先生についたことは一度もないし、学校に通ったこともないけれど、絵を描くこと自体がとても好きだったから、幼い頃からずいぶんたくさん描いてきた。でもわたし、生まれてからずっと終わりのない旅暮らし続きで、数えきれないほど何度も引っ越しを――それもほとんどの場合、決してみずから望んだものではない、やむを得ない引っ越しを――くり返してきたものだから、これまでに描いた絵を全部きちんと保管しておくなんてことは、どうしたってできなかった。
 だから、いつからか、描いたもののなかでとくに気に入ったものばかりを選んで、スケッチブックに綴じておくようになった。いざとなったら、そうしてまとめた何冊かを抱えて、家を飛び出せばいいわけだ。
 今、わたしの目の前にあるこのすべてのスケッチブックの、すべてのページ、すべての作品を、わたしはどれもよく覚えてる。そのなかの一冊に、世を去る少し前の姿の母さんの肖像画がある。わたしが自分とよく似てるって言うのは、この絵のなかの母さんのこと。


 ……めまぐるしい旅から旅への生活が続くなか、この絵に描かれた若い頃の母さんと一緒に、どこかの草原を歩きながら夜明けを迎えた時のことを、今でもよく思いだす。
 その頃、わたしはまだ赤ん坊のように幼かった。
 足もとに広がる見渡すかぎりの銀色の草は、まるで大地という巨大な獣がまとう体毛のように、夜風に吹かれてふわふわと踊っていた。風はその獣の寝息のように、あるいはときどきはあくびやくしゃみのように、なめらかにふわっと吹きつけたり、ひゅうと音を立てて渦を巻いたりしていた。濃密な群青色の空には、蜘蛛の巣みたいに細やかにもつれあう雲の群れが散らばっていて、その隙間に、あたかも巣に絡みつく朝露のように、一晩の務めを終えた幾億の星々がまたたいていた。
 月はもう、どこにも見えなかった。もしかすると、新月だったのかもしれない。
「ごらん」母さんが言った。
 わたしは顔をあげて、母さんの横顔を見上げた。でも母さんは、うすく開けた両目をさっきからずっと前の方へ――今まさに陽が昇ろうとしている地平線の彼方へ――向けるばかりで、空いている方の手でどこかを指し示すようなこともなかった。
 きょとんとしているわたしの様子を見てとった母さんは、ふっと小さく笑って、それからあごを少し上へあげた。わたしは空へ目を向けた。
「もっと後ろだよ」母さんは言う。
 歩幅を少しゆるめると、私は首をぐるりと回して背後を仰いだ。
 すると、わたしたちの後方にそびえる、まだたっぷりと夜の闇をたたえた巨大な連山の頂を超えて、たくさんの鳥たちが太陽めがけて飛んでいくところだった。
 鳥の一群は、まるで進行する線をぴったりと定められた水泳の選手たちみたいに均等な間隔を保って、わたしの視界を左の端から右の端まで一直線に結んで並び、それぞれにゆったりと両翼をたゆたわせていた。
「わぁ」わたしは直上の空を通過する鳥たちを食い入るように見つめて、思わず嘆息した。「綺麗ね。初めて見る鳥だわ。みんな、なんて上手に飛ぶのかしら」
「ほんとにね」ここでやっと母さんも顔をあげて、幾多の翼の軌道を目でなぞった。
「ねぇ母さん、わたしもあんなふうに飛んでみたい」わたしは瞳を輝かせた。
「飛べるわよ」母さんはにこりと笑った。「あなたが望むなら、望んだとおりに。まぁ、ちょっとは練習が必要かもしれないけどね」
 そう言いながらわたしに注がれる母さんの両目も、きらきらと輝いていた。わたしたちは互いの青い瞳を見つめあい、ほほえみを交わしあった。
 穢れのない純白の太陽が、わたしたちと鳥たちの行く手の果てで、空と大地が接する隙間に切りこまれる刃の一閃のように、そのまばゆい権能の片鱗をあらわしはじめた。
 わたしたち母娘も、そして名も知らぬ鳥たちも、まっすぐに新しい光のなかへと向かっていった。
「あの子たちはどこへいくの?」わたしは朝陽に溶けこんでいく無数の翼を見送りながら、母さんにたずねた。
「どこにも行かないよ」母さんはこたえた。
「どこにも?」わたしは首をかしげた。「でも、ああやってみんなでどこかを目指して飛んで――」
「どこも目指したりなんかしないよ」やけに静かな声で母さんは言った。「どこにも、行くべき場所も、やるべきこともないの。彼らはただ、この世界と一緒にいるだけ」
「……ふぅん」わたしはわかったようなわからないような心持ちでうなずき、再び顔を前方の草原へ向けた。
「ね。どうしてあの鳥たちみたいに飛んでみたいと思うの?」ふいに母さんがわたしの顔をのぞきこんだ。
「だって、あの子たちはなんていうか……とても自由な感じがするもの。ほら見てよ母さん。まるでこの空まるごと、あの子たちのものみたい」
「……ほんとにそうかな」わずかばかりのためらいがこもる声で、母さんは言った。いつもはっきりと迷いなく言葉を選ぶ母さんにしては、ちょっとめずらしいことだった。「鳥たちにしてみれば、この空だって、ただの大きな鳥籠みたいなものかもしれないよ」
 わたしはなにも言えなかった。だってそんなこと、これまで考えたこともなかったから。わたしはしばらく口をつぐんだ。
 母さんもまた黙りこくって、じっとわたしを見おろしていた。まるで、遠くから泉の水位を推し測るような目つきで。
 いっとき自分の爪先へ視線を落とし、それからまた、わたしは母さんを見上げた。
「鳥たちの身になってみないと、ほんとのところはわからないってこと?」
 そうわたしが問うと、母さんはほっとしたようにほほえみ、うなずいた。
「なら、鳥みたいに飛んだら、あの子たちの気持ちが少しはわかるかもしれないわ」わたしはしたり顔で言った。
「そうだなぁ」母さんはいつもの口調に戻って、ちょっといじわるっぽく微笑した。「母さんも、あなたがあんなふうに落ちついて飛ぶところ、一度くらい見てみたいな」
 口を大きく横に広げて笑って、わたしは母さんの手をぎゅっと握った。この時、わたしと母さんの繋ぎあう手が真新しい太陽にくるまれて金色に輝いていたことを、はっきり記憶している。まるで写真に撮ったみたいに。
「うん、帰ったらさっそく練習して、今夜にでも見せてあげるね」
 わたしが胸を張って宣言すると、母さんは嬉しそうに、わたしの手をもっと強く握りしめた。


 ……一族のほかの仲間たち――たとえばクレー老師や、ルータとイサクの兄妹――と比べて、母さんとわたしが一緒に暮らした時間は、ほんのつかのまの夢の出来事だったみたいに思えるほど、とても短いものだった。それでも、わたしの胸に残りつづけている場面や光景、交わした言葉や肌の温もりの記憶は、いくつもある。そのなかでもいちばん鮮明に覚えているのが、今しがた披露した夜明けの情景。
 こうして、あの頃の母さんとおなじくらい長く生きてきた今なら、母さんがあの時に伝えようとしていた言葉の意味が、よくわかる。
 そう、
 そらは、本当に、おおきな鳥籠みたいなもの。
 自由に見える鳥たちだって、天空という鎖に囚われて生きている。ちょうど、人間たちが永遠に大地に縛りつけられていなければいけないように。
 ……なんてことを言ったって、わたしは――それにあなただってきっとそうに違いないと思うんだけど――おおぞらを飛ぶ鳥の姿を目にしたら、「ああ、なんて自由なんだろう」って、つい思ってしまう。そういうもの、よね?
 でも、その「自由」は、鳥たちのなかにあるわけじゃない。
 自由は、鳥のなかにも、風のなかにも、光のなかにも、森や海や雨や火のなかにも、どこを探したって見つからない。見つかりっこない。
 自由は世界の側にあるものじゃない。
 自由はわたしたちの内側にしかない。
 自由を求め、それを見出すための目は、わたしたちにしか与えられていない。この世に生を受けるということの圧倒的なまでの不可逆性を知り、生きるということの残酷なまでの不条理を知り、そしていつの日か必ずやって来る不可避的な死の存在を知るわたしたちにしか、それを想像――あるいは創造――することはできない。
 要するに、それはただの、甘いまぼろし。
 ある場合には、理性を欠いた者が抱く幻想というものは、真理そのものよりもずっと甘美なものに見える。
 だけどそもそも、世界は甘くない。まったく。


 あの夜明けの草原で、太陽がすっかり昇りきったあと、当時わたしたちが隠れ住んでいた小集落へと帰る途中、わたしは母さんにたずねた。
「ねぇ、さっき、どうして鳥たちが後ろから飛んでくるのがわかったの? 母さんは、頭の後ろにも目がついてるの?」
 母さんはおかしそうに笑った。「ううん。ただ、知っていただけ」
「知ってた?」わたしは片手をぺたりと頬につけて、首をひねった。「鳥がずぅっと遠くの方から飛んでくるのを、知ってたの? ……わたしはそんなこと、ちっとも知らなかったわ」
「知ろうと思えば、いつでも知ることができるんだよ」まっすぐに前を見据えながら、母さんは歌うようになめらかな調子で言った。「知るっていうのはね、なにもそれまで自分のなかになかったものを取り入れるっていう意味でだけ使う言葉じゃないの。時には、知るということは、自分のなかに元からあった目に見えないものを、実際に目に見えるようにするっていうおこないなの」
 もちろんわたしはそんなことを聞かされてちんぷんかんぷんで、ぐっと眉根を寄せて耳をそばだてることしかできなかった。
 母さんは娘の当惑ぶりに気づいていただろうけれど、まるでここぞとばかり意を決したみたいに、おごそかな声音で語りつづけた。
「心を静かにして、まわりをよく見てごらん。大地を吹き渡る風、そよそよと揺れる草花、山々や樹木のひっそりとした息吹。流れゆく雲、朝の光、新鮮な空気、そしてそこらじゅうに満ちているさまざまな音の響き。こういったすべては、決してあなたの外側であなたと無関係に動いているものじゃないの。なにもかも、あなたのなかに、そして母さんのなかにあるものなのよ」
「母さん」わたしはべそをかくように唇をすぼめて、小さくつぶやいた。「わからない。わたし、わからないわ」
 でもかまわず母さんは続けた。
「鳥の群れが飛んでくるのを知っていて、だから当たり前なのよ。だってあの鳥たちは、わたしのなかで飛んでいるのだから」
 もうなにも言わず、わたしはただひたすら息をひそめて、母さんの口から奏でられる言葉の旋律を、その意味や意図がわからないにしても、いつまでも忘れることのないように、頭の奥で録音しつづけた。
「わたしの知っている真実は、ほどなく世界の真実になる」母さんは言う。「かたちをとって、重みをもって、命をもって、この地上に顕れる。鳥として、風として、光として。あるいは、言葉として」
 やっぱり母さんの話すことの百分の一ほども理解できないままだったけれど、わたしはどうしてだか、絶対にこれらの言葉は失くさないようにしようと、とても強く、深く、誓った。
「どうしたら、そんなことができるの」だいぶ歩いてから、わたしはささやくようにたずねた。
「耳を澄ませなさい。そして目を凝らしなさい」母さんはこたえた。いつもの、わたしが知り、敬い、心から愛した、母のなかの最良の資質の発露としての、美しく迷いのない声で。「すべてあなたの心のなかにある。あなたの心は、世界よりもずっと広い。そして鳥よりも遥かに自由。なにかを強く求めるのなら、真実を見出したいと願うなら、あなたはいつも自分の内側に入って、そこで知っているものを再び知るだけでいい。そこでただ耳を澄ませて、瞳を見開くだけでいい」
「……わかったわ」
 わたしは自分の手のひらをそっと、みずからの胸のうえに置いた。とく、とく、と小さな心臓が脈打っていたその時の感触を、不思議なことに、今でもそっくり覚えてる。
「きっと、きっとそうするね」わたしは言った。
 背中に大きな朝陽を背負った母さんは、大波のように押し寄せる逆光のなかで、静かにほほえんだ。
「思うがまま生きて、たくさんの願いを叶えなさい。あなたならできるわ。私の大切なリディア」母さんは言った。


 それでわたしは、今こうして、自分の心のなかに入っていこうとしている。
 わたしがこの身でくぐり抜けてきた幾多の記憶に、もういちど目に見えるかたちを与えて、この地上に顕すために――物語にするために。
 わたしはゆったりと椅子に腰かけ、深く長く空気を吸って、目を閉じ、呼吸を止めて、まぶたをいっぱいに開きながら、また長く息を吐き出す。
 そして新しい鉛筆を研ぎ、真っ白な紙を机に置く。その白さに向かいあう。その白さは、両手を広げてわたしを迎え入れようとしている。わたしはその白さを、なによりも信頼する。白さもまた、わたしがなにをしようとしているかよく知っている。わたしは自分の知っていることを書く。最初から最後まで、力を尽くして。
 どこから物語を始めるべきか、いつでもわたしの心が教えてくれる。
 迷いはない。
 まもなくわたしの胸の奥から、過ぎ去りし日に耳にした残響がよみがえってくる。
 それは今から二十年も昔の、ある冬の初めの朝のこと……
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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