16 縁の歯車

文字数 8,917文字

 野球の試合ができそうなくらい広々とした玄関ホールだった。床には順路に沿ってベルベットの絨毯が敷いてあり、石畳を歩いてきた足に心地良かった。
 ホール全体が天井まで届く吹き抜け構造になっていて、ちょうど真ん中のあたりに巨樹のような石柱(せきちゅう)がそびえている。その(ふもと)に受付カウンターが置かれ、宿泊客たちはそこを目指して列を作っている。頭上高くには太い(はり)が格子状に渡され、そこからペンダントのような形状のランプがいくつもぶら下がっている。今は昼だから一つも灯されていないけれど、でもいったい誰があんな高所に手が届くのだろう。まさかアトマ族の従業員でもいるのかしら――と考えたまさにその時、ホール最奥に位置する昇降機内で乗務員を務めているアトマの少女の姿が見えた。他の従業員たちとおなじ制服に身を包んだ彼女は、訓練された笑顔を浮かべて手際よく乗客たちを誘導している。これも時代ということなのかしら。人間と一緒に働くアトマなんて、昔は大都会か、あるいは地方の農村でしか見かけなかったものだけれど。
「どこ行った?」きょろきょろしながらルータが言った。
「あそこ」
 イサクがホール中央の柱を示した。人々の行列の狭間に黄色い髪が一瞬ちらりと垣間見え、そのまますぐに柱の陰へと消えていった。
「誰か探してるみたいね」わたしが言った。
「いったん様子を見よう」ルータが言った。「こっちだ」
 わたしたちは順路を逸れ、ホールを左右から挟むように広がっているラウンジへと向かった。どうにか空いているソファを見つけ出して腰を下ろし、それとなく周囲を見まわした。
 直後、がしゃんと派手な音を立てて、例の昇降機が上昇していった。客を大勢乗せた巨大な鉄の箱が去った後の壁には、がらんとした暗い(ほら)と武骨な鉄柵だけが残された。
 昇降機の設置された壁に沿って左に行くとバーが、右に行くとレストランがあるみたい。さすがに今の時間はバーに人気(ひとけ)はなく、そこだけまるで月の裏側みたいにしんとしている。一方のレストランには燦々(さんさん)と外光が射し込み、おそらくあと一時間は待たないと席が空かないだろうという盛況ぶり。でも、これで納得がいった。宿泊者だけが出入りするにしては人の数が多すぎると思っていたけれど、食事のためだけにやって来る客が相当数いるのだ。わたしたちがドアマンや受付係に一切注意を払われずにすんだのも、きっとこのためだ。
「……出てこないな」ルータが眉をひそめた。「今上階(うえ)に上がっていったやつには乗ってなかったよな」
 わたしは首を振った。制服姿のアトマの子を観察していたおかげで、それは確かだった。
「じゃあまだあの柱の向こうにいるってことか」
「あっち側にはなにがあるんだろ」イサクが言った。
「もしかして、あちらでも受付をしてるのかも」荷物を預かった従業員がその持ち主をそちらへ連れていくのを目で追いつつ、わたしは言った。
「かもしれないね」うなずきながらルータは立ち上がった。「ちょっと見てくる。二人はここにいて」
 ポケットに両手を突っ込んで、彼はのんびりとした足取りでホールを一巡りした。
 戻ってくると、表情一つ変えず告げた。
「やっぱりいた。あいつらだ」
「〈妖精郷探索隊〉」わたしは棒読みするように言った。
 ルータはうなずいた。
 それからほどなくして、柱の裏側からその一隊がぞろぞろと姿を現した。黄色い髪のアトマも、やはりそこにいる。彼女は男たちの頭上を、寝そべるような姿勢で優雅に漂っている。
 彼らはわたしたちがいるのと反対側のラウンジへ向かい、人数ぶんの空席がないのを見てとると、ホール中央の順路の脇に設置された石柵(せきさく)に近づいた。そしてそこに手や尻をついて一息つき始めた。かたわらには旅行鞄を山ほど積んだ荷車が同行し、胸板の厚い運搬係の男性がそれを一人で担当している。彼は帽子を軽く押さえて天井を仰ぎ、昇降機の行方をたしかめた。しばらく前に壁面を這い昇っていったそれは、今ようやく最上階に到着したばかり。まだ当分帰ってきそうにない。しばしみんなで待ちぼうけ、というわけだ。
「あの時に森のなかで見かけた全員が揃ってる」眼光鋭くルータが言った。「全員、僕がこの目で見たのと同一人物だ。あれは間違いなく、ホルンフェルス王国軍に所属する兵士たちだ。しかし……」
「妙だね」言い淀むルータに代わって、イサクが肩をすくめた。
「うん」わたしも続く。「あの人たちの今の姿を見て、いったい誰が、兵士とか軍人とかって思うだろう」
 たぶん誰一人、そんなことは想像もしないはず。
 現に彼らのそばを行き交う人々は、彼らに対して特別な関心を寄せたりするような様子はない。ただ、一人だけ異様に突出して背の高い男と、その男と談笑している金髪長身の優男(やさおとこ)の姿に、ちらちらと好奇の視線を投げる程度のもの。わたしだって、なんの事情も知らずに彼らと擦れ違ったなら、別に注意を向けることなんてなかったはずだ。せいぜい、野外での研究活動に従事する学者か学生の集まりかな、と思うくらいのものだったろう。
 今の彼らは、誰も軍服や戦闘服に類する衣装を身に着けてはいない。全員だいたい似たような、市井(しせい)の人たちと変わらない服装をしている。ポケットが複数付いた防寒ジャケットやベスト、生地の厚い長ズボン、頑丈そうな運動靴やブーツ。登山家が使用するような大きなリュックを背負っている者や、工具類を収めるポーチを腰や胸に巻いている者も何人かいる。一人だけなにかの許可証とおぼしきカードを首から下げている者がいて、それは例の金髪の隊長――たしかテンシュテット・レノックスという名で呼ばれていた青年――だった。彼は温和な笑みを浮かべて、眼鏡を掛けた黒髪の大男と話し込んでいる。
 暗い目つきで彼らを観察していたイサクが、兄にたずねた。
「あいつら、こないだは武装してたんだよね」
「ああ……」
 曖昧にうなずきながら、彼は荷車に積まれている荷物をじろりと睨んだ。
 そこには、どこにでもある普通の旅行鞄や手提げ鞄、それにいくつかの板紙(いたがみ)製の箱や作業用ヘルメットなんかが載せられている。彼らが森のなかで所持していた武器や特殊車輛に積んでいた資材類が、まさかあんな程度の鞄や箱に収まるはずがない。他の荷物や装備品は、別の場所に保管してあるのだろうか。それとも、軽装備で事足りるような任務に移行することにでもなったのだろうか。いや、というか、そもそも――
「どうしてこんなところにいるのかしら」わたしは思案を声に出した。
「やれやれ」ルータがかぶりを振った。「図々しいったらないな。隣国の首都にまで入り込んで、いったいなにをしようっていうんだ」
 わたしたちは三人揃って口をつぐんだ。
 あてどもない考えがざわざわと頭のまわりに這い出てきて、落ち着く先を見つけられずに渦を巻いた。
 このままなにも知らないまま、なににも関与しないまま、今すぐここから立ち去り、彼らのことを綺麗さっぱり忘れてしまうことだって、わたしたちにはできる。
 こちらからしてみれば因縁浅からぬ相手ではあるけれど、かといってわざわざ下手に関わるような真似をする必要は、まったくない。
 だってわたしたちは、あくまでもクレー老師を安全に治療するという目的のためだけに、この街に滞在しているのだから。
 ……でも、正直、
「気になるな……」
 ため息と共にルータが本音を吐き出した。イサクとわたしも、大いにうんざりしながら、それに同調せざるをえなかった。
 暗黙の了解を交わしあうと、わたしたちは全員で向こう側のラウンジへ移動した。もちろん、身の内の発顕因子はひた隠しにしたまま。


 向日葵(ひまわり)みたいな髪色のアトマは、さっきからずっと気怠げに宙に浮いて羽をゆらゆらさせながら、一人の隊員と話をしている。いや、話をしているというより、彼女の方が一方的にあれこれ話しかけている。
 ルータの目撃談から判断するに、その相手はヤッシャ・レーヴェンイェルムという名で呼ばれていた人物で間違いなさそうだった。彼は早口で語りかける小さな女性に適当な相槌(あいづち)を返しつつ、どこか遠くの一点をまっすぐ見据えている。あるいは、徹底してなにものにも視点を定めないようにしている。
 彼ら二人は、一隊のなかでは金髪の隊長から最も離れた場所にいる。
 テンシュテット・レノックスと巨漢――名前はたしか、ドノヴァンとか言ったっけ――は、二人してホテルの玄関の方を向いて立っている。
 一方のレーヴェンイェルムは、そちらの方には故意に目を向けないようにしているかのように、昇降機がある奥の壁の方を向いて動かない。
 彼らのいる(がわ)のラウンジに入ると、わたしたちは首を(めぐ)らせて空いている席を探した。()り悪く、三人とも座れるソファや椅子はどこにもない。ちらほらと目につく空席は、どれも一人ぶんだ。
 そのなかで探索隊員たちに近い席は、一つしかなかった。
 それは、彼らがひとまずの身の置き所としている順路脇のすぐ近くに置かれた、三人掛けのソファだった。小さな旅行鞄を各自の膝に載せている品の良い老夫婦が、そこに並んで座っていた。わたしたちは隊員たちの視界に入らないよう、慎重に迂回してそこへ向かった。
 夫婦に軽く会釈をして、イサクがおばあさんの隣に腰を降ろした。ルータとわたしは彼女の横に立ち、楽な姿勢を取った。
 ちょうど、わたしたち全員、隊員たちに背を向ける格好になった。
 わたしはちらりと老夫婦の様子を伺った。彼らはほとんど身じろぎもせず、互いに言葉を交わすこともなく、ただにこにこして座っているばかり。これから泊まるのか、それとも出ていくところなのか、それさえ判断つきかねる。
「はぁ、お腹すいた。まだずいぶん待つことになりそうだね」わたしは自然な口調で言った。
「だな」ルータが調子を合わせた。そして妹の肩をぽんと叩いた。「おまえ、もう少し待てるかい?」
 イサクは嘆息する。「待つしかないじゃん。そのためにわざわざ来たんだから」
 わたしは再び老夫婦に目をやった。相変わらず二人はなにを気にするでもなく、物静かに目の前の世界を観賞している。わたしたちの方も、この人たちのことを気にするのはもうやめた。
 わたしは背伸びをしながら、なにげなく後ろを振り返った。
 古風な装飾を施された背の低い石柵のすぐそばに、運搬係の男性が荷車の取っ手に両手を置いて立っている。彼は今なお昇降機を見あげ続けている。それはまだ地上に帰ってこない。
 十数名ほどもいる男たちの一隊は、各々(おのおの)近くにいる同僚どうしでお喋りをしている。そのすべてが耳に届くわけではないけれど、会話の端々(はしばし)から聴き取れる単語や表現から推察するに、どれも大して内容のある話ではなさそうだった。天気とかゴルフとか女の子とか、その手の凡庸な話題ばかり。
 わたしとしては、あのアトマの女性がなにを話しているのかがちょっと気になったけれど、彼女と彼女の話し相手は、わたしたちからいちばん遠いところにいて、その上彼女はやたらと低い声で矢継ぎ早に話すので、ほとんどまったく話の中身がわからない。ただでさえ周囲は人々の足音や話し声、それに種々雑多(しゅじゅざった)な物音で充満しているから、この人たち全員の会話内容を正確に把握するためには、聴覚の機能をいくらか強めに拡張しなければならない。でもこの距離でそれをやったら、顕術の発動をアトマの感知能力によって捉えられてしまうかもしれない。
 わたしは少し顔をしかめて、ルータの顔をのぞき込んだ。彼もまたじれったそうに唇をひん曲げて、愚直に聞き耳を立てている。
 ちょいちょいとイサクがわたしの(そで)を引っ張った。
「ねぇ、どうしよっか。まだ待つ?」
「う~ん、そうねぇ……」わたしは嘆息混じりに腕組みをした。「これじゃほんとに日が暮れちゃいそうだよね」
 そうぼやいた、直後のことだった。
「大層な荷物でしょう」
 一人の男性が、わたしたちのそばまでやって来て、そう言った。
 わたしとルータの目が、同時にぱっと見開かれた。
 ホール中央の柱に掛けられている時計を眺める振りをして、わたしは一瞬だけ背後を振り仰いだ。
 声の(ぬし)は、例の金髪隊長、テンシュテット・レノックスその人だった。近くで聴くと思わず振り向かずにはいられないほど、甘く澄んだ声質だった。まるで、たくさんの花びらを乗せて春の野山を吹き渡る風みたいな音色。
 さっきまではドノヴァンという名の大男と、やれ学会がどうとか、研究費がどうとか、人選がどうとかいった内容の会話を軽い調子で交わしていたようだったけれど、彼は今、荷運びを(にな)う係員のところへ一人で近付いてきたところだ。
「面倒をおかけします」レノックスが言った。
「いいえ、とんでもございません」運搬係の男性が快活に応じる。たぶん、首を大きく左右に振りながら。「これが私の務めでございますので、喜んでお運びいたします。それに、これくらいたくさんのお荷物を任せていただけると、こちらとしても運び甲斐があるというものです」
「頼もしいですね」青年は笑った。「あぁ、そうだ。これを」
 かすかに、紙切れがかさかさと(こす)れるような物音が聴こえた。続いて、はっと短く息を呑むような気配があった。呑んだのは、運搬係の方だ。
「……ありがたく、頂戴いたします」
「あ、ようやく戻ってきましたよ」青年が言った。
 反射的に昇降機の方へ顔を向けそうになるのを、わたしは――そしてルータとイサクも――ぐっとこらえた。
 ぎしぎしと唸りながら壁伝いに降下するそれは、やっと地上に帰還しつつあるようだった。
「どうぞ、お先に」レノックスが運搬係に声をかけた。「全員いっぺんには乗れないでしょうから。僕は後からでかまいません。部下たちを早く休ませてやりたい。あなたは彼らと一緒に乗ってください」
「かしこまりました」
 指示されたとおりに、荷車はこの場から離れていった。ごろごろと車輪が回る音が、数人の隊員たちの靴音と共に遠ざかっていく。しかし隊長の青年は動く気配がない。たぶん最後尾から隊員たちの様子を見守っているのだろう。
「おい、テン」
 まだ近くにいたと見られるドノヴァンが、隊長に呼びかけた。あまりに桁外(けたはず)れな巨躯の持ち主なので、まるで二階のバルコニーから話しかけられてるみたいに聴こえる。
 ちょっと呆れたような、同時にからかうような、そんな口調で巨漢は言う。
「見てたぞ。おまえ、ありゃチップとしては気前が良すぎやしないか」
「え? そうかな」さも心外そうに隊長はこたえる。「たしかにちょっと奮発はしたけど、王都のこういう感じのホテルだと、そこまで驚くような額じゃないだろ」
「まったく、お坊っちゃんめ」
 ドノヴァンは笑い、たぶん隊長の肩に腕を回すかなにかした。そういうふうな衣擦(きぬず)れの音がした。
「……よしてくれよ、そういうの」
 隊長は頬を膨らませたみたいだ。
「悪かったよ」しかし悪びれる様子もなく大男はまた笑う。「しかしまぁ、別にどうだっていいことだ。なにしろ――」ここで彼は急に声を潜めた。「――なにしろおれたちにゃ、国王陛下の財布っていう馬鹿でかい後ろ盾がついてるんだからな」
「あのなぁ……」
 わたしたちはアトマの女性が昇降機の方へ向かったのを確認して、少しばかり聴覚の機能を高めた。
「そりゃ、経費に糸目をつける必要なしとの(おお)せだったけど、だからって贅沢し放題って訳じゃないんだからな」
 レノックスもまた声を抑えて、しかし厳しい口調でたしなめる。
「わかってるさ」ドノヴァンは苦笑する。「真面目な話、さっきのチップくらいならどうってことないだろうが、今後はあんまり羽振りの良いところを見られないように、一応用心しておこうぜ。なんせおれたちは今日から当分のあいだ、王国軍所属の地質調査隊ってことで通すんだからな。貴族や将校みたいな派手な大盤振る舞いは、今のおれたちには似合わんよ」
「……そうだな」自分の爪先に語りかけるみたいな感じで、レノックスがつぶやいた。
 ここでまた、布地が擦れる物音がした。今度のは、はっきりと肩か背中が手のひらで撫でられた音だった。そして撫でた方にちがいない大男が、朗らかに言った。
「そんな(つら)するな、隊長殿。気持ちはわからんでもないが、別に悪事を働こうってんじゃないんだ。それにほら、調査任務に従事するっていう活動内容自体には、変わりがないわけだろ。ただちょっとばかり、肩書きを(かた)る程度のことだ」
 ここまではっきり肉声で聴こえるくらい大きなため息を、金髪の青年は吐き出した。
「なんだかなぁ……」
「ま、あんまり考えすぎんと、命令どおり淡々とやっていこうぜ。なにしろまだ探るべき場所は、あの森の東側にいくらでも残ってるんだからな。こんな無茶苦茶な探検ごっこはとっとと終わらせちまって、一日も早く国に帰ろうぜ。おれは自分の研究室が恋しいよ」
「うん。僕もだ」
 わたしたちのいる場所から聴き取ることのできる範囲内での会話は、それきり途切れた。二人の青年と、残り数名の隊員たちは、やはり今回の昇降機の定員枠からあぶれてしまったようだった。次こそはきっと乗れるようにと、彼らは共に前の方へ足を運んだ。
 彼らの気配がすっかり遠のき、昇降機乗り場の手前で立ち止まるのを確認してから、わたしたちは席を離れた。隣の老夫婦は、いまだ無言の世界に二人きり留まったままでいた。まるで、この世の終わりまでそうしていることを決めたみたいに。
 玄関を出る人々の流れに紛れ込み、呑気に雑談する振りをしながら、わたしたちはもう一度だけ昇降機の方へ目をやった。隊員たちはみなこちらに背を向けて乗り場の柵の前に立っている。先に行った彼らの仲間たちを載せた鉄の箱は、ゆっくりと壁を昇っていく。姿が見えないところをみるに、あのアトマ族の女性とレーヴェンイェルムという男は、それに乗ったのだろう。
 まるで小さな太陽みたいに輝く金色の頭を、わたしたちはじっと見つめた。ほんのいっとき耳にしただけだというのに、彼の声音は不思議とわたしの鼓膜に()み込んだまま消えずにいた。ちょうど、ほんの数小節ぶん聴いただけなのにいつまでも忘れることのできない、ある種の魔法的な音楽のように。
「だいたい察しはついたかな」
 両手を頭の後ろで組んでイサクが言った。
 ルータとわたしは、共にうなずいた。
 あの兵士たちは、やはり今もって妖精郷探索の任務を継続している。
 他国の軍属という際どい立場にありながら、素性を偽って新拠点を設けるなどという危険を冒してまで、彼らはまだあの馬鹿げた楽園探しを続けるつもりなのだ。
 天秤竜の森の東側の領域は、たしかにこちらのコランダム公国領の方がより近い。タヒナータからだと、多少無理をすれば日常的に(かよ)えなくもない距離だ。険しい森のなかに移動拠点を構えるより、市内に不動の拠点を持つ方が遥かに消耗も少なく安全であることは間違いない。それに、本国との連絡もずっと取りやすくなる。
「行こう」わたしは二人の肩に手を置いた。「いずれにせよ、もうわたしたちとはなんの関係もないことだわ」
「そだね」イサクがあくびをした。「ぼちぼち帰ってゆっくりしよ」
「ああ」ルータは物思わしげにつぶやいた。「しかし、なるほどね。地質調査隊、と来たか。まったく、もっともらしい身なりをしたもんだな。……テンシュテット・レノックス、か」
 彼はぽつりと、おそらくはこれといった意図も理由(わけ)もなく、その名を口にした。
 しかしまさに、その瞬間のことだった。
 まるで自身の名を呼ばれたことに気付いたかのように、かの青年が、ふいにこちらを振り向いた。
 あまりに突飛で奇遇な呼応に肝を冷やして、わたしたちは一斉に息を呑んだ。
 慌てて回れ右して立ち去るのも不自然なように思えたので、そのまま三人揃って彼の方へ顔を向け続けた。
 玄関から流れ込む鮮烈な午後の光のなか、眩しそうに両目を細めて、青年もまたじっとこちらを見つめた。真珠のようになめらかな白い肌と、今にも歌いだしそうに薄く開かれた薔薇のような唇、そして(つがい)の恒星のように輝く緑の瞳が、わたしたちの目にはっきりと明らかになった。
 彼のなにもかもが、暖かく明るい光に包まれていた。
 そして、
 彼は笑った。
 わたしたちに、ほほえみかけた――ように、見えた。
 でもそれはもちろん、彼に話しかける同僚の言葉に反応してのことだった。
 やがて彼は、再びわたしたちに背を向けた。わたしたちもまた踵を返して、すぐさまホテルを後にした。


     ◇   ◇   ◇   ◇   ◇


 この時のことを今になって思い返すと、わたしはテンが一瞬こちらを振り返って見た時、ひょっとしたら彼とルータの視線は、お互いに真正面から邂逅(かいこう)していたんじゃないかと思う。いや、きっとそうだったに違いない。なぜだか、そんな確信がある。ルータにもテンにも確認したことはないから、真偽の程は定かじゃないけど、それでも。
 ホテルを出て家路を辿りながら、もう二度と彼らに接近すまいと、わたしたちは意思を固めあった。あちらはこちらの存在なんて全く知りはしないのだから、よっぽど想定外の出来事に見舞われでもしない限り、わたしたちと彼らの運命は永遠に交差することはない――はずだった。
 時に世界は、まるで人知の及ばない数奇たる運命の道を、あたかも最初から完璧に計画されていた予定を粛々(しゅくしゅく)と遂行するかのように、平気な顔をしてわたしたちの目の前に敷いてしまう。
 結局わたしたちはそれほど日を置かずして、またあの金色の髪を目にすることになるのだけど、もちろんこの時の自分たちは、そんなことなんて知る由もない。
 いつ、
 どこで、
 どの時点で、
 わたしたちの(えん)の歯車が噛み合うように仕組まれていたのかなんて、わかりっこない。そんなことは、決して誰にもわかりっこない。
 でもそれが、大いなるイーノの神の采配(さいはい)だというのなら、わたしたちはみんな、ただ黙してその手のひらの上で転がらなければならない。転がり続けなければならない。そこに選択の余地はない。望むと、望まぬとに、かかわらず。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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