24 与えるものこそが与えられるもの

文字数 5,347文字

 取引のあった日から二日後の朝、食事を終えて洗濯物を干している時に、来客があった。
 今までにも何度か呼び鈴が鳴らされることはあった。そんな時ドアの外に立っているのは、いつもラモーナ(とそのお世話係の女性)か、サラマノさんのどちらかだった。料理のお裾分けや水道管点検のお知らせといった、小さな用件が運ばれてくるのがほとんど。この二組の他に、わたしたちを訪ねてくる人はいない。
 だからこの朝もそのどちらかだろうと想定して、わたしは客人に呼びかけた。
「はい、どちらさま?」
「私だ」間髪入れず返ってきたのは、聞き覚えのある紳士の声だった。「ウェラーだ」
 そうだった。彼も当然、わたしたちの住所を把握しているのだった。
 わたしは慌てて部屋を見渡し、例のケーキの箱がどこにも出ていないことを確認した。あれを別の収納部屋に移したのは、つい昨晩のことだった。片付けておいてよかった。
 ルータとイサクはベランダに出て、青空の下で寒風(かんぷう)に震えながら洗濯物を干している(もちろん、女物はイサクが一手(いって)に担っている)。二人とも、全然こっちを見ていない。きっと管理人の婦人か上階の少女たちだろうと決め込んでる。
 仕方なくわたしは一人で審議した。特に変わったものは、目に入る場所に置いていない。三人お揃いの高級スーツも、伝統衣装の青いローブも、きちんとクローゼットにしまってある。今は三人とも寝巻じゃなくてちゃんとした服装に着替えてもいる。玄関から一望できる食堂兼居間は、多少雑然としてはいるけど、別に散らかっているふうには感じない。失礼はなさそうだ。
 わたしは顕術で発生させた微弱な衝撃波をベランダに向かって放ち、それで窓ガラスを震わせて外の二人を振り向かせた。そして一拍の間を置いて、玄関のドアを開けた。
「おはようございます、シュロモ先生」わたしはにこやかに言った。「こちらにおいでになるなんて、めずらしいですね」
「突然訪ねてすまない。迷惑だった?」
「いえ、とんでもない」部屋を横切ってやって来たルータが応じた。「なにしろ先生のおかげで僕らはここにいられるんですから。いつでも歓迎しますよ。コーヒー飲みます?」
「作ってあるの?」
 ルータはうなずく。
「では、一杯いただこうかな」
「今お持ちしますね」
 そう言ってルータが台所へ向かおうとすると、すでにその先では彼の妹がコーヒーを温め直していた。彼女はそこから、こちらへ向かってぺこりと会釈を送った。先生も軽く頭を下げて、前置きなく専門家としての観察結果を述べ始める。
「全員、健康状態に変わりはなさそうだな。むしろ顔色は前より良くなった」
「しばらくぶりでしたけど、先生もお元気そうでなによりです」わたしは言った。そして玄関脇の衣装掛けを示した。「どうぞ、お帽子はそちらへ」
 医師は首を振った。「いや、長居はしないからこのままでいい」
「そうですか。ではこちらへ……」
 わたしは彼をテーブルに案内し、椅子を一脚引いた。そして彼がそこへ腰を降ろしているあいだ、そのいでたちをこっそりしげしげと眺めた。
 今日のシュロモ先生は、普段とはまるで様子が違った。顔だけ先生で、他の部分はまるきり別人みたい。いつもの抜かりのない着こなしはどこへやら、この朝の彼はくたくたになった革製のつば広帽子をかぶり、フードの付いたパーカーに日曜大工をする人が着るような古ぼけたジャンパーを羽織り、だぼだぼとしたコーデュロイのズボンと結び紐の太い運動靴を履いている。きっと知らない人がこの場の状況を目にしたら、休日のお父さんとそれを囲む子供たちにしか見えないことだろう。
「先生、今日は釣りですか」コーヒーや砂糖壺などが載せられた盆を片手に、イサクがたずねた。「それとも、山登り?」
 シュロモ先生は首を左と右に一度ずつ振り、礼を言ってカップを手に取った。
「じゃ、なんだろう。キャンプ?」イサクがさらに質す。
 カップに口をつけたまま、医師はまた否定する。
「あれこれお尋ねするなよ。失礼だろ」ルータが眉をひそめて妹をたしなめた。
「墓参り」カップをテーブルに置いて医師が言った。
 わたしたちは言葉に詰まった。驚いたからというより、それがどういう意味を示す行為だったか、すぐには思いだすことができなかったために。
 イサクはテーブルのそばの出窓に座り、わたしはその隣に楽な姿勢で立ち、ルータは別の椅子に浅く腰かけた。
「娘の命日でね」
 シュロモ先生は言った。そしてコーヒーカップの側面に描かれた古代神殿の壁画みたいな謎の絵柄をぼんやりと眺め、中身をもうひとくち飲んだ。
「そうでしたか」わたしは彼の横顔にじっと見入った。「娘さんの……」
「生きていれば、ちょうどきみたちと同年くらいかな。彼女が逝ってから、今年で十一年になる」
 さっき想像のなかでとはいえ、彼を勝手にわたしたちの父親に見立ててしまったことを、十一年前にこの世を去ったという少女に対して、わたしは心のなかで詫びた。それに、わたしたちの実年齢について(あざむ)く形になってしまっていることについて、先生に対しても。
「お悔やみ申し上げます」ルータがこうべを垂れた。「ずいぶん早くに召されてしまわれたんですね。ご心痛、お察しします」
「だが、彼女とおなじ病に冒された子供たちを、わたしはこの十一年で百人は救ってきたからね。そういう意味では、彼女はその百人の命のなかで今も生きている」
 わたしはなんだか立っていられなくなって、近くの椅子にそっと座り込んだ。医師の顔から目を逸らさない、いや、逸らせないまま。
「……なんて名前だったですか」
 イサクもまた冬の朝陽を背にして、まじまじと医師の表情をうかがいながらたずねた。
「アキレア」
 秘密の合言葉をつぶやくようにひっそりと、シュロモ先生はその名を口にした。
「それって……」わたしは思わず息を呑んだ。
 〈聖アキレア記念病院〉。
 まだ見るからに熱そうなのに、平気な顔をしてごくごくとカップの底まで一気に飲み干すと、医師はかすかな笑みを浮かべた。
「彼女のことがなかったら、私は開業医を(こころざ)して自分の病院を持とうなんて思いもしなかっただろうな。うん、これは美味いコーヒーだった。ごちそうさま」
 わたしたちはうなずいた。
「では、これからお出掛けになるんですね」ルータが訊いた。「その前に立ち寄ってくださったんだ」
「でも、どうして?」
 イサクがあけすけにたずねた。また兄が(とが)めるような目をそちらに投げるけど、医師はなにを気にするでもなく応じる。
「ハスキルから、きみたちが元気にしてるかどうか見てくるようにと、言いつけられているもので」
 その名を耳にした途端、わたしたちの頬がぱっと明るくなる。
「なんて偶然」わたしが言った。
「え?」医師は眉を持ち上げる。
 出窓からぴょんと飛び降りて、イサクがソファの上に並べてあった二本のマフラーを広げて見せた。それらは長さはおなじでも、片方はもう一方の三倍ほどの横幅がある。
「これ、ハスキルと、モニクに」
「わたしたちの身辺(しんぺん)も、ようやく少し落ち着いてきたんです。だから今日、お礼のお手紙と一緒にプレゼントを送ろうと思っていたところだったんです」わたしが説明した。
 シュロモ先生は絵画か風景でも眺めるみたいに両目を細めて、それからにやりと笑った。
「その大きい方が、モニクのだな。きっと二人とも気に入る。手作り?」
 イサクがうなずく。「あたしが編みました」
「彼女は上手なんです」わたしが言う。
「とても良いと思う」帽子をかぶり直して、シュロモ先生は――というか、今日のところはシュロモお父さんとでも呼びたい感じだけど――すっくと立ち上がった。「お邪魔したね。それじゃ失礼するよ」
 三人で玄関まで見送った。
「道中、お気をつけて」わたしは笑顔で告げた。「アキレアさんに、わたしたちからよろしくお伝えください」
 それを聞くと、シュロモお父さんはまるで目の前に娘さんの姿を見るように、瞳を温かな光で満たした。
「ありがとう。ハスキルたちにも、今度会ったら報告しておく」
「その時には彼女たち、あたしが編んだマフラー巻いてるかもしれませんね」イサクが医師の顔を見あげて言った。
 彼は唇の両端をくいと上げた。
「行ってらっしゃい、先生」ルータが手を振った。
 客人が前庭の歩道を律儀に辿って去っていくのを三人でほほえましく見届けると、さっそく荷物の包装に取り掛かった。それぞれのマフラーにも、梱包する箱にも、綺麗な色のリボンを巻いた。もちろん手紙も同封した。こんな手紙だ。

「拝啓
 
 ハスキル・エーレンガート様 モニク・ペパーズ様

 ご無沙汰しています。あの嵐の夜に助けていただいた三人を代表して、私、リディアが筆を()っています。けれど文章は、三人一緒に考えました。
 今日は、わたしたち三人から、心からの感謝の気持ちをお伝えしたくて、お便りを差し上げました。

 あれからわたしたちは、シュロモ先生のご助力をいただいて、タヒナータ市内で静かに暮らしています。先生の病院でお世話になっている老師の容態も、まだ完全な快復には至らないものの、どうにか安定した状態を保つことができています。
 なにもかも、ハスキルさんと、モニクさん、シュロモ先生がたのおかげです。
 あなたがたお二人のことを想わない日は、一日たりとありません。
 あなたがたはまさに、荒れ狂う夜の海に輝く灯台、傷つき迷う旅人を慰める寝床、そして、この世界に奇蹟と慈愛が実在することの(あかし)そのものでした。この身に受けたご恩は、わたしたち、生涯決して忘れません。

 同梱したマフラーは、わたしたちからのせめてのものお礼の品です。一緒にお世話になったわたしの仲間が、その手で編み上げました。使っていただけたら幸せだと、彼女は申しています。よかったら、お受け取りください。

 今朝、シュロモ先生が初めてわたしたちの住居を訪ねてくださいました。娘さんに会いに行かれる前に立ち寄られたとのことでした。あのように立派なかたがお父さんで、アキレアさんはさぞ天国で鼻高々だと思います。ハスキルさんがわたしたちのことを気に掛けてくださっているということも、お聞きしました。重ね重ね、ありがとうございます。

 それでは、この冬も、それからその先のすべての季節も、いつまでも変わらずお健やかにお過ごしください。

 敬具

 追伸――あのサンドイッチは、これまででいちばん美味しい食べ物でした。ごちそうさまでした。」

 いささか礼を失した行為で心苦しいけれど、あの人たちならきっと大目に見てくれるはずだと甘えて、送り主の住所は記さなかった。郵便社()めという仕組みを利用したらその状態でも荷物の発送は可能だと、窓口の係員が教えてくれた。それでお願いしますとわたしたちは伝えた。この宛先なら早ければ今夜にもお届けできるかもしれないわねと、その人は言った。
 郵便社の建物を出ると、わたしは久しく味わっていなかった深い充足感を覚えていた。一緒にいる兄妹も、きっとおなじものを感じていたと思う。だって三人とも、それからしばらく口もとからほほえみが去らなかったから。
 感謝を伝えるのって、プレゼントを贈るのって、素敵だ。
 人から感謝されるより、プレゼントをもらうより、もっとずっと心は満たされる。
 結局、大昔から賢人たちが口を揃えて語ってきたとおり、与えるものこそが与えられるものなのだ。
 まるでもう春がやって来たみたいに晴れやかな気持ちで、わたしたちは街を歩いた。昼食に入ったカフェの給仕の人が、なにか良いことでもありましたかと訊いてきた。ええそのとおりです、とめずらしくイサクがこたえた。機嫌の良い猫みたいに、両目をうっすらと細めて。
 その後、急に思いついたというルータの提案によって、三人でタフィー川の遊覧船に乗ることになった。空気は耳が痛くなるほど冷たくて、風だって割に強い日だったのに、客船は観光客の人たちでいっぱいだったし、わたしたちもけっこうまんざらでもなく楽しんだ。
 これといって派手なところはないし、というかむしろ地味だし、大して活気に満ちているわけでもない古風で素朴な地方都市ではあるけれど、わたしは――わたしたちは――このタヒナータの街が、今ではすっかり気に入っていた。川を行く船上からは、老師のいる病院も、わたしたちのアパルトマンもはっきりと見えた。前庭にラモーナの姿はない。部屋で温かくしていてくれたらいいなと思う。
「不思議だね」隣の席に座っているイサクが、わたしの耳もとでつぶやいた。「こんなことになるなんて」
「ほんとね」
 わたしは顔じゅうに風を浴びながら、いっときまぶたを閉じて、街の外に広がる森のことを考えた。
 そして、心優しい少女のことを想った。
 想像のなかで、なぜかハスキルの顔とわたしの母さんの顔が重なって見えた。
 目を開いて青空を見あげ、いつかあの少女もおとなになり、やがて母親になるのかしら、と考えた。そうなったら、その子供たちは、とても幸運ね。
「ねぇ、マフラーもう届いてたりしないよね」イサクが後ろの座席にいる兄を振り返ってたずねた。
「いくらなんでも気が早すぎだろ」呆れてルータが苦笑した。
 わたしも笑った。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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