34 夜空の深淵

文字数 4,586文字

 大河の水面すれすれにその身を這わせて、ルータは(ハヤブサ)のごとく飛んだ。
 用水路へと続く曲がり角に彼が到達したまさにその時、猛り狂う車輪が鉄柵に激突した。
 衝撃で吹き飛んだヘルメットが、まるで短気な月のように、ぽんと夜空に浮かんだ。
 岸辺から飛び立った車体は、物の見事に前方宙返りを決めて、そのまま大きく弧を描き落下してゆく。
 しかしなおも、操縦者の硬直しきった両の手は、頑なにハンドルを握ったままだった。
 それゆえ身体は、サーカスの曲芸さながらに上下真っ逆さまとなり、車体もろとも宙を舞った。
 そのわずか二秒後には、バイクは水路の上空をまっすぐ横断し、向こう岸の石壁(いしかべ)に激しく叩きつけられた。
 けれどその一秒前に、それを操縦していた青年の姿は、すでにこの場から消えていた。
 全身全霊で、ルータはテンシュテットを抱き締めていた。
 そして一瞬たりとその場に留まることなく、(ほとばし)るように水路を(さかのぼ)り、市街地の奥へと飛び去った。
 車体から青年の身を引き()がす時に、自分の身のあちこちも暴走する機械にぶつけた感触があった。
 でもそんなことは、さしたる問題じゃない。
 どれも全然、たいした傷じゃない。
 今考えなければいけないのは、
 

辿

、ということだけだった。
 即ち、決して世人(せじん)の目に触れさせてはならない自在飛空という顕術の絶技を、あろうことか人界の真っ只中において堂々と展開しているこの異常事態を、いったいどのようにして無事に収めたらいいのか――というか言葉どおり、いったいどこに着地したらいいのか――ということだ。
 この街で暮らしてまだ日は浅いとはいえ、連日所用(しょよう)方々(ほうぼう)を歩いたおかげで、おおよその地理は把握していた。けれどさすがに、用水路がどんなふうに市街を巡っているのかなんて、現在の混乱した頭ではまともに予測することができない。とにかく今はこのまま、宵闇(よいやみ)の底を流れる水路を辿って、確実に人間の目が及ぶことのない場所を求めて飛ぶしかない。
 しかし生憎(あいにく)というかなんというか、ここでも時期が時期だった。
 平日のこの時間帯には人気(ひとけ)もなく閑散としているはずの川沿いの通りや小路(こみち)、それに大小さまざまの橋や路地も、今はそこかしこに町人たちの姿が散見される。まだ明かりの灯っている住宅や店舗も、平時とは比較にならないほどの数に及ぶ。誰がどこにいてどこからどこへ目を向けているか、全く知れたものではない。油断はできない。断じて。
「ううっ……!」
 おそらくはあの世とこの世のどちらに自分がいるのかさえ自覚できていない青年が、ルータの腕のなかでうめき声を漏らした。
「口を開くな」
 彼の耳に唇を近づけて、ルータがささやいた。
 燃えるように血走っていた青年の両目は、その声を耳にした瞬間、はっと大きく見開かれた。
 彼は言われたとおり、口を閉ざした。
 そして、少年のように華奢(きゃしゃ)な背中に、思いきりしがみついた。
 直後、ルータは息を呑んだ。
 ()てずっぽうで曲がった角の先は、いっそう煌々(こうこう)と灯火に溢れる歓楽街だった。
 行く手に、アーチ状の石橋が架かっているのが見える。その上を、客引きの男たちや安物のドレスを翻す女たち、それに酩酊して我を失った正体不明の人間たちが、全部でおよそ三十名ほどもうろついている。もしかしたらそのあたりで待っていたら、隊長のバイクに細工を施した隊員も姿を見せたかもしれない。しかし今は、そんなことに構っている暇などない。
 ルータは青年を抱えたままいったん片側の岸壁に背を寄せて速度を落とすと、その一瞬の間に周囲の状況を検分した。
 橋の真下に、水路の両岸の石壁をぽっかりと貫いて流れる大きな下水道がある。
 一方、このまま水上を直進して橋をくぐり抜けた先の川岸には、この界隈よりさらに眩しく、さらにいかがわしい雰囲気の店が立ち並んでいる。
 もはや考えるまでもなく腹を(くく)ると、ルータは手のひらを橋の(たもと)に向けて突き出し、下水道と用水路を隔てる金網を顕術でばらばらに砕いた。
 物音に気づいた幾人かが、怪訝そうに橋の欄干から下をのぞき込んだ。
 でもその時にはもう、ルータは下水道のなかへ侵入していた。
 臭気(しゅうき)や空気の淀みこそ酷かったけれど、そこはしかし飛ぶにはまずまず快適な経路だった。意外なほど天井が高く、横幅もじゅうぶんにある。もちろん人間なんてどこにもいやしない。いるのは、鼠や蝙蝠(こうもり)や暗がりを好む虫たちくらいのものだ。
 息を止め、手のひらで金髪の頭を押さえつけて、ルータは街の地下に張り巡らされる暗黒のなかをひたすらに飛んだ。
 一分も経たないうちに、自分たちの現在位置がどのあたりなのか、さっぱりわからなくなった。新市街にいるのか旧市街にいるのか、それすらも不明だ。けれどそれはそれで、さほど問題にはならなかった。なにはともあれ今のところは、人間の気配の希薄な方へ見当をつけて、飛び続けるしかないのだから。
 そうして、いくつもの角を曲がり、幾度も方向を転換し、無数の金網や柵を打ち破り、気の毒な蝙蝠や蜘蛛たちを大量に()ね飛ばし進んだ果てに、ルータはひときわ大きく分厚い鉄格子に直面した。
 その向こう側には、まるでもうすぐ夢が覚めるのを夢のなかで自覚する時に感じるような、淡い突破の予感が漂っている。
 今度も衝撃波を放ってそこを通過すると、予感の正体がじきに判明した。
 もう、二人が辿る下水路に、分かれ道は一つも見あたらない。
 それはただ一直線に、前へ前へと向かって伸びている。
 行き着く先は、都市の機構が中心部から周縁部へと切り替わる、まさにその境目(さかいめ)の地点だった。地下水路はそこで、まるで刃で断たれたようにすっぱりと途切れている。
 ルータは意を固めた。
 滝のように放出される汚水と共に、二人は勢いよく外へと飛び出した。
 澄み渡る空気と降りしきる雪の世界が、怒涛のように彼らを出迎えた。
 そのあたりは、今にも崩れそうな煉瓦の倉庫やトタン屋根の平屋がひっそりと肩を寄せあう、いわば都市の極北(きょくほく)ともいうべき地区だった。街灯もなく、明かりの点いた家や店もない。ただ、廃材が積まれた空き地の片隅に、焚火を囲んでなにをするでもなく座り込んでいる宿なしの人々の姿があるばかり。彼らはみな、重くうつむいて炎を睨んでいる。冷酷な夜と北風が、すべてのものに容赦なくのしかかっている。
 ここまで来れば、たぶん大丈夫だろう。
 ルータは判断した。
 そして全身に染み付いた下水の臭いを洗い流すように、思い切りよく天空へと舞い上がった。
 雪の粒が顔や髪にびしびしと貼りつく。二人が身に着けている衣服の裾が、のたうつようにばたばたとはためく。気圧の急変化に驚嘆した青年の肺の奥から、くぐもった隙間風のような音が漏れ出す。
 今や、石造りの古都の全景は、二人の遥か眼下にある。
 こうして見ると、まるで精緻な地図を見ているみたいだ。いつも自宅の窓から眺めている大河も、指先でちょいと摘まめてしまえそうに思える。
 目を北に向けると郊外の大平野が、それ以外のすべての方角には豊かな森や小高い山々や丘陵が、そして頭上にはたっぷりと雪を含んだ雲海が見渡せる。月や星はどこにも見えない。雪の白さえ消失してしまうほど、なにもかもが深い黒に染め上げられている。
 押し殺した嗚咽のような声が腕のなかから伝わってきた。ルータは再び忠告した。
「落ち着いて、ゆっくり呼吸しろ」
 青年はぐっとうなずき、今度も素直に従った。
 どうやらこのへんかな、とルータは見極める。
 生身(なまみ)での高速飛行に耐えうる特殊な身体を持つわたしたち一族とは違って、人間の肉体には限界というものがある。
 ルータは青年をしっかりと抱きしめたまま、徐々に速度を減じて(たこ)のようにふわりと滞空した。足もとに広がる街並みを素早く一望すると、今いるところから最も近くて衆目の届かない場所として見定められた位置――つまり新市街の一画に立つ大時計塔の屋根――に、まっすぐ狙いを定めた。別に時間が知りたかったわけではないけれど、必然的に視界に入ったそれは、11時17分を示していた。
 ルータはふっと笑みを零す。
 ほんの少し前まで、リディアたちとほろ酔い気分でぶらぶらと川沿いを歩いてたのが、嘘みたいだ。
「しっかりつかまっていろ」
 一声かけると、ルータは青年の肺や鼓膜に負荷が掛からないよう、舞い落ちる雪の欠片(かけら)たちとワルツでも踊るみたいに、ゆっくりと降下していった。
 この時刻には、巨大な文字盤を照らし出す灯火はとうに落とされている。街でいちばん天高くそびえる建造物である時計塔は今、まるで水底に沈む廃墟のように、深く濁った暗闇のなかにある。
 塔の(いただき)の部分は、尖塔(せんとう)状になっていた。パーティ用の三角帽子にそっくりの形をした屋根は傾斜がきつく、取りつく島もない。そのすぐ下はもう、文字盤の()め込まれた絶壁だ。
 結局ルータは、屋根と文字盤の(つな)ぎ目にあたるごく細い足場に降りざるをえなかった。そもそもが人が(のぼ)ることを考慮に入れて設計されていない箇所なので、柵や手摺(てすり)やそれに類するものはなにもない。
 そんなところに、ルータは一人の生身の人間の両足を、ひょいと降ろした。
 がくがくと震える二本の脚で必死に踏ん張り、青年は辛うじて中腰の姿勢を取った。その様子を見届けると、ルータはあっけなく手を離した。そしてひらりと背後へ向かって飛びのき、十歩ぶんほどの距離を空けて、みずからも青年とおなじ足場に立った。
 そうして彼は、青年と真正面から向き合った。
「うわっ……ぁあぁ……」
 今にも失神しかねない形相(ぎょうそう)で、テンシュテットは喉を震わせた。殴りかかってくるような暴風が、その金色の髪や上着の(えり)や裾をめちゃくちゃに引っ掻き回している。あの澄み渡る緑の瞳も、今では見るも哀れな恐怖の色に染まっている。
 対するルータは、まるで灯台のように微動だにしない。ゆったりと両手を下に降ろし、膝をまっすぐに立てて、じっと青年を見据えている。
「うっ……あっ、あぁぁっ!!
 急激に向きを変えた突風に張り倒されて、ついに青年は地に伏した。
 しかしそこには、その大柄な身体が伏すことができるほどの余地は存在しない。
 彼の足もとには、ただ夜空の深淵がばっくりと大口を開けて、待ち受けるのみ。
 ルータは指一本動かさなかった。
 ただわずかに目線だけ動かして、その焦点を青年の爪先に合わせただけだった。
 青年の体は宙に浮いた。
 彼の靴底は今、左右どちらとも、足場に接していない。なににも触れていない。
 無理もないよな、とルータは胸中でつぶやく。
 そしてゆっくりと、まるで二足歩行を始めたばかりの赤ん坊を手助けするように、浮かせた爪先を再び足場に着地させてやった。それからは片時も中断することなく、青年の身体を顕術で支え続けた。
 なんとか直立する姿勢を保ってはいるけれど、自分が自分の力で立ってはいないこと、自分が自分の意志で身の平衡を保ってはいないことに、じわじわと、ほんの少しずつ、青年の理解が及んでいった。
 血の気の失せた唇に、雪の粒がいくつも吸いついていく。
「ルータ……!!
 悪夢の真っ最中にいる者の声で、青年はその名を呼んだ。
「やあ」にこりともせずにルータは言った。「調子はどうだい。テンシュテット・レノックス」
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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