5 自分の手が届く世界

文字数 8,508文字

 この森ではほとんどアトマ族の姿を見かけたことはない。見たとしても、森と外界との境界付近の、ある程度は人里に近い平穏な環境に限られていた。いくら都市部などの人工的な環境を好まず、自然の豊かな場所を住処とする習性のある彼ら彼女らであっても、さすがに森の深部ほどに厳しい環境までは、好まなかったみたいだ。
〈アトマ族〉……わたしたちの一族や人間たちよりも先にこの地上に出現し、今なお世界じゅうで血を繋ぎ続ける知的生命体。その身体構造はわたしたちや人間にそっくりの形をしているけど、人間の手のひらに全身が載ってしまうほどに小さい。背中にはガラスのように透き通るしなやかな二枚の(はね)を、(ひたい)には超高感度の波動感知能力の象徴たる柔らかな触角を備えている。
 そしてかの種族は、わたしたちの一族とおなじように、ほぼ制限なく顕術を――万象の源素(げんそ)〈イーノ〉を自分の意思で操る超常能力を――扱う素質を、先天的に一人残らず、その身に宿している。
 けれど、彼ら彼女らが、無闇にその力を乱用することはない。やはり、わたしたちの一族がみんな代々そうであったように。アトマ族が躊躇(ちゅうちょ)なく存分に行使するのは、自由自在に空を飛びまわったり、身のまわりの物をちょっと浮かせたりする顕術くらいのものだ。この点も、わたしたちとおなじだ。


「ずっと昔には、アトマ族のことを妖精って呼んでた時代もあったんだよね」
 ルータが王国軍の小隊を発見した日の午後、わたしたちは老師の言葉に従って引っ越しの準備に取り掛かり始めた。まずは、ルータと老師の部屋と、三階の物置部屋の整理から。わたしとルータは、物置のなかに十数年間に渡って放り込まれてきた品々を、手分けして選別――というか実質的には処分――するために、一つ一つ外へ運び出していた。
 埃をかぶった古雑誌の束を抱えながらわたしが投げたさっきの問いに、ルータがこたえる。
「今でもその呼び方がなくなったわけじゃないみたいだけどね。大昔の、学術的な知識や情報が体系化されて広まる前の時代には、地域によっては顕術のことを魔法とか妖術とかって言ったり、アトマ族のことを妖精とか小人(こびと)って呼んだりすることもあったらしい。ほら、覚えてないか? 僕らが子供の頃、世間でずいぶん流行(はや)った冒険小説があったじゃない」
 床にしゃがみ込んでがらくたの詰まった箱を漁りながら、彼は急に目を輝かせてわたしを見あげた。
「……あぁ。なんかあったね、そういえば」わたしは彼の瞳の奥に幼かった頃の自分たちの姿を見出した。途端に、郷愁が津波となってわたしの胸に押し寄せた。「懐かしいなぁ。そうだったね、あの本の主人公のアトマ族も、物語のなかでは〈妖精の剣士〉って呼ばれてたっけ」
「そうそう。それに、彼の相棒の女の子のアトマは、〈妖精の魔術師〉だった。それで二人が結婚してもうけた子供は、両親の素養を受け継いで〈妖精の魔剣士〉に――」
 持ち上げかけていた古雑誌の束を手から滑らせて、わたしは目を見張った。
「なにそれ。ちょっと待って。あの物語って、二人が人間の悪い王をやっつけて、結婚して、それでめでたしめでたしじゃなかったの?」
 ルータはぽかんとした表情で首をかしげた。
「あれ、リディアは読んでなかったのか。そうだよ、あの本にはちゃんと続きがある。今は二人の孫たちが主人公として頑張ってるよ」
「どういうこと? 今は、って……」
 ぷっと小さく吹き出して、ルータは可笑しそうに言う。
「なんだ、それも知らなかったのか。そう、今でもあの物語は続いてるんだよ。ちょうど来月、十五年ぶりに新作が発売される予定だ」
「うっそぉ、信じられない……。ねぇ、それってわたしが読んだ一作目とおなじ作者の人が書いてるの?」
「もちろんさ」
 やけに誇らしげにルータはこたえた。たぶん、熱心な読書家である彼にとって、お気に入りの作家の一人なのだろう。
「凄い! なら今は、いったいおいくつになられたのかしら。わたしたちが子供の頃に最初の本を書かれたのなら……」
 ルータはふいに目を伏せた。「……うん。僕らとおなじくらいのお歳だ。かつて天才少女作家と呼ばれた彼女も、今ではすっかりおばあちゃんだよ」
「なんてこと……」
 わたしは息を詰まらせた。切なげにほほえんで、ルータはまたわたしの顔を見あげた。まったく、時の流れというのは残酷だね――とでも言いたげな情意(じょうい)がその瞳からは(にじ)んでいたけれど、わたしはそれどころじゃなかった。
「女の人だったのね! ずっと男の人だと思ってたわ」
 拍子抜けしたように首をかくんと落とすと、ルータはけらけらと笑いだした。そしてがらくたの選別を早々(はやばや)と断念して箱ごと抱え上げると、廊下に積まれた処分品の山にそれを追加した。わたしもまた両手に古雑誌や古新聞を()げてそちらへ向かった。
 いっとき二人で肩を並べて、いつの間にかこんなにも溜まってしまっていたいろいろなものを、しんみりとした気持ちで眺めた。
 廊下の突き当たりには、小さな丸窓が()めてある。そこから、薄く(もや)のかかった冬の午後の光が射し込んでいた。そのおかげで大部分が石で出来ているこの空間も、ほんのりと暖かい。時折り階段の下の方から、がちゃがちゃという物音が伝わってくる。一階ではイサクが一人で老師を看ながら、台所の片付けに取り組んでいる。
 手伝えなくて申し訳ないとしきりに気を病んでいた老師は、一時間ほど前に薬湯を飲んで深い眠りに落ちてしまった。
 まぶたを閉じる間際に彼が見せた恐怖と焦燥に駆られる表情が、いまだわたしの目に焼きついていた。そしてそれは、彼の実の孫であるルータもおなじだったろうと思う。
「老師のあんなお顔、わたし初めて見た」
 数日のうちには焼かれて灰になってしまうであろう物たちをじっと見おろしながら、わたしは言った。
 ルータは浅くうなずいた。
「僕だってそうさ。……あ、いや。子供の頃にたった一度だけ、あったかな」
 わたしは彼の横顔をのぞき込んだ。彼は窓の外へ目を向けて、眩しげに両目を細めた。
「僕やイサクが、じいちゃんのいちばん古い記憶についてたずねた時のことだ。きみも知ってのとおり、じいちゃんは自分のことをすすんで喋る人じゃないけど、その時に限っては、なにかを強く決心したみたいに、自分が人生の最初に暮らした集落での出来事について、話して聴かせてくれた」
 その話は、わたしも母さんやルータたち兄妹の口から、少しだけ聴かされたことがあった。
「老師が幼少期に住んでらしたその集落を滅ぼしたのは、いったい

妖精郷探索隊だったのかしら」わたしは声を抑えてたずねた。
「そんなの、僕にもわからないよ」ルータはため息をついた。「なにしろじいちゃんだって、詳しい状況はほとんど覚えてないっていうんだから。それに、その〈妖精郷〉ってのがいったいなんなのかってことも、いまだに見当さえつかないって……」
「ただ、妖精郷を――つまり神話のなかでは〈テルル〉と呼ばれている伝説の楽園を――見つけ出すためにホルンフェルス王国が組織した特殊部隊によって、ある日突然襲撃を受けた……ってことくらいしか、はっきりとはわかっていないのよね」
 ルータはまたうなずく。
「でもそれって、いったいどういう経緯でそうなってしまったんだろう。どうして、人間ごときの接近を許してしまったんだろう。昔の一族の人たちが、顕術の扱いを不得手(ふえて)としていたなんてことは、まさかなかったでしょうに」
「人質が取られたって話だ」間髪入れず、感情も含めず、ルータは乾いた声で言った。「それも、一族の子供が」
 絶句せずにはいられなかった。
 わたしにとって、それは初耳の事実だった。
 そして瞬間的に、あるおぞましい直感が、わたしの心臓を貫いた。
「その子供って、まさか」
「じいちゃんは自分からは話さない。僕らもあえて()かない。でも、たぶん、そうだ」
 それきり彼は口をつぐんだ。
 わたしのはらわたは、いつも優しく温かい老師の笑顔を想いながら、それを深い敬慕の念と共に心から想うからこそ、底の底から煮えくり返った。
 もしもその話が本当だとしたら、妖精郷探索隊という名を耳にした途端、あんなにも激しく調子を崩されるのは、当然のことだ……。
「馬鹿みたい」わたしは吐き捨てた。「いったい、どれだけ長いあいだ飽きもせずに、そんなおとぎ話に出てくる楽園なんかを探し続けてるっていうの。人間たちは、本気でそんなものがこの世に実在するって信じてるわけ?」
 ルータはなにも言わず再び物置に入った。薄暗い部屋の真ん中に立った彼の背中に、廊下から流れ込む陽の光がぼんやりと反射した。
 わたしは扉の脇に立ったまま振り返って、その細い背中に見入った。
「これまでもできるかぎり、各地の軍部の動きには目を光らせてきたつもりだ」彼は静かに口を開いた。「でも、〈妖精郷探索隊〉という名を耳にしたのは、実に久しぶり――というか、子供の頃にじいちゃんの口から聞かされた時以来、初めてのことだ」
「つまりそれほどまでに長い期間、王国の楽園探索活動は中断されていた……」
「そこなんだよ」ルータはくるりとこちらを向いた。「いつの段階だったのか知らないけど、王国の連中はおそらくある時点で、〈テルル〉の探索に一度は見切りをつけていたんだと思う。たぶん、人間の技術力や装備の質が向上したことで、ほとんどこの大陸に未踏の場所がなくなって、それでもなにも見つけることができなかったからだろう」
「だから、天秤竜たちによって護られてきたこの森が、彼らにとって最後の未知の秘境ってことになるわけね」
「そういうことだね」
 さっきまで背中を白く染めていた光を今は体の正面に浴びながら、ルータはひょいと肩をすくめた。白い髪と白い肌が白い光のなかでとりとめもなく一つに溶けあい、ただ瞳とローブの青さだけが、その表面に絵具で塗ったようにくっきりと浮き出ている。
 彼は両手をするりと腰巻に突っ込んで、うろうろと室内を歩き始めた。
「カセドラという強大な力を手にしたことで、ずっと指をくわえて見てることしかできずにいた竜の森の侵略に、いよいよ乗り出し始めた――ってことについては、まぁ、けしからんことだけど、筋道として一応は腑に落ちる。でもだからって、いくらそれに便乗するにしても、ここまで長期に渡って中断していた探索活動を、こんなに大急ぎで再開するなんてのは……ちょっとおかしな話だと思わないか」
 猫背で行ったり来たりする彼の姿を目で追いながら、わたしは首を(ひね)った。
「たしかにそうね。おとぎ話の真偽の実証に躍起(やっき)になるような稚拙な知性の時代は、人類もさすがにもう卒業したかと思っていたけれど」
 ぴたりと立ち止まって、ルータは嘲笑的な表情を浮かべた。
「きみの言うとおりだ。神話に描かれる楽園を追い求めるなんて愚行に本気で取り組むやつなんて、もはや今時(いまどき)いるはずもない。いたとしても、ごく一部の狂信的な好事家(こうずか)か、頭の螺子(ねじ)の外れた夢想家くらいのものだろう。それが、こともあろうに、現代において最も隆盛を極める国家の一つが、国の事業として大真面目に取り組んでいるんだものな。こいつは、なにか……」
「あるのかもね」わたしは先取りした。「なにか、楽園の実在に関する、手掛かりみたいなものが」
 ルータは首肯(しゅこう)した。「信じがたい話ではあるけど、その可能性は考えられなくもないね。あるいはただ単に、現国王が狂信的な好事家か、頭の螺子の外れた夢想家か、あるいは狂信的な好事家であり頭の螺子の外れた夢想家であるだけなのかもしれないけど」
 それについてわたしは皮肉っぽく笑って返したけど、内心はげっそりする気分でいた。だって、それは本当にありえない話ではなかったから。気が狂っていたり頭の螺子が外れてでもいないかぎり、森の尊い命を片っ端から奪っていくなんてこと、できるはずがないもの。
 ふと両手を広げると、ルータは児童合唱団でも指揮するような具合で、それをふわふわと宙で揺らせた。顕術によって、そこかしこにでたらめに積まれていた収納箱が、彼の眼前にすらすらと寄せ集められた。
「……ふむ。やっぱり、どうしてもこれだけは持っていかなくちゃ、っていうものは、さほどないね」
 今まさに自分が思っていたまんまのことをルータが口にしたので、わたしはうなずくばかりだった。
 そう、なんだか寂しいような気もするけれど、そして普段は気にもかけないことだけれど、捨て去ろうと思えば捨て去ってしまえるもので、わたしたちの生活は溢れている。もちろん、わざわざそんなことを考える必要に迫られずにいられるのがなによりなんだけど、わたしたちの場合は、なかなかそうもいかない。
「こんなふうに、旅から旅への暮らしを続けるなかで、きっとたくさんのものが僕ら一族の歴史から失われていったにちがいない」波のない水面にそっと言葉を浮かべるような声音で、ルータが言った。「そのなかには、もしかしたらテルルのことや、僕らの一族がどこから来てどこへ消えていったのかということについての記録なんかも、あったのかもしれない」
「でもわたしたちが受け継いだのは、どれもこれも形のないものばかり」
 わたしはローブの裾をたくし上げ、両膝を折ってその場に(かが)み込んだ。そして視界を埋め尽くすたくさんの雑貨や小物を、一つ一つ観察した。
 (けん)がいくつも抜けた玩具(おもちゃ)のピアノ。
 犬なのか熊なのか見分けられない木彫りの人形。
 発条(ぜんまい)が折れて鳴らなくなったオルゴール。
 虫食い穴だらけのすごろく盤。
 短針がなくなっている古い置時計。
 ためつすがめつ、こうした品々を手に取りながら、わたしは胸の奥がちくちく刺されるような罪悪感を覚えていた。いつの間にかやって来て、そしていつの間にかひっそりと薄闇のなかに沈められてしまったものたち。使い(みち)を見出されないまま、ただどこかへと消えていってしまうものたち。
 たかが十年、二十年という時の経過においてさえ、こうなってしまうんだもの。おそらく何百、何千年と伝えられてきたはずの、一族の祖先たちが残してくれた形なき遺産の数々――おとぎ話、童謡、子守唄、昔話、それに古代の音律で綴られた詩歌――の、経年による劣化や消失は、いか(ほど)のものだったろう。
 実際、おなじ子守唄一つとってみても、わたしが母さんに歌ってもらっていたものと、ルータたちが老師に歌ってもらっていたものでは、歌詞が微妙に違っていたりする。わたしが小さい頃、まだ疫病が蔓延する前に存命だった一族のおとなたちは、それぞれに昔話を披露してわたしたちを楽しませてくれたものだったけれど、それにしたって、語り部が変われば話の内容にも違いがあったし、時には語り部の気分一つで細部の筋書きが端折(はしょ)られたり、妙に大袈裟になったり新しい逸話が勝手に加えられたりしたものだった。
 ルータが言うように、わたしたち一族にも根を下ろして安住できる土地があったならどんなに良かっただろうと、思わずにはいられない。そうしたら、古代からの伝承をよりあるがままの状態で保管し、守り、伝え、数多(あまた)の神話や一族の歴史の真実を、現在まで遺しておくことができたかもしれないのに。
 こうした事情もあって、わたしやルータたちは、むしろ人間たちによって記された歴史書や学術書を通して、世界の成り立ちについて学んできた。なにしろ人間たちは古くから、世界各地に永続的居住地を堂々と構える文明社会を持っていたから。そこに保存される知識の遺産もまた、堂々たる規模と多彩を誇っていた。
 しかしながら世界は広く、人間の才覚や知力も千差万別。現在でこそある程度の統一感と共通認識をもって語られる神話や歴史だけど、ほんの少し前までは、地域や伝承者の違いによってその内容には数多くの差異が見られた。
 かの〈妖精郷〉――原初の楽園とされる〈テルル〉の伝説にしたって、そうだ。
 ある地方では、そこは最初のアトマ族が生誕した地、つまり知恵ある生命体の発祥の地であるとされていた。
 またある地方では、そこはアトマ族によって最初に築かれた都市、つまり地上文明の発祥の地であるとされた。
 ある者は今でも楽園は存在すると語り、ある者は楽園など遥か昔に消滅したと断じた。
 楽園は無限の富を蔵していると言う人もいれば、楽園は究極的になにも存在しない虚無であると言う人もいた。
 もちろん、真偽の程は誰にもわからない。
 ただ、現代(いま)を生きるわたしたちが漠然と共有している認識といえば、かつてこの地上にそういった理想郷のような場所が存在し、そこではあらゆる生命が共に平和に暮らしていたらしい、ということ。そしてある時、わたしたちみんなの祖先たちは、いったいどういうわけか、突然その地を追放されることになってしまったらしい……ということ。
 この物語を題材にした説話や寓話は、事実、あらゆる地方においても、おおむね似たような筋の運びによって伝えられていた。
 わたしたちの一族に遺された口伝(くでん)も、例外じゃない。
 いくつかの昔話や言い伝えのなかには、何度も繰り返して、やれ楽園を追い出されたとか、やれ楽園から見捨てられたとかいった、恨み(ぶし)とまではいかないにしても、どこか切実な惜別(せきべつ)の情念の込められたものが含まれていた。人間やアトマ族に伝わる楽園物語においても、こういう情感の質と傾向は、不思議なくらい似通っている。
 つまり、この大地に生きているわたしたちは全員、遠い昔に楽園で暮らす資格を奪われた存在たちの末裔(まつえい)――ということになるわけだ。
「自分が追い出されてしまった場所がどんなに素晴らしいところだったのかを知っていたなら、そりゃなにがなんでも帰りたいと願うのは、道理だよ」黙々と片付けを進めながらルータが語る。「でもさ、そこがどんな場所なのかまったく知りもしないってのに、そこまでして帰りたいと思えるものかな。僕は、他の生き物を傷つけたり、多くの犠牲を払ったりしてまで、そんな虚ろな野望を果たそうとは思わない。それよりは、今の自分が生きている場所を、自分の手が届く世界を、自分なりの楽園にしていこうって努める方が、よっぽど立派な夢だと思うけど」
 穏やかな陽射しに半身を、ぼんやりとした暗がりにもう半身を浸して、こちらに背を向ける格好で部屋の隅にしゃがみ込む彼を、わたしは息を止めて見つめた。
 ちょうど棚の上の段にあった収納箱を顕術で浮かせたところだったわたしは、音を立てないよう、ふわりとそれを床に着地させた。
「あなたの言うとおりだわ」
 自分とおなじ青いローブに包まれる丸まった背中に向けて、わたしは言った。


 その後わたしたちは、いざという時に移住する候補地として考えてあったいくつかの土地について協議しながら、あらかたの品物を物置の外へ搬出してしまった。残されたのは、わずかばかりの量の、有用性のありそうな家財や貴重品だけだった。わたしはそれを(から)の木箱に詰めた。
「ねぇ。これ全部捨てちゃうの」
 階段を上ってきたイサクが、がらくたの山を前にして言った。
「そんな顔するなよ」身の置き場もない廊下で窮屈そうに肩を縮こませて、ルータが嘆息する。「しょうがないだろ。こんなに持ってけないんだから」
「でもどうすんの、これ」積み上げられた箱の隙間にひょこひょこと白い頭をのぞかせながら、イサクが眉をひそめる。
「片っ端から燃やす。可哀想だけど」兄が無碍(むげ)もなく応じる。「なにかとっときたいものがあるなら、今のうちだよ」
 一通りじっくりと検分してから、イサクは小さくかぶりを振った。そして蝶のようにひらりと宙に舞い上がって、処分品の山を飛び越えた。物置の扉の脇に立っていたわたしが、その猫みたいに軽い体を抱き留めた。
 腕のなかで眼鏡の位置を直す彼女を抱きしめたまま、わたしは隣にいるルータにたずねた。
「どこでやる? ここで派手に煙とか立つとまずいでしょう」
「谷に持っていこう。手間だけど」
 彼の言わんとすることはすぐに理解できた。
「あそこなら誰も来ないね」
「そういうこと」彼はうなずき、腰巻から両手を抜き出した。「できれば早めに身軽になっておきたいから、明日の朝にでも僕が行ってくる。急な話で悪いけど、きみたちも今夜のうちに不要品を出しておいてくれ」
 わたしは首を縦に振った。でもイサクは首を横に振った。そして言った。
「あたしが行く」
 ルータとわたしは呆気にとられて、眼鏡の奥の瞳をのぞき込んだ。
「どうして? イサク」わたしが彼女の兄のぶんも代弁してたずねた。
「……なんとなく」消え入りそうな声で彼女は言った。「火が見たい気分」
 すぐにルータがなにか言わんとした。でもその前にわたしが口を開いていた。
「それじゃわたしも一緒に行く。ルータは、老師のおそばにいてあげて」
 彼はこくりとうなずいた。
 クレー老師は、結局この日は一度も目を開けず、一言も口をきかなかった。夕食も(こば)み、薬湯も二、三口でやめてしまった。わたしたちは交代で彼を看病しながら、ほとんど夜を徹して引っ越しの準備に取り組んだ。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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