50 凍土
文字数 4,622文字
「新聞、読んだよ」ルータがスープを掬 いながら言う。「きみもけったいな任務が続くね」
「最近、本気で占い師に見てもらおうかと思ってるよ」テンシュテットは自嘲する。「このところの僕の星回りは、さぞやしっちゃかめっちゃかになってることだろうさ」
慰めるように、同情するように、ルータは笑う。
彼らは今、病院からほど近い街角にある喫茶店にいた。二人が額を突き合わせているテーブルは、店内の奥の壁際に位置している。そのすぐ横に他の客で一杯のカウンターテーブルがあり、二人はまるで塹壕 のなかに身を潜めているように見える。
わたしは路上に半分はみ出した屋外席の小さな丸テーブルに、一人で座っていた。ここからだと、辛うじて全席の様子を視界に収めることができる。店は屋内も屋外も混み合っていて、二人がわたしに気付く様子はない。病室を出る時に大急ぎでまとめた髪は、イサクから借りた毛糸の帽子ですっぽり包んである。それに色付き眼鏡も掛けてコートの襟も立てているから、おおむねそつのない変装には仕上がっていると思う。
わたしは紅茶のカップに左手を添え、右手で朝刊を広げて持ち、慎重に聴覚を研ぎ澄ませた。
「カセドラを操縦できるんだね」ルータがパンを頬張りつつ言う。「いつから? 志願したのかい?」
テンシュテットはコーヒーの水面をのぞき込むように身を傾け、小さく首を振る。
「僕は乗るつもりはなかった。でも、僕の所属する騎士団の団長……というのは、僕の実の父親なんだけれど、彼が二年ほど前に突然体調を崩してね。それで、父に与えられる予定になっていた巨兵が、急遽 僕に宛 てがわれることになったんだ」
「〈想河 騎士団〉」ルータは言う。「たしか、そんな名だったね」
「そう」青年は顔を上げる。「代々レノックス家の人間が代表を務めてきた、王国騎士団の一つだ」
「どんな騎士団なんだろう」
カップに砂糖を入れて搔き混ぜながら、青年は話す。
「うちは、ずいぶん変わっていてね。他の騎士団とはまるで性質が違う。軍人や兵士というより、学者や研究者たちの集まりといった方が正しいだろう。各種軍備の開発や製造、あるいはアカデミーや民間企業と連携してさまざまな研究活動に取り組むのが、主な任務だ」
「なんだ。きみにぴったりじゃないか」ルータはにやりと笑う。
「まぁね」テンシュテットは苦笑する。「たしかに幸運にも、僕は家の敷く道と気質が合った。だけど……ね。なんていうか、近頃は、僕が子供だった頃とは……なにもかもが様変わりしてしまった」
ルータは口を拭い、咀嚼 を終えてから、再び口を開く。
「カセドラか」
青年はうなずく。「そう。そしてそれを生み出す、〈顕導力学 〉」
軽く背筋を伸ばして、ルータは自分のコーヒーを黒いまま飲み込む。そしてじわりと眉をひそめる。
「僕なんかには計り知れない世界の話だけど、きっと科学や技術力というのは、ただ単純に進歩すればいいっていうだけのものでも、ないんだろうね」
少年のような笑顔を浮かべて、テンシュテットはうなずく。
「うん……そう。そういうこと」
「そこにはやはり、相応の支払うべき代償がある」
「うん。そのとおり」青年はソーサーの縁 にそっとスプーンを置く。「……そのとおりなんだ」
「テン」
「なに?」
「大丈夫かい?」
「……うん。っていうかさ、それはこっちの台詞 」
「え?」
「きみこそ平気かい。ルータ」
「あぁ……、うん。僕なら、大丈夫。どうにか受けとめてるよ。覚悟してたことだから」
「強いね、きみは」
「いいや。強いも弱いもないんだよ、たぶん。結局ただ僕らは、生きてるだけなんだ。日々いろんなことを、呑み込みながら」
「そうか。……そうだな」
「それにまぁ、僕には信じられる仲間や、手厳しい妹がいるしね」
「はは、そうだね。きみが羨ましいよ」
「きみにも立派な妹がいるじゃないか」
「うむ、まぁね。しかしあいつはちょっと、僕の手に余るかな」
「おい、彼女が聞いたら気を悪くするぜ」
「どうだか。今度試しに直接言ってみようかな」
「冗談だろ? やめときなよ」
「もちろん、冗談さ。……あいつは、うん、誇らしい妹だよ。あいつの兄貴でいられて、良かったと思う」
「そうだろうさ」
「ルータ」
「なんだい」
「森に〈テルル〉はなかった」
わたしは持ち上げたところだったカップを、宙でぴたりと静止させた。新聞を盾にして顔を半分隠し、遠くから二人を食い入るように凝視した。
「先日、ほぼ全域を調べ尽くした。でも、なに一つ見つからなかった」
背もたれにぐっと身を預けて、テンシュテットが言った。ルータは手を伸ばしてコーヒーカップをつかみ、ゆっくりと口もとに近付ける。そしてつぶやく。
「……そっか」
「これで、この大地で人間が直接足を運ぶことのできる場所は、大体見て回ったことになる」
「それでも、見つからなかった」
「そうだよ。神話に描かれる楽園なんて、どこにもなかった。その片鱗さえ、たった一欠片 の手掛かりさえ、見つけることができなかった」青年の声は、かすかに震えを帯びる。「太古の昔から静かに暮らしてきた罪なき竜たちを皆殺しにして、こそこそと蠅 みたいに死骸だらけの森をうろつき回って、このざまだ」
ルータは言葉がない。わたしにもない。
「遅かれ早かれ、王国領内の天秤竜の森は、根絶やしにされてしまうだろう」テンシュテットはうろんな目を天井に向ける。その視線の先には、亀のような速度で回転する大きな扇風機の羽がある。彼はそれをぼんやりと眺める。「あの偉大な森の地下には、途方もなく巨大なアリアナイトの鉱脈が秘められている。王国は当然それに気付いている。そしてすでに大規模な採掘事業は、誰にも制御できないところまで進行している。たとえ全世界から非難されたって、トーメ国王陛下はもはや聞く耳を持たないだろう。あぁ……」青年は目を閉じ、重い息を吐き出す。「いったい、あの土地の未来はどうなってしまうのだろう。イーノの調和を根こそぎ破壊された大地に、どんな変化が訪れることになるのか……僕には想像もつかない。でもその変化は、決して、善 き変化にはならないはずだ。大地にとっても、人間にとっても……」
熱くて苦 いなにかを舌の上に載せて耐えるような沈黙が、それから二、三分ほど続いた。ずっとそれに付き合っていたら呼吸の仕方を忘れてしまいそうだったから、わたしはティーカップに噛みつくようにして、新鮮な空気と一緒に中身をごくごくと飲み干した。紅茶はもうすっかり冷めてしまっていた。
「……ともかく」こほんと咳払いをして、ルータが澄んだまなざしで友人を見つめた。「なにはともあれ、言わせてくれ。大変な任務の完了、本当にお疲れさま」
まるでこの瞬間に初めて任務が終わったことを実感したかのように、テンシュテットはふわりと肩の力を抜いた。そして清々しい笑みを見せる。
「ありがとう。ルータ」
「それにしても、きみたちがそこまで死に物狂いで頑張っても、見つからなかったんだな」
「……うん」青年は浅く息を吐き、うつむく。
「妖精郷〈テルル〉。じゃ、あれはやっぱり、ただの伝説に過ぎないわけなんだな」
そこでふと、青年は黙り込む。
やけに深く目を伏せたきり、身動きもしない。
それが、その異様な硬直が、思いがけず長いこと続く。
もしかして唇が上下くっ付いて剥がれなくなってしまったんじゃないかと、真剣に心配になってくるほどに。
いよいよ、ルータの面 に怪訝 の色が滲み始める。わたしはもうさっきからずっとそういう顔をしている。新聞の陰に、身を隠したまま。
「ルータ」
やがて再び前触れなく、青年が口を開いた。
ルータもわたしも、思わず身構える。
「あのね。実は……」ぐっと前に身を乗り出し、音にもならないほどの小さな声で、テンシュテットは語り始める。「実は、根拠があるんだ。王国政府のごく一部しかその存在を知らない、根拠が」
「根拠?」ルータもまた声の調子を合わせ、きつく眉根を寄せる。「いったいなんの話だ?」
「今回特別に編成された探索隊のなかでも、隊長である僕と、陛下からの信望の厚いヤッシャにしか、伝えられていない情報だ。それは……それはね――」
そこでふっつりと彼の言葉は途絶えた。
わたしは新聞の盾を構えたまま、より目を凝らして青年の様子を窺う。
今、彼は、自身の目の前に座るルータの肩越しに、離れた場所にあるなにものかを凝視している。両目を大きく見開いて、まるで地平線の彼方から迫り来る土石流でも目の当たりにするかのように、厳しく息を詰めて。
わたしは新聞の上辺の縁 に沿って視線を滑らせ、彼の視線を辿った。
そして、悲鳴を漏らすのをすんでのところでこらえた。
彼らとカウンターを挟んだ反対側の屋外席に、ヤッシャ・レーヴェンイェルムが座っていた。
手もとには、狼煙 のような湯気の立ち昇るコーヒーカップが一つ。その横に敷かれた手のひらほどの大きさのクッションに、黄色い髪のアトマ族の女性が腰かけている。彼女はアトマ用の小さなグラスで、季節外れのクリームソーダを飲んでいる。そのやや眠たげなまなざしは、ぼんやりと店内の方に漂わせてある。顎や頬に新しい髭を生やしている最中の顔面を、レーヴェンイェルムは悠々と青空へ向けている。
ふいにアトマの女性が首をのけ反らせ、男の顔を見あげた。
そしてその小さな唇が、まるで水面に顔を出す金魚のそれのように、幾度かぱくぱくと動かされた。なんと言ったのかはわからない。唇も読めない。
レーヴェンイェルムは、それまで手のなかで弄 んでいたスプーンを、まるで綿でも丸めるようにぐにゃりと二つに折り曲げた。
青年の様子を不審に思ったルータが、腰を浮かせてあたりを見回す挙動に入った。
わたしは勘定をテーブルに置いて荷物をまとめると、風のように席を立った。そして路上に出て敏速に振り返り、一点に収束させた顕術の衝撃波を指先から放った。
それは空中をまっすぐに一閃し、レーヴェンイェルムの横を通りがかった給仕係の持つ盆に命中した。
盆に載っていた水差しがばりんと割れ、なかに入っていたものが周囲に撒 き散らされた。
給仕の男性は慌てふためき、客の男と彼の連れのアトマ族に謝罪する。その二人の衣服には、水がたっぷり降りかかっている。ガラスの破片も、少々。
わたしが通りを渡ってもう一度振り返ると、すでにルータとテンシュテットの姿は店内から消えていた。
ガラスの割れる音をきっかけに状況を確認した直後、ルータは青年の腕をつかんで一緒に席を離れたようだ。
彼らは背後を何度も振り返りながら、通りの彼方へと走り去っていく。
わたしもまた足早に立ち去り、休日の人混みのなかに姿を紛 れ込ませた。
最後に見た時、レーヴェンイェルムと小さな女性は、タオルを持って駆けつけた店員たちに体を拭かれているところだった。アトマの方は魔女のようにおぞましい剣幕をしているけれど、軍人の方は凍土みたいに無表情のままだ。この男はきっと、まともな人間らしい表情のすべてを母親の胎内に置き忘れてきたに違いない。それとも本当に、凍土から生まれてきたのかもしれない。
わたしは急いで病室へ戻った。病院の玄関に入る直前に西の空を仰ぐと、さっきまで影も形もなかった灰色の雲の隊列が、ずっと遠くの方で行軍 の準備に取り掛かろうとしているのが見えた。
「気を付けなさい」わたしの頭のなかで母さんが言った。
「最近、本気で占い師に見てもらおうかと思ってるよ」テンシュテットは自嘲する。「このところの僕の星回りは、さぞやしっちゃかめっちゃかになってることだろうさ」
慰めるように、同情するように、ルータは笑う。
彼らは今、病院からほど近い街角にある喫茶店にいた。二人が額を突き合わせているテーブルは、店内の奥の壁際に位置している。そのすぐ横に他の客で一杯のカウンターテーブルがあり、二人はまるで
わたしは路上に半分はみ出した屋外席の小さな丸テーブルに、一人で座っていた。ここからだと、辛うじて全席の様子を視界に収めることができる。店は屋内も屋外も混み合っていて、二人がわたしに気付く様子はない。病室を出る時に大急ぎでまとめた髪は、イサクから借りた毛糸の帽子ですっぽり包んである。それに色付き眼鏡も掛けてコートの襟も立てているから、おおむねそつのない変装には仕上がっていると思う。
わたしは紅茶のカップに左手を添え、右手で朝刊を広げて持ち、慎重に聴覚を研ぎ澄ませた。
「カセドラを操縦できるんだね」ルータがパンを頬張りつつ言う。「いつから? 志願したのかい?」
テンシュテットはコーヒーの水面をのぞき込むように身を傾け、小さく首を振る。
「僕は乗るつもりはなかった。でも、僕の所属する騎士団の団長……というのは、僕の実の父親なんだけれど、彼が二年ほど前に突然体調を崩してね。それで、父に与えられる予定になっていた巨兵が、
「〈
「そう」青年は顔を上げる。「代々レノックス家の人間が代表を務めてきた、王国騎士団の一つだ」
「どんな騎士団なんだろう」
カップに砂糖を入れて搔き混ぜながら、青年は話す。
「うちは、ずいぶん変わっていてね。他の騎士団とはまるで性質が違う。軍人や兵士というより、学者や研究者たちの集まりといった方が正しいだろう。各種軍備の開発や製造、あるいはアカデミーや民間企業と連携してさまざまな研究活動に取り組むのが、主な任務だ」
「なんだ。きみにぴったりじゃないか」ルータはにやりと笑う。
「まぁね」テンシュテットは苦笑する。「たしかに幸運にも、僕は家の敷く道と気質が合った。だけど……ね。なんていうか、近頃は、僕が子供だった頃とは……なにもかもが様変わりしてしまった」
ルータは口を拭い、
「カセドラか」
青年はうなずく。「そう。そしてそれを生み出す、〈
軽く背筋を伸ばして、ルータは自分のコーヒーを黒いまま飲み込む。そしてじわりと眉をひそめる。
「僕なんかには計り知れない世界の話だけど、きっと科学や技術力というのは、ただ単純に進歩すればいいっていうだけのものでも、ないんだろうね」
少年のような笑顔を浮かべて、テンシュテットはうなずく。
「うん……そう。そういうこと」
「そこにはやはり、相応の支払うべき代償がある」
「うん。そのとおり」青年はソーサーの
「テン」
「なに?」
「大丈夫かい?」
「……うん。っていうかさ、それはこっちの
「え?」
「きみこそ平気かい。ルータ」
「あぁ……、うん。僕なら、大丈夫。どうにか受けとめてるよ。覚悟してたことだから」
「強いね、きみは」
「いいや。強いも弱いもないんだよ、たぶん。結局ただ僕らは、生きてるだけなんだ。日々いろんなことを、呑み込みながら」
「そうか。……そうだな」
「それにまぁ、僕には信じられる仲間や、手厳しい妹がいるしね」
「はは、そうだね。きみが羨ましいよ」
「きみにも立派な妹がいるじゃないか」
「うむ、まぁね。しかしあいつはちょっと、僕の手に余るかな」
「おい、彼女が聞いたら気を悪くするぜ」
「どうだか。今度試しに直接言ってみようかな」
「冗談だろ? やめときなよ」
「もちろん、冗談さ。……あいつは、うん、誇らしい妹だよ。あいつの兄貴でいられて、良かったと思う」
「そうだろうさ」
「ルータ」
「なんだい」
「森に〈テルル〉はなかった」
わたしは持ち上げたところだったカップを、宙でぴたりと静止させた。新聞を盾にして顔を半分隠し、遠くから二人を食い入るように凝視した。
「先日、ほぼ全域を調べ尽くした。でも、なに一つ見つからなかった」
背もたれにぐっと身を預けて、テンシュテットが言った。ルータは手を伸ばしてコーヒーカップをつかみ、ゆっくりと口もとに近付ける。そしてつぶやく。
「……そっか」
「これで、この大地で人間が直接足を運ぶことのできる場所は、大体見て回ったことになる」
「それでも、見つからなかった」
「そうだよ。神話に描かれる楽園なんて、どこにもなかった。その片鱗さえ、たった
ルータは言葉がない。わたしにもない。
「遅かれ早かれ、王国領内の天秤竜の森は、根絶やしにされてしまうだろう」テンシュテットはうろんな目を天井に向ける。その視線の先には、亀のような速度で回転する大きな扇風機の羽がある。彼はそれをぼんやりと眺める。「あの偉大な森の地下には、途方もなく巨大なアリアナイトの鉱脈が秘められている。王国は当然それに気付いている。そしてすでに大規模な採掘事業は、誰にも制御できないところまで進行している。たとえ全世界から非難されたって、トーメ国王陛下はもはや聞く耳を持たないだろう。あぁ……」青年は目を閉じ、重い息を吐き出す。「いったい、あの土地の未来はどうなってしまうのだろう。イーノの調和を根こそぎ破壊された大地に、どんな変化が訪れることになるのか……僕には想像もつかない。でもその変化は、決して、
熱くて
「……ともかく」こほんと咳払いをして、ルータが澄んだまなざしで友人を見つめた。「なにはともあれ、言わせてくれ。大変な任務の完了、本当にお疲れさま」
まるでこの瞬間に初めて任務が終わったことを実感したかのように、テンシュテットはふわりと肩の力を抜いた。そして清々しい笑みを見せる。
「ありがとう。ルータ」
「それにしても、きみたちがそこまで死に物狂いで頑張っても、見つからなかったんだな」
「……うん」青年は浅く息を吐き、うつむく。
「妖精郷〈テルル〉。じゃ、あれはやっぱり、ただの伝説に過ぎないわけなんだな」
そこでふと、青年は黙り込む。
やけに深く目を伏せたきり、身動きもしない。
それが、その異様な硬直が、思いがけず長いこと続く。
もしかして唇が上下くっ付いて剥がれなくなってしまったんじゃないかと、真剣に心配になってくるほどに。
いよいよ、ルータの
「ルータ」
やがて再び前触れなく、青年が口を開いた。
ルータもわたしも、思わず身構える。
「あのね。実は……」ぐっと前に身を乗り出し、音にもならないほどの小さな声で、テンシュテットは語り始める。「実は、根拠があるんだ。王国政府のごく一部しかその存在を知らない、根拠が」
「根拠?」ルータもまた声の調子を合わせ、きつく眉根を寄せる。「いったいなんの話だ?」
「今回特別に編成された探索隊のなかでも、隊長である僕と、陛下からの信望の厚いヤッシャにしか、伝えられていない情報だ。それは……それはね――」
そこでふっつりと彼の言葉は途絶えた。
わたしは新聞の盾を構えたまま、より目を凝らして青年の様子を窺う。
今、彼は、自身の目の前に座るルータの肩越しに、離れた場所にあるなにものかを凝視している。両目を大きく見開いて、まるで地平線の彼方から迫り来る土石流でも目の当たりにするかのように、厳しく息を詰めて。
わたしは新聞の上辺の
そして、悲鳴を漏らすのをすんでのところでこらえた。
彼らとカウンターを挟んだ反対側の屋外席に、ヤッシャ・レーヴェンイェルムが座っていた。
手もとには、
ふいにアトマの女性が首をのけ反らせ、男の顔を見あげた。
そしてその小さな唇が、まるで水面に顔を出す金魚のそれのように、幾度かぱくぱくと動かされた。なんと言ったのかはわからない。唇も読めない。
レーヴェンイェルムは、それまで手のなかで
青年の様子を不審に思ったルータが、腰を浮かせてあたりを見回す挙動に入った。
わたしは勘定をテーブルに置いて荷物をまとめると、風のように席を立った。そして路上に出て敏速に振り返り、一点に収束させた顕術の衝撃波を指先から放った。
それは空中をまっすぐに一閃し、レーヴェンイェルムの横を通りがかった給仕係の持つ盆に命中した。
盆に載っていた水差しがばりんと割れ、なかに入っていたものが周囲に
給仕の男性は慌てふためき、客の男と彼の連れのアトマ族に謝罪する。その二人の衣服には、水がたっぷり降りかかっている。ガラスの破片も、少々。
わたしが通りを渡ってもう一度振り返ると、すでにルータとテンシュテットの姿は店内から消えていた。
ガラスの割れる音をきっかけに状況を確認した直後、ルータは青年の腕をつかんで一緒に席を離れたようだ。
彼らは背後を何度も振り返りながら、通りの彼方へと走り去っていく。
わたしもまた足早に立ち去り、休日の人混みのなかに姿を
最後に見た時、レーヴェンイェルムと小さな女性は、タオルを持って駆けつけた店員たちに体を拭かれているところだった。アトマの方は魔女のようにおぞましい剣幕をしているけれど、軍人の方は凍土みたいに無表情のままだ。この男はきっと、まともな人間らしい表情のすべてを母親の胎内に置き忘れてきたに違いない。それとも本当に、凍土から生まれてきたのかもしれない。
わたしは急いで病室へ戻った。病院の玄関に入る直前に西の空を仰ぐと、さっきまで影も形もなかった灰色の雲の隊列が、ずっと遠くの方で
「気を付けなさい」わたしの頭のなかで母さんが言った。
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