54 北へ!
文字数 5,536文字
「ごめん、遅くなった!」
病院を正門から出たテンシュテットは、そこから建物の裏側へと回って、わたしたちが身を潜めている場所まで駆けつけた。
それは表通りからだいぶ奥まったところに位置する、じめじめとして黴臭 い路地裏の突き当たりだった。わたしたちは身を寄せ合って老師を風雪から護りながら、青年の到着を待っていた。
「コーヒー、美味かった?」歯をかちかちといわせつつ、いかにも余裕ありげな調子でルータがたずねる。
「素晴らしい逸品だったね」テンシュテットはにやりと笑う。「あれはきっと、コルトー王国原産の一等級の豆だな。きみたちも一杯もらっておけばよかったのに」
「冗談はそれくらいにして」イサクが男たちを睨む。「余計に心が冷え込むから」
「わたしたちのこと、気付かれなかった?」全身を小刻みに震わせながら――もちろん体が勝手に震えているのだ――わたしは訊いた。
青年はきっぱりとうなずく。
「大丈夫、うまくいったよ。あの受付の人は帰ってったけど、看護士たちは全員まだ詰所から出てないはずだ。まさか病室が一つ空っぽになってるなんて、誰も思ってもみないはずさ」
それを聞いて、わたしたちはとりあえず一安心する。
顔に降りかかる雪の粉を払いながら、青年は老師の容態を確かめた。老師は今、寝椅子に横たわるような姿勢で宙に浮いている。浮かせているのは、ルータの顕術だ。
「よし」テンシュテットは自身の肩と背に掛かっていた雪を、ばしばしと叩 き落とした。「さぁ、お載せして」
「……ほんとにいいのかい?」ルータが申し訳なさそうにたずねる。
「いいったら」こちらに背を向けて、青年はもどかしげに言う。「ほら、早くして」
促されるがまま、ルータは老師の身体を青年の背中に前傾姿勢で密着させた。青年の上体は見た目よりかなりがっしりとしていて、脚は改めて見るまでもなくとても長く逞 しかった。わたしは思い出さずにはいられなかった。あのハスキルたちの丘の礼拝堂を初めて訪ねた夜、ルータに背負われる老師の両脚が、雨と霙 に塗 れる地面の上を引き摺られていた光景を。その時には泥に浸っていた爪先は今、石畳よりわずかに高いところにぶら下がっている。
「ありがとう、テン」ルータが言った。「重くない?」
青年は首を振る。「まるで重さを感じない。さすがに上手だね」
彼はルータの顕術の扱いのことを言っていた。傍目 には、しっかりとその身体の重みを引き受けて担いでいるようにしか見えないけれど、実際には老師のお体は引き続きルータの顕術によって浮かせられている。おそらく青年にとっては、猫一匹ほどの重さしか感じられていないことだろう。
「助かるわ」わたしは彼にほほえみかけた。
彼は黙って首を振る。
「……どっかにぶつけたりしないでね」イサクがぽつりと言った。
青年は頼もしげにうなずいてみせる。
そしてくるりと踵を返し、表 の往来へと続く細い路地の先へ目を向けた。
「さて、どこへ向かおう」
「とにかくすぐに街を出たい」ルータが即応する。「人間たちの目が届かない場所まで行かなくては」
「街を出て、人目に付かないところへ」青年は復唱する。「それから先は? どこか行くあてはあるのかい?」
「あるわ」今度はわたしがこたえる。「目星をつけている場所が、一つある」
「……わかった」
青年はそれ以上はなにも聞き出そうとしなかった。
素早く呼吸を整えると、顔だけこちらへ向ける。
「じゃあ、まずは街をどう抜け出すか、だね。なにか考えてあるの? まさかこのままずっと背負って歩くわけにもいかないだろう?」
「もちろん」ルータがうなずく。「こんな状態で街中をうろついたんじゃあまりにも目立ちすぎるし、そもそもそんな猶予はもうない。今日の昼間に、貸馬車 を一輛 予約しておいた。時間は決めてないけど、今夜じゅうには必ず行くと伝えてある。料金も支払い済みだし、まず確実に調達できると思う」
「なるほど。準備がいいね」ちらちらと金髪の揺れる横顔に、明るい笑みが浮かぶ。「それはどこにある? 遠い?」
大股で一歩進み出て、ルータは青年の横に立った。
「この近くだ。旧市街のなかにある。僕がこれから行って運んでくるから、きみたちはここで――」
「近いんだったら、もうみんなで行っちゃわない」身体を温めるためにせかせかと肩を揺らしながら、イサクが提案した。「時間がもったいないよ」
「そりゃそうだけど……」ルータが眉をひそめた。そしてわたしと目を合わせる。「大丈夫かな。近いって言っても、少しは歩くことになるけど」
わたしはマフラー越しに深く息を吸い込んで、三秒ほど止めて、それから一気に吐き出した。
「――行こう。もうのんびりしてられない」わたしは言った。「ねぇ、ちなみにそれって、屋根の付いてる馬車だよね?」
ルータはうなずく。
わたしもうなずく。「だったら、老師のお体にとっても、雪や風にこのまま晒されているよりはましじゃないかしら。急いで向かいましょう」
こうして一行は、ルータを先頭にして表通りへと向かった。
道行く人々の多くは傘を差していたりフードをかぶっていたりして、擦れ違う他人のことをいちいち気に掛けている余裕もなさそうだった。これ幸いと、わたしたちは平然とした足取りで通りを進んだ。
しかし歩きだしていくらもしないうちに、ルータが慌てて立ち止まって一行を脇道へと引き込んだ。
彼が逸早 く察知していなかったら、角を曲がって正面からやって来る軍警察の巡視馬車に呼び止められていたかもしれなかった。
間一髪のところで彼らをやり過ごし、みんなでやれやれと安堵していると、ちょうどその瞬間を見計らったかのように、見知らぬ通行人がこちらに声をかけてきた。
商人風のいでたちをした、中年期に片足突っ込んだ年頃とおぼしき小太りの男性だった。傘も差していなければ、帽子もかぶっていない。縮れた黒髪や髭に、たっぷりと雪がこびり付いている。彼は行き違いざまにテンシュテットのそばで足を止めた。
「あんたがた、いったいどうしたね」ぎょっと両目を剥いて、彼は声を上げる。「怪我でもしなさったか? それとも具合悪いのか? 手を貸そうか?」
「ありがとう。でもおかまいなく」テンシュテットは何事もないように笑ってみせる。「ちょっと呑み過ぎただけですから。これから家に送り届けるところです」
「なぁんだ、そうかい」男は拍子抜けして、じろじろと老師のお顔をのぞき込む。「こんなべらぼうに冷える夜に、あんまり呑ませちゃいかんよ。ただでさえ、えらくお年を召しとられるのに」
「気を付けます」ルータが応じる。「ご親切にどうも」
わたしたちは一礼して、足早に立ち去ろうとする……のだけど、男性のお節介は止まらない。
「ちょいと待ちなよ。この辺じゃ見ない顔だね。家はどこなんだい」
一斉に顔をしかめて足を止める一行のなかで、最後尾を歩くわたしだけが、和やかな表情を作って振り返った。
「このかたのご自宅は、ここから歩いて帰れるところにあります」
微妙に要領を得ないわたしからの返答に、男は首をかしげるのとうなずくのとを同時にしてみせた。そして、まだ続ける。
「歩くっつってもなぁ。ますます降ってくるみたいだよ、これから。そのあたりで馬車でも拾ったらどうだい……って、でも辻馬車がつかまる通りは、もうちょい先か。あ! そうだ」彼はぱちっと指を鳴らす。「ついさっき、一つ横の通りで憲兵の馬車を見かけたよ。一人か二人くらい、乗せてもらえるかもしれん。よかったら呼んできてやろうか」
背筋がざわざわするのを堪えながら、わたしは穏便にお断りした。
「……ふぅん。そう。わかったよ」彼はいくぶん気を損ねたように、肩をすくめた。「そんなら、せいぜい気を付けるこったね。そのお年じゃ、ただの風邪でも命取りだぜ」
「肝に銘じます」わたしは丁寧にお辞儀をした。
男性は機嫌を直すことのないまま、どこかへ行ってしまった。
すかさず、イサクがわたしの背中をぽんと叩いてくれた。
「……うん。行こう」わたしはぐっと顎を引いた。
「こっちだ」ルータが言った。
そこから貸馬車屋までは、誰からも見咎められたり呼び止められたりすることなく辿り着くことができた。ルータが予約していたのは、御者を含めて六人ほどが乗り込むことのできる幌 馬車だった。馬はずんぐりとして脚の太い白馬で、たっぷりの冬毛と厚い馬着 を身にまとい、この寒さにもまるで関心がなさそうな顔をして静かに雪を眺めていた。あるいはなにも眺めてなんかいないのかもしれないけれど、ともかくその大きくつぶらな瞳の表面には、ひっくり返したスノードームの中身みたいに、たくさんの雪の欠片が踊っていた。
本来なら専属の御者が同行するところを、通常の五倍の賃貸料を支払って頼み込むことで、手綱をも自由にさせてもらえることになった。誓約書や身許保証書に署名する時、ルータの手はぶるぶると震えていた。彼だけじゃない。彼を見守るわたしたち全員の体が、そうなっていた――ただ一人、クレー老師を除いて。老師の身体は、すでにこの寒さをも感じられなくなっているようだった。手も足も肩も顔も、まるで彫像のように動かない。
わたしたちは急いで馬車に乗り込んだ。すぐにテンシュテットがルータに代わって手綱を握った。僕に任せて、と彼は言った。こう見えて、腕に覚えがあるんだ。いやいや、とルータは笑った。きみはどこからどう見ても、馬が得意そうに見えるよ。
事実、馬術の選手さながらに、青年の手綱捌 きは見事なものだった。彼が綱を引いたり緩めたりするたびに、馬はまるで魔法にでもかけられたみたいに、空いた経路をみずから見極めてすいすいと駆け抜けた。幌の張られた貨車のなかで、わたしたちは協力して老師を守護した。震動が伝わらないよう、ルータはなおもそのお体を顕術によって浮かせていた。イサクとわたしが、両脇からそれを補助した。
「どこから出る?」テンシュテットが御者台から振り返って大声でたずねた。
「北へ!」ルータが叫び返す。「旧市街の北口から街道へ出よう」
「了解!」
馬はどんどん調子を上げて、積もる雪も降る雪もものともせず、軽快に飛び跳ねるように市街地を突き進んだ。
瞬く間に都市部の内外を隔てる石門 を通過し、郊外へ至る道へと出た。
石畳の街道は、やがて木杭 によって縁取られるだけの田舎道へと変化する。しかし外を出歩く人間たちの姿は、どこまで行ってもなかなか絶えない。多くが、丸々と着膨れた農夫たちや、重装備の旅商人たちだ。彼らはみな、まるで火の精霊でも従えているみたいに、赤く灯るカンテラをその手に提げている。疾走する馬車に道を譲りながら、彼らはそれらの火を顔の前まで持ち上げて訝 しげに眉根を寄せるけれど、すぐにまた自身の爪先が向かう方へ目を落とす。降りしきる雪と吹きつける風と深まりゆく夜のなかにあって、余計なことに気を割いている暇なんかないのだ。誰もがみな、今は一刻も早く、落ち着くべき場所へと辿り着くことを願っているのだ。誰よりもわたしたちが、そうであるように。
タヒナータ市の北部には、そこからさらに北上した果てに待ち受ける大海の岸辺に至るまで、緑豊かな平野部が延々と広がっている。そこかしこに疎林 や雑木林、それに小川や湖やちょっとした岩場などが点在してはいるけれど、おおむね見晴らしのいい開放的な一帯だ。都市や近隣の町村に端を発する街道が、いくつもの名も無き小道へと枝分かれし、樹々 や草叢 のあいだを縫ってのらりくらりと地を這い回っている。道々 の畔 には民家や厩舎や宿屋なんかがぽつぽつと立っていて、それらの周辺ではこんな時間でもちらほらと人影が散見される。
わたしたちを運ぶ馬車は、人間たちの息が染み付いた世界のすべてを振り切るように、ただひたすら北へと向かって驀進 した。
行く手の積雪があまりに厚い時には、逐一 わたしたちの誰かが顕術でそれを吹き飛ばした。そのたびに馬は機嫌を良くして、威勢よく嘶 いた。
重い蹄 が太鼓の連打のごとく地を打ち、風の悲鳴は弦楽による性急な無窮動 の調べのようだった。これらの音楽の調性は、言うまでもなく短調だ。終楽章においては、どうか救済へと至る展開が待っていますようにと、祈るより他ない……
……
…………
そしていつしか、
わたしたちのまわりには、
なにもなくなった。
誰もいなくなった。
ただ、もうしばらく行った先に、西と東に伸びていく道の分岐点があり、その背後に、まるでこれからどちらへ進むのか審問する番人かなにかのように、黒々とした枯れ木の林が広がっているばかり。普段はあたり一面を埋め尽くしているはずの野生の草花も、今夜はことごとく分厚い白に蓋 をされてしまっている。
ここへ来て、わたしたちはもはや言葉を口にすることはなかった。
けれど、一切の迷いも齟齬 もなく、以心伝心でおなじ決断を共有した。
「ここでいいよ、テン」分かれ道に差し掛かる手前で、ルータがわたしたちの総意を伝えた。「ありがとう。馬を停めて」
青年は振り返ることなく黙してうなずき、そのとおりにした。
馬車は黒い林の目前で、その役割を終えた。
馬の脚が完全に止まってしまうと、恐ろしいほどの静寂がやって来た。
もちろん、まだ四方八方では風が激しく渦を巻いていた。馬の荒々しい呼吸だって、今がまさに最高潮だ。でも、ここにはなにか、世界の根源的な力に起因しているものと感じられるほどの、実存としての静寂そのものがあった。あるいは、静寂の形をとった圧倒的な実存性が、ここに具現していた。
わたしたちは、そんな静けさと切り結ぶように、心を定めて外へと出た。
病院を正門から出たテンシュテットは、そこから建物の裏側へと回って、わたしたちが身を潜めている場所まで駆けつけた。
それは表通りからだいぶ奥まったところに位置する、じめじめとして
「コーヒー、美味かった?」歯をかちかちといわせつつ、いかにも余裕ありげな調子でルータがたずねる。
「素晴らしい逸品だったね」テンシュテットはにやりと笑う。「あれはきっと、コルトー王国原産の一等級の豆だな。きみたちも一杯もらっておけばよかったのに」
「冗談はそれくらいにして」イサクが男たちを睨む。「余計に心が冷え込むから」
「わたしたちのこと、気付かれなかった?」全身を小刻みに震わせながら――もちろん体が勝手に震えているのだ――わたしは訊いた。
青年はきっぱりとうなずく。
「大丈夫、うまくいったよ。あの受付の人は帰ってったけど、看護士たちは全員まだ詰所から出てないはずだ。まさか病室が一つ空っぽになってるなんて、誰も思ってもみないはずさ」
それを聞いて、わたしたちはとりあえず一安心する。
顔に降りかかる雪の粉を払いながら、青年は老師の容態を確かめた。老師は今、寝椅子に横たわるような姿勢で宙に浮いている。浮かせているのは、ルータの顕術だ。
「よし」テンシュテットは自身の肩と背に掛かっていた雪を、ばしばしと
「……ほんとにいいのかい?」ルータが申し訳なさそうにたずねる。
「いいったら」こちらに背を向けて、青年はもどかしげに言う。「ほら、早くして」
促されるがまま、ルータは老師の身体を青年の背中に前傾姿勢で密着させた。青年の上体は見た目よりかなりがっしりとしていて、脚は改めて見るまでもなくとても長く
「ありがとう、テン」ルータが言った。「重くない?」
青年は首を振る。「まるで重さを感じない。さすがに上手だね」
彼はルータの顕術の扱いのことを言っていた。
「助かるわ」わたしは彼にほほえみかけた。
彼は黙って首を振る。
「……どっかにぶつけたりしないでね」イサクがぽつりと言った。
青年は頼もしげにうなずいてみせる。
そしてくるりと踵を返し、
「さて、どこへ向かおう」
「とにかくすぐに街を出たい」ルータが即応する。「人間たちの目が届かない場所まで行かなくては」
「街を出て、人目に付かないところへ」青年は復唱する。「それから先は? どこか行くあてはあるのかい?」
「あるわ」今度はわたしがこたえる。「目星をつけている場所が、一つある」
「……わかった」
青年はそれ以上はなにも聞き出そうとしなかった。
素早く呼吸を整えると、顔だけこちらへ向ける。
「じゃあ、まずは街をどう抜け出すか、だね。なにか考えてあるの? まさかこのままずっと背負って歩くわけにもいかないだろう?」
「もちろん」ルータがうなずく。「こんな状態で街中をうろついたんじゃあまりにも目立ちすぎるし、そもそもそんな猶予はもうない。今日の昼間に、
「なるほど。準備がいいね」ちらちらと金髪の揺れる横顔に、明るい笑みが浮かぶ。「それはどこにある? 遠い?」
大股で一歩進み出て、ルータは青年の横に立った。
「この近くだ。旧市街のなかにある。僕がこれから行って運んでくるから、きみたちはここで――」
「近いんだったら、もうみんなで行っちゃわない」身体を温めるためにせかせかと肩を揺らしながら、イサクが提案した。「時間がもったいないよ」
「そりゃそうだけど……」ルータが眉をひそめた。そしてわたしと目を合わせる。「大丈夫かな。近いって言っても、少しは歩くことになるけど」
わたしはマフラー越しに深く息を吸い込んで、三秒ほど止めて、それから一気に吐き出した。
「――行こう。もうのんびりしてられない」わたしは言った。「ねぇ、ちなみにそれって、屋根の付いてる馬車だよね?」
ルータはうなずく。
わたしもうなずく。「だったら、老師のお体にとっても、雪や風にこのまま晒されているよりはましじゃないかしら。急いで向かいましょう」
こうして一行は、ルータを先頭にして表通りへと向かった。
道行く人々の多くは傘を差していたりフードをかぶっていたりして、擦れ違う他人のことをいちいち気に掛けている余裕もなさそうだった。これ幸いと、わたしたちは平然とした足取りで通りを進んだ。
しかし歩きだしていくらもしないうちに、ルータが慌てて立ち止まって一行を脇道へと引き込んだ。
彼が
間一髪のところで彼らをやり過ごし、みんなでやれやれと安堵していると、ちょうどその瞬間を見計らったかのように、見知らぬ通行人がこちらに声をかけてきた。
商人風のいでたちをした、中年期に片足突っ込んだ年頃とおぼしき小太りの男性だった。傘も差していなければ、帽子もかぶっていない。縮れた黒髪や髭に、たっぷりと雪がこびり付いている。彼は行き違いざまにテンシュテットのそばで足を止めた。
「あんたがた、いったいどうしたね」ぎょっと両目を剥いて、彼は声を上げる。「怪我でもしなさったか? それとも具合悪いのか? 手を貸そうか?」
「ありがとう。でもおかまいなく」テンシュテットは何事もないように笑ってみせる。「ちょっと呑み過ぎただけですから。これから家に送り届けるところです」
「なぁんだ、そうかい」男は拍子抜けして、じろじろと老師のお顔をのぞき込む。「こんなべらぼうに冷える夜に、あんまり呑ませちゃいかんよ。ただでさえ、えらくお年を召しとられるのに」
「気を付けます」ルータが応じる。「ご親切にどうも」
わたしたちは一礼して、足早に立ち去ろうとする……のだけど、男性のお節介は止まらない。
「ちょいと待ちなよ。この辺じゃ見ない顔だね。家はどこなんだい」
一斉に顔をしかめて足を止める一行のなかで、最後尾を歩くわたしだけが、和やかな表情を作って振り返った。
「このかたのご自宅は、ここから歩いて帰れるところにあります」
微妙に要領を得ないわたしからの返答に、男は首をかしげるのとうなずくのとを同時にしてみせた。そして、まだ続ける。
「歩くっつってもなぁ。ますます降ってくるみたいだよ、これから。そのあたりで馬車でも拾ったらどうだい……って、でも辻馬車がつかまる通りは、もうちょい先か。あ! そうだ」彼はぱちっと指を鳴らす。「ついさっき、一つ横の通りで憲兵の馬車を見かけたよ。一人か二人くらい、乗せてもらえるかもしれん。よかったら呼んできてやろうか」
背筋がざわざわするのを堪えながら、わたしは穏便にお断りした。
「……ふぅん。そう。わかったよ」彼はいくぶん気を損ねたように、肩をすくめた。「そんなら、せいぜい気を付けるこったね。そのお年じゃ、ただの風邪でも命取りだぜ」
「肝に銘じます」わたしは丁寧にお辞儀をした。
男性は機嫌を直すことのないまま、どこかへ行ってしまった。
すかさず、イサクがわたしの背中をぽんと叩いてくれた。
「……うん。行こう」わたしはぐっと顎を引いた。
「こっちだ」ルータが言った。
そこから貸馬車屋までは、誰からも見咎められたり呼び止められたりすることなく辿り着くことができた。ルータが予約していたのは、御者を含めて六人ほどが乗り込むことのできる
本来なら専属の御者が同行するところを、通常の五倍の賃貸料を支払って頼み込むことで、手綱をも自由にさせてもらえることになった。誓約書や身許保証書に署名する時、ルータの手はぶるぶると震えていた。彼だけじゃない。彼を見守るわたしたち全員の体が、そうなっていた――ただ一人、クレー老師を除いて。老師の身体は、すでにこの寒さをも感じられなくなっているようだった。手も足も肩も顔も、まるで彫像のように動かない。
わたしたちは急いで馬車に乗り込んだ。すぐにテンシュテットがルータに代わって手綱を握った。僕に任せて、と彼は言った。こう見えて、腕に覚えがあるんだ。いやいや、とルータは笑った。きみはどこからどう見ても、馬が得意そうに見えるよ。
事実、馬術の選手さながらに、青年の手綱
「どこから出る?」テンシュテットが御者台から振り返って大声でたずねた。
「北へ!」ルータが叫び返す。「旧市街の北口から街道へ出よう」
「了解!」
馬はどんどん調子を上げて、積もる雪も降る雪もものともせず、軽快に飛び跳ねるように市街地を突き進んだ。
瞬く間に都市部の内外を隔てる
石畳の街道は、やがて
タヒナータ市の北部には、そこからさらに北上した果てに待ち受ける大海の岸辺に至るまで、緑豊かな平野部が延々と広がっている。そこかしこに
わたしたちを運ぶ馬車は、人間たちの息が染み付いた世界のすべてを振り切るように、ただひたすら北へと向かって
行く手の積雪があまりに厚い時には、
重い
……
…………
そしていつしか、
わたしたちのまわりには、
なにもなくなった。
誰もいなくなった。
ただ、もうしばらく行った先に、西と東に伸びていく道の分岐点があり、その背後に、まるでこれからどちらへ進むのか審問する番人かなにかのように、黒々とした枯れ木の林が広がっているばかり。普段はあたり一面を埋め尽くしているはずの野生の草花も、今夜はことごとく分厚い白に
ここへ来て、わたしたちはもはや言葉を口にすることはなかった。
けれど、一切の迷いも
「ここでいいよ、テン」分かれ道に差し掛かる手前で、ルータがわたしたちの総意を伝えた。「ありがとう。馬を停めて」
青年は振り返ることなく黙してうなずき、そのとおりにした。
馬車は黒い林の目前で、その役割を終えた。
馬の脚が完全に止まってしまうと、恐ろしいほどの静寂がやって来た。
もちろん、まだ四方八方では風が激しく渦を巻いていた。馬の荒々しい呼吸だって、今がまさに最高潮だ。でも、ここにはなにか、世界の根源的な力に起因しているものと感じられるほどの、実存としての静寂そのものがあった。あるいは、静寂の形をとった圧倒的な実存性が、ここに具現していた。
わたしたちは、そんな静けさと切り結ぶように、心を定めて外へと出た。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)