59 闇の奥
文字数 5,772文字
果てなく続く断崖の際 を、底の見えない深い谷と並走するように、二体のカセドラは北へ向かって走り去っていた。
鋭い悪寒に刺され痛むのが心臓なのか胃なのか、それともどこかの骨なのかもわからないまま、わたしは胸のあたりをぎゅっと押さえて彼らの跡を追った。
その足跡は、まさに爆撃痕そのものだった。
彼らがなりふり構わぬ一歩を踏み出すたびに、その足下 の地面は雪もろともに根こそぎ剥 がれ爆ぜていた。
わたしは教会を出てからずっと、ほぼ一定の高度を飛んでいた。なのでなおさら、二人の足跡の変貌ぶりには唖然とさせられた。さっきまでは蟻の行列でも観察しているような感覚があったけれど、今ではそんな生易しい想像は完全に吹き飛んで、ほとんど災害の現場に直面しているような気持ちになっていた。
そう、やっぱり、あれは――あの巨大な力は――、人の手に渡っていい代物 ではなかった。
改めて、そう思わざるを得ない。
あれはまさしく、
その力はいつの日か、人の築き上げしこの世のすべてを、ことごとく踏み潰してしまうかもしれない……。
暗い予感がぞわぞわと膨れ上がるのを感じると同時に、わたしの目はようやく彼らの姿を捉えた。
そして絶句した。
二体のカセドラは、どちらも〈アルマンド〉の名で呼称される、まったく同一の規格と性能を持つ躯体だ。
だからわたしは、ともすればこの追走の攻防は、どちらかの操縦者が――あるいは両者が共に――音 を上げてしまうまで、際限なく、それこそ夜が明けてもなお、決着がつくことはないかもしれないと考えていた。
なぜなら現状、彼らが専心 しなくてはならないのは、とりたてて操縦の技量や練度と関係のない、ただ両脚を交互に素早く前へ繰り出すという単純な動作――つまり
おそらく、追われる者と追う者の差を詰めたのは、他でもない、その因 るところが大きかったのではないかと思う。似たような経験をしたことがある者なら、誰しも想像がつくだろう――追われるというのは、実に疲弊するものなのだ。そして追うということは、驚くほどためらいなく全力を投じることが可能な行為なのだ。
前を走っていた巨兵は、遂に、後ろから来ていた巨兵に追い付かれていた。
けれど今は、どちらがどちらに乗っているのか、わからない。
互いに全く生き写しの二体のカセドラは、この時、わたしから見て前後ではなく左右に分かれ、正面切って向かい合っていた。
わたしは再び視覚に意識を集中した。
そして大樹のようにそびえ立つ巨大な躯体を、まじまじと凝視した。
雪景色を背景にして鮮肉のように生々しい桃色の鎧が、その全身を隈なく覆っている。
頭部全体を包む丸みを帯びた兜には、視界を確保するための隙間がわずかに空いているけれど、その内側を窺うことはできない。それはただ表情を欠いた暗黒の洞 として、そこにある。頭頂部に備えるふさふさとした真紅の羽根飾りが、白き雪片の乱舞する最中 にあって、まるで業火のように踊っている。
二体は、丸腰だ。どちらも武器の類は手にしていない。
しかしその堅固 な装甲と、痛みを感じず死をも厭 わない恐るべき躯体そのものが、言うなればすべて凶器だ。
わたしが彼らの姿を認めたまさにその直後、両者はそれぞれの右の拳を相手の顔面に打ち込むところだった。
雷が落ちたような衝撃音が、一面の銀世界に響き渡る。
わたしの心臓の鼓動が、また一つ速くなる。
そっくりおなじような体勢で後方へよろめいた二体は、やはりまた鏡映しのごとく各自の躯体を立て直し、今度は腕ではなく脚を振り上げて、相手の胴体のあたりを急襲した。
一方が左脚で、一方が右脚で放った痛烈な蹴りの一撃は、互いの脛 どうしで激しく交叉した。
さらに一段階、わたしの鼓動は加速する。胸の内側でばっくばっくと跳ね回って、煩わしいほどだ。
両脚を大きく広げて踏ん張った二体のカセドラは、再度素早く戦闘態勢を整えると、一心不乱に次の攻撃に打って出た。
一方が、全身を回転させての渾身の裏拳 打ち。
一方は、己 を砲弾に模したかのような捨て身の体当たり。
拳は容易く弾かれ、頭から突進した側が相手を巻き込んで共に地面に倒れた。
雪上にて、両者の躯体が上下に重なり合う。
優位に立ったのは、言うまでもなく、ぶつかっていった方の巨兵だ。
拳を放った方の巨兵は、相手の躯体の下で横向きになり、雪に埋もれている。
痺れるような戦慄が、わたしの背筋を駆け上がった。
上に乗った巨兵は、左手で相手の首根っこを押さえつけ、右手の拳を容赦なく相手の眉間に叩き込む。
殴られた側は、全力を振り絞ってもがく。その結果、辛うじて仰向けの体勢を取ることはできた。しかし依然として、身動きはほとんど封じられたままだ。必死に両腕を天に向けて突き出すけれど、胆力 の宿らないそれらは、ただ虚しく相手の頬や肩を擦 るばかり。決定打は、放てない。
わたしの心臓は、もう限界に近かった。
それはわたしの肋骨のなかで、まるでハチドリの羽のように、ぶるぶると振動していた。
二体のカセドラとわたしとの距離は、徐々に縮まってきていた。このまま飛んだら、ものの十秒ほどで、彼らの頭上に至るだろう。
つまりこのままいけば、わたしのこの身に宿る人智を超えし力を、決して見られてはいけない相手に――まさに、おそらくはこの地上で最も忌避すべき類の相手に――目撃されてしまう可能性が生じる、ということ。
カセドラの操縦席のなかには、近距離に限定して相互音声通信を可能にする機器が備わっていると聞いたことがある。けれど今、二人の操縦者たちは、一声たりと発することなく、互いに相手を制圧することだけに集中している。だからわたしがこの高さからいくら耳をそばだてても、誰がどちらに乗っているのか判然としない。
声を聴かせて!
わたしは心のなかで叫んだ。
あなたの声を聴かせて、テンシュテット!
すると次の瞬間、その願いが通じたのかどうかはわからないけれど、あの気高く美しい声音が、それが放つ雄々しき咆哮が、まるで暗中に閃く一筋の光明のように、ほんのかすかに――本当にかすかに――聴こえた。
「はあぁぁっ!」
上に覆いかぶさっていた巨兵が、これを止 めとすべく両手で握り合わせた固い拳を、相手の顔面に向けてまっすぐ振り降ろした。
それと一寸も違 わず同時に、下に屈伏していた巨兵もまた、まさにこの時を待っていたといわんばかりに、死力を尽くして膝を蹴り上げた。
両手を相手から離したことで躯体の平衡を失っていた上側の巨兵は、それをまともに背中から食らった。
そしてそのまま、自身が顔を向けていた方へ、身体ごと吹き飛ばされた。
その先には、あの巨大な深淵が、大口を開けて待っていた。
底の知れない、どこまでも深い谷の、真っ黒な裂け目が。
勢いよく放り出された巨兵は、切り立った断崖の縁 に、その身を叩きつけられた。
その衝撃で、巨体の下敷きになった地面が、ずるりと局所的な雪崩を起こした。
いったい、どっちがどっちなの!
いまだ解けない謎を再び胸中で叫びながら、わたしは無我夢中で飛んだ。
どちらのカセドラの視界にもこの身が入らない角度と経路に狙いを定めて、谷底めがけて飛び込んだ。
まるで別の宇宙へと通じているんじゃないかと思えるほどに深い谷間のなか、崩れ落ちる雪や土砂と共に墜落する巨兵の姿を、わたしはこの目が向かう遥か先の虚空に視認した。
まっしぐらに急降下しながら、わたしはその躯体を――もはや誰がそれに乗っているのかなんて考慮することなく――顕術によって掬 い上げようと試みた。
その時だった。
極限まで研ぎ澄まされていたわたしの耳が、頭上の彼方から降り注ぐ哄笑 の響きを捉えた。
ここへ来て遂に、わたしは自分の頭がおかしくなってしまったと思った。
いよいよ本物の死神が地獄からやって来て、新たな客人を迎え入れられることを喜んでいるに違いない。そう信じて疑わなかった。
両手を前に差し伸ばし、落下する躯体に全力で意識を注ぎながら、ほんの束の間、わたしは目線だけ上空へと振り向けた。
崖の上に、身を屈めて深淵をのぞき込んでいる巨兵の姿があった。
その胸の中心にある操縦席の扉は、開いていた。
男はそこから顔だけ外へ出し、暴れはためく銀髪の狭間で、喜悦 の表情を満面に浮かべていた。
血走った両目を全開にして、上下の歯列を剥き出しにして、舌が捩 じ切れるほどに、男は笑っていた。
ほらね、とわたしは思った。ほら、やっぱり来てたんじゃない。本物の死神が。
わたしの顕術は間に合った。
間に合ったというか、ちゃんとわたしが意図したとおりに、彼に届いた。
わたしの意図は、間違いなく正しく果たされた。それは確かだった。
けれど。
それにもかかわらず、わたしの願いは、果たされなかった。
願いは、祈りは、届かなかった。
願いが、祈りが、わたしを裏切った。
のっぺりとした暗闇のなか、わたしの目がぎりぎり及ばない先の岸壁に、まるで死神の鎌のように鋭利に突き出た岩の隆起があった。
巨兵はそれに直撃した。
わたしの顕術が彼に触れる、まさにその寸前のことだった。
激突の衝撃で、わたしたちの友人が搭乗している巨兵は、頭部と片方の脚をいっぺんに失った。
それぞれが首と腰の付け根からもぎ取られたそれらは、狂おしくうねる眼下の急流の水面に叩きつけられ、あっという間に黒い水に吸い込まれ見えなくなった。
わたしにできたのは、せいぜい、空中に弾き飛ばされた躯体を受けとめ、大河の岸辺にそっと横たえるくらいのものだった。
神経を凍りつかせる高笑いは、ほんの少し前に止んでいた。
用心深いあの男は、耳を澄ませて待ち受けているのだ――蹴落とした同僚の躯体が、確実に死の河に落ちたことを示す着水の響きを。
図らずも、その音を発生させる役目を、躯体から落ちた頭部と脚部が果たすことになったようだ。
すべての崩落の余韻が収まり、再び吹雪と激流の轟きだけがあたりを満たすようになってもなお、レーヴェンイェルムはじっと操縦席の縁にしゃがみ込んで、谷底を見おろしていた。
もう、笑いはない。
表情もない。
裁きの言葉も、呪いの言葉も、別れの言葉も、なにもない。
わたしは浅瀬の岩床 に安置したカセドラ――の残骸――の肩の上に立ち、息を詰めて、闇の奥から男の姿を見あげた。
彼の瞳のなかには、どのような種類の感情も、全く見出すことができなかった。
それはもはや、虚無そのものだった。
いったいどうやって、人の身でそこまでの虚無に耐えていられるのか、わたしにはわからない。彼もまた、闇の奥にいた。わたしたちはどちらも、深淵の底にいた。
やがて男は、己の使命を果たしたことを証明するかのように、一つ大きな息を大気中に送り出した。そして操縦席に戻り、着席して扉を閉じた。
再び魂を得た躯体は、鎧の端々 を軋ませながらその身を起こした。胸を反らせて周囲を見渡し、回れ右して雪原を歩き去っていった。
少しずつ遠のいていく重い足音に耳を傾けながら、わたしは、矛盾する行為のようだけれど、可能な限り夜目 が利くように視覚を調整しつつ、同時に両方のまぶたをほとんど閉ざした。意を決するのにも、怖れを払拭するのにも、時間と覚悟が全然足りていなかったけれど、わたしは恐怖や躊躇 のすべてを瞬間的に放棄して、歪 に捩じ曲がった操縦席の扉に手を掛けた。
そして奥歯を噛み締め、一息にそれを開放した。
操縦席内部の円筒型の空間は、その内壁の全面を覆うアリアナイトにより、常に淡い青の光に満たされている。その輝きが、開かれた扉の隙間から、まるで夢の世界の出口から――あるいは入口から――射し込む明かりのように、厳 かに漂い出てきた。
すぐにわたしは視覚の顕術を解いた。
アリアナイトの照明さえ、忌々しかった。
もう、なにも見たくなかった。
なによりも見たくないものが、そこにあった。
「……テンシュテット」
わたしは半分以上が真っ赤に染まってしまった金髪を見つめて、そっと呼びかけた。
こぽ、こぽ、と小さな音を立てて、青年の口のなかに溜まっていた赤い液が、泡となって吐き出された。
「誰?」なにもないところをぼんやりと眺めながら、奇妙なほど穏やかな声で彼は応じた。「ルチア?」
「わたしよ」だらりと降ろされた彼の生温 い手を握りしめ、わたしは声を振り絞った。「わたし、リディアよ」
「ああ……」青年の首がかくんと揺れた。「あぁ、そう、そうか……リディアさん」わずかに彼の目に生気が戻る。呆然と半開きになったままだった唇にも、きゅっと力が入る。「みんなは……おじいさんは……うまく、いった?」
「ええ」わたしは彼の美しい緑の瞳をのぞき込み、ほほえんだ。「全部うまくいったわ。なにもかも、あなたのおかげよ」
「そっか」彼もまたほほえんだ。赤く濡れた八重歯が、ちらりと垣間見えた。「よかった。よかったね……」
「じっとしててね」
わたしはそっと手を離し、彼を座席に縛り付けているベルトを外そうと腕を伸ばした。しかしそれをテンシュテットが制した。するりと持ち上げた手で、わたしの手首をつかんで。
そして彼は、微風 に吹かれる稲穂のように、ゆっくりと首を横に振った。
呆気に取られ、わたしは立ちすくんだ。けれどすぐさま猛然と意識を立て直して、強く息を吐いた。
「なに? 動けない? なら、そのままじっとしてて。今、助け――」
「ルータは?」わたしの言葉が耳に届いていないような様子で、彼はその名を口にした。「彼はどこ? ……一緒じゃなかったの?」
「ルータは……」せっかく立て直した意識がぐらりと揺らぐのを感じながら、わたしは口ごもった。「あのね。ルータは、今おじいさんたちのところに――」
「ここだよ」わたしの背後でルータが言った。「僕はここだよ。テン」
鋭い悪寒に刺され痛むのが心臓なのか胃なのか、それともどこかの骨なのかもわからないまま、わたしは胸のあたりをぎゅっと押さえて彼らの跡を追った。
その足跡は、まさに爆撃痕そのものだった。
彼らがなりふり構わぬ一歩を踏み出すたびに、その
わたしは教会を出てからずっと、ほぼ一定の高度を飛んでいた。なのでなおさら、二人の足跡の変貌ぶりには唖然とさせられた。さっきまでは蟻の行列でも観察しているような感覚があったけれど、今ではそんな生易しい想像は完全に吹き飛んで、ほとんど災害の現場に直面しているような気持ちになっていた。
そう、やっぱり、あれは――あの巨大な力は――、人の手に渡っていい
改めて、そう思わざるを得ない。
あれはまさしく、
歩く災害
だ。その力はいつの日か、人の築き上げしこの世のすべてを、ことごとく踏み潰してしまうかもしれない……。
暗い予感がぞわぞわと膨れ上がるのを感じると同時に、わたしの目はようやく彼らの姿を捉えた。
そして絶句した。
二体のカセドラは、どちらも〈アルマンド〉の名で呼称される、まったく同一の規格と性能を持つ躯体だ。
だからわたしは、ともすればこの追走の攻防は、どちらかの操縦者が――あるいは両者が共に――
なぜなら現状、彼らが
走る
ということ――だけだったのだから。疲れることを知らない人工物どうしが、おなじ速度で、おなじ環境下で走り続けたなら、理屈の上ではそう簡単に両者の距離が縮まることはない……はずだった。おそらく、追われる者と追う者の差を詰めたのは、他でもない、その
追われる
ということと追う
ということが、それぞれの身体に与えた心理的影響に前を走っていた巨兵は、遂に、後ろから来ていた巨兵に追い付かれていた。
けれど今は、どちらがどちらに乗っているのか、わからない。
互いに全く生き写しの二体のカセドラは、この時、わたしから見て前後ではなく左右に分かれ、正面切って向かい合っていた。
わたしは再び視覚に意識を集中した。
そして大樹のようにそびえ立つ巨大な躯体を、まじまじと凝視した。
雪景色を背景にして鮮肉のように生々しい桃色の鎧が、その全身を隈なく覆っている。
頭部全体を包む丸みを帯びた兜には、視界を確保するための隙間がわずかに空いているけれど、その内側を窺うことはできない。それはただ表情を欠いた暗黒の
二体は、丸腰だ。どちらも武器の類は手にしていない。
しかしその
わたしが彼らの姿を認めたまさにその直後、両者はそれぞれの右の拳を相手の顔面に打ち込むところだった。
雷が落ちたような衝撃音が、一面の銀世界に響き渡る。
わたしの心臓の鼓動が、また一つ速くなる。
そっくりおなじような体勢で後方へよろめいた二体は、やはりまた鏡映しのごとく各自の躯体を立て直し、今度は腕ではなく脚を振り上げて、相手の胴体のあたりを急襲した。
一方が左脚で、一方が右脚で放った痛烈な蹴りの一撃は、互いの
さらに一段階、わたしの鼓動は加速する。胸の内側でばっくばっくと跳ね回って、煩わしいほどだ。
両脚を大きく広げて踏ん張った二体のカセドラは、再度素早く戦闘態勢を整えると、一心不乱に次の攻撃に打って出た。
一方が、全身を回転させての渾身の
一方は、
拳は容易く弾かれ、頭から突進した側が相手を巻き込んで共に地面に倒れた。
雪上にて、両者の躯体が上下に重なり合う。
優位に立ったのは、言うまでもなく、ぶつかっていった方の巨兵だ。
拳を放った方の巨兵は、相手の躯体の下で横向きになり、雪に埋もれている。
痺れるような戦慄が、わたしの背筋を駆け上がった。
上に乗った巨兵は、左手で相手の首根っこを押さえつけ、右手の拳を容赦なく相手の眉間に叩き込む。
殴られた側は、全力を振り絞ってもがく。その結果、辛うじて仰向けの体勢を取ることはできた。しかし依然として、身動きはほとんど封じられたままだ。必死に両腕を天に向けて突き出すけれど、
わたしの心臓は、もう限界に近かった。
それはわたしの肋骨のなかで、まるでハチドリの羽のように、ぶるぶると振動していた。
いったい
、どっちがどっちなの
?……二体のカセドラとわたしとの距離は、徐々に縮まってきていた。このまま飛んだら、ものの十秒ほどで、彼らの頭上に至るだろう。
つまりこのままいけば、わたしのこの身に宿る人智を超えし力を、決して見られてはいけない相手に――まさに、おそらくはこの地上で最も忌避すべき類の相手に――目撃されてしまう可能性が生じる、ということ。
カセドラの操縦席のなかには、近距離に限定して相互音声通信を可能にする機器が備わっていると聞いたことがある。けれど今、二人の操縦者たちは、一声たりと発することなく、互いに相手を制圧することだけに集中している。だからわたしがこの高さからいくら耳をそばだてても、誰がどちらに乗っているのか判然としない。
声を聴かせて!
わたしは心のなかで叫んだ。
あなたの声を聴かせて、テンシュテット!
すると次の瞬間、その願いが通じたのかどうかはわからないけれど、あの気高く美しい声音が、それが放つ雄々しき咆哮が、まるで暗中に閃く一筋の光明のように、ほんのかすかに――本当にかすかに――聴こえた。
「はあぁぁっ!」
上に覆いかぶさっていた巨兵が、これを
それと一寸も
両手を相手から離したことで躯体の平衡を失っていた上側の巨兵は、それをまともに背中から食らった。
そしてそのまま、自身が顔を向けていた方へ、身体ごと吹き飛ばされた。
その先には、あの巨大な深淵が、大口を開けて待っていた。
底の知れない、どこまでも深い谷の、真っ黒な裂け目が。
勢いよく放り出された巨兵は、切り立った断崖の
その衝撃で、巨体の下敷きになった地面が、ずるりと局所的な雪崩を起こした。
いったい、どっちがどっちなの!
いまだ解けない謎を再び胸中で叫びながら、わたしは無我夢中で飛んだ。
どちらのカセドラの視界にもこの身が入らない角度と経路に狙いを定めて、谷底めがけて飛び込んだ。
まるで別の宇宙へと通じているんじゃないかと思えるほどに深い谷間のなか、崩れ落ちる雪や土砂と共に墜落する巨兵の姿を、わたしはこの目が向かう遥か先の虚空に視認した。
まっしぐらに急降下しながら、わたしはその躯体を――もはや誰がそれに乗っているのかなんて考慮することなく――顕術によって
その時だった。
極限まで研ぎ澄まされていたわたしの耳が、頭上の彼方から降り注ぐ
ここへ来て遂に、わたしは自分の頭がおかしくなってしまったと思った。
いよいよ本物の死神が地獄からやって来て、新たな客人を迎え入れられることを喜んでいるに違いない。そう信じて疑わなかった。
両手を前に差し伸ばし、落下する躯体に全力で意識を注ぎながら、ほんの束の間、わたしは目線だけ上空へと振り向けた。
崖の上に、身を屈めて深淵をのぞき込んでいる巨兵の姿があった。
その胸の中心にある操縦席の扉は、開いていた。
男はそこから顔だけ外へ出し、暴れはためく銀髪の狭間で、
血走った両目を全開にして、上下の歯列を剥き出しにして、舌が
ほらね、とわたしは思った。ほら、やっぱり来てたんじゃない。本物の死神が。
わたしの顕術は間に合った。
間に合ったというか、ちゃんとわたしが意図したとおりに、彼に届いた。
わたしの意図は、間違いなく正しく果たされた。それは確かだった。
けれど。
それにもかかわらず、わたしの願いは、果たされなかった。
願いは、祈りは、届かなかった。
願いが、祈りが、わたしを裏切った。
のっぺりとした暗闇のなか、わたしの目がぎりぎり及ばない先の岸壁に、まるで死神の鎌のように鋭利に突き出た岩の隆起があった。
巨兵はそれに直撃した。
わたしの顕術が彼に触れる、まさにその寸前のことだった。
激突の衝撃で、わたしたちの友人が搭乗している巨兵は、頭部と片方の脚をいっぺんに失った。
それぞれが首と腰の付け根からもぎ取られたそれらは、狂おしくうねる眼下の急流の水面に叩きつけられ、あっという間に黒い水に吸い込まれ見えなくなった。
わたしにできたのは、せいぜい、空中に弾き飛ばされた躯体を受けとめ、大河の岸辺にそっと横たえるくらいのものだった。
神経を凍りつかせる高笑いは、ほんの少し前に止んでいた。
用心深いあの男は、耳を澄ませて待ち受けているのだ――蹴落とした同僚の躯体が、確実に死の河に落ちたことを示す着水の響きを。
図らずも、その音を発生させる役目を、躯体から落ちた頭部と脚部が果たすことになったようだ。
すべての崩落の余韻が収まり、再び吹雪と激流の轟きだけがあたりを満たすようになってもなお、レーヴェンイェルムはじっと操縦席の縁にしゃがみ込んで、谷底を見おろしていた。
もう、笑いはない。
表情もない。
裁きの言葉も、呪いの言葉も、別れの言葉も、なにもない。
わたしは浅瀬の
彼の瞳のなかには、どのような種類の感情も、全く見出すことができなかった。
それはもはや、虚無そのものだった。
いったいどうやって、人の身でそこまでの虚無に耐えていられるのか、わたしにはわからない。彼もまた、闇の奥にいた。わたしたちはどちらも、深淵の底にいた。
やがて男は、己の使命を果たしたことを証明するかのように、一つ大きな息を大気中に送り出した。そして操縦席に戻り、着席して扉を閉じた。
再び魂を得た躯体は、鎧の
少しずつ遠のいていく重い足音に耳を傾けながら、わたしは、矛盾する行為のようだけれど、可能な限り
そして奥歯を噛み締め、一息にそれを開放した。
操縦席内部の円筒型の空間は、その内壁の全面を覆うアリアナイトにより、常に淡い青の光に満たされている。その輝きが、開かれた扉の隙間から、まるで夢の世界の出口から――あるいは入口から――射し込む明かりのように、
すぐにわたしは視覚の顕術を解いた。
アリアナイトの照明さえ、忌々しかった。
もう、なにも見たくなかった。
なによりも見たくないものが、そこにあった。
「……テンシュテット」
わたしは半分以上が真っ赤に染まってしまった金髪を見つめて、そっと呼びかけた。
こぽ、こぽ、と小さな音を立てて、青年の口のなかに溜まっていた赤い液が、泡となって吐き出された。
「誰?」なにもないところをぼんやりと眺めながら、奇妙なほど穏やかな声で彼は応じた。「ルチア?」
「わたしよ」だらりと降ろされた彼の
「ああ……」青年の首がかくんと揺れた。「あぁ、そう、そうか……リディアさん」わずかに彼の目に生気が戻る。呆然と半開きになったままだった唇にも、きゅっと力が入る。「みんなは……おじいさんは……うまく、いった?」
「ええ」わたしは彼の美しい緑の瞳をのぞき込み、ほほえんだ。「全部うまくいったわ。なにもかも、あなたのおかげよ」
「そっか」彼もまたほほえんだ。赤く濡れた八重歯が、ちらりと垣間見えた。「よかった。よかったね……」
「じっとしててね」
わたしはそっと手を離し、彼を座席に縛り付けているベルトを外そうと腕を伸ばした。しかしそれをテンシュテットが制した。するりと持ち上げた手で、わたしの手首をつかんで。
そして彼は、
呆気に取られ、わたしは立ちすくんだ。けれどすぐさま猛然と意識を立て直して、強く息を吐いた。
「なに? 動けない? なら、そのままじっとしてて。今、助け――」
「ルータは?」わたしの言葉が耳に届いていないような様子で、彼はその名を口にした。「彼はどこ? ……一緒じゃなかったの?」
「ルータは……」せっかく立て直した意識がぐらりと揺らぐのを感じながら、わたしは口ごもった。「あのね。ルータは、今おじいさんたちのところに――」
「ここだよ」わたしの背後でルータが言った。「僕はここだよ。テン」
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