63 善き旅を

文字数 4,100文字

 いつの時代から始まった風習なのかは知らないけれど、代々わたしたちの一族はみんな、結晶化した同胞の亡骸(なきがら)をアトマ族の〈風葬(ふうそう)〉を模して粉々に砕くことを、葬送の儀としてきた。遺された家族や友人たちによる共同の顕術によって、それがおこなわれるのがならわしだ。
 結晶は、細かくばらばらに分解され、風と一つになって世界へと還っていく。
 だからアクア族に、お墓はない。
 そもそも安住の地を持たないわたしたちに、そういうものを建てる発想はない。ただ各々(おのおの)で、思い出の品や形見などを受け継いだりするだけだ。
 わたしは、クレー老師がご自分で作られて愛用されていた木製のペン軸をいただいた。
 イサクは、これも老師が自作された――惚れぼれするほど手先が器用なかただったのだ――木の(くし)
 ルータは、老師がご自身の持ち物のなかでいちばんの宝と呼んでいらした懐中時計を託されていた。ゆうに三百年以上は時を刻んでいると思われる骨董の逸品で、星空のように暗く輝く不思議な鉱石で出来ていた。文字盤のおもてには(ふた)がついていて、いわゆるロケット・ペンダントの型をしている。開けた蓋の裏側に、ルータは緻密に編みあげて(ひも)状にした金色の遺髪を埋めこんだ。これからは時間をたしかめるたびに、祖父と親友にいっぺんに挨拶ができるというわけだ。


 発光が始まってから半日ほど経つと、老師のご遺体から放たれる光量もだいぶ収まってきた。はじめは太陽よりまぶしいくらいだったのが、今はほんのりとした燐光(りんこう)をまとう程度になっている。青くて、透明で、優しくて、とても、とても綺麗だ。
 夜明けを待って風に送り出すことを決めて、それまで三人でささやかなお葬式をしようということになった。
 ()が出ているうちに、手分けしてあれこれ支度をした。
 旅人のふりをして最寄りの村で料理やお酒を調達した。近隣の山や森や原っぱから、鮮やかな色を残している花や枝葉や木の実をかき集めて、老師のお体を飾りつけた。
 一日じゅう、よく晴れていた。
 夜もずっと、空は澄んでいた。
 天窓やステンドグラスの向こうに、満天の星々がきらきらと踊っていた。
 焚き火を囲んで、ワインを開けた。
 わたしとイサクは、(たが)が外れてしまったみたいに、思い出話に花を咲かせた。ルータはほほえみを浮かべて、だいたいずっと相槌(あいづち)を打っていた。
 彼の手もとには、グラスが二つ置かれていた。
 片方のグラスに注がれたワインは、いつまでも減ることがなかった。
 老師の頭の横に置いたグラスも、同様だった。
 減るのは、生者のグラスの中身だけだ。当たり前と言えば、本当に当たり前のことだけれど。
 そのうち、喋り疲れて、笑い疲れて、泣き疲れて、わたしとイサクは火のそばで外套にくるまって抱きあい、眠りに落ちてしまった。
 昨晩も寝ていなかったはずのルータは、それからも長いこと一人で起きていた。
 意識が夢に呑みこまれてしまう前に、わたしはうっすらと開けた瞳で、窓の下の壁に背中をつけて床に座るルータの姿を見た。
 彼はそこで自分のグラスを(から)にすると、もう一つのグラスを手に取った。
 そして頭上に掲げた。
 星空が、それと重なった。
 ルータは声を出さずに、小さく唇を動かし、なにかの言葉を紡ぐと、そっと両目を閉じて、星々の溶けこんだグラスの中身を、一気に呑み干した。
 振りあげられた彼のあごが元の位置に戻る時、二つのまぶたの(ふち)から、一粒ずつ涙がこぼれた。
 グラスを床に置き、彼は両膝と両腕のあいだに顔を(うず)めて、静かに肩を震わせた。
 月と、
 星々と、
 神さまと、
 そしてわたしが、
 それをずっと見守っていた。
 わたしもまた頬を濡らしながら、いつしか(あたた)かな忘我の世界へと沈みこんでいった。








 老師が遺された結晶体と一緒に、わたしたちは夜明け前に教会を離れた。
 長い、長い、長い距離を飛んで、やがて、茫漠とした海のうえに至った。
 どこの海かもわからない。
 ただの海だ。
 名前なんかない。
 振り返って陸地を一望すると、たくさんのがらくたを呑みこんだ蟒蛇(うわばみ)みたいにでこぼことした大地の稜線が、闇のなかにじわりと浮かんでいる。
 だけどそれがどこの国のなんていう土地なのかも、やはり知らない。
 それでいい。
 この朝にも、まだ名前はつけられていない。
 ただの、新しい朝だ。
 目を覚ましてからここへ来るまでのあいだ、わたしたちはただの一つも言葉を口にしていなかった。誰もどこへ向かうかなんて考えずに、体が運ばれるがまま空を泳ぎ渡ってきた。
 それで良かった。
 それがふさわしいことだった。
 老師を真ん中にして、三人で彼を取り囲み、大洋を遥か眼下に望む上空で静止した。
 風と波の音に耳を澄ませて、無心で、無言で、その時を待った。
 そして――――
 朝陽が昇った。
 東の空を覆っていた暗黒が決壊し、光り輝く神々しい手が、世界をわしづかみにした。
 わたしたちは息をそろえて、それぞれの胸の前で〈大聖堂〉の印を結んだ。
「ありがとう」ルータが言った。
()き旅を」イサクが言った。
「母さんたちによろしく」わたしが言った。
 次の瞬間、全身に絡みついていた花々ごと、わたしたちの愛しい結晶は、無数の欠片となって風に舞い散った。
 一粒一粒が、燃える彗星のようにきらめいていた。
 世界の諸相を反射して、それらは一つ残らず虹色の光を放っていた。
 ふいに、甘くかぐわしい香りが広がった。
 まるで、大きな腕のなかに抱きしめられているような感覚があった。
 こんなにもなにもない只中(ただなか)にいるのに、なにかの外側にいるという感じが、まるでしない。
 こんなにも美しく、大きく、そして哀しい朝焼けは、見たことがなかった。
 わたしたちの一族の、一つの時代が今、終わりを迎えた。
 そして、最後の時代が、始まろうとしている。
 残されたわたしたち三人は、粉雪のように舞う光の粒子のシャワーのなかで、互いの瞳を見つめあった。
 それからみんなで肩を並べて、太陽が昇ってくるのを一緒に眺めた。
 わたしたちは、このままどこへだって飛んでいける。
 この目に映る広大な世界の、目に映るすべての場所に、望んだとおりに辿り着くことができる。 
 それなのに――それなのに、なんて、世界は窮屈なのだろう。
 わたしは、大空に包囲されているような気がする。
 どこまでも果てなく見えるこの青空は、実のところ、ただ内側が青く塗られた窓のない巨大な鳥籠にすぎないのかもしれない。
 わたしは、どこまで行っても、どこかへ行ける気が、自由になれる気が、ぜんぜんしない。
 とつぜん星空が恋しくなって、わたしは太陽と反対側の方角を振り返った。
 星々の余韻はすでに消えていた。
 けれどまだ、地平線のうえに、前夜の忘れ物みたいな銀色の半月が、ぽっかりと浮かんでいる。
 太陽と月と、
 海と大地と、
 朝と夜と、
 そして、
 生と死のちょうどあわいに、
 わたしたちは浮かんでいた。三人で静かに、肩を寄せあって。…………
「これから、どうしたい」
 ルータがどちらにともなく訊いた。まぶたをすぼめて、東の空を見据えながら。
「べつに」イサクがいつもの調子で肩をすくめた。「なにもしたくない。やりたいことなんかない。……でも」
 彼女を両脇から挟みこんでいたルータとわたしは、同時に眼鏡の奥をのぞきこむ。
「……でも、このまま三人で一緒にいられるだけで、いい」
 小鳥が歌うみたいに唇を小さく動かして、イサクは言った。
「そうだね」わたしは彼女の肩をいっそう強く抱き寄せる。「わたしも、それがいいな」
 ルータもまた、わたしたち二人をじっと見つめて、大きく深くうなずく。
 そして彼は、小さく胸を反らせて新鮮な空気を吸いこみ、それを身の内に留めたまま、ぽつりと宣言した。
「僕は〈テルル〉を探そうと思う」
 わたしとイサクはまじまじと彼の横顔に見入った。と言って、べつに驚いてのことじゃない。彼がそう言うのを、わたしたち二人ともわかっていたから。だから、しっかりとその言葉を受けとめたかっただけ。
「あいつをさ」ルータは右手をみずからの心臓のうえに置いた。そこには、彼の大切な懐中時計が収められている。「あいつを……テンを、あいつが夢見た場所に連れてってやりたいんだ」
 ここで思いがけず、イサクがいかにもおかしそうにくくくと笑った。そして(わる)だくみする子供みたいな顔をして、演劇じみた台詞まわしを披露した。

「どこにもないけれど、
 どこかにはあります。
 どこかにはあるけれど、
 どこにもありません。
 さて、
 それはいったいどこでしょう」

 それから急にいつもの不敵な口調に戻る。「……いいんじゃない。まさにあたしたちにうってつけの宿題じゃん」
 ルータとわたしは顔を見あわせて苦笑した。
「いいのか?」ルータが念押しに確認する。
 妹は仏頂面でうなずく。「どうせ暇だし」
 続いて兄妹はわたしの方へ目を向けた。
「うん。行こう」わたしは微笑する。「彼はわたしたちみんなの友だちだったんだもの。友だちの願いを叶えるために力を貸すのは、当たり前のことでしょう」
「ありがとう」
 そう言ってルータはほほえんだ。一瞬、二人ぶんの声が重なって聴こえたような気がした。彼の青い瞳も、夏の湖のようにすがすがしい緑色の輝きを放ったように見えた。今ここの景色に緑は一つも見当たらないから、それはきっと、彼のなかにある緑にちがいなかった。
 太陽が昇りきるのを見届けると、わたしたちは正真正銘の最後の別れの言葉をそれぞれの胸の内で唱えて、その場をあとにした。
 そしてわたしたちは、
 真っ青な鳥籠のなかを飛んだ。
 この時、わたしの心のなかには、とくに希望も絶望もなかった。
 とりあえず、明日は今日より少しだけ遠くへ飛ぼう、という思いだけがあった。
 絶えず降り積もる雪に行く手を阻まれ、その重みで何度も何度も暗闇へ押しこめられようとも、決して光を目指すことをあきらめない地中の芽のように、くり返し、くり返し、手を伸ばしつづけようという、そんな思いだけがあった。
 その思いは、今もある。

   〈『聖巨兵カセドラ 独唱編 第1巻 そらはおおきな鳥籠』 終〉
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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