60 きみを知ってる
文字数 2,306文字
「そんな」振り返ったわたしは、わが目を疑った。「なんで? どうして……」
大河の上空に陽炎 のように浮いているルータは、頭にかぶっていた外套のフードを片手で脱いだ。その拍子に、全身の表面にこびりついていた雪や氷がぱりぱりと剥がれて風に舞った。彼の吐く息は、まるで白色の絵具のように、濃く重い。
宙に浮いたままするすると前進し、彼はわたしの背中に手のひらを置いた。
「老師は……?」わたしは彼の目をじっと見た。
「きみが出ていってからすぐに逝ったよ」
穏やかな表情を浮かべて、ルータは言った。わたしの頬を、涙が一筋流れた。わたしはテンシュテットの手を握っていない方の手で、わたしの背に添えられたルータの腕をぎゅっとつかんだ。
「結晶化も、始まった」彼はもう一方の手のひらをわたしの手に重ねた。「もうしばらくすれば、本格的に発光が始まるだろう」
「そう」わたしはしゃくりあげた。「そうだったの……」
それからわたしはびくりと背筋を震わせて、思いきり顔を振り上げた。
「ねぇルータ。彼が……テンシュテットが」
ルータはこくりとうなずいた。
そして、絶望的なほどに澄みきった光を瞳に灯して、目を逸らすことなく、大破したカセドラの操縦席を直視した。
まるで、握り潰されたガラス瓶のようになってしまったそのなかに、青年は力を失って座りこんでいた。
額やこめかみを伝う幾筋もの鮮血が、その端正な顔をとめどなく濡らしている。首から下は――彼の首から下の状態は、わたしには、とても描写することができない。
「テン」ルータは優しげな声で語りかける。わたしの脇を通って前へと進み、血に染まる友人の頬を手のひらで撫でる。そっと、何度も、何度も。「あぁ、テン。なんてことだろう。ごめんね」
「やぁ、ルータ」青年はにこりと笑った。
わたしは彼の手を持ちあげて、ルータの手に握らせた。
「なんてことだろう。なんてことだろう」青年の手をきつく握りしめて、ルータは頭を左右に振りながら幾度もくり返した。「なんてことだろう。ごめん、ごめんよ、テン……僕らのために……」
青年は笑顔のまま首を振る。振ったのだと思う。実際には、濡れそぼる赤い前髪の先端が、わずかに揺れただけだったけれど。
わたしはがばっと身を起こし、心を奮い立たせた。
「急がなくちゃ、ルータ。今すぐ――」
「待って」テンシュテットがわたしに負けじと声を張った。「いいんだ。もう、いい」
「いいって」わたしは怒りにまかせて叫んだ。「いいって、なにが」
「わかるんだ」青年はのっそりとわたしを見上げた。そして気丈にも、茶目っ気をこめて片目を瞑 って見せた。「これが、僕の時だ」
「ちがう」切り返すようにわたしは一喝した。「あなたはこんなところで――」
理性を失おうとしていたわたしを鎮めたのは、出し抜けに掲げられたルータの手のひらだった。それは手相がはっきり見えるくらいの距離で、わたしの眼前にあった。
「謝ることなんか、ないんだよ」テンシュテットは、友人と繋ぐ手に力を通 わせて、言った。「僕は、正しいことをしたんだ。自分の、心に従って……」
「……うん。うん」ルータは深くうなずく。
「ルータ」
「うん」
「ほんと言うと、まだ信じられないような気持ちでいるんだよ」
「うん」
「こうして、きみたちと、出逢えて、そのうえ、友だちに、なれたなんて」
「うん」
「僕がいなくなったら」ふう、ふう、と青年はここで大きく息継ぎをした。「……僕がいなくなったら、また、きみたちのことを知ってる人は、誰もいなくなっちゃうんだな」
「……うん」
「でもね」青年は頼もしげに微笑する。「きみたちは、独りじゃないよ。孤独だなんて、思わないでね。僕が、いつでも、いつまでも、きみを知ってる」
「うん。うん」
「ルータ」
「なんだい」
「今から行ったら、おじいさんに逢えるかな」
「うん。そうだね。きっと、二人は気が合うよ」
途方もない沈黙が、すべてをしばしのあいだ覆い尽くした。
瀑布 のごとく吼える大河の水音と、気が触れてしまったかのような風の絶叫が、わたしたちのまわりでぐるぐると反響していた。
最後の深呼吸を終えると、清らかな青い光に抱かれる青年は、生まれたての赤子のように、無垢のまなざしで世界を見つめた。
そして、いつものように、やわらかくほほえんだ。
「こんど生まれ変わったら、きみたちとおなじ一族に生まれたいな」青年は言った。「みんなと一緒に、僕も自由に空を飛んでみたい」
「そのうち僕が人間に生まれ変わるよ」ルータが言った。「またおなじ時代で逢おう。おなじ時を共に生きよう。また一緒に、呑みに行こう。いろんなところに出かけて、いろんなものを見よう。あちこち旅してまわるのは、きっと、とても面白いぜ」
わたしは両手で自分の顔を覆った。
「ね、次はさ」ルータは続けた。「次は、一緒に、年をとろう。一緒に、しわくちゃのじいさんになろう」
「ははっ……」青年は喉を詰まらせて笑った。そして、とつぜんの通り雨に見舞われたみたいに、顔じゅうを涙でいっぱいにした。「そうだな。そうしよう。それがいい」
「テン」
「…………ルータ。また逢えたなら、その時にも……」
「ああ。その時にも、友だちになろう」
「うん……」
「テン」
「…………」
「テン……」
「…………母さん」
「…………」
「ルチアを……」
「…………」
「…………」
「……テン」
「………」
「…………」
「……」
「…………」
「…」
「…………」
「
「…………」
」
「…………おやすみ。テン」
こうして、わたしたちの長い夜は幕を降ろした。
二つの大きな星が落ちるのを、わたしたちはこの目で見届けた。
誰も知らない、真冬の夜の片隅で。
大河の上空に
宙に浮いたままするすると前進し、彼はわたしの背中に手のひらを置いた。
「老師は……?」わたしは彼の目をじっと見た。
「きみが出ていってからすぐに逝ったよ」
穏やかな表情を浮かべて、ルータは言った。わたしの頬を、涙が一筋流れた。わたしはテンシュテットの手を握っていない方の手で、わたしの背に添えられたルータの腕をぎゅっとつかんだ。
「結晶化も、始まった」彼はもう一方の手のひらをわたしの手に重ねた。「もうしばらくすれば、本格的に発光が始まるだろう」
「そう」わたしはしゃくりあげた。「そうだったの……」
それからわたしはびくりと背筋を震わせて、思いきり顔を振り上げた。
「ねぇルータ。彼が……テンシュテットが」
ルータはこくりとうなずいた。
そして、絶望的なほどに澄みきった光を瞳に灯して、目を逸らすことなく、大破したカセドラの操縦席を直視した。
まるで、握り潰されたガラス瓶のようになってしまったそのなかに、青年は力を失って座りこんでいた。
額やこめかみを伝う幾筋もの鮮血が、その端正な顔をとめどなく濡らしている。首から下は――彼の首から下の状態は、わたしには、とても描写することができない。
「テン」ルータは優しげな声で語りかける。わたしの脇を通って前へと進み、血に染まる友人の頬を手のひらで撫でる。そっと、何度も、何度も。「あぁ、テン。なんてことだろう。ごめんね」
「やぁ、ルータ」青年はにこりと笑った。
わたしは彼の手を持ちあげて、ルータの手に握らせた。
「なんてことだろう。なんてことだろう」青年の手をきつく握りしめて、ルータは頭を左右に振りながら幾度もくり返した。「なんてことだろう。ごめん、ごめんよ、テン……僕らのために……」
青年は笑顔のまま首を振る。振ったのだと思う。実際には、濡れそぼる赤い前髪の先端が、わずかに揺れただけだったけれど。
わたしはがばっと身を起こし、心を奮い立たせた。
「急がなくちゃ、ルータ。今すぐ――」
「待って」テンシュテットがわたしに負けじと声を張った。「いいんだ。もう、いい」
「いいって」わたしは怒りにまかせて叫んだ。「いいって、なにが」
「わかるんだ」青年はのっそりとわたしを見上げた。そして気丈にも、茶目っ気をこめて片目を
「ちがう」切り返すようにわたしは一喝した。「あなたはこんなところで――」
理性を失おうとしていたわたしを鎮めたのは、出し抜けに掲げられたルータの手のひらだった。それは手相がはっきり見えるくらいの距離で、わたしの眼前にあった。
「謝ることなんか、ないんだよ」テンシュテットは、友人と繋ぐ手に力を
「……うん。うん」ルータは深くうなずく。
「ルータ」
「うん」
「ほんと言うと、まだ信じられないような気持ちでいるんだよ」
「うん」
「こうして、きみたちと、出逢えて、そのうえ、友だちに、なれたなんて」
「うん」
「僕がいなくなったら」ふう、ふう、と青年はここで大きく息継ぎをした。「……僕がいなくなったら、また、きみたちのことを知ってる人は、誰もいなくなっちゃうんだな」
「……うん」
「でもね」青年は頼もしげに微笑する。「きみたちは、独りじゃないよ。孤独だなんて、思わないでね。僕が、いつでも、いつまでも、きみを知ってる」
「うん。うん」
「ルータ」
「なんだい」
「今から行ったら、おじいさんに逢えるかな」
「うん。そうだね。きっと、二人は気が合うよ」
途方もない沈黙が、すべてをしばしのあいだ覆い尽くした。
最後の深呼吸を終えると、清らかな青い光に抱かれる青年は、生まれたての赤子のように、無垢のまなざしで世界を見つめた。
そして、いつものように、やわらかくほほえんだ。
「こんど生まれ変わったら、きみたちとおなじ一族に生まれたいな」青年は言った。「みんなと一緒に、僕も自由に空を飛んでみたい」
「そのうち僕が人間に生まれ変わるよ」ルータが言った。「またおなじ時代で逢おう。おなじ時を共に生きよう。また一緒に、呑みに行こう。いろんなところに出かけて、いろんなものを見よう。あちこち旅してまわるのは、きっと、とても面白いぜ」
わたしは両手で自分の顔を覆った。
「ね、次はさ」ルータは続けた。「次は、一緒に、年をとろう。一緒に、しわくちゃのじいさんになろう」
「ははっ……」青年は喉を詰まらせて笑った。そして、とつぜんの通り雨に見舞われたみたいに、顔じゅうを涙でいっぱいにした。「そうだな。そうしよう。それがいい」
「テン」
「…………ルータ。また逢えたなら、その時にも……」
「ああ。その時にも、友だちになろう」
「うん……」
「テン」
「…………」
「テン……」
「…………母さん」
「…………」
「ルチアを……」
「…………」
「…………」
「……テン」
「………」
「…………」
「……」
「…………」
「…」
「…………」
「
「…………」
」
「…………おやすみ。テン」
こうして、わたしたちの長い夜は幕を降ろした。
二つの大きな星が落ちるのを、わたしたちはこの目で見届けた。
誰も知らない、真冬の夜の片隅で。
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