6 大きな火

文字数 5,232文字

 大きな火を見ながらイサクは泣いた。谷底の岩の上に両膝を抱えて座り込んで、肩も震わさず、嗚咽(おえつ)も漏らさず、ただ静かに涙を流した。わたしはその隣におなじように腰かけて、顔は正面の燃え盛る炎に向けたまま、横目でじっと彼女を見守った。
 全身の骨が砕けてしまいそうなほどの強い悲しみが、触れる肩から(じか)に伝わってきていた。でもわたしは泣かなかった。もちろんそのためには相当な忍耐力が必要とされたけれど、どういうわけかこの時のわたしは、乾いたままの(まなこ)で彼女の涙をしっかりと見届けなくてはいけないという、使命感のようなものに駆られていた。
 ……それに、イサクにはちょっと申し訳なく思うけど、赤々(あかあか)とした火の色を映す潤んだ青の瞳は、なんだか言いようもなく美しくて、わたしは無心でそれに見入ってもいたのだった。
 朝の、まだ早い時刻だった。わたしたちは夜明け前の暗闇に乗じて、一気にここまで飛んできた。
 きっと森のどこかで夜を明かしたであろう妖精郷探索隊の人たちは、まだ車のなかなりテントのなかなりで夢を見ているはず。万が一、すでに目を覚まして活動を開始していたとしても、彼らの脚ではここまでやって来ることは絶対に不可能だ。
 ここは、森を東側に抜けた先にある大峡谷(だいきょうこく)だった。
 ルータが彼らの姿を見かけた地点からは、ずいぶん遠く離れている。
 谷は恐ろしく深く、どこで果てるのかわからないほど長く伸びていた。地図上で見ると、ちょうど大陸という巨木の(みき)に思い切り叩き込んだ斧の切り口みたいに見える。わたしとイサクは、その谷間の底にいた。
 二人並んで座る岩場の脇を、幅の広い河が流れていた。あたりは激しい水音で満ちている。そこに威勢のよい火柱がまき散らすごうごうという音が負けじと重なり、わたしたちはその怒涛(どとう)の音合戦の狭間(はざま)にいるのだった。
 空はからりと晴れ上がり、大気は冷えて乾燥していた。
 火はよく燃えた。
 谷間を吹き抜ける風は、ふいごのように火を(あお)った。
 立ち昇る黒煙は勢いよく渦を巻いたけど、谷の断崖の高さを超えることなく、風に揉みくちゃにされて消えていった。
 周囲には、人間どころか、どんな生き物の息遣いだって感じられない。
 ひとしきり涙を流してしまうと、イサクは眼鏡を外して顔ぜんたいを両手で(ぬぐ)った。それから再び眼鏡を掛けると、一瞬でいつもの澄ました顔つきに戻って、睨みつけるように青空の彼方を見あげた。
 ずっと彼女の瞳を見つめていたわたしもまた、つられておなじ方角を見やった。
 北の方角の上空に、峡谷の両岸を結ぶ長大な鉄橋の、ごく一部分が垣間見えている。
 あの橋の手前で森は終わり、鉄道沿線にはのどかな平野や草原が広がっているはずだ。谷を越えて東へ渡ると、やがてコランダム公国の首都タヒナータへと行き着く。
 鉄道が開通したばかりの頃、わたしたち――というのはルータたち兄妹とクレー老師、それにわたしの四人――は、一度だけみんなで列車の旅に出掛けたことがあった。二十日間くらいかけて、大陸北西端のホルンフェルス王国の首都ヨアネスから出発して、タヒナータも通って、大陸北東端のビスマス共和国の首都パズールに至るまで、いろんな都市や町を巡った。その時の体験は、今でもわたしたち全員にとってかけがえのない記憶として、ずっと心に残っている。
 旅というのは、まったく気楽なものだ。
 目の前を行き交う人々は、ただやって来ては去っていくだけの赤の他人だし、いっとき接することになる人たちも、やはりみんなその場限りの付き合いだ。お揃いの伝統衣装を脱いで市井(しせい)の人たちとおなじ格好をしてしまえば、誰もわたしたちに注意なんか払わない。奇異の目を向けられることも、素性をあれこれ詮索されることもない。どこからどう見たって、旅行を楽しむおじいさんと孫たちにしか見えない。わたしたちは、めいっぱいその解放感を――()しくも人々のなかでこそ手にすることのできた刹那的な自由を――思う存分に堪能した。
 けれどそんな道中にあっても、一つの宿に留まるのは、せいぜい長くて三日から四日といったところだった。もちろんそれは、他の宿泊客とのあいだで交流が芽生えたり、踏み込んだ会話が持たれたりするのを避けるためだったのだけど、そもそもわたしたちのなかに潜在的に深く根付いている、人間の生活圏に長く滞在することへの拒否反応が、そうすることを――ほとんど有無を言わさず――要求していたからでもあった。
 ここで一度はっきり断っておくと、わたしは、そしてわたしの仲間たちは、決して人間という種族やその社会を、憎んだり恨んだりなんかはしていない。ただ……ただ、大勢集まった人間たちが、自分たちの常識や通念から逸脱した存在に対して向ける剥き出しの感情と、そこから生じることになる反応や行為を、ほんの少し、怖れているだけ。
 でもその怖れ一つだけで、わたしたちがなるべく人間と関わらないように生きていくための、じゅうぶんな理由になった。
 こういったことを考える時、いつも思いだす、というか思いださずにはいられない、古い記憶がある。
 もう何十年も前のことだ。その頃わたしたちは、今の感覚からすれば信じられないような話だけど、とある都市のなかで人間たちに混じって暮らしていた。
 それは二人の孫とわたしに、一時期だけでもきちんとした学習に専念できる環境に身を置いてほしいと願うクレー老師の、いわゆる親心から決断された選択だった。その当時にはすでに精神面において成熟しつつあったわたしたちは、その機会の貴重さも、老師の愛情と勇気も、自分たちなりにしっかり理解することができていたので、三人とも大いに勉学に励んだ。特別な家庭教師を雇い、毎日のように図書館に通い、たくさんの学術書や歴史書を読み耽った。当然その一方では、常に周囲を警戒しながら過ごした日々でもあったのだけど、正直それはそれで、緊張感があって楽しくないわけでもなかった。そういえば、ルータが熱心な読書家に変身したのも、この頃のことだ。
 でも二年も経たないうちに、あっさりとその生活は終わってしまった。
 最初にわたしたちを怪しんだのは、家庭教師だった。次に、近所の子供たちと、その親たち。それから、よく通った市場の店主たち。図書館の司書や職員たち。そして最後に、教育省の役人と警官が家を訪ねてきたわけだけど、彼らの訪問は事前に予測されていたことだったから、わたしたちはその前には既に町を出てしまっていた。
 人間でいえば8歳から9歳くらいの見た目をしていた当時のわたしたちが、その年頃の近所の子供たちが日に日に身体的成長を遂げていく一方で、二年ものあいだ外見がまったく変わらず、学校にも通わず、近隣との交流も一切持たず、両親はいつも不在で、それでいて妙に不自由のない生活を送っているということは、彼らにとって異常現象以外のなにものでもなかったのだろう。まぁ無理もない話と言えば、そのとおりだ。というか今思えば、よく二年ももったものだと感心さえする。きっと今より長閑(のどか)な時代だったんだと思う。
 ともかくそれ以来、わたしたちは必要以上に人間たちの町や村に長居することは控えるようになり、大陸各地をあてもなく漂う放浪同然の歳月を送ることになった。そしていつしか辿り着いたあの森の奥地に、わたしたちはようやく、自分のたちの家を築くに相応しい場所を、見出したというわけだった。
 ……だけど、その家も、たぶんもうすぐ――


 ぱちっ、と目と鼻の先で火花が弾けて、わたしのとりとめのない追憶と黙考は遮断された。
 木の葉ほどの大きさの燃えかすが、炎をまとって()ぜながら、わたしの前髪に触れる寸前で吹き飛ばされていった。
「もう」顕術でわたしの髪が()げるのを防いでくれたイサクが、眼鏡の隙間からじろりとわたしを見やった。「また一人でぼうっとしてる。いったいなにをそんなに一生懸命考えてるわけ」
 わたしはふっと微笑し、両手を岩肌についた。そしてのけ()るように顎を上げて、空を仰いだ。
「ほら見て、イサク。鉄橋が見えるよ」
「見てたよ、さっきから」素っ気なくこたえつつも、彼女はそちらへ目を向けた。
「ねぇ、覚えてる……」
「あの列車旅行のことでしょ」さっきまで泣いていたとは思えないほどさっぱりとした顔つきで、彼女は先んじた。「もちろんよく覚えてるし、ていうか今も思いだしてたし。それに――」
「またみんなで行けたらいいと思ってるし」今度はわたしが先手を打った。
 ふっつりと口をつぐんで、わたしたちは互いをちらちらと横目で見あい、それから一緒に笑った。
 イサクの小さな右手を、わたしの左手が握りしめた。
「老師が良くなられたら、また計画を立てて遠くへ出掛けよう。次は、まだ見たことのない町をたくさん見てまわろうよ」
 わたしが提案すると、イサクはゆっくりとうなずいて、膝のあいだにおでこを沈めた。そしてそのまま、浮上してこなかった。
「……でもその前に、また新しい家を見つけなきゃ」彼女は言った。
 わたしもまた、重くうなずいた。
 昨日はあまりにもばたばたしていて、その件については満足に話しあうこともできなかった。人目を避けて身を落ち着けられそうな土地や場所は、昔からの習慣で、常時いくつかの候補を一覧にしてある。しかし現状、その一覧はほとんど用を成さなかった。なぜならそれは、わたしたち全員が自由に動けることが前提の上で作成されたものだったから。今のわたしたちは、またどこかで一から住まいを建てたりするような長期的な選択も、あるいは野営をしたり空き家や廃墟に潜り込んだりといったその場しのぎの選択も、決して取ることができない。この寒空(さむぞら)の下、高齢の病人を伴ってそんな行動に出るなんてことは、まったくもって論外だ。風雨を完全に(さえぎ)る屋根と壁、絶えることのない暖気、そして清潔な水と空気と食事とベッドを、一晩たりと欠かすわけにはいかない。
「イサクは、どこに住みたい?」わたしは訊いた。
「じいちゃんが安心して病気を治せて、みんなが元気に過ごせるなら、あたしどこだってかまわない」のっそりと首を起こし、再び大きな火に視点を定めて、彼女は言った。「リディアは、どうなの」
 わたしは彼女にいっそう肩を寄せた。「わたしもおなじ」
 イサクはまっすぐにわたしの目をのぞき込んだ。
「そんな場所、見つかるかな」
「どうにかなるよ」互いの瞳に互いの姿を映しながら、わたしは彼女にほほえみかけた。「これまでだってやってこられたんだもの、わたしたち四人で。きっと今度も、なんとかなるよ」
 小さい野苺みたいな鼻を膨らませて、イサクは強く息を吸い込んだ。そして新しい酸素を肺のなかで一巡(ひとめぐ)りさせると、一気にまた鼻から吹き出した。
「そうだね。あたしたちなら、大丈夫」
 そこでびゅうと甲高い音を響かせて、重く冷たい風がわたしたちの背後から吹きつけてきた。深い谷間に迷い込み、でこぼこに突き出た無数の岩に翻弄され、行き場を失ってどこへ向かったらいいのかわからなくなった挙句、ついに自棄(やけ)になって河へ飛び込むしかなくなってしまった、実に哀れで気忙(きぜわ)しい風だった。わたしの(あお)く長い髪も、イサクの白く短い髪も、そして二人お揃いの青のローブも、派手にばたばたと踊った。
 わたしたちのささやかな過去を葬る火も、そこで絶えた。
 後にはなにも残らなかった。ただ一面に焦げくさい燃えかすが散らばって、黒く染められた岩床(いわどこ)が痛々しく広がっているばかり。煙も、あっという間に風によって刈り取られてしまった。
 炎の音が消えてしまうと、耳を()くような大河の咆哮(ほうこう)だけが、周囲の大気を埋め尽くした。
 わたしたちはどちらからともなく空へと舞い上がった。
 二人並んで川の真上で滞空すると、イサクが拳を突き上げるような挙動で顕術を発動し、焼け焦がれた一帯に大量の水を叩きつけた。爆撃のような大波に襲われた岩場は、(またた)く間に水底へ沈んでしまった。水はうねり、暴れ、ぶつかりあい、そして徐々に引いていった。もうどこにも、燃えかすは見当たらない。まるで何事もなかったかのように、すべては元あった空虚のなかへと還っていった。
 けれどもちろん、何事もなかったなんてことは、ない。
 ここでは、今たしかに、わたしたちの歴史の一部が(とむら)われたのだ。炎と、風と、涙によって。
 突如わたしは、さっきのイサクとおなじように、右手を力いっぱい振り上げた。
 巨大な水柱が噴き上がり、そしてそのまま、まっすぐ真下へとんぼ返りに落下していった。
 なんの意味も目的もない行為だった。でも少なくとも、わたしの胸の内で今にも暴れだしそうになっていたなにかは、いくらか鎮まってくれた。
 滝のように大河へと降り注ぐたくさんの水を、イサクはまるで、雨樋(あまどい)を伝う(わび)しい流れでも追うような目つきで眺めていた。
「帰ろう」
 しばらくしてイサクが言った。そしてわたしの手を握ってくれた。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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