58 この世で最も安全な場所
文字数 3,123文字
荒ぶる風雪のなかを突き抜ける矢となって、わたしは都市北部の平原へと文字どおり飛んで戻った。
少々手間取りはしたものの、なんとかまたあの分かれ道に辿り着くことができた。
しかしそこにはもう、誰の姿もなかった。
馬たちさえ、いなくなっていた。
相変わらず、審問官みたいな顔をした枯れ木たちが、いかにも頑迷そうな態度で居並んでいるだけだ。きっとなにを尋ねたって、彼らは一つも答えてはくれまい。
わたしは上空およそ50エルテムの高度を飛んでいた。そこから、顕術による望遠と暗視の技を駆使して、眼下に広がる地表をじっくりと見渡した。
まず探したのは、血痕だった。
わたしたちがここを離れた直後、レーヴェンイェルムは少なくとも二発の銃弾を放っていた。
しかしそれらは、どうやら彼の標的に命中しなかったみたいだ。
道の上にも、樹々の狭間にも、周囲に広がる野原にも、血の滴った跡らしきものは見つからなかった。あるいはすでに降雪により覆われてしまったのではないかと注意深く調べたけれど、やはり白一色の地面のどこにも、それらしき染 みは全く見あたらない。
一方で、足跡はいくつも発見した。
それらの半分は馬のもので、もう半分は人間のものだ。
二頭の馬は、どうやら銃声に驚いた拍子にどこかへ走り去ってしまったようだった。どちらも屈強な体格で冬毛 も豊かな子だったから、この環境下でも一晩くらいなら無事に過ごせると思うけれど、やはり少し胸が痛んだ。吹雪が収まり、太陽が昇るのを祈り待つしかない。朝になれば、道行く誰かが見つけてくれるだろう。
人間たち二人ぶんの足跡は、彼らが枯れ木の群れのなかに一度迷い込んで、それから鬼ごっこでもするみたいに右に左に跳ねた後、やがて林を突き抜け、再び開けた平野へと飛び出し、そのまま北の方角に向かって雪原を駆けていった経過を明らかにしていた。
視覚を研ぎ澄ませたまま、わたしは慎重にそれらの跡を追いかけた。
追われる者と追う者が疾走した形跡は、いつ果てるとも知れずどこまでも続いていた。
続いているということはつまり、追う者の目的がいまだ遂げられていないことを示していた。即ち、追われる者が逃げ延び続けているということだ。
しかしこの蛇のように連綿と続く長い足跡を目にしているだけで、わたしの肺はきりきりと締 め上げられるようだった。道ならぬ道を、それもこんなに積もった雪の上を、月も星もない暗闇のなかどこまでも走り続けるだなんて、想像しただけで息が苦しくなる。しかも彼のすぐ後ろには、禍々 しい敵意と凶器を携えた狩人が迫ってきているのだ。
彼らが辿った跡には、まるで樹木の枝のところどころに咲く大輪の花のように、地面の雪が局地的に抉 り取られた痕跡があった。これは、テンシュテットが放った顕術の衝撃波が作ったものにちがいない。それらに見舞われる毎 に、追跡者の足運びは多少なりと阻害されたり、時にはいっとき立ち往生させられたりしたようだ。軍靴 の底が穿 つ跡から、その様子が読み取れた。青年にこの能力が備わっていなかったなら、あるいは両者の距離は早々に縮まっていたかもしれない。
雪原をさらに進んだ先で、ある地点を境に、追われる青年は進路を大きく西へと変更したようだった。
まるでその地点でなにかを決断したかのように、それまで出鱈目 にじぐざぐと刻まれていた彼の足跡は、唐突に方向転換した後 、ほぼ直線に近いものとなって西方へ向かっていた。追う軍靴の跡も、やはりそれに続いている。わたしも空からそれを辿った。
やがて行く手の先に、あの巨大な暗黒の深淵が――世界を両断するかのごとき大峡谷が――徐々にその姿を現した。
同時に鉄道の線路もまた、地平線の向こうから顔をのぞかせる。それは緩やかな放物線状の軌道を描き、そのまま彼方の古都 を目指して平野の上を延々と貫いている。しかし今は上りからも下りからも列車がやって来る気配はない。この天候では、今夜はもう走らないだろう。
二人の足跡は、まさにその線路が峡谷と交わる地点に向かっているようだった。
そこには言うまでもなく、対岸と此岸 とを繋ぐ鉄橋が架かっている。公国が威信を懸けて造り上げた、世界有数の大鉄橋だ。橋のこちら側の袂 には、大型資材の保管庫や各種整備場も兼ね備えた大規模な車輛基地も併設されている。
わたしはその直上でいったん飛行を停止し、ごくりと息を呑んだ。
基地のぐるりを囲む石壁 の一部が、まるで砲弾の直撃でも食らったかのように、派手に崩壊している。しかし砕かれた石材の残骸や粉塵は、基地の外側から内側へ向けてではなく、
途方もない雪原を走り抜いて、命からがらここまで辿り着いた青年はしかし、この場所そのものに救いを求めたのではなかった。
あの冷酷な追撃者から逃げ切るためには、まずなにはなくとも、我が身の絶対的な安全を確保しなくてはならない。逃げ惑ったり他人を頼ったり幸運を祈ったりしている暇など一切なければ、相手の心変わりや土壇場での説得あるいは命乞いが功を奏すかもしれないなどという安易な期待を抱くことも、決してあってはならない。彼 の牙の届かないところまで、辿り着かなくてはならない。対峙するにせよ戦うにせよ、話はそこからしか始まらない。
テンシュテットは、そうして、この世で最も安全な場所に駆け込んだ。
彼は今、地上最強の兵器の心臓部に――堅牢な扉によって護られる操縦席のなかに――搭乗しているはずだ。
そしてまた、彼を裁かんとする男もまた、彼とおなじように、自身の駆る巨兵の内に座しているに違いなかった。
死に物狂いでここまで駆けてきた二人の男は、ここでそれぞれの分身たる躯体 に乗り込み、いわば追走劇の第二幕へと突入していったのだ。
わたしがこの場所に着いた時には、ここに一時保管されてあるはずの王国軍のカセドラ〈アルマンド〉は、すでに二体とも姿を消してしまっていた。
それらが載せられていたとおぼしき華美な装飾を施された新型貨車は、暗い車庫の奥でまさに空っぽのベッドよろしく、もぬけの殻になっていた。
今、基地内部に外を出歩く人間の姿はない。しかしよくよくあたりを見回すと、基地の出入口の脇に立つ管理棟の一階に、機器を耳に押し当てて鉱晶伝話通信をおこなっている警備員らしき人影があった。
この夜、彼が基地の門を開放し、突然の来訪者たちを迎え入れたのだった。
彼は心底驚きはしても、怪 しみはしなかった。なにしろ彼は、前日の巨兵搬入の現場に立ち会い、その際に二人の操縦者とも顔を合わせていたから。
これは後日わかったことだけれど、テンシュテットはこの警備員に、暴走した天秤竜が谷を越えて街道に迷い込んできたのだと告げていたのだった。自分はそれを討つために、公国政府から直々に巨兵の緊急出撃要請を受けたのだ、と。
冷静に考えてみれば、なにもかもが突拍子もなく、また常識外れを極める事態ではあった。しかし、わざわざこんな雪のなかを息せき切って駆けつけた若き将校の決死の報告を、まさか疑ってかかろうなどという考えは、この人の好 い警備員の頭のなかに露ほども浮かばなかった。
かくして彼は独断即決で門戸を開き、巨兵のもとへと操縦者を通した。そして、後から遅れてやって来たもう一人の男をも、もはや言葉を交わすこともなく、おなじように……。
わたしは再び、彼らの行方を追って夜空を駆けた。
もう、視覚を操作する顕術はほとんど解 いていた。
暗闇のなかでも見落としようがないほど、今や二人の足跡は大きくなっていたから。
少々手間取りはしたものの、なんとかまたあの分かれ道に辿り着くことができた。
しかしそこにはもう、誰の姿もなかった。
馬たちさえ、いなくなっていた。
相変わらず、審問官みたいな顔をした枯れ木たちが、いかにも頑迷そうな態度で居並んでいるだけだ。きっとなにを尋ねたって、彼らは一つも答えてはくれまい。
わたしは上空およそ50エルテムの高度を飛んでいた。そこから、顕術による望遠と暗視の技を駆使して、眼下に広がる地表をじっくりと見渡した。
まず探したのは、血痕だった。
わたしたちがここを離れた直後、レーヴェンイェルムは少なくとも二発の銃弾を放っていた。
しかしそれらは、どうやら彼の標的に命中しなかったみたいだ。
道の上にも、樹々の狭間にも、周囲に広がる野原にも、血の滴った跡らしきものは見つからなかった。あるいはすでに降雪により覆われてしまったのではないかと注意深く調べたけれど、やはり白一色の地面のどこにも、それらしき
一方で、足跡はいくつも発見した。
それらの半分は馬のもので、もう半分は人間のものだ。
二頭の馬は、どうやら銃声に驚いた拍子にどこかへ走り去ってしまったようだった。どちらも屈強な体格で
人間たち二人ぶんの足跡は、彼らが枯れ木の群れのなかに一度迷い込んで、それから鬼ごっこでもするみたいに右に左に跳ねた後、やがて林を突き抜け、再び開けた平野へと飛び出し、そのまま北の方角に向かって雪原を駆けていった経過を明らかにしていた。
視覚を研ぎ澄ませたまま、わたしは慎重にそれらの跡を追いかけた。
追われる者と追う者が疾走した形跡は、いつ果てるとも知れずどこまでも続いていた。
続いているということはつまり、追う者の目的がいまだ遂げられていないことを示していた。即ち、追われる者が逃げ延び続けているということだ。
しかしこの蛇のように連綿と続く長い足跡を目にしているだけで、わたしの肺はきりきりと
彼らが辿った跡には、まるで樹木の枝のところどころに咲く大輪の花のように、地面の雪が局地的に
雪原をさらに進んだ先で、ある地点を境に、追われる青年は進路を大きく西へと変更したようだった。
まるでその地点でなにかを決断したかのように、それまで
やがて行く手の先に、あの巨大な暗黒の深淵が――世界を両断するかのごとき大峡谷が――徐々にその姿を現した。
同時に鉄道の線路もまた、地平線の向こうから顔をのぞかせる。それは緩やかな放物線状の軌道を描き、そのまま彼方の
二人の足跡は、まさにその線路が峡谷と交わる地点に向かっているようだった。
そこには言うまでもなく、対岸と
わたしはその直上でいったん飛行を停止し、ごくりと息を呑んだ。
基地のぐるりを囲む
内側から外側へと向かって
吹き出していた。途方もない雪原を走り抜いて、命からがらここまで辿り着いた青年はしかし、この場所そのものに救いを求めたのではなかった。
あの冷酷な追撃者から逃げ切るためには、まずなにはなくとも、我が身の絶対的な安全を確保しなくてはならない。逃げ惑ったり他人を頼ったり幸運を祈ったりしている暇など一切なければ、相手の心変わりや土壇場での説得あるいは命乞いが功を奏すかもしれないなどという安易な期待を抱くことも、決してあってはならない。
あれ
は、そういう相手ではない。どうにかして、絶対にテンシュテットは、そうして、この世で最も安全な場所に駆け込んだ。
彼は今、地上最強の兵器の心臓部に――堅牢な扉によって護られる操縦席のなかに――搭乗しているはずだ。
そしてまた、彼を裁かんとする男もまた、彼とおなじように、自身の駆る巨兵の内に座しているに違いなかった。
死に物狂いでここまで駆けてきた二人の男は、ここでそれぞれの分身たる
わたしがこの場所に着いた時には、ここに一時保管されてあるはずの王国軍のカセドラ〈アルマンド〉は、すでに二体とも姿を消してしまっていた。
それらが載せられていたとおぼしき華美な装飾を施された新型貨車は、暗い車庫の奥でまさに空っぽのベッドよろしく、もぬけの殻になっていた。
今、基地内部に外を出歩く人間の姿はない。しかしよくよくあたりを見回すと、基地の出入口の脇に立つ管理棟の一階に、機器を耳に押し当てて鉱晶伝話通信をおこなっている警備員らしき人影があった。
この夜、彼が基地の門を開放し、突然の来訪者たちを迎え入れたのだった。
彼は心底驚きはしても、
これは後日わかったことだけれど、テンシュテットはこの警備員に、暴走した天秤竜が谷を越えて街道に迷い込んできたのだと告げていたのだった。自分はそれを討つために、公国政府から直々に巨兵の緊急出撃要請を受けたのだ、と。
冷静に考えてみれば、なにもかもが突拍子もなく、また常識外れを極める事態ではあった。しかし、わざわざこんな雪のなかを息せき切って駆けつけた若き将校の決死の報告を、まさか疑ってかかろうなどという考えは、この人の
かくして彼は独断即決で門戸を開き、巨兵のもとへと操縦者を通した。そして、後から遅れてやって来たもう一人の男をも、もはや言葉を交わすこともなく、おなじように……。
わたしは再び、彼らの行方を追って夜空を駆けた。
もう、視覚を操作する顕術はほとんど
暗闇のなかでも見落としようがないほど、今や二人の足跡は大きくなっていたから。
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