18 わたしたちが護るべきもの
文字数 2,693文字
その翌日から一週間ほど毎日、雪が降った。まるで空の上に雪の葉を無限につける巨樹があって、その葉が間断なく舞い落ちてきているんじゃないかと思えるような、穏やかで一定した降り方だった。
大地は見渡す限りの白に染まった。
街のあちこちで、除雪作業に取り組む人々の姿が見られた。路上で手旗を振る警官たちは、毛皮や毛糸でもこもこに着膨 れた。道行く人たちの吐く息は、どれも手に取って握れそうなくらい濃く白かった。公園や民家の軒先では、連日たくさんの雪だるまが生まれた。わたしたちのアパルトマンの前庭にも、立派なやつが一体出現した。作者はラモーナと、彼女のお世話係の女性と、その二人を窓から見かけて助力を申し出たわたしとイサク。それに、管理人のサラマノさん。彼女は、これを鼻にしなさいと言って、大きなニンジンをくれた。
誰もがその出来栄えに満足し、近くを通りかかる住人たちはみな笑みをこぼし、近所の学童たちは寄り道がてら見物にやって来た。白猫のケルビーノだけが、なんの反応も示さなかった。彼女はただニンジンをちらりと見あげただけだった。ニンジンじゃなくて魚だったら、また反応も違ったのかもしれないけれど、サラマノさんは良識あるご婦人だから、雪だるまの鼻にするために魚を持ってくるようなことはしない。
レノックス兄妹と遭遇した一件以来、わたしたちは外出するにしても決してあの酒場や書店のある方面には行かなかった。というかそもそも、あそこは新市街のなかでも一般市民の家屋が大半を占める区域なので、わざわざ出向いていく用事もなかった。
もちろん例の探索隊が逗留しているホテルがある通りにも、なるべく近付かないようにした。市内における歓楽や金融の中心地であるその一帯も、特にわたしたちが用のある場所ではないから、さして不便はなかった。
基本的には、慎ましやかに、ごく平穏に、わたしたちは日々を送った。
この時期わたしたちは、ただ静かに時を過ごしたいだけだった。それだけがわたしたち三人の、そしてクレー老師の、率直な願いだった。
雪がようやく降り止んだ日の夕方過ぎ、いつものように三人でお見舞いに行くと、老師はちょうど目を覚ましたところで、久々にゆっくりと言葉を交わすことができた。
相変わらず呼吸は難儀そうだったけれど、体調そのものに大きな変わりはないように見えた。妖精郷探索隊がこの街に潜伏していることや、それを率いる人間と一時的に接触してしまったことなどについての一切を、わたしたちは老師に伝えなかった。余計な気苦労や心配の種など、もうただの一欠片 だってその御耳 に入れたくはなかったから。
毎日三人でこともなく暮らしてるよ、というイサクの言葉にこたえて、老師は深く柔らかな笑みを浮かべた。この笑顔以外に、わたしたちが護るべきものは、今のところなにもない。
一週間後の朝は、からりと晴れた。
ずっと白く濁っていた空は、胸がすくほど潔い青の一色に輝いた。地上にはまだけっこう雪が残ってはいたものの、外出するのに良い日和 だった。
先週特注しておいた衣装が、この日の夕方に仕上がっている予定だった。わたしたちは三人揃って午前の早いうちにアパルトマンを出た。増刷がかかった『クーレンカンプの冒険』最新作が再び店頭に並ぶのも、この日だった。わたしは改めて絵画の技法書を、イサクは編み物や刺繍の本を見たかったので、ルータに付き合って新市街の大型書店へ向かった。
話題の新刊は、今回はなんとか無事に手に入った。彼はとりあえずそれだけ先に購入してから、さらに何冊か気に入る本を選び出した。イサクは気に入ったものを一冊買い求めると、玄関脇のベンチに座ってさっそく目を通し始めた。
我ながら意外なことに、最後まで粘 ったのはこのわたしだった。
画集や教本をためつすがめつ手に取って逡巡するわたしを、それぞれの収穫物を抱えた兄妹が呼びに来た。
「良いのが見つかったかい」ルータが言った。
わたしはある高名な画家が書いた専門書のページに視線を落としたまま、短くうなずいた。
「たくさん見つかりすぎて参ってる」
「全部買ったらいいじゃないか」
「あのね」じろりと彼を睨んで、わたしは次の本へ手を伸ばした。「こういうのって、一度にたくさんあったらいいってものでもないのよ。しっかりと自分の現状の課題に合ったものを厳選して、その一冊からじっくり学んだ方が、結局のところ得られるものは多いんだから」
「じゃあリディアの今の課題って、なんなの」イサクが背伸びして棚を見渡しつつ、たずねた。
「……だから、たくさんあるのよ。課題」
「なら教科書もたくさん要るね」ルータがあっさりと指摘した。
「だから迷ってるんじゃない」わたしは間髪入れず言い返した。
兄と妹は顔を見あわせ、共にくすっと笑った。
「……ま、時間はまだたっぷりあるし、じっくり選ぶといいよ」腕時計を見ながらルータが言った。「仕立て屋との約束は、四時だったよな」
「うん、たしか」イサクがうなずいた。「だよね?」
彼女はわたしに訊いていた。わたしはうなずいた。
「ふぁあ……」買った本を抱きしめながら、イサクが大きなあくびをした。「ねぇ、それはそうと、そろそろお昼ご飯じゃない」
「なに食べたい?」ルータがたずねる。
「う~んとねぇ……ケバブ」やや考えて、イサクがこたえた。「ルータ兄ぃは」
「僕は、そうだな……今日は魚の気分だな。焼くか、揚げるかしたやつ」
ここで妙にしんとした間 が空いた。
「リディアは」イサクが今度はわたしにたずねた。
「ドーナツ」
わたしは即答した。さっき美味しそうなドーナツが描かれた絵を画集で見たばかりだったから。
また、変な沈黙があった。
「めずらしくばらばらだな」ルータが言った。
「ケバブに、魚に、ドーナツ」イサクが数え歌でも歌うような調子で言った。「全部揃ってるお店ってあるかな」
「たぶんないわね」わたしは棚の最上段へ手を伸ばしながら言った。
「きっとないな」ルータもわたしの手の行方を見守りながら続いた。「……ちょっと高いね。梯子 、借りてこよう」
昼食の問題はひとまず脇にのけておいて、彼は提案してくれた。
でもその必要はなかった。
わたしが振り返って口を開く前に、わたしの指の先端が触れられそうで触れられずにいた本を、取ってくれた人がいた。
いつの間にこんな近くまで来ていたのか、わたしたちとしたことが完全に油断していて、気付けなかった。
彼はわたしのすぐ後ろに立ち、棚から抜き取った本を恭 しく差し出した。
「こちらでよろしかったでしょうか」
テンシュテット・レノックスが言った。
大地は見渡す限りの白に染まった。
街のあちこちで、除雪作業に取り組む人々の姿が見られた。路上で手旗を振る警官たちは、毛皮や毛糸でもこもこに
誰もがその出来栄えに満足し、近くを通りかかる住人たちはみな笑みをこぼし、近所の学童たちは寄り道がてら見物にやって来た。白猫のケルビーノだけが、なんの反応も示さなかった。彼女はただニンジンをちらりと見あげただけだった。ニンジンじゃなくて魚だったら、また反応も違ったのかもしれないけれど、サラマノさんは良識あるご婦人だから、雪だるまの鼻にするために魚を持ってくるようなことはしない。
レノックス兄妹と遭遇した一件以来、わたしたちは外出するにしても決してあの酒場や書店のある方面には行かなかった。というかそもそも、あそこは新市街のなかでも一般市民の家屋が大半を占める区域なので、わざわざ出向いていく用事もなかった。
もちろん例の探索隊が逗留しているホテルがある通りにも、なるべく近付かないようにした。市内における歓楽や金融の中心地であるその一帯も、特にわたしたちが用のある場所ではないから、さして不便はなかった。
基本的には、慎ましやかに、ごく平穏に、わたしたちは日々を送った。
この時期わたしたちは、ただ静かに時を過ごしたいだけだった。それだけがわたしたち三人の、そしてクレー老師の、率直な願いだった。
雪がようやく降り止んだ日の夕方過ぎ、いつものように三人でお見舞いに行くと、老師はちょうど目を覚ましたところで、久々にゆっくりと言葉を交わすことができた。
相変わらず呼吸は難儀そうだったけれど、体調そのものに大きな変わりはないように見えた。妖精郷探索隊がこの街に潜伏していることや、それを率いる人間と一時的に接触してしまったことなどについての一切を、わたしたちは老師に伝えなかった。余計な気苦労や心配の種など、もうただの
毎日三人でこともなく暮らしてるよ、というイサクの言葉にこたえて、老師は深く柔らかな笑みを浮かべた。この笑顔以外に、わたしたちが護るべきものは、今のところなにもない。
一週間後の朝は、からりと晴れた。
ずっと白く濁っていた空は、胸がすくほど潔い青の一色に輝いた。地上にはまだけっこう雪が残ってはいたものの、外出するのに良い
先週特注しておいた衣装が、この日の夕方に仕上がっている予定だった。わたしたちは三人揃って午前の早いうちにアパルトマンを出た。増刷がかかった『クーレンカンプの冒険』最新作が再び店頭に並ぶのも、この日だった。わたしは改めて絵画の技法書を、イサクは編み物や刺繍の本を見たかったので、ルータに付き合って新市街の大型書店へ向かった。
話題の新刊は、今回はなんとか無事に手に入った。彼はとりあえずそれだけ先に購入してから、さらに何冊か気に入る本を選び出した。イサクは気に入ったものを一冊買い求めると、玄関脇のベンチに座ってさっそく目を通し始めた。
我ながら意外なことに、最後まで
画集や教本をためつすがめつ手に取って逡巡するわたしを、それぞれの収穫物を抱えた兄妹が呼びに来た。
「良いのが見つかったかい」ルータが言った。
わたしはある高名な画家が書いた専門書のページに視線を落としたまま、短くうなずいた。
「たくさん見つかりすぎて参ってる」
「全部買ったらいいじゃないか」
「あのね」じろりと彼を睨んで、わたしは次の本へ手を伸ばした。「こういうのって、一度にたくさんあったらいいってものでもないのよ。しっかりと自分の現状の課題に合ったものを厳選して、その一冊からじっくり学んだ方が、結局のところ得られるものは多いんだから」
「じゃあリディアの今の課題って、なんなの」イサクが背伸びして棚を見渡しつつ、たずねた。
「……だから、たくさんあるのよ。課題」
「なら教科書もたくさん要るね」ルータがあっさりと指摘した。
「だから迷ってるんじゃない」わたしは間髪入れず言い返した。
兄と妹は顔を見あわせ、共にくすっと笑った。
「……ま、時間はまだたっぷりあるし、じっくり選ぶといいよ」腕時計を見ながらルータが言った。「仕立て屋との約束は、四時だったよな」
「うん、たしか」イサクがうなずいた。「だよね?」
彼女はわたしに訊いていた。わたしはうなずいた。
「ふぁあ……」買った本を抱きしめながら、イサクが大きなあくびをした。「ねぇ、それはそうと、そろそろお昼ご飯じゃない」
「なに食べたい?」ルータがたずねる。
「う~んとねぇ……ケバブ」やや考えて、イサクがこたえた。「ルータ兄ぃは」
「僕は、そうだな……今日は魚の気分だな。焼くか、揚げるかしたやつ」
ここで妙にしんとした
「リディアは」イサクが今度はわたしにたずねた。
「ドーナツ」
わたしは即答した。さっき美味しそうなドーナツが描かれた絵を画集で見たばかりだったから。
また、変な沈黙があった。
「めずらしくばらばらだな」ルータが言った。
「ケバブに、魚に、ドーナツ」イサクが数え歌でも歌うような調子で言った。「全部揃ってるお店ってあるかな」
「たぶんないわね」わたしは棚の最上段へ手を伸ばしながら言った。
「きっとないな」ルータもわたしの手の行方を見守りながら続いた。「……ちょっと高いね。
昼食の問題はひとまず脇にのけておいて、彼は提案してくれた。
でもその必要はなかった。
わたしが振り返って口を開く前に、わたしの指の先端が触れられそうで触れられずにいた本を、取ってくれた人がいた。
いつの間にこんな近くまで来ていたのか、わたしたちとしたことが完全に油断していて、気付けなかった。
彼はわたしのすぐ後ろに立ち、棚から抜き取った本を
「こちらでよろしかったでしょうか」
テンシュテット・レノックスが言った。
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