39 銀の腕時計

文字数 3,257文字

 テンシュテットの関係者がこの場に来ていることは、もちろん予想していた。でもまさかこの広さと人数のなかで――(ゆう)に三千人はいる――接近することはあるまいと、(たか)を括っていた。
 それが今、隊員のなかでも最も曲者(くせもの)と見られるこの男が、めずらしく一人の同行者も(ともな)わず、こちらに接触してきたのだ。わたしたちの驚きと警戒は相当なものだった。
「あなたはたしか、テンの……いや、テンシュテットの……」
 自然な所作で、ルータが相手を見あげる。
 男はうなずく。
「レノックス隊長率いる調査隊に所属している、ヤッシャ・レーヴェンイェルムと申します」
 相手もまたじっとルータを見おろし、簡潔に名乗る。
 一瞬、ルータは迷ったようだった。
 すぐにこちらも名を告げるべきか。
 でも彼が躊躇した隙に、わたしがいち早く口を開いた。
「わたしたちになにかご用でしょうか」
 レーヴェンイェルムは目玉だけ動かして、わたしに注意を向ける。そしてまたうなずき、右手をコートの(ふところ)に差し入れた。
 わたしたちのあいだに緊張が走る。
 けれどこんな公衆の場なんだから当然と言えば当然のことだけど、彼が引っ張り出したのは、緊張を要するような代物(しろもの)ではなかった。
「これは、あなたのものではなかったですか」
 確認の言葉と共に差し出されたのは、銀の腕時計だった。
 わたしたちは揃って目を見張った。
 そうだった。
 いつからか、これを見ていなかった。
 ルータが身に着けなくなったことにさえ、気が付いていなかった。
 イサクとわたしは、ルータの顔をちらりとのぞき込んだ。
 彼はかすかに眉根を寄せて、軍人の大きな手のひらに載っている腕時計を眺めた。よく見るとベルトの一部が少しばかり(ゆが)み、文字盤を覆うガラスの表面にも猫が引っ()いたような微小な傷跡が走っている。
 再びルータは男を見あげた。
「ええ。たしかに、これは僕のものです。もう見つからないと思っていました。いったいどこでこれを?」
「最近、新市街の公園に行かれたことがありますか」こちらからの質問にはこたえず、相手は別の質問で返してきた。「タフィー川沿いの、夕方から屋台の出る緑地公園のことですが」
 ルータは首をかしげ、指先で顎を摘まんだ。
「はて……」彼は口ごもる。「川沿いの、屋台のある公園、ですか。新市街の。う~ん、どうだったかな」
「わたしたち、仕事の都合で市内のあちこちのお宅や店舗を訪問するんです」わたしが横から言う。
 調子を合わせてルータはうなずく。
「そうなんです。だから意識しないうちに、あなたのおっしゃる場所の近くを通った可能性はじゅうぶんにあります。……では、これはそのあたりに落ちていたのですか」
 短い沈黙があった。
 短いけれど、刺すように鋭利な沈黙だった。
 感情というものが全くもって欠如した面持ちで、軍人は首を振った。
「いいえ。ただ先日その公園で夕食をとっている時に、あなたがたの姿をお見かけしたような気がしただけです。今のは単なるその確認でした。どうやら見間違いだったようだ」男は小さく息を吸い、吐く。「この時計は、旧市街にあるレストランの前で拾いました」
 彼はその店の名前を告げた。この街で知らない人はいない有名な大衆レストランだった。でもわたしたちの誰も、まだそこで食事をしたことはなかった。店の前を通ったことは、何度かあるけど。
「ああ、あそこですね」ルータが言う。「そうですか、あそこで……」
「これまでお見かけした際に、あなたがいつもこれを着けておられたのを、たまたま覚えていたものですから。それですぐに思い当たったのです」
 言いながら、レーヴェンイェルムは時計を持ち主に返却した。
「驚きました。素晴らしい記憶力をお持ちなのですね。わざわざ届けてくださって、ありがとうございます。いや、奇遇なこともあるものだ」
 しかし受け取ったそれをルータはすぐには装着せず、手の内に軽く握りしめた。
「間違いでなくてよかった」空になった手をそろりと降ろして、レーヴェンイェルムは言う。「レノックス隊長に確かめてもらうよう頼むつもりでいましたが、彼は今日は出て来られないというので。それで、あなたがたがここへいらっしゃるかもしれないと聞き及び、自分がみずから参った次第です」
「それは、お手数をお掛しました」
 わたしは頭を下げた。ルータも続いた。イサクは身じろぎ一つしない。
「手数というほどのものではありません」一歩後ろに下がり、男は言う。「ではこれで失礼します」
「お気を付けて」ルータが腰を浮かせて言った。「ありがとうございました」
 わたしたちはしばらく座席に腰を降ろしたまま、歩き去っていく男の行方を目で追った。
 彼は両手をポケットに差し込むと、観覧席のあいだをまるで波を裂いて進む(サメ)のように遠ざかっていった。その行く先には、ドノヴァン・ベームと、黄色い髪のアトマ族の女性を含む彼の同僚たちの姿があった。彼らはわたしたちの真向いの中段あたりの座席に、固まって座っている。
 席に戻った男に、ベームが何事かを語りかけた。
 レーヴェンイェルムは口を開くことなく一度うなずく。こちらを振り向いたりしてもよさそうなものだけれど、それもしない。
 ただ一人、アトマ族の女性だけが、ベームの肩の上に寝そべった姿勢で、静かにこちらを凝視している。
 しかしそれについては、わたしたちは気付かない振りをした。普通の人間だったら、その視線を認識できるはずのない距離が空いていたから。くれぐれも彼女と目が合うことがないよう心掛けつつ、わたしはそれとなく会場全体を眺め渡した。そして兄妹の二人に声をかけ、三人一緒に席を立った。そのまま会場を後にした。もう戻るつもりもない。
「ほんとはどこで失くしたの」劇場の外へ出るなり、イサクが厳しく問い詰めた。
「それが、ほんとに覚えてないんだよ」ルータはかぶりを振る。「いつの間にかなくなってたんだ。……でもたしか、あのオペラに出掛けた日の夜には、まだ着けてたはずだ」
 手のなかに収まっているものをしげしげと見つめ、彼は顔をしかめる。以前のように着ける気は、なかなか起きないみたいだ。ためらった挙句、彼はそれをポケットに仕舞い込んだ。
「じゃあ、その後は?」なおもイサクが迫る。
 彼はただ肩をすくめる。
「ルータはしょっちゅうそれを外して螺子(ねじ)を巻いていたよね」わたしはここ数週間の彼の行動を思い浮かべて、指摘する。「歩きながらそうすることも、よくあった。それで着け直す時に、どこかで――あの人の言うことが本当なら、旧市街のレストランの近くで――落としたのかしら」
「……どうだかなぁ」膨らんだポケットから手を離さないまま、彼は唸る。
「それとも……」眼鏡の真ん中を指先で押し上げ、イサクが暗い声でつぶやく。
「そうね」わたしは腕を組み、嘆息する。「

かしらね、やっぱり……」
「……うん」ルータはわずかに目を伏せる。「たしかにその可能性が高いとは思うけどね。しかし確信は持てない」
「なんにせよ、あいつには二度と関わるべきじゃないね。あたしの直感がそう告げてる」ふいにイサクが声を荒げた。「涼しい顔して、ちびちびと含みのあるようなこと訊いてきやがって。それに、あの目つき! 思いだしただけでむかつく」
「まぁね」わたしは彼女の肩に腕を回す。「だけどそんなに気を揉まなくたって、あの人たちはそのうちお国へ帰っちゃうよ。そしたら、それっきりだわ」
 ずばりとうなずき、イサクは目の前に落ちていた石ころを蹴っ飛ばした。
 ルータは口をつぐんで空を仰ぎ、そこに飛んでいない架空の鳥の見えない軌道をなぞるように、ぼんやりと視線を漂わせた。
 今日は快晴だった。
 念入りに(ほうき)()かれた庭のように、さっぱりとした一面の青空が広がっている。
 でも、風はけっこう強い。というより、強くなってきた。朝には、これほどでもなかったはずだ。
 わたしはいったん立ち止まり、兄妹がその首に巻くマフラーを順にしっかり結び直してあげた。
「行こう。冷えてきた」わたしは言った。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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