35 僕のこの手を取るがいいい

文字数 2,785文字

 テンシュテットはおずおずと片手を持ち上げて、自身の頬に触れた。そして眉根を寄せ、痛ましげな表情を浮かべた。
 それでルータは気付いた。
 あまりの寒さに肌が麻痺して、今の今まで全く感じなかったけれど、自分の左の頬がわずかに裂けて、そこから滴るべきものが滴っている。バイクに突撃した時にこさえた傷だろう。そういえば、身体の他の箇所にも、いくつか鈍い痛みを感じる。もしかすると服のどこかが破れているかもしれない。気に入ってたのにな、とルータは思う。
「大丈夫かい?」テンシュテットが震える声でたずねた。
「え?」
「傷……」
 しばし口を半開きにして心底呆れ返った(のち)、ルータは(こら)え切れず笑いだした。ひとしきりそのまま声を上げて笑って、それがようやく収まると、彼は落ち着いた口調で語りかけた。
「そんなことより、自分の心配をしたらどうなんだ」
 恐るおそる、青年は前後左右を見回した。
 毛皮の襟のあいだにのぞく生白い首が、ごくりと波打つ。
 頬も唇も、ますます血色を失っていく。
 鼻のてっぺんだけが、滑稽なほど赤い。
 そしてその一対の瞳は――意外にも、急速に現実感を取り戻しつつあるようだった。
 それなりに過酷な訓練を積んできた軍人としての経験は、どうやら伊達(だて)じゃないみたいだなと、ルータは思う。
 尋常ではない境地に立たされているとはいえ、自分の身が今すぐ再びの窮地に叩き落とされることはなさそうだと、判断したのだろう。そしてまた彼のなかには、なににも増して、信頼というものがあるようだった。こうした超常的な(わざ)のすべてを揺るぎなく支えている力と、その行使者とおぼしき人物に対する、確固とした信頼が。
 深く深く息を吸って、テンシュテットは率直にルータを見つめた。
「……前に、話したよね」青年は震えの治まらない喉の奥から、一つずつ言葉を絞り出す。「世界で最も発顕因子に恵まれた血筋の人たちに、たずねたことがあるって」
「ああ」
「顕術で、鳥みたいに空を飛ぶことは可能なのか、って」
「ああ」
「そうしたら……もしそんなことができる奴がいたら、それはもう人間じゃないって、彼らの全員が……全員が、一人残らず、口を揃えた」
「ああ」
「……でも、どう見たって、きみは、人間だ」
「そう?」
「人間だ……」青年はやみくもに強くうなずいた。「人間だよ。どこからどう見ても、きみは……きみは、人間と、僕らと、おなじ姿をしている」
 唇を閉じて、ルータはただ静かに微笑を浮かべた。
「なんてことだろう……」突拍子もなく両目いっぱいに涙を(たた)えて、青年は大きく息を吐いた。「そんな……だとしたら……もしも、そうなのだとしたら……いや、そうでしかありえない。それ以外に考えられない。あぁ、なんてことだろう!」
 ついにぽろぽろと涙が零れ出し、風にさらわれ、乱舞する雪の狭間に散っていく。
 青年は自分の頭を左右から鷲掴みにした。
「あの夜、事もあろうに、まさかきみの前で、失われた古代民族の話を持ち出していたなんて。こんな……こんな、嘘みたいな、冗談みたいな、作り話みたいな巡り逢わせが、本当にありえるのだろうか。こんな出逢いが、果たして本当に可能なのだろうか。こんな運命が、現実に、あってもいいものなのだろうか……!」
「神なるイーノは、決して無意味な思いつきで事を運んだりしない」
 教え(さと)すふうでも、思想を押しつけるふうでもなく、ルータはただ事実そのものを伝える。まるで、機械的に直訳された異国語の例文を読み上げるように。「朝になると明るくなります」「夜になると暗くなります」――そんなことでも、言うように。
 一歩、ルータは前へ進み出る。
 そして続ける。
「すべてに大いなる計画があり、すべてに人智(じんち)を超えた究極唯一の摂理が働いている」彼はさらに一歩前進する。そして柔らかな笑顔を、もう一段階深める。「巡り逢わせ、出逢い、運命、か。そうだね。僕にとってなにが驚くべき運命かといえば、こうして数百年ぶりに人前で正体を明かしたアクア族と対面する人間が、きみのように真正(しんせい)の善良さを持つ男だったということだろう」
 三歩、四歩、五歩と、ルータは悠然と足を前へ運ぶ。今や青年の姿は、彼のすぐ目の前にある。
「僕はここできみを消してしまうことができる」ほほえみを絶やさないまま、ルータは青年の顔を見あげる。「きみの体を粉々にして、夜の闇に溶かしてしまうことができる。この世にアクア族の純粋な末裔が生存していることを知るただ一人の人間を、このまま他の誰にも知られることなく、一瞬で葬り去ってしまうことができる」
「きみが望むなら!」滝のような奔流が、青年の両目から(ほとばし)り出る。それなのに、その口もとには、不思議なくらいに温かな笑みが浮かんでいる。「きみがそうしたいのなら、そうしてくれてかまわない。きみたちがそれで心静かに生きていかれるっていうのなら、そうしてくれたって、僕は全然かまわないよ」
 笑顔をすべて取り払って、ルータはじっと青年を凝視する。
「なぜ泣く」
「だって……」両手でぐしぐしと目やら鼻やらを拭って、青年は穏やかに息をつく。「だってさ、自分の知らないうちに、子供の頃からの大きな夢が一つ、叶っていたんだもの。こんなに笑って泣けることって、そうそうないさ」
 最後の一歩を踏み出して、
 ルータは再びの微笑と共に、
 右手を前へ差し伸ばした。
「テンシュテット・レノックス。現生人類の若者よ。僕のこの手を取るがいい」
 呼びかけられた青年は、
 呼びかけられたとおりに、
 その手を確かにつかんだ。
「僕の名は、ルータ・イノティシア・ユメノ・ティマータ・アクアロス」一息で、ルータは真(まこと)の名を明かした。「僕は原初の人類たる〈アクア族〉最後の生き残りの一人にして、一族の終焉(しゅうえん)を見届ける使命をみずからと祖先と同胞たちに誓いし者。僕はきみを殺さない。ここに差し出す手は、ただのしるしとしての握手なんかじゃない。僕の友情と忠誠は、きみのものだ」
 なおも()めどなく溢れる涙をそのまま溢れさせながら、テンシュテットは恍惚とした面持ちで友人の瞳をのぞき込んだ。悠久の時を生きる深い青のまなざしが、まるで銀河を貫く流星のようにまっすぐ、青年の内奥(ないおう)の魂を見つめていた。
 繋いだ手はそのままで、青年はふいに神妙な表情を浮かべた。
「……ねぇ、だったらきみは、本当は今いくつなんだ?」
「来年で80になる」
「へっ?」素っ頓狂な声を漏らすと、青年は顔をくしゃくしゃにして笑いだした。「うっそだろ? ほんとに?」
「なんだよ。そんなに可笑しいか?」
「可笑しいよ!」満面の笑みを弾けさせて、青年は鼻声で喚く。「可笑しいに決まってるよ! ええっと、ルータ・イノタ……イノテシ……」
 くしゃみをするみたいに、ルータは思いきり吹き出した。そして両目を細めて、ささやきかけるように言った。
「ルータでいいよ、テン」
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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