46 足もとに気をつけなさい

文字数 2,624文字

 

    ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 その日の夜、わたしは夢を見た。
 夢のなかでわたしは、一人きりで細い橋を渡っていた。一人きりでないと渡れないくらいに、幅の狭い橋だった。材質は今まで見たこともない、半透明のガラスみたいなもの。でも、硬くもなく柔らかくもない。焼き固めたパンでも踏んづけてるような感じ。
 わたしは裸足だった。足の裏から心地良い冷ややかさが伝わってくる。
 不思議と満ち足りた気持ちで、わたしは風を切って前へ進んだ。
 身に着けている青いローブが、ぱたぱたと揺れる。まるでそれ自体が風と溶け合って一つになったみたいに。
 橋は、川や谷に架かっているものではなかった。
 ちょうど海辺や湖畔によくある桟橋みたいに、地上からわずかに離れた低い空に、それは架けられていた。でも足もとにあるのは海水でも湖水でもなく、一面の花畑だった。しゃがんで手を伸ばせば指先が届きそうな高さのところに、透き通るような緑草と無限の色彩の花々が広がっていた。前後左右どちらを向いても、すべての地平線に達するまで、その極彩色の光景は続いている。橋は、猫の尻尾みたいに緩やかな曲線を描いて、花の大海の上を果てなく這っていた。終点はわたしの行く手の遥か先、地平線を越えた彼方にあって、歩けども歩けども、それはいつまでも見えてこない。まだまだ先は長いというわけだ。
 わたしは雲一つない青空を仰ぎ、ただ前へ向かって足を運び続ける。
 それ以外のことは、頭に浮かびさえしない。
 そして、まだ一分(いっぷん)しか歩いていないような、それでいてもう丸々一日は歩き通してきたかのような、奇妙な時間の経過を潜り抜けて、わたしの目はあるものを捉える。
 それは突如として(あらわ)れた、白くて小さいなにか。
 それは地平線の上にひょっこりと頭をのぞかせ、ゆったりとした速度で移動を始める。
 それはキノコの笠みたいに見える。
 けれど、違う。
 それは、傘だ。
 ふっくらとした、レースの飾りがついた真っ白な日傘。
 それを差しているのは、わたしの母さんだ。
 母さんは日傘とおなじような素材で出来た純白のサマードレスを着ている。空と大地を分かつ線の上を右から左へ、まっすぐ歩いて進んでいる。まるで、なにかの計器の目盛りが少しずつ動くみたいに。
 わたしは全速力で駆けだす。
 何度も、母さんを呼びながら。
 このまま橋を辿っていったら、やがて母さんに触れられるところまで到達できるはず。わたしはそう目算を立てる。
 両脚がもげてしまいそうなくらい、わたしは力の限り走った。本当は飛んでいきたかったけれど、なぜだか橋から離れることができなかったから、とにかく必死に走った。走るしかなかった。
 やがて母さんも、わたしの存在に気付いた。
 今では、互いの姿をはっきりと見ることができる。
 わたしは思いっきり手を振り、喉が破れるくらい全力で叫ぶ。
「母さん!」
「気を付けなさい」母さんは手を振り返して言う。ささやくほど小さな声なのに、こちらの耳にくっきりと伝わる。「足もとに気をつけなさい。落っこちてしまうよ」
「かまわないわ!」今や目前に迫った母さんに向かって、わたしは言う。口のなかいっぱいに涙の味が広がる。「こっちに来て、母さん!」
 母さんは立ち止まる。
 そしてほほえみを浮かべて、ぴたりと口をつぐむ。
 その沈黙が、拒否の意をわたしに示す。
 わたしはローブの裾を両手でつかんで膝の上までたくし上げ、決然と告げる。
「ならわたしがそっちに行くわ! そこで待ってて!」
 その途端、母さんの顔から笑みが消失する。
 ちらと眉を下げて、遠くを望むようなまなざしになる。
 その両目が結ぶ焦点を、わたしのいる場所からわずかに横へずらす。
 その視線を追って、わたしは自分の背後を振り向く。
 いつの間にいらしたのか、わたしの背中に触れるほどの近くに、クレー老師が一人で立っていた。
 老師は、光の加減によって青にも白にも見える美しいローブを羽織っている。血色は良好で、呼吸もとても滑らかだ。イサクに結ってもらったに違いない端正な白髪の束が、ふわふわと微風(そよかぜ)に揺れている。
 わたしの肩に、老師は手を置かれた。そして、教え諭すように言われた。
「まだだよ」
「でも!」
 わたしは赤ん坊みたいにべそをかいて、激しく首を振った。
 老師はもう一方の手も、わたしの肩に載せた。そっと、舞い落ちる花びらのように。
「まだだ」老師は繰り返した。「おまえはまだ、ここを離れてはいけない」
 わたしは身を(よじ)り、もう一度母さんの方を振り向いた。
 母さんの顔には、微笑が戻ってきていた。なにかに、安心したようだった……。
「ありがとう」
 母さんが言った。
 でもそれはわたしに向けられた言葉ではなかった。
 わたしは再び老師の方を向いた。
 その瞬間、一気に中身が丸ごと抜け落ちた果実の皮みたいに、白とも青ともつかない大ぶりのローブだけが、わたしの眼前ではらりと地面に落ちた。
 それを羽織っていたはずの肉体は、もうどこにも見当たらない。(かすみ)のように、消えてしまった。
 けれど、まだそんなに遠くへは行っていない。
 わたしにはそれがわかる。
 だって、まだ背中と両肩に、確かな温もりが残っているから。
 わたしはぎゅっと両目を閉じて、また開いた。
 その一瞬で、地上を覆うすべての花々の色が、完璧な白の一色に染まっていた。
 わたしは、今、背後に、二人ぶんの気配を感じていた。
 でもわたしは、そちらを振り返ることはしなかった。
 どうしても、それができなかった。
 体が動かなかった。
 動かすことができなかった。
 胸が張り裂けてしまいそうだった。
 でも、これはきっと、正しいことなんだ。二人と、目を合わせるべきではないのだ。今、この時には、まだ……。
「歩きなさい」
 背中をぽんと押してくれるような、たまらなく優しい声が聴こえた。二人の声が混ざり合った声だった。
 わたしは顔を上げて毅然とうなずき、目の周りをごしごしと(ぬぐ)って、果てしなく伸びる橋の先へと目を向けた。
 そこで夢は終わった。


     ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 夢を終わらせたのは馬の(ひづめ)の音だった。それはアパルトマンの前で停まった。乗っていたのは、聖アキレア記念病院から駆けつけた伝令係だった。
 まもなく、息を切らせた管理人のサラマノさんが、わたしたちの部屋のドアを叩いた。そしてシュロモ先生からの伝言を(しら)せてくれた。
 老師に、その時が迫っていた。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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