20 僕らでよければ
文字数 5,778文字
新市街全域を巡回する乗合馬車に、テンシュテット・レノックスはわたしたちを案内した。足首にたっぷりと毛を生やした白馬が二頭がかりで引く大型馬車で、客車にはわたしたちの他にも大勢の乗客がいた。
それぞれ離れた席に着いたので、道中の会話はなかった。馬車に乗るまでのあいだに、ほんの短いやりとりが交わされただけだった。レノックスは、今日は思いがけず仕事が休みになったのだということだった。わたしたちの方も、そんなようなものだということにしておいた。
馬車の停留所は彼の泊まっているホテルの目の前にあった。そのため一行は、まともに自己紹介をするまもなく目的地に到着してしまった。
レストランはこの日も満席だった。でも青年が言ったとおり、すぐに空いている特別席へ通された。席に上着や本を置いて、わたしたちは青年の先導でビュッフェへ向かった。
そこには本当に、わたしたちが求めるものが全部揃っていた。
くるくると回転するラム肉の丸焼きから削り取られた、輝かしい焼き色のケバブ。黄金 色にこんがりと揚げられ、色鮮やかな香草ソースを添えられた白身魚。ドーナツの種類も豊富で、ほうれん草とベーコンとチーズのドーナツと、キャラメルクリームがこってりと塗られたカカオ・ドーナツをわたしは取った。レノックス青年は、意外や意外、地獄のように真っ黒なイカ墨のスパゲティを選んだ。そしてその黒が完全に見えなくなってしまうまで、削りたてのチーズ粉末を豪雪のごとく大量に振りかけた。なんだかずいぶん変わった食べ方に思えたけれど、不思議と不味 そうには見えなかった。実際、彼はそれをすごくおいしそうに食べた。
食事をしながら、ようやくきちんと互いに名乗りあった。
「お三方 は、瞳の色がそっくりですね」見惚れるように目を細めて、レノックスが言った。「なんて綺麗な青でしょう。みなさんはご親族どうしですか?」
「ええ」ルータがうなずいた。「こっちのイサクと僕が、兄妹です。リディアも一緒の家系です」
「やっぱり、ご兄妹ですよね。僕と妹のルチアも、髪と瞳の色だけはおなじです。その他はあんまり、というかほとんど、似ているところはありませんが」
特になにも言うことがないので、わたしたちはただ相槌を打って返した。
青年は変わらずにこにこして続ける。
「我が家のお転婆とは違って、イサクさんはとても大人びていらっしゃいますね。おなじ妹でも、えらい違いだ」
「え……」
ちょうど炙 り肉にかぶりつこうとしていたところだったイサクは、風船がしぼむみたいにその身を縮こませた。そしてうっすらと赤面して、小鳥がついばむような感じでちょこっと肉を齧 った。
「うちのルチアも、もう少し落ち着いてくれたら助かるんですが」青年は大袈裟に嘆息する。「あいつは小さな頃から、いささか行動力が有り余りすぎで……」
「こいつも見かけほどおとなしくはないですよ」ルータが魚を切り分けながら言った。
「あたしと兄も、髪や目の色以外に似てるところなんて一つもありません」負けじとイサクも言い放った。
「くくっ……」わたしは我慢できず吹き出してしまった。
兄妹が食事を中断してわたしを睨んだ。
レノックスは唇に少しばかり墨をつけたまま、可笑しそうに首を傾けた。
「それで、リディアさん。ほんとのところはどうなんです?」
「まぁ結局のところ、似た者どうしですよ。この二人は」
「「どこが」」兄妹が声を揃えた。
「だから、そういうところよ」
レノックスは声を出して笑った。まるで名人が吹くコルネットの音色みたいに、柔らかくて明るい笑い声だった。
それから彼は、改めて自身の境遇を語った。
自分はホルンフェルス王国の首都ヨアネスで生まれ育った研究者であり、地質調査活動や国際共同研究の仕事でこの地に派遣されている。年齢は25歳になったばかり。妹のルチアは七つ下の18歳で、国際政治学を専攻する大学一年生。その分野における見識を深めるため、現在はここタヒナータの大学に短期留学中。……
すべてが初耳のことであるかのように装って、わたしたちは彼の話に耳を傾けた。
わたしたちより一足先に食べ終えた青年は、口の周りを念入りに拭って一息つくと、組みあわせた両手をテーブルに置いた。そして一拍の間を置いて、こちらを控えめに見つめた。
「お三方とも、この街のご出身ですか」
「ええ」ルータが即答した。
「みなさん、学生……では、ないですよね」
「違います」わたしがこたえた。
「では、もうどこかにお勤めで?」
「どこにも勤めてはいません」わたしは首を振った。「わたしたち三人とも、一族の家業に従事しています」
「あぁ、なるほど。どうりでみなさん、お若いのに貫禄があるわけだ」
わたしは微笑を――自分では精一杯に社交的だと思える微笑を――浮かべた。
「失礼ですが、ルータさんは今おいくつですか?」
そうたずねながら、意図的にわたしとイサクの姿は彼の視界から外された。まぁ、よく出来た若者だ。
ルータは軽く咳払いをして、相手を見返した。
「これでも今年で22になります。年相応に見られた例 がないですが」
「結構なことじゃないですか。逆に僕なんかは、割と老けて見られます。羨ましいですよ」
「僕はそちらの方がずっと羨ましいです。若く見られて得したことなんか、一度もありませんから。時には仕事にだって、支障が出るほどです」
「家業とおっしゃいましたね。伺っても?」
「家業なんていうと、なんだか大袈裟ですけどね。ただの商売人ですよ」
「ご商売ですか」
「ええ。主に宝石類を取り扱っています」
「では……宝石商」
「そんな呼び方もありますね」
「初めてお会いしましたよ。あなたがたのようなお若い宝石商には」
無表情で口ばかりもぐもぐさせながら、イサクが眼鏡のレンズの奥からじろりと青年を見あげた。わたしも前髪を払うふりをして、彼の表情を一瞬鋭く観察した。
なに一つ疑う様子もなく、彼は続ける。
「僕も近いといえば近い畑の人間ですから、鉱石や鉱物の文献にはよく目を通します。でも、僕の母や伯母たち、それに妹――ルチアの方が、あなたがたの扱われる品物については詳しいでしょうね。というか、彼女たちが僕の話に真面目に付き合うのは、その手の話題が上る時だけですよ」
わたしたちは愛想笑いを浮かべた――つもりだったのだけど、青年の話しぶりがあまりにあけっぴろげで愉快そうなので、普通に笑ってしまった。
「それじゃ、みなさんはずいぶん早い時期から専門的な修行を積まれたんだ」青年が言う。
「しかしまだまだ駆け出しですよ」ルータは小さく首をすくめる。「なにしろ一筋縄じゃいかないことばかりですからね。まだまだこれからが勝負といったところです」
レノックスは神妙な面持ちでうなずいた。
給仕係の人たちが食器を下げてくれているあいだ、食後の飲み物を取るためにまた全員で席を立った。コーヒーや紅茶や、ちょっとしたデザートを寄せ集めた皿を持ってテーブルに戻ると、各々静 やかにカップを傾けながら、しばしのあいだ気持ちの整理に取り組んだ。
レモンの輪切りを三十秒ほど浮かべた紅茶を、わたしはゆっくりと口に含んだ。爽快な酸味と香りが喉と鼻の奥を巡り、その作用として自然と背筋が伸びた。そのまま店内を眺め渡した。埋まっていない席は一つもない。入口の外の行列もずっと絶えない。たしかに評判なのもうなずけるお店だった。料理も、紅茶の品質と品揃えも、まったく申し分ない。
なのだけれど、それはそれとして、わたしは正直なところ、恐ろしく現実味を欠いた白日夢のなかに自分が迷い込んでしまったような感覚に、ずっと囚われ続けていた。
遠くの方できりきりと軋みを上げながら昇降機が動き出した。
わたしは我に返った。
それとほぼ同時に、レノックスがコーヒーカップをテーブルに置いた。そして静かに口を開いた。
「みなさんはこちらの生まれ育ちだとおっしゃいましたね」
わたしたちはうなずいた。
青年はコーヒーの水面にちらりと自分の顔を映し、とりとめもなくカップの取っ手に指を掛け、しかし持ち上げはせずに、やや声を低くして続けた。
「我々は……というのは、僕が責任者を務めている調査隊は、ということですが、研究活動の一環で、このあたりの森の内部に入ることがあります。それも、けっこう深いところまで」
再びわたしたちはうなずいた。
この時の青年の話し方は、まぁ無理もないことだけれど、いくぶん奥歯に物が詰まったような調子になっていた。けれどそこには、許される限りにおいて正直に事実を述べようとする意志が感じられた。わたしたちは黙って続きを待った。
彼はほんの少し身を乗り出した。
「この国の森に関して……なんていうんでしょう、なにかしらの奇妙な言い伝えとか、不思議な噂とか、あるいは都市伝説のようなものとか、そういう類の話って、みなさんはご存じないでしょうか」
「……はて」ルータが首をひねる。「それって例えば、森の奥には精霊が住んでるとか、未確認生物が潜んでいるとか、満月の夜に入ると出て来られなくなるとかいった、その手の話のことでしょうか」
「そうです、そうです」青年はこくこくと首を揺らす。「まさにそういった話のことです」
「はて、どうだろう。今言ったようなありふれた法螺 話なら、子供の頃にいくつか聞かされましたが。さすがに近頃は、この科学進歩の時流も相 まって、そういう話はめっきり耳にしなくなりましたね。少なくとも僕は、その種の話題に明るくありません」
「わたしも、そういうのはさっぱり」わたしは言った。
イサクも首を横に振った。
「……そうですか」青年は浅くうなずき、背中を元の位置に戻した。
「なにか気に掛かることでも?」
持ち上げたカップの底で顔を半分隠しつつ、ルータは相手の様子を鋭く窺った。
青年はさりげない所作で周囲を見渡した。そして顎をくっと引いて、話を切り出した。
「最初にお断りしておきたいのですが、、これからお話しすることに関しては、できればなるべく内密にしておいていただきたいのです」
思わずわたしたちは眉をひそめた。
「いやいやご心配なく」すかさず青年は頬を緩める。「そんな大した事じゃありませんから。僕が携わっている調査活動に関する話です」
「それは、僕たちが耳にしていいものなのですか」ルータが両手を膝に置いてたずねる。「つまり、関係のない第三者が共有していい情報なのですか」
青年は胸を張ってうなずいた。
「僕と共に責任ある立場に就いている同僚とも、きちんと話し合って決めたことなんです。このあたりの土地の歴史資料や文献をより深く当たってみるのと同時に、当地在住の方々からいろいろとお話を聞いて回るというのも、あるいは一興かもしれないなと」
寄せた眉はそのままで、わたしたちは続きを待つ。
「しかし誤解しないでいただきたいのですが、僕はなにもそのためにあなたがたをお誘いしたわけではありません。イーノの神に誓って、今みなさんとお話している最中にふと思いだしただけなのです」
そこで青年は深く息を吐き、そして吸った。
わたしはまずイサクを見やり、それからルータを見た。イサクはまるで興味なさげに肩をすくめた。ルータはわたしの目を見返して、小さくうなずいた。わたしもおなじように返した。
「……そういうことでしたら、はい。僕らでよければお聞きします」前を向いてルータが言った。
レノックスはほっとしたように微笑した。そして突然、自分のズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「これを見てください」
そう言って彼がテーブルに置いたのは、ただの石ころだった。おとなの手で握るとすっかり包み込めてしまうくらい小さな、黒っぽい灰色の石。
「これがなにか?」ルータが首をかしげた。
青年は石ころを摘まみ、ひっくり返った亀を助け起こすようにしてそれを裏返した。
「ん……?」イサクが眼鏡をくいと押し上げて、よくよく目を凝らした。
「どういうことですか」わたしは率直にたずねた。
石の表面をとんとんと指先で叩きながら、レノックスが説明する。
「これは〈クレドタイト〉と呼ばれる石です。分類上は、花崗岩 の一種に数えられます」
ルータは石ころを穴が空くほど見つめ、指先で自分の顎をつまんだ。
「僕らの専門からは少し外れますが、その名には馴染みがあります。というかまさに、僕らを支えている踵 でこつんと床を鳴らした。「これが、そうなんじゃなかったですか」
「その通りです」青年はうなずく。「クレドタイトは、古来より各地方で建材として重宝されてきました。このタヒナータの街も、この石材によって隅々まで築き上げられていると言っても過言ではありません」
わたしは感心する。なかなかどうして博識な若者だ。あるいは本当に研究職に就いていたことがあるのかもしれない。
「さて、この面をよく見てください」青年は今しがた自分の手で仰向けにした石の表 を示した。「ちょっと見づらいかもしれませんが、ここのところ、ほぼ完全に真 っ平 らになっているのがわかりませんか」
額を寄せ合うようにして、わたしたちはそれを間近に確認した。
「……うん」イサクがつぶやいた。「なってる」
「これはもしかすると、人間が加工した形跡かもしれません」青年は告げた。「これでも専門家の端 くれですから、こういったことにはすぐに気が付くのです。僕はこの石を、森の奥地で見つけました」
「それは……」じわりと顔を上げて、ルータが青年を真正面から見据えた。「それはいったい、なにを意味しているのでしょう」
問いかけにこたえることなく、青年は今一度ポケットに手を差し入れた。そして今度は最初のものと少しずつ大きさの異なる石を三つほど、テーブルに並べた。どれもおなじ種類の石だ。そしてどれも、平らに切り出された面を持っている。
「他にもまだいくつかありました。ポケットに入らきらないほど大きいものもありました」真剣な表情でわたしたちを見渡しながら、青年は言った。「つまり、あの神聖不可侵の森の奥深くに、かつて人間の手によって築かれた建物が存在していた可能性があるということです」
それぞれ離れた席に着いたので、道中の会話はなかった。馬車に乗るまでのあいだに、ほんの短いやりとりが交わされただけだった。レノックスは、今日は思いがけず仕事が休みになったのだということだった。わたしたちの方も、そんなようなものだということにしておいた。
馬車の停留所は彼の泊まっているホテルの目の前にあった。そのため一行は、まともに自己紹介をするまもなく目的地に到着してしまった。
レストランはこの日も満席だった。でも青年が言ったとおり、すぐに空いている特別席へ通された。席に上着や本を置いて、わたしたちは青年の先導でビュッフェへ向かった。
そこには本当に、わたしたちが求めるものが全部揃っていた。
くるくると回転するラム肉の丸焼きから削り取られた、輝かしい焼き色のケバブ。
食事をしながら、ようやくきちんと互いに名乗りあった。
「お
「ええ」ルータがうなずいた。「こっちのイサクと僕が、兄妹です。リディアも一緒の家系です」
「やっぱり、ご兄妹ですよね。僕と妹のルチアも、髪と瞳の色だけはおなじです。その他はあんまり、というかほとんど、似ているところはありませんが」
特になにも言うことがないので、わたしたちはただ相槌を打って返した。
青年は変わらずにこにこして続ける。
「我が家のお転婆とは違って、イサクさんはとても大人びていらっしゃいますね。おなじ妹でも、えらい違いだ」
「え……」
ちょうど
「うちのルチアも、もう少し落ち着いてくれたら助かるんですが」青年は大袈裟に嘆息する。「あいつは小さな頃から、いささか行動力が有り余りすぎで……」
「こいつも見かけほどおとなしくはないですよ」ルータが魚を切り分けながら言った。
「あたしと兄も、髪や目の色以外に似てるところなんて一つもありません」負けじとイサクも言い放った。
「くくっ……」わたしは我慢できず吹き出してしまった。
兄妹が食事を中断してわたしを睨んだ。
レノックスは唇に少しばかり墨をつけたまま、可笑しそうに首を傾けた。
「それで、リディアさん。ほんとのところはどうなんです?」
「まぁ結局のところ、似た者どうしですよ。この二人は」
「「どこが」」兄妹が声を揃えた。
「だから、そういうところよ」
レノックスは声を出して笑った。まるで名人が吹くコルネットの音色みたいに、柔らかくて明るい笑い声だった。
それから彼は、改めて自身の境遇を語った。
自分はホルンフェルス王国の首都ヨアネスで生まれ育った研究者であり、地質調査活動や国際共同研究の仕事でこの地に派遣されている。年齢は25歳になったばかり。妹のルチアは七つ下の18歳で、国際政治学を専攻する大学一年生。その分野における見識を深めるため、現在はここタヒナータの大学に短期留学中。……
すべてが初耳のことであるかのように装って、わたしたちは彼の話に耳を傾けた。
わたしたちより一足先に食べ終えた青年は、口の周りを念入りに拭って一息つくと、組みあわせた両手をテーブルに置いた。そして一拍の間を置いて、こちらを控えめに見つめた。
「お三方とも、この街のご出身ですか」
「ええ」ルータが即答した。
「みなさん、学生……では、ないですよね」
「違います」わたしがこたえた。
「では、もうどこかにお勤めで?」
「どこにも勤めてはいません」わたしは首を振った。「わたしたち三人とも、一族の家業に従事しています」
「あぁ、なるほど。どうりでみなさん、お若いのに貫禄があるわけだ」
わたしは微笑を――自分では精一杯に社交的だと思える微笑を――浮かべた。
「失礼ですが、ルータさんは今おいくつですか?」
そうたずねながら、意図的にわたしとイサクの姿は彼の視界から外された。まぁ、よく出来た若者だ。
ルータは軽く咳払いをして、相手を見返した。
「これでも今年で22になります。年相応に見られた
「結構なことじゃないですか。逆に僕なんかは、割と老けて見られます。羨ましいですよ」
「僕はそちらの方がずっと羨ましいです。若く見られて得したことなんか、一度もありませんから。時には仕事にだって、支障が出るほどです」
「家業とおっしゃいましたね。伺っても?」
「家業なんていうと、なんだか大袈裟ですけどね。ただの商売人ですよ」
「ご商売ですか」
「ええ。主に宝石類を取り扱っています」
「では……宝石商」
「そんな呼び方もありますね」
「初めてお会いしましたよ。あなたがたのようなお若い宝石商には」
無表情で口ばかりもぐもぐさせながら、イサクが眼鏡のレンズの奥からじろりと青年を見あげた。わたしも前髪を払うふりをして、彼の表情を一瞬鋭く観察した。
なに一つ疑う様子もなく、彼は続ける。
「僕も近いといえば近い畑の人間ですから、鉱石や鉱物の文献にはよく目を通します。でも、僕の母や伯母たち、それに妹――ルチアの方が、あなたがたの扱われる品物については詳しいでしょうね。というか、彼女たちが僕の話に真面目に付き合うのは、その手の話題が上る時だけですよ」
わたしたちは愛想笑いを浮かべた――つもりだったのだけど、青年の話しぶりがあまりにあけっぴろげで愉快そうなので、普通に笑ってしまった。
「それじゃ、みなさんはずいぶん早い時期から専門的な修行を積まれたんだ」青年が言う。
「しかしまだまだ駆け出しですよ」ルータは小さく首をすくめる。「なにしろ一筋縄じゃいかないことばかりですからね。まだまだこれからが勝負といったところです」
レノックスは神妙な面持ちでうなずいた。
給仕係の人たちが食器を下げてくれているあいだ、食後の飲み物を取るためにまた全員で席を立った。コーヒーや紅茶や、ちょっとしたデザートを寄せ集めた皿を持ってテーブルに戻ると、各々
レモンの輪切りを三十秒ほど浮かべた紅茶を、わたしはゆっくりと口に含んだ。爽快な酸味と香りが喉と鼻の奥を巡り、その作用として自然と背筋が伸びた。そのまま店内を眺め渡した。埋まっていない席は一つもない。入口の外の行列もずっと絶えない。たしかに評判なのもうなずけるお店だった。料理も、紅茶の品質と品揃えも、まったく申し分ない。
なのだけれど、それはそれとして、わたしは正直なところ、恐ろしく現実味を欠いた白日夢のなかに自分が迷い込んでしまったような感覚に、ずっと囚われ続けていた。
わたしたち
、いったいなんでこの人と一緒に
、こんなところで呑気に食卓を囲んだりなんかしてるわけ?
遠くの方できりきりと軋みを上げながら昇降機が動き出した。
わたしは我に返った。
それとほぼ同時に、レノックスがコーヒーカップをテーブルに置いた。そして静かに口を開いた。
「みなさんはこちらの生まれ育ちだとおっしゃいましたね」
わたしたちはうなずいた。
青年はコーヒーの水面にちらりと自分の顔を映し、とりとめもなくカップの取っ手に指を掛け、しかし持ち上げはせずに、やや声を低くして続けた。
「我々は……というのは、僕が責任者を務めている調査隊は、ということですが、研究活動の一環で、このあたりの森の内部に入ることがあります。それも、けっこう深いところまで」
再びわたしたちはうなずいた。
この時の青年の話し方は、まぁ無理もないことだけれど、いくぶん奥歯に物が詰まったような調子になっていた。けれどそこには、許される限りにおいて正直に事実を述べようとする意志が感じられた。わたしたちは黙って続きを待った。
彼はほんの少し身を乗り出した。
「この国の森に関して……なんていうんでしょう、なにかしらの奇妙な言い伝えとか、不思議な噂とか、あるいは都市伝説のようなものとか、そういう類の話って、みなさんはご存じないでしょうか」
「……はて」ルータが首をひねる。「それって例えば、森の奥には精霊が住んでるとか、未確認生物が潜んでいるとか、満月の夜に入ると出て来られなくなるとかいった、その手の話のことでしょうか」
「そうです、そうです」青年はこくこくと首を揺らす。「まさにそういった話のことです」
「はて、どうだろう。今言ったようなありふれた
「わたしも、そういうのはさっぱり」わたしは言った。
イサクも首を横に振った。
「……そうですか」青年は浅くうなずき、背中を元の位置に戻した。
「なにか気に掛かることでも?」
持ち上げたカップの底で顔を半分隠しつつ、ルータは相手の様子を鋭く窺った。
青年はさりげない所作で周囲を見渡した。そして顎をくっと引いて、話を切り出した。
「最初にお断りしておきたいのですが、、これからお話しすることに関しては、できればなるべく内密にしておいていただきたいのです」
思わずわたしたちは眉をひそめた。
「いやいやご心配なく」すかさず青年は頬を緩める。「そんな大した事じゃありませんから。僕が携わっている調査活動に関する話です」
「それは、僕たちが耳にしていいものなのですか」ルータが両手を膝に置いてたずねる。「つまり、関係のない第三者が共有していい情報なのですか」
青年は胸を張ってうなずいた。
「僕と共に責任ある立場に就いている同僚とも、きちんと話し合って決めたことなんです。このあたりの土地の歴史資料や文献をより深く当たってみるのと同時に、当地在住の方々からいろいろとお話を聞いて回るというのも、あるいは一興かもしれないなと」
寄せた眉はそのままで、わたしたちは続きを待つ。
「しかし誤解しないでいただきたいのですが、僕はなにもそのためにあなたがたをお誘いしたわけではありません。イーノの神に誓って、今みなさんとお話している最中にふと思いだしただけなのです」
そこで青年は深く息を吐き、そして吸った。
わたしはまずイサクを見やり、それからルータを見た。イサクはまるで興味なさげに肩をすくめた。ルータはわたしの目を見返して、小さくうなずいた。わたしもおなじように返した。
「……そういうことでしたら、はい。僕らでよければお聞きします」前を向いてルータが言った。
レノックスはほっとしたように微笑した。そして突然、自分のズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「これを見てください」
そう言って彼がテーブルに置いたのは、ただの石ころだった。おとなの手で握るとすっかり包み込めてしまうくらい小さな、黒っぽい灰色の石。
「これがなにか?」ルータが首をかしげた。
青年は石ころを摘まみ、ひっくり返った亀を助け起こすようにしてそれを裏返した。
「ん……?」イサクが眼鏡をくいと押し上げて、よくよく目を凝らした。
「どういうことですか」わたしは率直にたずねた。
石の表面をとんとんと指先で叩きながら、レノックスが説明する。
「これは〈クレドタイト〉と呼ばれる石です。分類上は、
ルータは石ころを穴が空くほど見つめ、指先で自分の顎をつまんだ。
「僕らの専門からは少し外れますが、その名には馴染みがあります。というかまさに、僕らを支えている
これ
が」と言って彼は靴の「その通りです」青年はうなずく。「クレドタイトは、古来より各地方で建材として重宝されてきました。このタヒナータの街も、この石材によって隅々まで築き上げられていると言っても過言ではありません」
わたしは感心する。なかなかどうして博識な若者だ。あるいは本当に研究職に就いていたことがあるのかもしれない。
「さて、この面をよく見てください」青年は今しがた自分の手で仰向けにした石の
額を寄せ合うようにして、わたしたちはそれを間近に確認した。
「……うん」イサクがつぶやいた。「なってる」
「これはもしかすると、人間が加工した形跡かもしれません」青年は告げた。「これでも専門家の
「それは……」じわりと顔を上げて、ルータが青年を真正面から見据えた。「それはいったい、なにを意味しているのでしょう」
問いかけにこたえることなく、青年は今一度ポケットに手を差し入れた。そして今度は最初のものと少しずつ大きさの異なる石を三つほど、テーブルに並べた。どれもおなじ種類の石だ。そしてどれも、平らに切り出された面を持っている。
「他にもまだいくつかありました。ポケットに入らきらないほど大きいものもありました」真剣な表情でわたしたちを見渡しながら、青年は言った。「つまり、あの神聖不可侵の森の奥深くに、かつて人間の手によって築かれた建物が存在していた可能性があるということです」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)