1 森の守護獣
文字数 6,285文字
その響きを感知した時、わたしは森でいちばん高い樹 のてっぺんに立って、遠くの山並みを睨んでいた。
と言って、べつに山に恨みがあるとか、そこに憎むべき誰かが住んでいるとか、そういうんじゃない。わたしは左腕に新しいページを広げたスケッチブックを抱え、右手に持った木炭鉛筆を宙で寝かせて、それを慎重に連山の稜線に沿わせたところだった。わたしは今まさに、冬の朝陽を浴びる山々の雄姿を、手もとの画用紙のなかに封じ込めようとしていた。
純白の画面の幅 と、鉛筆によって測量される連山の幅とが、わたしの眼 のなかで対比され、重なりあう。
まぶたを薄く閉じたり、大きく開いたりを繰り返しながら、まだなににも染まっていない白紙の上に、描写する対象物の透明の像を、じっくりと転写していく……。
かすかな残響は、両耳の少し外側のあたりをまだ漂っていた。けれど何気なく最初のひと筆を画面に置いたが最後、その後に続いて走りだす線たちが、どうしてもわたしを離してくれなかった。こうなるともう、己の内なる衝動に身を委ねるしかない。まるで獲物を切り刻む狩人の刃さばきのように、わたしの筆は軽やかに白い世界の表 を踊った。
こつん、と音を立てて、わたしの振るう鉛筆の先端が、どんぐりの実を弾いた。
小さくてつやつやとした赤茶色のそれは、ころころと画用紙の上を転がり、やがて遥か眼下の地上へと落ちていった。
わたしはそれでようやく現実に引き戻され、はっとなって頭上を見上げた。
でもそこには、さっぱりとした色味の青空が広がっているばかり。もちろん、実を落とす樹木なんかどこにも見あたらない。雲の上に樹が生えていたらおとぎ話みたいで素敵かもしれないけれど、そんなものは見たことも聞いたこともない。
「まったく」どんぐりを投げてよこした張本人が、わたしの背後でため息をついた。「夢中になると、すぐに周りが見えなくなるんだから。今の、聴こえてなかったの」
「ごめん」わたしは手を止めて、後ろを振り返った。「今、やめようと思ってたところ。イサクは、どこにいたの?」
腕組みをしてわたしの前に進み出てきたイサクは、指先で眼鏡の真ん中をぐっと押し上げて、わたしたちの家がある方角に目を向けた。
「ずっとうちにいた」
「家から飛んできたのね」スケッチブックを閉じて、わたしは言った。「家にいても聴こえたんだ」
彼女はうなずいた。
ちょっとだけ後ろ髪を引かれる思いを抱きながら、わたしは画材を肩掛け鞄のなかにしまった。そして樹の頂から飛び上がり、空中に浮かぶイサクと面と向きあった。
今日も彼女は、いつもどおりの訳 もなく虫の居所が悪そうな表情を浮かべて、唇をへの字に曲げている。髪は、まるでくしゃくしゃに揉みほぐした毛糸玉みたいな、真っ白で短い癖っ毛。縁 の太い眼鏡をかけているけど、そこに嵌 められたレンズに度は入っていない。世界と彼女を隔てる透明のガラスのその向こうには、青く灯る二つの瞳が満月のようにくっきりと浮かんでいる。
北風にはためく彼女のローブは、わたしが身に着けているものとまったくおなじ作りのもの。裾が長くて、たっぷりとしたフードが付いていて、そして、目が覚めるくらいに鮮やかな青の一色に染め上げられている。
けれど、わたしと年齢はおなじでもわたしよりずっと背の低いイサクにとっては、それはローブというより、ほとんど全身を包むマントみたいで、まるで無理におとなになろうとしている子どもみたいに見える。
ぶるっとわずかに身震いすると、イサクは――ほんの13歳か14歳くらいの人間にしか見えない彼女は――憐れな少女のように鼻をすすって、ローブの前側を手繰 り寄せた。
「大丈夫?」
わたしが訊くと、彼女はまた眼鏡の位置を直し、なんてことなさそうに肩をすくめた。
「さて」わたしは四方八方にちらばる碧 く長い髪を両手でまとめ、マフラーのなかに捻 じ込んだ。「この感じだと……西の方かしら」
イサクは黙ってうなずいた。そして軽く咳払いをして、その方角に顔を向けた。
「なんの音だと思う」わたしもおなじ方向を見やって、たずねた。
「森の生き物じゃない」イサクは冷ややかに両目を細めた。「これは、たぶん……」
「カセドラ……かな」わたしは言った。
なんの反応も返さないけれど、彼女もわたしとおなじように考えていることが、肌で感じられた。
「ルータは、なんて?」わたしは彼女の隣に肩を並べた。
「ルータ兄 ぃも、そうじゃないかって言ってる」イサクは言った。「それで、一応わたしたちに見てきてほしいってさ。ルータ兄ぃは、今ちょっと手が離せないから」
「どうして」わたしは首をかしげた。「朝の片付けは済んだし、今日はなんの用事もなかったはずでしょ。……ねぇ、もしかして」
「うん」イサクはその小さな鼻の付け根に、一瞬きゅっと皺を寄せた。「じいちゃんが、少し良くない」
「どうして」わたしは繰り返した。「こないだ買ってきた薬、クレー老師によく効いてたじゃない。なんで今日になって急に……」
「やっぱり店で調達できる薬だと、この程度のものだろうって、ルータ兄ぃが」
「……そっか」
仔鹿みたいにほっそりとしたイサクの肩を、わたしはそっと抱きしめた。彼女はそれを拒まなかった。いつものように。
「それで、今は?」
「ルータ兄ぃが作った咳止めの薬湯が、効いてくれたみたい。それ飲んで、また眠っちゃった」
わたしはいっとき口をつぐみ、深呼吸をした。それから告げた。
「じゃあ早いとこ調べて、うちに帰ろう」
「うん」急に聞き分けのよくなった子どもみたいにこっくりと首を振って、イサクはこたえた。
人間なんてまるで寄りつきもしない深い森の奥地なのだけど、それでもわたしたちはなるべく何者の視界にも入らないよう、密生する樹々 の隙間をかいくぐって飛行した。飛びながら、わたしたちの一族に授けられた神秘の権能――世界はそれを〈顕術 〉と呼ぶ――を巧みに操 って、聴覚の精度をいかんなく拡張した。こうすることで、さっきから不規則な周期で断続的に鳴り続けている耳障りな音が、どれくらい離れた場所で発生しているものなのか、おおよそ精確に推測することができた。
それは、わたしたちが暮らす家のあるこの広大な森の、西端に近いあたりのようだった。
森のなかには、西のホルンフェルス王国と、東のコランダム公国とを隔てる国境線が敷かれている。人間たちが勝手に定めたその架空の線が、いったいどのへんに引かれているのか、わたしはいまだによく知らない。でも今回の物音の発生点は、まず間違いなく西の王国領内にあった。
黙々と相当な距離を飛んで、わたしたちはそこに辿り着いた。
と同時に、しばらく前から大気を揺るがせていた重苦しく不穏な物音は、そこでぴたりと終息した。
というのも、その瞬間、渾身の力で振り下ろされた巨木の幹のごとき大剣が、のたうち回る大型獣の首に突き立てられたから。
断末魔の叫びを上げることすらかなわぬまま、ごぼごぼと湯の沸騰するような音を喉の奥で鳴らすと、とどめを刺された哀れな獣は、力無く大地にひれ伏した。
共に空中で静止し、樹木の陰に身を潜めたわたしたちは、その殺戮の現場をまざまざと目撃した。
「ひどい」
血の気の引いた頬を引きつらせて、イサクが絶句した。悲しみと怒りのあまりぐらりと倒れるその小さな肩を、わたしは両腕で強く抱き留めた。
そして、両手で顔を覆って言葉を失ってしまったイサクのぶんまで、わたしはこの目でしっかりと、一匹の森の守護獣が果てていくさまを見届けた。
それは、古来から〈天秤竜 〉という名で呼ばれてきた巨獣だった。
竜といっても、絵本や漫画に出てくるような、翼を広げて空を飛んだり、口から火を吹いたりするような、そういうものじゃない。身体の構造としては、むしろそのまま巨大化したトカゲといった具合。全身の皮膚は分厚い黄緑色の鱗 に覆われていて、地面に食い込む四本の足の先には、鎌のように鋭利な鉤爪 がずらりと生え揃っている。
しかしなんといっても、いちばん特徴的なのは、その頭部の形だ。
前後にほっそりと弧を描く頭骨の左右両脇から、まるで法螺貝 のようにうねる重厚な角が突き出ている。正面から眺めると、その頭部全体が描きだすシルエットは、たしかに天秤の形状に似ているのだった。頭骨の部分が支柱で、二つの角が量 り皿というわけだ。
元来、知能が高く気性が穏やかで、生涯のすべてを森のなかで静かに送り、木の実や昆虫を食して生きる彼らが、みずから進んで人間に危害を加えるようなことはない。でも、彼らの生活圏が外部からの生物によって無闇な侵入を受けたり、あるいは子や卵に危険が及ぶような事態が持ち上がった場合には、話は違ってくる。
激昂 した時の天秤竜は、普段の悠然とした佇まいから一転して、手のつけられない獰猛な凶獣へと変貌する。
頭に血が昇ると、彼らは二本の後ろ脚だけで立ち上がり、蒸気のように熱くたぎる吐息をまき散らし、その頑強な角でもって、敵性対象を徹底的に圧 し潰す。
だから大昔から、人間たちは――いや、人間たちだけでなく、ほかのどんな種類の生き物だって――彼らをとても畏 れ、そして敬ってきたものだった。一度でも彼らが怒り狂うさまを見聞きした者なら、誰しもその禁忌 だけはなにがあっても犯すまいと誓うものだし、それでありながら、逆鱗に触れさえしなければ、彼らはまさに森の自然と生態系を護る番人そのものだったのだから。
……なのだけど、きっと、こうした畏怖と敬意に根差した竜と人との共生の時代も、もうじき過去のものになってしまうはず。
そう思わせるだけの圧倒的な力が、
「ちくしょう」
噛みしめた歯の隙間からうなり声を洩 らして、イサクが首をもたげた。ゆっくりと顔から両手を引き剥がすと、激怒と憎悪に燃える眼光を、まるでナイフのように深く鋭く巨兵の背中に突き刺した。
〈カセドラ〉。
その躯体の内部に搭乗する人間の意志に従って駆動する、人間にそっくりな姿形 をした、堅牢な鎧に身を包む機械仕掛けの巨大人形。
いったい、この想像を絶する新兵器が地上に現れてから、どれくらいの時が経ったのだろう。
時間を読む感覚が通常の人間たちと大きく異なるわたしたち一族の体感としては、それらは本当に、ほんのちょっと前に突然どこかからぽっと出てきたみたいに感じられる。でもおそらく、実用化が本格的に始まってから、すでに少なくとも2年か3年くらいは経過しているんじゃないかと思う。
そのたった数年のあいだに、世界の様相は激変してしまった。
大陸全土の各国間の軍事的、ひいては政治的な勢力の均衡にも甚大な影響が及んだし、自然や動物と人間たちとの関係性だって、こんなふうにどんどん崩れてきている。
なにしろ、人間たちは今や、立ち上がった時の天秤竜でさえ、たやすく屠 ることができるようになってしまったのだ……。
びゅん、と風を裂く音を轟かせて、いかにも誇らしげに剣が宙で打ち振られた。その拍子に、剣身にこびりついていた竜の鮮血が、三日月のような形を描いて地面にぱっと滴 り落ちた。
後ろ脚で立った時の天秤竜の背丈は、驚くほど高い。森のなかでしか見たことがないから正しい比較かどうか自信はないけど、たぶん普通の二階建ての家屋の屋根の高さに匹敵するくらいは、優にあるはず。
でも、カセドラは、それよりもっと大きい。
今わたしたちの目の前に立つ、派手派手しい桃色の鎧を身にまとうこの躯体、ホルンフェルス王国軍の主力量産型巨兵〈アルマンド〉は、聞くところによると、たしかその全高は12エルテムにも達するという。
これほどの巨躯でありながら、生身の人間とおなじように精妙な挙動が可能なのだから、もはやどんな屈強な獣だって敵うはずがない。ただ巨大で頑強なだけでなく、人間の意のままに動くこの兵器には、道具や武器を扱う技術も、戦略的に目的を遂行するための知恵も、人間のものがそっくりそのまま備わってしまうのだ。そう、これは言うなれば、肉体を拡大進化させた人間の兵士そのものに等しい。
「目標、完全に沈黙しました」
近くの藪 のなかに待機していた人間の兵士たちが何人か駆け出してきて、その内の一人が、どろりと淀んだ竜の眼球をのぞき込んで声を上げた。
兵士たちはみな青紫色の野戦服を身につけ、アルマンドがかぶっているのとそっくりな、丸みを帯びた金属の兜で頭部を守護している。頭頂部からは馬の尾のような赤い毛飾りが垂れさがっていて、それが木漏れ日を受けて腹立たしいほど得意げに輝いている。
それぞれが手にする銃剣の先で竜の亡骸 を突っつきながら、十名足らずの男たちは一様に安堵の笑みを交わしあい、意気揚々と巨兵の胸もとを仰いだ。
きしきしと金属の軋む音が響く。どうやら、カセドラの胸部に位置する操縦席の扉が開かれたようだ。そして、その巨躯を操っていた搭乗者が、顔をのぞかせでもしたのだろう。地上にいる兵士たちは一斉に口笛や歓声を発して、その武勲を称えた。
わたしたちは巨兵の背後に隠れていてよかったと思う。もし、あれを操縦していた者の姿を肉眼で捉えていたら、その拍子に、その人間の身になにかしらの報復を与えていたかもしれなかったから。
「偉いよ、イサク」わたしは彼女の耳もとでささやいた。
イサクはなにも言わない。ただ肩をぶるぶると震わせ、血走った双眸 をぎらつかせて、みずからの内から迸 り出ようとしている暴流を、必死に押し留めている。わたしは彼女の背中をそっと上下に撫でる。彼女はそれに合わせて呼吸を落ち着かせながら、少しずつ力を抜いていった。
そして巨兵の背に焦点を定めたまま、ぽつりと言った。
「……リディアだって、偉い」
わたしは手を止めて、イサクの目を間近に見つめた。ふいに首を曲げて、彼女もわたしを見つめ返した。
「リディアだって、ほんとはやっちゃいたいでしょ。あの屑 どもを、一人残らず」
「まあね」すんなりとわたしは認めた。「……もう行こう。ルータが心配してるかもしれない」
「うん」うつむくようにうなずいて、イサクはこたえた。
その場を去る前に、最後にもう一度だけ、わたしは血にまみれる竜の姿を見やった。だくだくと溢 れ流れる赤黒い体液が、頬の斜面や顎 を伝って、音もなく森の大地に浸み込んでいった。
この森の地面は、人が歩く足場としては剣呑 極まりないものだ。複雑に絡みあいながら一面を這いまわる樹々の根のおかげで、平坦な場所などどこにもない。捕らえた大型の獲物を処理するために運搬するのだって、本来なら一苦労、どころか十苦労、百苦労をも要する作業であったはずだ。けれど、それだって今の人類にとっては、さしたる労のうちに入らないのだろう。だって彼らは今、地上で最も強大な腕力を手にしているのだから。
「大いなるイーノの神さま。どうかあの哀れな竜の魂をお救いください」
わたしと手を繋いで一緒に空を飛びながら、イサクが密 やかに唱えた。その眼鏡の奥には、うっすらと滲 む光の粒がかいま見えた。
繋ぐ手にいっそう力を込めて、わたしは胸いっぱいのため息を一気に呑み込んだ。
そして、なすすべもなく空を見上げた。
非情なほどに澄み切った果てのない青が、そこになんの表情もなく広がっていた。まるで、地上の営みの無常さを映す鏡のように。
顕世暦 1747年、メヴォの月の初め頃のことだった。この後ほどなくして、わたしたちは長く暮らした森の家を出ることになった。
と言って、べつに山に恨みがあるとか、そこに憎むべき誰かが住んでいるとか、そういうんじゃない。わたしは左腕に新しいページを広げたスケッチブックを抱え、右手に持った木炭鉛筆を宙で寝かせて、それを慎重に連山の稜線に沿わせたところだった。わたしは今まさに、冬の朝陽を浴びる山々の雄姿を、手もとの画用紙のなかに封じ込めようとしていた。
純白の画面の
まぶたを薄く閉じたり、大きく開いたりを繰り返しながら、まだなににも染まっていない白紙の上に、描写する対象物の透明の像を、じっくりと転写していく……。
かすかな残響は、両耳の少し外側のあたりをまだ漂っていた。けれど何気なく最初のひと筆を画面に置いたが最後、その後に続いて走りだす線たちが、どうしてもわたしを離してくれなかった。こうなるともう、己の内なる衝動に身を委ねるしかない。まるで獲物を切り刻む狩人の刃さばきのように、わたしの筆は軽やかに白い世界の
こつん、と音を立てて、わたしの振るう鉛筆の先端が、どんぐりの実を弾いた。
小さくてつやつやとした赤茶色のそれは、ころころと画用紙の上を転がり、やがて遥か眼下の地上へと落ちていった。
わたしはそれでようやく現実に引き戻され、はっとなって頭上を見上げた。
でもそこには、さっぱりとした色味の青空が広がっているばかり。もちろん、実を落とす樹木なんかどこにも見あたらない。雲の上に樹が生えていたらおとぎ話みたいで素敵かもしれないけれど、そんなものは見たことも聞いたこともない。
「まったく」どんぐりを投げてよこした張本人が、わたしの背後でため息をついた。「夢中になると、すぐに周りが見えなくなるんだから。今の、聴こえてなかったの」
「ごめん」わたしは手を止めて、後ろを振り返った。「今、やめようと思ってたところ。イサクは、どこにいたの?」
腕組みをしてわたしの前に進み出てきたイサクは、指先で眼鏡の真ん中をぐっと押し上げて、わたしたちの家がある方角に目を向けた。
「ずっとうちにいた」
「家から飛んできたのね」スケッチブックを閉じて、わたしは言った。「家にいても聴こえたんだ」
彼女はうなずいた。
ちょっとだけ後ろ髪を引かれる思いを抱きながら、わたしは画材を肩掛け鞄のなかにしまった。そして樹の頂から飛び上がり、空中に浮かぶイサクと面と向きあった。
今日も彼女は、いつもどおりの
北風にはためく彼女のローブは、わたしが身に着けているものとまったくおなじ作りのもの。裾が長くて、たっぷりとしたフードが付いていて、そして、目が覚めるくらいに鮮やかな青の一色に染め上げられている。
けれど、わたしと年齢はおなじでもわたしよりずっと背の低いイサクにとっては、それはローブというより、ほとんど全身を包むマントみたいで、まるで無理におとなになろうとしている子どもみたいに見える。
ぶるっとわずかに身震いすると、イサクは――ほんの13歳か14歳くらいの人間にしか見えない彼女は――憐れな少女のように鼻をすすって、ローブの前側を
「大丈夫?」
わたしが訊くと、彼女はまた眼鏡の位置を直し、なんてことなさそうに肩をすくめた。
「さて」わたしは四方八方にちらばる
イサクは黙ってうなずいた。そして軽く咳払いをして、その方角に顔を向けた。
「なんの音だと思う」わたしもおなじ方向を見やって、たずねた。
「森の生き物じゃない」イサクは冷ややかに両目を細めた。「これは、たぶん……」
「カセドラ……かな」わたしは言った。
なんの反応も返さないけれど、彼女もわたしとおなじように考えていることが、肌で感じられた。
「ルータは、なんて?」わたしは彼女の隣に肩を並べた。
「ルータ
「どうして」わたしは首をかしげた。「朝の片付けは済んだし、今日はなんの用事もなかったはずでしょ。……ねぇ、もしかして」
「うん」イサクはその小さな鼻の付け根に、一瞬きゅっと皺を寄せた。「じいちゃんが、少し良くない」
「どうして」わたしは繰り返した。「こないだ買ってきた薬、クレー老師によく効いてたじゃない。なんで今日になって急に……」
「やっぱり店で調達できる薬だと、この程度のものだろうって、ルータ兄ぃが」
「……そっか」
仔鹿みたいにほっそりとしたイサクの肩を、わたしはそっと抱きしめた。彼女はそれを拒まなかった。いつものように。
「それで、今は?」
「ルータ兄ぃが作った咳止めの薬湯が、効いてくれたみたい。それ飲んで、また眠っちゃった」
わたしはいっとき口をつぐみ、深呼吸をした。それから告げた。
「じゃあ早いとこ調べて、うちに帰ろう」
「うん」急に聞き分けのよくなった子どもみたいにこっくりと首を振って、イサクはこたえた。
人間なんてまるで寄りつきもしない深い森の奥地なのだけど、それでもわたしたちはなるべく何者の視界にも入らないよう、密生する
それは、わたしたちが暮らす家のあるこの広大な森の、西端に近いあたりのようだった。
森のなかには、西のホルンフェルス王国と、東のコランダム公国とを隔てる国境線が敷かれている。人間たちが勝手に定めたその架空の線が、いったいどのへんに引かれているのか、わたしはいまだによく知らない。でも今回の物音の発生点は、まず間違いなく西の王国領内にあった。
黙々と相当な距離を飛んで、わたしたちはそこに辿り着いた。
と同時に、しばらく前から大気を揺るがせていた重苦しく不穏な物音は、そこでぴたりと終息した。
というのも、その瞬間、渾身の力で振り下ろされた巨木の幹のごとき大剣が、のたうち回る大型獣の首に突き立てられたから。
断末魔の叫びを上げることすらかなわぬまま、ごぼごぼと湯の沸騰するような音を喉の奥で鳴らすと、とどめを刺された哀れな獣は、力無く大地にひれ伏した。
共に空中で静止し、樹木の陰に身を潜めたわたしたちは、その殺戮の現場をまざまざと目撃した。
「ひどい」
血の気の引いた頬を引きつらせて、イサクが絶句した。悲しみと怒りのあまりぐらりと倒れるその小さな肩を、わたしは両腕で強く抱き留めた。
そして、両手で顔を覆って言葉を失ってしまったイサクのぶんまで、わたしはこの目でしっかりと、一匹の森の守護獣が果てていくさまを見届けた。
それは、古来から〈
竜といっても、絵本や漫画に出てくるような、翼を広げて空を飛んだり、口から火を吹いたりするような、そういうものじゃない。身体の構造としては、むしろそのまま巨大化したトカゲといった具合。全身の皮膚は分厚い黄緑色の
しかしなんといっても、いちばん特徴的なのは、その頭部の形だ。
前後にほっそりと弧を描く頭骨の左右両脇から、まるで
元来、知能が高く気性が穏やかで、生涯のすべてを森のなかで静かに送り、木の実や昆虫を食して生きる彼らが、みずから進んで人間に危害を加えるようなことはない。でも、彼らの生活圏が外部からの生物によって無闇な侵入を受けたり、あるいは子や卵に危険が及ぶような事態が持ち上がった場合には、話は違ってくる。
頭に血が昇ると、彼らは二本の後ろ脚だけで立ち上がり、蒸気のように熱くたぎる吐息をまき散らし、その頑強な角でもって、敵性対象を徹底的に
だから大昔から、人間たちは――いや、人間たちだけでなく、ほかのどんな種類の生き物だって――彼らをとても
……なのだけど、きっと、こうした畏怖と敬意に根差した竜と人との共生の時代も、もうじき過去のものになってしまうはず。
そう思わせるだけの圧倒的な力が、
あの兵器
にはある。「ちくしょう」
噛みしめた歯の隙間からうなり声を
〈カセドラ〉。
その躯体の内部に搭乗する人間の意志に従って駆動する、人間にそっくりな
いったい、この想像を絶する新兵器が地上に現れてから、どれくらいの時が経ったのだろう。
時間を読む感覚が通常の人間たちと大きく異なるわたしたち一族の体感としては、それらは本当に、ほんのちょっと前に突然どこかからぽっと出てきたみたいに感じられる。でもおそらく、実用化が本格的に始まってから、すでに少なくとも2年か3年くらいは経過しているんじゃないかと思う。
そのたった数年のあいだに、世界の様相は激変してしまった。
大陸全土の各国間の軍事的、ひいては政治的な勢力の均衡にも甚大な影響が及んだし、自然や動物と人間たちとの関係性だって、こんなふうにどんどん崩れてきている。
なにしろ、人間たちは今や、立ち上がった時の天秤竜でさえ、たやすく
びゅん、と風を裂く音を轟かせて、いかにも誇らしげに剣が宙で打ち振られた。その拍子に、剣身にこびりついていた竜の鮮血が、三日月のような形を描いて地面にぱっと
後ろ脚で立った時の天秤竜の背丈は、驚くほど高い。森のなかでしか見たことがないから正しい比較かどうか自信はないけど、たぶん普通の二階建ての家屋の屋根の高さに匹敵するくらいは、優にあるはず。
でも、カセドラは、それよりもっと大きい。
今わたしたちの目の前に立つ、派手派手しい桃色の鎧を身にまとうこの躯体、ホルンフェルス王国軍の主力量産型巨兵〈アルマンド〉は、聞くところによると、たしかその全高は12エルテムにも達するという。
これほどの巨躯でありながら、生身の人間とおなじように精妙な挙動が可能なのだから、もはやどんな屈強な獣だって敵うはずがない。ただ巨大で頑強なだけでなく、人間の意のままに動くこの兵器には、道具や武器を扱う技術も、戦略的に目的を遂行するための知恵も、人間のものがそっくりそのまま備わってしまうのだ。そう、これは言うなれば、肉体を拡大進化させた人間の兵士そのものに等しい。
「目標、完全に沈黙しました」
近くの
兵士たちはみな青紫色の野戦服を身につけ、アルマンドがかぶっているのとそっくりな、丸みを帯びた金属の兜で頭部を守護している。頭頂部からは馬の尾のような赤い毛飾りが垂れさがっていて、それが木漏れ日を受けて腹立たしいほど得意げに輝いている。
それぞれが手にする銃剣の先で竜の
きしきしと金属の軋む音が響く。どうやら、カセドラの胸部に位置する操縦席の扉が開かれたようだ。そして、その巨躯を操っていた搭乗者が、顔をのぞかせでもしたのだろう。地上にいる兵士たちは一斉に口笛や歓声を発して、その武勲を称えた。
わたしたちは巨兵の背後に隠れていてよかったと思う。もし、あれを操縦していた者の姿を肉眼で捉えていたら、その拍子に、その人間の身になにかしらの報復を与えていたかもしれなかったから。
「偉いよ、イサク」わたしは彼女の耳もとでささやいた。
イサクはなにも言わない。ただ肩をぶるぶると震わせ、血走った
そして巨兵の背に焦点を定めたまま、ぽつりと言った。
「……リディアだって、偉い」
わたしは手を止めて、イサクの目を間近に見つめた。ふいに首を曲げて、彼女もわたしを見つめ返した。
「リディアだって、ほんとはやっちゃいたいでしょ。あの
「まあね」すんなりとわたしは認めた。「……もう行こう。ルータが心配してるかもしれない」
「うん」うつむくようにうなずいて、イサクはこたえた。
その場を去る前に、最後にもう一度だけ、わたしは血にまみれる竜の姿を見やった。だくだくと
この森の地面は、人が歩く足場としては
「大いなるイーノの神さま。どうかあの哀れな竜の魂をお救いください」
わたしと手を繋いで一緒に空を飛びながら、イサクが
繋ぐ手にいっそう力を込めて、わたしは胸いっぱいのため息を一気に呑み込んだ。
そして、なすすべもなく空を見上げた。
非情なほどに澄み切った果てのない青が、そこになんの表情もなく広がっていた。まるで、地上の営みの無常さを映す鏡のように。
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