10 あなたがいてくれたら
文字数 3,017文字
わたしも女性のなかでは身長がある方だけど、彼女はそのわたしが見あげる格好になるほど背が高かった。それに間違いなく、全身隈 なくよく鍛えてある。首も胸も腕も脚も、目を見張るほどがっしりしている。
顔立ちはオオカミのように引き締まって面長で、やや突出した頬骨 が翡翠 色の瞳のすぐ下で控えめな傾斜を作っている。鼻筋はすっきりと通り、唇はやや薄く横に長い。格子柄 のガウンを羽織っていて、ほとんど赤に近い燃えるような金髪を束ねて胸の前に下ろしてある。年齢は、見る角度によって30ちょうどにも40ちょうどにも見える。
ルータの手をつかんで離さないまま、彼女は半歩前へ踏み出した。
途端に雨粒が前から左右から飛びかかってきたけれど、彼女はまるでそんなことには関心がないみたいだった。
「あ、あの……」
手を握られた状態のまま、ルータが声を発した。
しっと短く息を吐いて、女性は空いている方の手の人差し指を自身の唇にあてがった。
「静かにしろと言ったろ。ただでさえ風と雷に怯えてるっていうのに、これ以上うちの猫たちの神経を逆撫 でしてやるんじゃないよ」
「ごめんなさい」
消え入るような声でルータが応じると、そこでやっと彼の手は解放された。よほど痛かったのか、彼は赤らんだ拳をほどいでぷらぷらと宙で振った。
女性は後ろ手に扉を閉めた。まったく音がしなかった。開いた時とおなじように。きっとなにか
「あの、僕たちは――」
ルータが天を仰ぐように面 を振り上げて、いよいよ口火を切った。
と同時に、彼の演技じみた口調を叩き落すかのように、女性が強くかぶりを振った。翻 った黄金の赤毛が、わたしたちの眼前で鋭く舞った。
ふいに彼女は腰を曲げ、額をぐっと前に突き出した。そして両目を細めて老師の顔をのぞき込むと、恐ろしく低い声で言った。
「死んじまうよ、その人。湯を焚いてやるから、なかに入んな」
そのあまりにも思いがけない救いの言葉は、あまりにも眩しくわたしたちの頭上に降り注いだので、にわかには言葉の意味が理解できないほどだった。
「……よろしいの、でしょうか」わたしは息を詰まらせた。
女性はほんの少し表情を緩めた。そして踵 を返して、礼拝堂の扉に手をかけた。
「――モニク?」
音もなく扉が開きかけたその時、また別の人間の声がした。
雨と風と樹々のざわめきがやかましくて、そしてわたしたち全員心身が疲弊しきっていたので、それが扉の内側から聴こえてきたものだったのか、それとも外側からのものだったのかさえ、すぐには判然としなかった。
モニクと呼ばれた大柄の女性は、再びこちらに向き直って、わたしたちの背後に少し離れて立っていた一人の少女に目をやった。
「まだ起きてたの、ハスキル」モニクは呆れたように言って、今度は大きく一歩踏み出した。「だめじゃない、出てきちゃ。不用心にも程があるよ」
「ごめん」少女は傘の持ち手を握り直して言った。「でもあなたがいてくれたら平気でしょ。それに、なんだかお困りのように見えたものだから。わたし、二階の窓から見ていたの」
わたしたちは一斉に振り返って、そのハスキルと呼ばれた少女に視線を注いだ。
とても小柄な少女だった。一見するとまだ初等学校に通っていそうな年頃にも見受けられるけど、その機知を宿したまなざしと落ち着いた声音は、幼い者のそれではなかった。たぶん、13か14といったところだろう。髪は鞠 のように丸く短く整えられていて、金と銀をおなじ分量だけ混ぜ合わせたような色味をしている。顔じゅうを覆うほど大きな丸眼鏡が、さくらんぼみたいに小さな鼻の上にちょこんと乗っかっている。レンズの奥に輝く瞳は、透き通るような琥珀色。
ざぶ、ざぶ、と雨靴を鳴らしてこちらへ近づくと、少女は傘と雨合羽 に包まれるその身をわたしのすぐ隣まで運んできた。
「大変。みなさん、ずぶ濡れじゃない。ねぇモニク、このかたたちは……」
「さてね」モニクはうんざりした様子で肩をすくめた。「ただの通りすがりの、訳 ありの人らでしょうよ」
「訳あり……」少女は首をかしげて、わたしたち一行の様子をまじまじと眺めた。そしてなにかに目を留めて、はっと息を呑んだ。「まぁ!」
少女はルータの背中にうずくまる老師のもとへ駆け寄った。
わたしは黙りこくったまま、冷静に彼女の挙動に見入っていた。
こんな酷い雨の降る夜にいきなり訪ねてきた得体の知れない集団を、彼女はまったく恐れたり警戒したりしていない様子だ。よっぽど肝が据わっているのか、あるいはとびきり能天気な性格なのか……。
でも、彼女はそのどちらでもなかった。
「だから、不用意に知らない人に近づいちゃだめだって」
たしなめながら、モニクがルータとハスキルのあいだに割って入った。
その一瞬に、わたしたちはぞくりと震え上がった。
見たところ、モニクは丸腰だ。武器を隠し持っている気配はない。
それなのに、いったいどうしたことだろう。
この、尋常ではない殺気と威圧感は。
たとえこの至近距離から顕術で攻撃を仕掛けたとしても、おそらくそれと同時にわたしたちのうちの誰かの首が、瞬時にへし折られてしまうことだろう。そういったおぞましい直感が、わたしたち三人のあいだに電流のように駆け巡った。
ハスキルは、ただ信頼しきっているだけなのだ。
本物の暴力の現場を幾度も潜り抜けてきたにちがいない、この大きな女性のことを。
「すぐに温めなくては!」
ハスキルが傘をルータと老師の頭上に差し出して叫んだ。自分の頭や顔が濡れるのも厭 わずに。
「だから、今からあたしが湯を……」モニクがすかさず手を伸ばして、ハスキルの雨合羽のフードを彼女の頭にかぶせてやった。
「ちょうど、浴槽に水を張ってあるわ」ハスキルが言う。「明日、雨が上がったらおばあちゃんを入れてあげようと思っていたの。薪 も用意してある。モニク、すまないけど、大急ぎで焚いてくれるかしら」
「だからぁ」嘆息しながらモニクはさっと屈み込み、ルータの背から老師の体をむしり取った。「最初からそうするつもりだって言ってるんだよ」
仔猫でも拾うように軽々と担ぎ上げられた祖父の姿を呆然と見あげて、ルータはなにか言葉を発しようとした。でもその前に、モニクが彼を見おろしてきっぱりと告げた。
「心配するな。さぁ行くよ」
「あの家です」ハスキルが例の二階建ての民家を指差した。「みなさん、ついていらして」
「あの!」みんなでそちらへ向かって駆け出す前に、わたしは弾かれるように少女の前へ進み出た。「あの……本当に、ありがとう」
少女は一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、それから健気 にも、きっとわたしたちを勇気づけるために、眼鏡がほっぺたで持ち上がるくらい大きな笑顔を見せてくれた。
「いいんです。ほら、急ぎましょう。おじいさまも、あなたたちも、これ以上お体を冷やしてはいけません」
老師を抱えたモニクが大股で先頭を突き進み、その後ろにルータと、彼の持つ傘の下にハスキルが、そして最後尾に荷車を引くわたしとイサクが続いて、一行はまっしぐらに少女の家へと向かった。
家が近づくにつれて、わたしは自分の気力が体の外へするすると抜け出ていくのを感じた。ほんの三秒まぶたを閉じたら、そのまま眠ってしまいそうだった。
ふと隣を見やると、イサクは眼鏡を外して濡れた顔を何度も服の袖で拭っていた。彼女の両目は、かすかに赤くなっていた。
顔立ちはオオカミのように引き締まって面長で、やや突出した
ルータの手をつかんで離さないまま、彼女は半歩前へ踏み出した。
途端に雨粒が前から左右から飛びかかってきたけれど、彼女はまるでそんなことには関心がないみたいだった。
「あ、あの……」
手を握られた状態のまま、ルータが声を発した。
しっと短く息を吐いて、女性は空いている方の手の人差し指を自身の唇にあてがった。
「静かにしろと言ったろ。ただでさえ風と雷に怯えてるっていうのに、これ以上うちの猫たちの神経を
「ごめんなさい」
消え入るような声でルータが応じると、そこでやっと彼の手は解放された。よほど痛かったのか、彼は赤らんだ拳をほどいでぷらぷらと宙で振った。
女性は後ろ手に扉を閉めた。まったく音がしなかった。開いた時とおなじように。きっとなにか
こつ
があるんだろう。「あの、僕たちは――」
ルータが天を仰ぐように
と同時に、彼の演技じみた口調を叩き落すかのように、女性が強くかぶりを振った。
ふいに彼女は腰を曲げ、額をぐっと前に突き出した。そして両目を細めて老師の顔をのぞき込むと、恐ろしく低い声で言った。
「死んじまうよ、その人。湯を焚いてやるから、なかに入んな」
そのあまりにも思いがけない救いの言葉は、あまりにも眩しくわたしたちの頭上に降り注いだので、にわかには言葉の意味が理解できないほどだった。
「……よろしいの、でしょうか」わたしは息を詰まらせた。
女性はほんの少し表情を緩めた。そして
「――モニク?」
音もなく扉が開きかけたその時、また別の人間の声がした。
雨と風と樹々のざわめきがやかましくて、そしてわたしたち全員心身が疲弊しきっていたので、それが扉の内側から聴こえてきたものだったのか、それとも外側からのものだったのかさえ、すぐには判然としなかった。
モニクと呼ばれた大柄の女性は、再びこちらに向き直って、わたしたちの背後に少し離れて立っていた一人の少女に目をやった。
「まだ起きてたの、ハスキル」モニクは呆れたように言って、今度は大きく一歩踏み出した。「だめじゃない、出てきちゃ。不用心にも程があるよ」
「ごめん」少女は傘の持ち手を握り直して言った。「でもあなたがいてくれたら平気でしょ。それに、なんだかお困りのように見えたものだから。わたし、二階の窓から見ていたの」
わたしたちは一斉に振り返って、そのハスキルと呼ばれた少女に視線を注いだ。
とても小柄な少女だった。一見するとまだ初等学校に通っていそうな年頃にも見受けられるけど、その機知を宿したまなざしと落ち着いた声音は、幼い者のそれではなかった。たぶん、13か14といったところだろう。髪は
ざぶ、ざぶ、と雨靴を鳴らしてこちらへ近づくと、少女は傘と
「大変。みなさん、ずぶ濡れじゃない。ねぇモニク、このかたたちは……」
「さてね」モニクはうんざりした様子で肩をすくめた。「ただの通りすがりの、
「訳あり……」少女は首をかしげて、わたしたち一行の様子をまじまじと眺めた。そしてなにかに目を留めて、はっと息を呑んだ。「まぁ!」
少女はルータの背中にうずくまる老師のもとへ駆け寄った。
わたしは黙りこくったまま、冷静に彼女の挙動に見入っていた。
こんな酷い雨の降る夜にいきなり訪ねてきた得体の知れない集団を、彼女はまったく恐れたり警戒したりしていない様子だ。よっぽど肝が据わっているのか、あるいはとびきり能天気な性格なのか……。
でも、彼女はそのどちらでもなかった。
「だから、不用意に知らない人に近づいちゃだめだって」
たしなめながら、モニクがルータとハスキルのあいだに割って入った。
その一瞬に、わたしたちはぞくりと震え上がった。
見たところ、モニクは丸腰だ。武器を隠し持っている気配はない。
それなのに、いったいどうしたことだろう。
この、尋常ではない殺気と威圧感は。
たとえこの至近距離から顕術で攻撃を仕掛けたとしても、おそらくそれと同時にわたしたちのうちの誰かの首が、瞬時にへし折られてしまうことだろう。そういったおぞましい直感が、わたしたち三人のあいだに電流のように駆け巡った。
ハスキルは、ただ信頼しきっているだけなのだ。
本物の暴力の現場を幾度も潜り抜けてきたにちがいない、この大きな女性のことを。
「すぐに温めなくては!」
ハスキルが傘をルータと老師の頭上に差し出して叫んだ。自分の頭や顔が濡れるのも
「だから、今からあたしが湯を……」モニクがすかさず手を伸ばして、ハスキルの雨合羽のフードを彼女の頭にかぶせてやった。
「ちょうど、浴槽に水を張ってあるわ」ハスキルが言う。「明日、雨が上がったらおばあちゃんを入れてあげようと思っていたの。
「だからぁ」嘆息しながらモニクはさっと屈み込み、ルータの背から老師の体をむしり取った。「最初からそうするつもりだって言ってるんだよ」
仔猫でも拾うように軽々と担ぎ上げられた祖父の姿を呆然と見あげて、ルータはなにか言葉を発しようとした。でもその前に、モニクが彼を見おろしてきっぱりと告げた。
「心配するな。さぁ行くよ」
「あの家です」ハスキルが例の二階建ての民家を指差した。「みなさん、ついていらして」
「あの!」みんなでそちらへ向かって駆け出す前に、わたしは弾かれるように少女の前へ進み出た。「あの……本当に、ありがとう」
少女は一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、それから
「いいんです。ほら、急ぎましょう。おじいさまも、あなたたちも、これ以上お体を冷やしてはいけません」
老師を抱えたモニクが大股で先頭を突き進み、その後ろにルータと、彼の持つ傘の下にハスキルが、そして最後尾に荷車を引くわたしとイサクが続いて、一行はまっしぐらに少女の家へと向かった。
家が近づくにつれて、わたしは自分の気力が体の外へするすると抜け出ていくのを感じた。ほんの三秒まぶたを閉じたら、そのまま眠ってしまいそうだった。
ふと隣を見やると、イサクは眼鏡を外して濡れた顔を何度も服の袖で拭っていた。彼女の両目は、かすかに赤くなっていた。
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