3 風を感じる絵

文字数 5,910文字

 絵はその日の夕方にはいったん完成したけれど、老師に見てもらったのは翌日の朝のことだった。
 (かゆ)と薬を口にする時以外、彼はずっと目を閉ざしたまま過ごした。少し熱が出て、断片的な眠りに落ちるたびに、望むものではない夢に襲われているようだった。何度か独り言のような寝言を発したものの、それはまったく言語の形を成していなかった。
 わたしたち三人は全員で看病に当たり、交代で眠ったり休んだりした。
 わたしはほとんど自室には戻らなかった。一度だけ、水彩画の道具を取りに上がっただけ。素描が思ったよりも早く仕上がったので、それに色を着けることにしたのだ。
 老師の姿を常に視界の内に収めながら、わたしは手の空いた時間のすべてを使って、居間のテーブルで着彩に取り組んだ。
 水彩を扱うのは久しぶりだった。たぶん、一年ぶりくらい。実を言うと、せっかちに筆を重ねる癖のあるわたしにとって、あまり得意な画材ではない。それでもなぜだか、今回はどうしてもこれで描いてみたくなった。
 水で溶くと半透明になる水彩絵具は、ただ闇雲に色を重ねていけばいいというものではなくて、きちんと完成図から逆算して筆を運ばないと、容易(たやす)く色が濁って目も当てられなくなってしまう。水彩においては、白を塗れば白くなるということはない。塗らないことで――つまり画用紙の元々の白さを残すことで――最上の白は表現される。
 心を鎮めて没頭すると、自然に手の動きはゆっくりになり、呼吸は深く静かになり、時間は穏やかに、しかし飛ぶように流れてゆく。この夜のわたしは、そういった状態をこそ求めていた。あまり、あれこれ考えずにすむから。
 空気中の(ちり)や水分の濃度によって、手前の山より奥の山の方が若干、色が薄くなる。
 森は意外と緑色をしていなくて、どちらかと言うと黒や灰色に近い。
 青空はあまり鮮やかに塗り込めないのがこつだ。
 雲は光の当たっている明るい面より、むしろ影を大胆に描き込むことで、しっかりとした立体感が出る。さらにその影のなかに、うっすらと空の反射光――この景色の場合は淡い水色や紫――を加えてやれば、ぐっと本物らしさが増して…………


「よく描けているね」
 わたしのすぐそばで老師が言った。いつのまにかテーブルに突っ伏して眠っていたわたしは、驚いて顔を振り上げた。
 ベッドを定位置とするようになる以前によく腰かけていた揺り椅子に、老師はゆったりと身を預けていた。いくらか頬の血色も良くなり、肌着や寝巻も新しいものと交換されている。両手はやんわりと握りあわされて、テーブルの上に置かれている。部屋じゅうが、真っ白な朝陽に満ち満ちている。
 一瞬で眠気の吹き飛んだわたしは、反射的に席を立とうとした。
「いいから」老師の大きな手が一振りされた。「座っていなさい。今、コーヒーができたところだよ。それより、絵をもっとよく見せてくれないか」
 わたしはまだ少し呆然としたまま、描き上げてあった絵を老師に手渡した。老師は両目をぱっちり開いて、遥かな彼方に広がる山並みを一望した。
 その背後で三日ぶりに祖父の髪を編んでいたイサクも、彼の肩越しに山々を眺めた。
「なんか、風を感じる絵」ぽつりとイサクが言った。
「明け方、急に熱が下がってね」盆に載せたコーヒーカップやポットを運んできてくれたルータが言った。「咳も治まって気分も良くなったから、その隙に湯浴みをしたんだよ」
「そうだったの」わたしは思わず椅子にへたりこんでしまった。「ちっとも気づかなかったわ。起こしてくれたらよかったのに」
「すごくよく寝てたんだもん」イサクが言った。それから表情をゆるめて、祖父に語りかけた。「ねぇじいちゃん、さっぱりしたね」
「うん、とても」絵から目を離さないまま、老師はうなずいた。「生まれ変わったような気分だよ」
 全員のカップに淹れたてのコーヒーを注ぐと、ルータもまた妹の隣に立って絵の鑑賞に加わった。彼が両手を腰に当てていかにも真剣な面持ちで見入るので、わたしはなんだか気恥ずかしくなってきた。
「もう、みんなしてそんなにじっと見ないでよ」たまらずわたしは言った。
「いやいや、これはほんとに素敵な作品だよ」ルータが愉快そうに言った。「今度、これに合う額縁を買ってこよう」
「私もそれを言おうと思っていたんだ」老師が声を弾ませた。「私のベッドの横に飾らせておくれ。そうしたら、いつでも空を飛ぶ気持ちを取り戻せるからね」
 まったく無邪気に老師はそう言われたけれど、その言葉は二人の孫とわたしの胸を静かに刺した。
「……そうだね」去来するいろんな想いを呑み込んで、ルータが微笑を浮かべた。「立派な額を、見繕(みつくろ)わなきゃな」
 イサクが横目で兄を一瞥(いちべつ)した。「ルータ兄ぃって、画材屋さんに行ったことあるの」
「そりゃ何度かあるよ」カップを口に当てたまま彼はうなずいた。「あれ、でも、そういえば額ってどうやって買うの?」
 彼はわたしに訊いているのだった。わたしはコーヒーにミルクを入れてかき混ぜながらこたえる。
「決まった規格の既製品が、何種類も売られてはいるわ。だけど作品を持ち込んで頼んだら、どんな形にでも仕上げてくれるよ。……そうだ、なら今度わたしも一緒に行くわ。タヒナータの街に、なかなか良い画材屋さんがあるんだ」
「面白そう。あたしも行きたい」イサクが幼い少女のような口ぶりで――実際に身体の作りは少女同然なのだけど――つぶやいた。
「三人で行っておいで」クレー老師がにこにこしながら言った。
「えー。そういうわけにはいかないよ」髪を編む手は止めないまま、イサクが唇を尖らせた。
「じゃあ僕が残るから、きみたち二人で行っといで」ルータが苦笑する。
「それでもいいけど、たまにはあなたたち兄妹二人、水入らずで出かけるのもいいんじゃない」わたしが提案した。
「あぁもう。それなら、とっととじいちゃんが元気になって、四人全員で出かけたらいいんだ」
 まどろっこしそうにイサクが声を上げると、わたしたちは顔を見あわせて笑った。
「そうだね。それがいちばんいいね」わたしは大きくうなずいた。
 そこでちょうど老師の髪が仕上がったようだった。
「さて。できたよ、じいちゃん」イサクが誇らしげに告げた。
 久しぶりに清められ、(くし)を入れられ、丁寧に編み上げられた純白の髪は、ため息が出るほど美しかった。まるで、乙女の前にだけ姿を現すという、伝説の一角馬(ユニコーン)(たてがみ)みたい。
「いつもありがとう、イサク」老師は両手のひらに、天からの(たまわ)りものを授かるようにして、束ねられた自分の髪を載せた。「とても見事だ。自分の髪とは思えないよ。500年くらい若返ったような気がする。街の人間たちに見せびらかしに行きたいね」
 それを聞いて目を丸くしたわたしたちに、老師は茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせた。わたしたちはまたみんなで笑った。
「よし。じゃあ久々に、四人で食卓を囲もうじゃないか」
 ぐっとカップを傾けて中身を飲み干すと、ルータが晴れやかに宣言した。
 ……けれど、結局この朝も、四人揃っての食事は叶わなかった。
 老師を一人テーブルのそばに残して、わたしたちが三人で調理場に立った、その瞬間のことだった。
 昨日、耳にしたばかりのあの不気味な大気の震えが、今再びわたしたちの聴覚を――というより、大気中に満ちる源素〈イーノ〉の波動の揺らぎを感知する、わたしたちに備わった特殊な第六感を――かすかに刺激した。ほんの小さな、それこそ家の裏庭でカタツムリがくしゃみでもしたかのような、ごくごく微細な響きだったけれど、それはやっぱり、森の内なるものが放つ音ではないようだった。
 わたしたちは互いに鋭く目配せしあった。
「僕が見てこよう。みんなはここにいてくれ」ルータが言った。
「大丈夫?」わたしは無意識に一歩踏み出して、たずねていた。
 ルータは一瞬きょとんとして、それから唇の端を少し吊り上げた。
「なにを言うのさ。大丈夫に決まってるじゃないか」
「……あ、うん」
 すぐにわたしは気を取り直した。そう、ルータのことだから、大丈夫に決まってる。それは、疑いようなく確かなこと――なのだけど、わたしはその時、彼の一対の瞳の(ふち)に浮かんでいる(くま)から、目を逸らすことができなかった。その紫がかった暗い色は、かれこれ数ヵ月も前から、彼の目もとから立ち去らずにいた。
 直後、またわずかに空気が――イーノが――震えた。
 すっと表情を引き締めると、ルータは身を(ひるがえ)して一息で階段を飛び昇った。そして放たれた矢のような速度で、彼の気配は朝陽に輝く空の彼方へと消えていった。向かったのは、やはり西の方角だった。
 残されたわたしたちは、しばらくぼんやりと立ち尽くして、彼が吸い込まれていった階段の奥の暗がりを見あげていた。
「……自分だって、玄関使わないじゃん」
 イサクがへそを曲げた子どもみたいにつぶやいた。わたしはそっと彼女の肩を抱き寄せた。
「ご飯作って、待ってよう」わたしは精一杯、普段どおりの調子で言った。


 ルータが戻ったのは、正午を少し過ぎた頃だった。
 わたしとイサクは、胸を痛めつつ彼を出迎えた――帰宅した彼が、再び具合を悪くしてベッドに戻った祖父の姿を目にすることになったから。
 薬湯の香りが充満する居間で、わたしたち三人は円座を組んでテーブルに着いた。
「ルータ兄ぃ、なにか食べる」イサクがたずねた。
「いや、いい」ルータは首を振った。
「話して」わたしは両手を重ねて膝の上に置き、彼の目を――出かける前よりいっそう暗い色を帯びたその目を――見つめた。「なにを見てきたの」
 もちろんわたしには、彼がなにを見てきたのか、おおむね察しはついていた。そしてその予想したとおりのことが、ルータの口から語られた。
 この日、森に踏み入ってきた王国軍の竜討伐部隊は、なんと三体ものカセドラによって先導されていたという。それに付き従う武装した兵士たちの数も、実に三十数名にまで及んだ。
 今回彼らが目を付けていたのは、森の西側領域において最大のものと(もく)されている巣穴だった。そこには幼生の個体を含む十数匹の天秤竜の群れが暮らしていたというのだけれど、そのすべてが、容赦なく駆逐されてしまった。
 存分に暴力が振るわれた後の現場に残されたのは、むせ返るような血の匂いと、巨大な剣の刃から雨のように降り注ぐ体液が地表を打つ音と、人間たちの勝鬨(かちどき)の声だけだった。
 ルータは、ちょうど虐殺が完了する間際に駆けつけ、枝葉の影からその光景を見届けた。
 胃の奥から込み上げてくるものを必死に抑えながら、彼は両手で口と鼻を覆って、すぐさまその場を離脱した。
 それから彼は、周囲の状況を確認するために、そのまま最寄りの林道へと向かった。
 林道といっても、それは馬どころか犬でさえまともに通れないほど荒れ放題の小道で、竜に襲われる危険を冒してでも森を越えねばならなかった大昔の旅人たちによって踏み固められた、旧時代の(わだち)の名残りだった。
 そこでルータは、まるで百足(ムカデ)のように連ねて停めてある数台の軍用車を発見した。
 それはいずれも、蒸気ではなく揮発油(きはつゆ)を燃料として駆動する新型の車種で、水車のように大きな車輪と、貨車さながらに頑丈そうな箱型の車体を備えていた。それらが前後に列を()しているさまは、まさに陸上を行く列車みたいだったという。
 思わずルータは顔をしかめた。森の平静を乱す外来要因に対して極めて敏感に反応する天秤竜たちの領域に、これほど派手な騒音を発する機械がぞろぞろと侵入するなんてことは、今まで決してありえなかったことだ。
 慎重に気配を殺しながら、ルータはさらにその周辺の森のなかを検分してまわった。その結果、彼は三つ四つほどの、いかにも竜たちが好みそうな洞穴や窪地を見つけた。
 でもそこには、意外なことに、竜たちの姿はまったく見あたらなかった。それらはすべて、もぬけの殻になっていた。ただ竜たちの暮らしの残り香が、かすかに漂っているだけだった。


「みんなやられちゃったってこと?」イサクがじわりと両目を細めた。
 ルータは首を振った。「ちがうと思う。どこにも死体はなかったし、血の跡や争った痕跡もなかった」
「と、いうことは……」わたしはあごに手を添えて思案した。
「……逃げたんだろうね」テーブルの真ん中あたりを(わけ)もなく眺めながら、ルータが乾いた声で言った。そして(あざけ)るように小さく鼻を鳴らした。「信じられるかい? まさかあの気高(けだか)い竜たちが、人間ごときを忌避(きひ)して、みずから縄張りを出ていくなんて……」
「向かうとしたら東の方かな」やけに冷静な口調でイサクが言った。でもその声音とは裏腹に、彼女の瞳の奥はぐつぐつと煮えていた。「つまり……こっちの方に来る」
 わたしとルータは同意した。
 それは、必然の道理だった。
 森のなかを日に日に侵略してくるホルンフェルス王国軍は、当然のことながら、彼らが拠点を構える西の方面から迫り来ていた。
 以前にも言及したとおり、大陸の北西部一帯に広がるこの深い森は、おおまかに区分けすると全体の約3割ほどの面積が西側のホルンフェルス王国領内にあり、そしてその残りのほぼすべてが、東側のコランダム公国領に属している。いえ、この表現は少し真実らしくない。森が公国に属しているというより、むしろ公国が森に属して――というか、文字どおり抱きかかえられているようなものだから。
 わたしたちが暮らすこの家も、人間たちが描いた地図の上では、コランダム公国の領土内にあった。森を縦に二等分したとしたら、その中心線のやや左側に位置するあたりだ。
「現行の国際法では、なにかしらやむを得ない危急(ききゅう)の理由でもないかぎり、武装したまま他国の国境線を(また)ぐことはできないことになってる」椅子に背をもたせかけて天井を見あげながら、ルータが言った。
「けど、こんな森の奥地だよ」イサクが肩をすくめる。「誰も見てないところで節度を保てるような器量が王国軍にあるなんて、あたしには到底思えない」
 わたしもルータも、うなずいた。二人とも彼女の見解にまったく異議はなかった。
 水差しから(から)のグラスになみなみと水を注いで、ルータはそれを時間をかけて飲み干した。
 それでようやく人心地(ひとごこち)を取り戻した様子の彼に、わたしはいよいよたずねた。
「ねぇ、それだけだったの。ずいぶん帰りが遅かったけど、他にもなにかあったんじゃないの」
「……うん」ルータはのっそりと身を起こした。そして浅く息をつき、両手をテーブルの上で組みあわせると、静かに話しはじめた。「実は、竜を狩る部隊とは別の、奇妙な小隊(しょうたい)を見かけたんだ」
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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