9 大聖堂

文字数 5,017文字

 本心から思った。雪の方がまだましだったと。
 氷のように冷たい雨は、容赦なく髪や衣服を濡らし、肌の奥にまで浸み込んでくるようだった。忌々(いまいま)しい風は、こちらを(もてあそ)ぶかのように、前から横から後ろからぶつかってきた。
 わたしたちは、(こご)えに凍えた。あまりに全身が震えるので、しまいにはすっかり感覚が麻痺してしまって、震えているのが自然な状態のようになってしまった。これでは、どんなに衣料を重ねて体を保護したところで、とても無事ではいられない。移動を開始してまもなく、わたしたちはそのことを身をもって理解した。
 クレー老師が()き込み始めるのに、さほど時間はかからなかった。
 森を遥か足もとに見おろす高度を、わたしたちは一心不乱に飛んだ。
 病人や大きな荷物を守りながら、真っ暗な暴雨のなかを風に逆らって飛ぶのは、覚悟していた以上に骨が折れた。どんな時にも果てなく開かれていたはずの大空(おおぞら)が、今夜はとてつもなく重く窮屈に感じられた。まるで、鳥籠のなかに囚われてしまったみたいだ。
 ようやく大峡谷が見えてきたあたりで、イサクが怒鳴るように声を上げた。
「どこに降りるの!」
 前方を凝視したまま、彼女の兄も大声で返す。
「谷の向こうの森を越えたら、タヒナータ郊外の平野に出る。とりあえずその辺で降りよう」
「降りてどうすんの」苛立ちを(にじ)ませて、イサクが切り返す。「まさかそんなところから宿まで歩いて行こうっていうの? いくらなんでも無謀すぎるよ!」
「承知の上だ!」ルータは強く息を吐いた。「でも絶対に、人里の近くを飛ぶわけには――」
 この瞬間、まるで審議の過程を一切すっ飛ばして下された裁決みたいに唐突な雷が、わたしたちの頭上で轟いた。
 (つか)()、地上のなにもかもが(にぶ)い銀色に染まり、続いて大気を揺るがす衝撃音が炸裂した。
 思わず意識が乱れ、わたしの目の前で荷車がぐらりと傾く。雨除(あまよ)けの布で厳重に覆っていなかったら、中身を少し(こぼ)してしまっていたかもしれない。
 わたしは肝を冷やして、いったん立ち止まった。
 目の前で、兄妹の二人もおなじように静止した。
 暗雲を見あげるルータの表情は、ぞっとするほど険しい。
 けれどイサクの表情は、それよりさらに青白く切実に、こわばっていた。
 彼女は老師の顔に鼻先を押し当てるようにして、彼の容態をたしかめていた。きっと、一瞬の閃光のなかで、彼女は目にしてしまったのだろう。愛する祖父の(おもて)に浮かび上がろうとしている、暗く避けがたいあの(そう)を。
「イサク!」
 わたしは考えるより先に叫んでいた。でもそれに続いてなにを言うつもりだったのか、自分でもわからなかった。
 顔じゅうにぺったりと白髪を貼りつけた彼女は、はっとして頭を振り上げた。
「……どうしたんだ」ルータが怪訝そうに振り返る。
「だめ……だめだよ。このままじゃ……」
「いっ、行かなくちゃ!」歯をがちがちといわせながら、わたしは声を振り絞った。「とにかく進もう、二人とも! こんなとこでぐずぐずしてる暇なんて――」
 そこでまた、出会い(がしら)に平手打ちを食らわしてくるような突飛で無礼な雷が、今度は二発続けて大地を襲った。
 一つは、森のどこかへ。
 もう一つは、わたしたちの行く手に広がるタヒナータ南方の丘陵地帯のどこかへ、それぞれ落ちた。
 雷光が視界を晴らしたその刹那、まさに雷に打たれたかのように、イサクがその小さな肩をぎくりと震わせた。
 そして鋭く指先を突き出して、叫んだ。
「あそこ!」
 ルータとわたしは、背中の糸を乱暴に引っ張られた操り人形みたいに身を捻って、示された方角へ顔を向けた。
 イサクが指し示しているのは、わたしの見間違いでなければ、おそらくは教会か、礼拝堂か、あるいはそれに類するなんらかの施設のようだった。指摘されなかったら、きっといつまでもその存在に気付くことはなかったはずだ。それほどその建物はここからずっと遠いところに、わずかな片鱗だけを樹々(きぎ)の狭間にのぞかせて佇んでいた。
 片鱗とはつまり、その建物の屋根のてっぺんから槍の穂先(ほさき)のように突き出ている紋章だった。あれこそは、森羅万象の生命を(つかさど)る源素イーノを(たた)え信奉する、〈イーノ神教(しんきょう)〉の象徴たるしるしだ。
 わたしたちの眼下に広がる天秤竜の森は、大峡谷に突き当たって一度は完全に途絶えてしまう。しかし谷を越えた先にも、やはりこちら側とおなじように深い森が広がっている。生態系の微妙な差異の(ゆえ)に、谷の向こう側の森――いわば東方の森――には、天秤竜たちはほぼまったく生息していない。西方の森と比べると環境も多少穏やかで地面もおおむね平らで、まるで外見はそっくりでも性格は全然違う人のよう。
 そしてコランダム公国の首都〈タヒナータ〉の大部分は、この平穏な森に囲まれていた。さらに都市の西南側には、あたかも人々の暮らしを見守るかのように、小高い丘陵や山々が緩やかに連なり立ち並んでいる。まさに森と丘とに二重に抱かれる都、というわけだ。
 今わたしたちが目を向けている建物は、それらの丘の一つの頂上に立っていた。
 互いに鋭く目配せしあうと、わたしたちは三人同時に、視覚の機能を研ぎ澄ませた。
 それは柔らかく握り合わされた人の手のような形をした、とても優美な丘だった。その山肌の大半は、麓から這い上がってくる森の(ころも)に覆われているけれど、頂上のあたりは平坦な草原になっているようだ。ぽっかりと開けたその場所を、背の高い雑木林が近衛隊(このえたい)よろしく取り囲んでいる。
 教会か礼拝堂とおぼしき施設は、それらの林に背を預けるようにして、草地の(きわ)に立っている。
 さらにその近くには、別種の建物も二つほど視認できる。一つは横倒しにした四角柱みたいな形状の大きな建物で、もう一つは、ごくありふれた普通の民家のようだった。どちらの建物にも、そして教会らしき建物のなかにも、明かりは灯されていない。わたしたちの誰も、今までその丘の存在を気に留めたことも、近付いてみたこともなかった。
 わたしたちは改めて地上を眺め渡した。
 タヒナータ近郊のどこで宿を取るにしても、なにはなくともまずは人目を徹底して避けるために、いかなる村や集落や関所からも遠く離れた郊外のそのまた外れのどこかで、地上に降りなければならない。そしてそこから街道に入って宿まで歩いて行くことになるわけだけど、今となっては、そんなのは言語道断の蛮行としか思えなかった。
 わたしたちはもはや言葉を交わすこともなく、ただ互いの感性と理性だけを信じあって、これから自分たちが辿るべき経路に各自で目算を立てた。
 ルータが老師を支える腕にぐっと力を込め、妹とわたしの方を振り返った。
「行ってみよう」
 彼は言った。彼が言い終わらないうちから、わたしたち二人はうなずいていた。


 峡谷に架かる大鉄橋の上空を通過し、都市の郊外の外縁部に差し掛かると、わたしたちは進路を右方向へ直角に変更して、森に接触するすれすれのところまで高度を落とした。
 そこからはもう、後先(あとさき)考えず速度を上げた。
 ルータは文字どおりに身を挺して老師を守護し、イサクもまた祖父の背中を懸命に抱きしめていた。わたしは荷車から雨除けが飛んでいったり車輪が外れたりしないよう注意しつつ、意識を集中して荷物の無事を維持し続けた。
 そうしながら、一行は獲物に飛びかかる(タカ)さながらに鋭く滑空した。
 丘の斜面を一気に()い昇ると、ほとんど墜落するようにして頂上付近の雑木林に着地した。そのままばったりと倒れ込んでしまいそうな我が身を必死に奮い立たせ、肺が破れてしまいそうなくらい激しく息をしながら、わたしたちはぎょろぎょろと剥いた目で互いの様子を確認しあった。
「ど、どう、どうする」
 ひとりでに震える顎をこじ開けて、わたしは言葉を捻り出した。ルータもイサクも、そして顔の一部しか見えない老師の鼻と口もとも、やはりひどく震えている。
 一瞬たりと思考の隙を挟まずに、ルータがこたえた。
「みんなで行こう。このままじゃ全員倒れてしまう」
 まずわたしたちがやったことは、念のためこれ以降の顕術の使用を一切()めることと、三人お揃いの青いローブ――わたしたちの一族が古くから愛用する伝統衣装――を脱ぐことだった。今さら一、二枚脱いだところで、寒さはまるで変わらない。なにしろ、骨の髄までかちこちに凍りついてしまっているのだから。
 三人とも、外套やローブの下は一般的な町の若者のような服装をしていた。わたしとイサクが、二人がかりで荷車を引いた。その前方に、老師を背負ったルータが立った。気の毒なことに、老師の膝から下は地面の泥濘(ぬかるみ)にめり込んで、一歩動いただけで泥まみれになってしまった。けれど、今だけはどうしようもない。ルータは優しく丁重に、それを引き()った。
 雑木林を抜けて野原に出る寸前で、イサクが兄に呼びかけた。
「ルータ兄ぃ、任せていいの」
「ああ」彼は前を向いたままこたえた。「適当に話をでっち上げる。きみたちも適当に合わせてくれ」
 野原は真上から見るとふっくらとした半月の形をしていた。その半月の直線部分に近いところに、三つの建物が互いに程好(ほどよ)い距離を置いて立っている。しかしなんとも言えず奇妙な取り合わせだった。一見しただけでは、どうしてこれらの建物がおなじ土地で肩を並べることになったのか、その経緯や事情がうまく想像できない。
 ともかくわたしたちは、慎重に、しかし足早に、野原を進んだ。前方に、三つの建物を臨みながら。
 向かって右の端に、ちょこんと立つ二階建ての民家。
 中央に、横長の大きな建物。
 そして左の端に、わたしたちをここまで導いた礼拝堂が位置していた。
 礼拝堂の三角屋根の頂点に、遠くから目印になった例の紋章が突き立っている。ただのまっすぐな棒の先端に円輪(えんりん)(いただ)いているだけに見えるけれど、よく見ると輪の(いただき)にはほんのわずかに隙間が空いている。左右に等分された円弧の内側には、魚の(ひれ)のような短い突起が何本か突き出ている。これらの突起は人の指を模したもので、円輪はつまり二つの手が寄り合わされて形を成す永遠性の象徴、古来より〈大聖堂〉と呼ばれる祈りの(いん)を形象化したものだった。
 三人とも、そのしるしを祈るように見つめながら、歯を食いしばって草地を横切っていった。やはりどの建物にも灯りが点いていない。みんなもう寝てしまったのか、あるいはそもそも無人なのか、どうなのか。神経や感覚が鈍りに鈍って、人や生き物の気配を感知することもろくにできない。わたしたちはまさに神にもすがる心持ちで、重い足を一歩一歩前へと運んだ。
 こうしてついに、自分たちから助けを求めて人間の住処の門戸を叩くという、おおよそ信じがたい地点にまで、わたしたちは到達してしまった。
 全身の震えが止まらないのはどうしようもないけれど、わたしたちは搔き集められるだけの品性と精気を体の奥から汲み上げて、それで入念に顔つきや立振る舞いを整えた。
 礼拝堂の大きな両開き扉の前に立ち、三人一斉に深く息を吸い込むと、先頭に立つルータが右手の拳を硬く握りしめた。まるで、運命を決する審問官の(つち)に注目するかのように、わたしとイサクは固唾を呑んでその拳の行方を見届けた。
 彼は背後のわたしたちに短く合図を送ると、思い切りよく腕を振り上げ、扉を叩いた。
 けれど、音はしなかった。
 拳が扉に触れる寸前に、まさにその扉自体が、猫が一匹通るほどの隙間に突然開かれ、建物の内側から何者かの手が飛び出してきた。
 その手は、驚くべき的確さと力強さで、ルータの拳をわしづかみにした。
 わたしたちは思わず後ずさりした。
 でも哀れなルータだけは、その場から一歩も動くことができなかった。
 なにしろ自分の手の二倍ほどはあろうかという大きな掌中(しょうちゅう)に、右手をまるごと捕らえられてしまっていたから。
 荒々しい顕術の発動の兆しを感じ取ったわたしは、とっさに手を伸ばしてイサクの胸を押さえつけた。彼女はぎりりと歯噛みして、扉の奥からランプの灯りと共に進み出てきた大柄な人影を睨んだ。
「まったく。こんな夜更けにうるさくしないでおくれ」その人は嘆息混じりに言った。厚みがあって少しかすれ気味の、あっけないほど緊迫感の欠如した声だった。「猫たちが起きちまうだろ」
 ほんとに猫がいるんだ。そう思いながら、わたしは礼拝堂から出てきた彼女を見あげた。
 そう、それは女性だった。
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登場人物紹介

◆リディア


≫『独唱編』シリーズの主人公/語り部。人に見えて人に非ざる、ある謎深き一族の末裔。数少ない同族の生き残りであるルータたちと共に、広大な森の奥地に隠遁している。絵を描くことがなにより好き。

◆ルータ


≫リディアとおなじく、現生人類とは異なる神話的な一族の末裔。穏やかで飾らない人柄だが、責任感は誰より強い。大変な読書家。

◆イサク


≫ルータの実妹。リディアとは物心つく前からの親友どうし。かなりの人間嫌いで普段の言動も素っ気ないが、動物や自然を愛する心はとても深い。共に暮らす祖父の身を常に案じている。

◆テンシュテット・レノックス


≫ホルンフェルス王国の名家レノックス家の長子。〈想河騎士団〉副団長の立場にあるが、国王の命を受けてある調査隊の長を兼任する。子供のように穢れなき心の持ち主で、古代神話の謎を解明するのが積年の夢。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍人。平時は一個精鋭歩兵部隊を指揮するが、現在はある調査隊の副長を兼務する。家柄も発顕因子も持たない身でありながら、その傑出した実力と戦歴の故に国王の寵愛さえ受ける。

◆〈アルマンド〉


≫三年ほど前にホルンフェルス王国が建造に成功した、史上初の完成体カセドラ。同国軍の主力量産型巨兵として、また現世界最強の巨兵として、広くその名を知られている。

◆〈ラルゲット〉


≫コランダム公国が隣国ホルンフェルス王国の〈アルマンド〉に対抗すべく製造した、主力量産型カセドラ。運用が開始されてからまだ日が浅い。

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