26 夜の階層
文字数 6,903文字
森を東西に――いわば動 の森と静 の森に――分断する大峡谷には、近年建設されたばかりの大鉄道橋の他にも、今ではその存在を忘れ去られてしまったいくつかの橋が架かっていた。その大半が、両岸の幅の狭 まっている箇所に渡された吊り橋や丸太橋だったわけだけど、現状そのことごとくが朽ち果ててしまっていて、もはやそれらが残存することを覚えている者さえない。元あった形状を現在まで保ち続けている古い橋は数えるほどしか残されておらず、峡谷の北寄りの某地点に築かれた石橋はその一つだった。
それは、かつてこの地方に暮らした古代の民が造り上げたものだと言われていた。
しかしその当時と現代とを比較すると、森の環境も峡谷周辺の地形も大きく様変わりしてしまったため、今となっては安全に通行者を往来させる役割を果たさない。石橋の東の端は平野部に近い穏やかな森のなかに位置していたけれど、西の端は天秤竜の巨大な巣窟付近に直結していた。その巣が形成されたのは過去二百年のうちのどこかの時点だったと推測されているみたいだけど、ともかくそれが出現して以降、その橋を渡る人間はいなくなった。
地質調査隊を名乗る彼らがその橋を利用していたのは、明白だった。
そしてそこを通って大峡谷の西側へ潜入し、人知れず天秤竜が姿を消し静まりゆく禁忌の森の深部を、連日密かに探索し続けていることも。
彼らの体にまとわりついていた竜の血の匂いから、わたしたちにはそれがわかった。でもわたしたち以外に、そんなことに気付く者などいない。いるはずもない。市民たちの誰も、竜の血を嗅いだことなどないのだから。
病院での騒ぎがあった翌朝の新聞には、ただホルンフェルス王国から派遣されている軍属の研究者が複数名、タヒナータ郊外の森のなかで熊に襲われて負傷する事件があったと、大して目立ちもしない――そして事実でもない――記事が載っただけだった。
隊員の実名報道が全くなかったことに関しては、裏でなんらかの力が働いたからだと思うけど(というか確実にそのとおりなんだろうけど)、まぁその程度であっさりと騒動は終息した。なんでも、秋に食べ損なって冬眠に失敗した熊が凶暴化して人を襲うという事例は、そこまでめずらしいことでもないのだという。騒動の夜に病院へ事情聴取に来た憲兵の一人がそう話していた。生きて帰ってこられただけで御 の字ですよ、とその人は言った。
なにはともあれ死者が出なかったことで、病院の医師や看護士や職員たちも、そして誰よりも隊員当人たちが、心から安堵した様子だった。さいわい、感染症にかかった者もいなかった。いちばん酷い怪我を負っていた例の若者も、一晩限りの処置入院だけで事無きを得た。他の者は皆その日のうちに帰宅許可が与えられた。
あれよあれよと最後までその場に付き合うことになってしまったわたしたち三人は、夜遅くにテンシュテット・レノックスと一緒に病院の外へ出た。
すでに石畳の上にはふっくらと雪が積もり、気持ちの良い白の一色に覆われていた。車の移動と整備のために呼ばれた業者が、今しも最後の一台を引き取っていった。わたしたちの周りにはもう誰も残っていない。しばらく前に、特別に手配された馬車に乗ったベームとレーヴェンイェルム、それにアトマ族の女性を含む隊員たち全員が、例のホテルへと帰っていった。別れ際に、彼らとわたしたちは、ほんのちょっとだけ会話の機会を持った。といっても、レノックスの紹介を挟んで一言二言の労いの言葉を交わしあっただけだ。イサクなんか一度も口を開かなかったし、会釈の一つもしなかった。でもそれはレーヴェンイェルムも同様だったから、まぁ、おあいこだ。
隊長が一人だけ残ったのは、取り急ぎこの場で上司と話をする必要があったからだった。隊員たちは最後まで付き合おうとしたけれど、帰って休めと隊長から厳しく命じられて、みんなそれに従った。
この当時にはまだ極めて貴重な存在だった〈鉱晶伝話器 〉の試作機が、シュロモ先生の病院には設置されていた。アリアナイト加工装置に刻印した固有周波数を共鳴させることで、遠方の相手とまるでお互いが目の前にいるように会話を交わすことができる、当世最新の発明品だ。
レノックスは、上司と――つまりおそらくは彼の祖国の最上層の何者かと――15分ばかりのあいだ話し込んでいた。別にわたしたちは彼を置いて帰ってもよかったのだけど、一人ぼっち居残ってすべての尻拭いをしている青年をさらに独りぼっちにするのはさすがに不憫だったので、病院の夜勤の人たちが振舞ってくれたコーヒーを片手に、一階の待合室で彼を待つことにしたのだった。
もう誰も残っていないと思い込んでいた暗い待合室にわたしたちの姿を見つけた時の彼の喜びようといったら、大したものだった。彼が犬だったら振り乱しすぎて尻尾がもげていたかもしれない。
みんなでコーヒーカップを持って、雪の降りしきる外へと出た。玄関の軒下に横一列に並んで空を見あげながら、こちらが聞き飽きるくらい繰り返し感謝の言葉を述べまくった後、レノックスは熱いコーヒーをすすりながらしみじみと語った。
「あぁ、それにしてもなんて偶然だろう。まさかこんな場所で、こんな時に、みなさんと再会できるなんて」
まるで葉巻の煙みたいに濃密な白い息を吐き出して、ルータが微笑した。
「まったくですね」
「そうだ、それこそ『クーレンカンプの冒険』にありましたね。『この世には、一度しか起こらないよう定められていることと、二度起こるよう定められていることがある。そして後者においては、いかなる場合においても、必ず三度目もある。』……」
「二巻の終盤の、名場面だね」ルータがきらりと瞳を光らせた。そしてすぐに首をすくめた。「おっと、すみません。急に馴れ馴れしい口を利いてしまいました」
レノックスは大きく首を振った。
「そんなの、全然かまいませんよ。というか、その……ルータさんさえお嫌じゃなければ、これからはもっと砕けた話し方をしませんか」
一瞬ぽかんとして、ルータは青年の顔を見あげた。
そして小さく笑って、うなずいた。
「では、そうしましょう――いや、そうしよう。テンシュテット」
「テンでいいよ、ルータ」
「っぶしっ!」
良いところで盛大なくしゃみを放ったのは、イサクだった。わたしは笑いをこらえるのに必死だった。
「大丈夫ですか?」背を丸めてのぞき込むように、テンシュテットが声をかける。「だいぶ冷えてきましたものね。風邪に捕 まる前に引き上げた方がよさそうだ」
「……平気」イサクは首を振る。「それより、あなたの怪我はいいの」
一行は青年の左手に巻かれた包帯に視線を集めた。
「かすっただけですよ、こんなの」彼はひらりとその手を振る。「隊列の後方から襲われたので、先頭にいた僕はこの程度ですみました。だけど部下たちは怖い目に遭わせてしまって、申し訳ないことをした」
「ほんとにお気の毒でしたね」わたしは言う。「でも誰も大事に至らなかったのは幸運でしたね。今度からはもっと用心するか、森の生態に詳しい専門家に同行してもらった方がいいでしょう」
「ええ、きっとそうします。装備類もまた見直した方がよさそうだ」
この辺が機会かな、と急に思いついて、わたしは間を置かず言葉を繋 いだ。
「そういえば、あなたがたのなかにアトマ族の女性がいらっしゃいましたね。彼女もあなたの仲間なんですか?」
「僕も気になってたんだ」ルータが続く。「森を案内するために雇われた人なのかなと思ったけど」
ゆっくりとコーヒーを口に含みながら息を――そして頭のなかの情報を――整理して、青年はこたえる。
「うん、それに近いと言えば近いかな。でも、別にこのあたりの森について熟知している人というわけじゃない。彼女たちはなにしろほら、空を自由に飛べるし、身の周りの気配を感知するのにも長けているから、ああいう現場では特に土地の知識がなくたって、一人いてくれるだけですごく助かるんだ」そして彼はわたしの方へ顔を向ける。「そうですね、大枠 で見れば彼女も僕らの母体となる組織の関係者なので、一応仲間ということになります。普段は接点は全くないのですけど、今回の任務には特例人事を受けて同行してもらっています」
そう語る青年の声には、やはりどことなく張りがなかった。でも少なくとも、嘘はついていないようだった。つまり彼の境遇に立って今の説明を嚙み砕いてみるに、あのアトマ族の女性は王国軍に所属してはいるけれど、平時にはテンシュテットの部隊と直接的に連携することのない部署なり部隊なりに在籍している、ということなのだろう。それで、今回の臨時招集された特別部隊に彼女もまた召喚されて、一時的に彼の同僚となったのだ。人間の軍隊にアトマが参加するなんて、わたしからしてみたらやっぱり仰天するような話だけど、まぁ例によって、わたしたちが森に籠 もっているあいだに時代もずいぶん変わってしまったのだろう。
「……そうですか」
ひとまずわたしは納得し、それからはおとなしく雪降りを眺めていることにした。イサクはもうさっきから一人でそうしていた。
「ところで、ずっと訊きそびれていたけど、ルータたちはどうしてここに?」テンシュテットがたずねた。
「お見舞いに来ていたんだ。僕らの身内 が、しばらく前からこちらでお世話になっていてね」
「そうだったんだ。お身内のかたが……」
青年はふいに口をつぐんだ。ルータが神妙な面持ちでカップを唇に付け、それがしばし離される様子がないのを見て取り、察してくれた。
「早く良くなられるといいね」
青年はそれだけ言った。わたしたちはうなずいた。ルータはカップを降ろした。
「――そうだ」街の灯りを映す瞳をぱっと見開いて、青年は一歩前へ進み出た。そこから振り返り、こちらの面々を見渡す。「クーレンカンプで思いだしたよ。妹のルチアにきみたちのことを話したら、自分もみんなに会ってみたいって言うんだ。あいつのこと覚えてる?」
「あの赤いコートを着ていた女の子だね」ルータが言う。「よく覚えてるよ。というか、一度見たら忘れられない」
「とにかく目立つからなぁ、あいつは」テンシュテットは苦笑する。「えっと、それでね、もしよかったら、きみたち三人を食事に招待したいんだ。今度はもっとゆっくりできるお店で、一緒に夕食でもどうかな」
その時、近くの路上で蒸気自動車が短く警笛を鳴らした。
わたしは一瞬、自分の内側で鳴った音かと思った。
突然の招待を受けたわたしたちは、思わず互いの顔を見あわせた。
テンシュテットは、例によって例の如 くのにこにこを満面に広げて、わたしたちの返答を今か今かと待ち受けている。断られるなんて、微塵も思っていない様子だ。まったくもう。
「えぇっと……」苦し紛れにルータが咳払いをした。「そうだな……」
「いいんじゃない。行こうよ」
出し抜けにそう言い放ったのは、わたしではなくて、誰あろう、イサクその人だった。
横目にちらりと、わたしは彼女の表情を窺った。彼女が時々見せる、なにもかもを見透かしたような目がそこにはあった。そしてそれは実際、いつもちゃんと見透かしていた。
「……そうだね」わたしも続いた。「このところ忙しかったし、たまには外でのんびり食事をするのも悪くないね」
ルータは呆然とわたしたちを眺め、いっとき固まったように言葉を失ったけれど、やがてふっと肩の力を抜いた。そしてお友達を見あげた。
「うん。僕らでよければ、喜んでご一緒させてもらうよ」遠慮がちに彼は告げた。「でもほんとに、迷惑じゃない?」
「迷惑なもんか!」大草原に放たれた犬みたいに全身から光を放って、青年は惜しげない笑顔を咲かせた。「よかった、よかった。言ってみるもんだなぁ。これで大きな楽しみが増えたよ。早くルチアにも教えてやりたいな。じゃあさっそく、きみたちの都合がつく日を教えてくれる?」
ほんの短い内輪 の話し合いの結果、まだはっきりとはわからない、とルータが彼に伝えた。
「そうか。なら、どうやって連絡を取り合おうか。ルータの住まいは、どのあたり――」
「ごめん、テン」ルータは申し訳なさそうに首を振った。「僕ら、扱う商材が商材だから、家業の関係者以外には住所や連絡先を明かすことができないんだ」
「あぁ……」テンシュテットは恥じ入るように目を伏せた。「すまない。配慮に欠けていたよ。すっかり舞い上がってしまって」
「いや、いいんだ。こちらこそ、融通が利かなくてごめん」そう言うとルータは顎の先に手を添えて、遠い目で街路を見渡した。そしてふいに顔を上げた。「そうだ。駅の伝言版を使おう」
すぐに合点 がいった様子の青年は、ぱちんと指を鳴らした。
「それだ、そうしよう。じゃあきみたちの都合の良い日が決まったら、その日時を僕が泊ってるホテルに伝報で伝えてよ。僕とルチアは夜はだいたい空いてるから、その日に合わせてどこか良さそうなお店に予約を入れておく。その段取りが決まり次第、駅の伝言板に書いておくから、それを見てもらって、もしなにも問題がないようだったら、もう返事は無しでその場所に直接来てくれたらいい。なにか問題があったり、予定が変更になった時だけ、断りの伝言を返してくれたらいいよ。……と、こんな感じでどうかな」
「お店、任せていいんですか?」わたしが訊いた。
青年は自信をもってうなずく。「ホテルの人たちにいろいろ教えてもらいますから。きっと、素敵なところを見つけ出しますよ」
「では、お願いするよ」
ルータが言った。そして男どうしで握手をした。イサクがまたくしゃみをした。彼女は眼鏡を外して上着の袖で顔をごしごしと擦り、また眼鏡を掛けた。すると自分の前にも大きな手が差し出されているのに驚いて、すっかり目を丸くした。いかなる表情をこさえるのも間に合わず、彼女はその手をただ機械的に握り返した。続いてテンシュテットはわたしとも握手をした。がっしりしているけど、不思議なくらい柔らかくて張りのある、まさに年若い青年の手だった。当たり前だけど。
自分たちは別の用事のついでに歩いて帰ると伝えると、青年は適当な辻馬車を呼び止めてそれに乗り込んだ。
「それじゃ、また!」窓から大きく手を振って、彼は言った。街灯と雪と生まれたての友情に照らされて、彼の頬と瞳は星より明るく輝いていた。「ルータ、みなさん、気をつけてお帰りを。おやすみなさい」
「おやすみ」
ルータも手を振って返した。わたしとイサクもそうした。
馬車が曲がり角を折れて、その姿も足音も遠ざかって消えてしまってからも、わたしたちは雪だるまみたいにその場に突っ立ったままでいた。
相変わらず雪は降り続いている。少し、風も出てきた。空気はしんしんと冷え込み、夜は寡黙 に深まってゆく。
通りの端の方から順番に、街路灯の明かりが落とされていった。どんな街角にも、ある時点を過ぎるとおもむろに夜の階層が深まる瞬間というものがある。わたしたちはそれに立ち会っていた。
わたしは両目を閉じて、細く長く深呼吸をした。まぶたの裏側の暗闇のなかで、つい最近まで暮らしていた森の家のことを想った。森で過ごす冬の夜は、神々しいくらいに静かで、深くて、そしてとても清らかだった。生活は質素を極め、とくに大それた夢や希望や憧れを抱くこともない単調な日々ではあったけれど、世界のなにものにも脅かされずに毎日を送るということ自体が、わたしには――わたしたちには――夢や希望や憧れの生活そのものとも言えた。
ぱっかぱっかと悠長な足運びで、白馬の馬車がわたしたちの目の前を通り過ぎていく。客車には演奏会かなにかの帰りだろうか、着飾った老年の男女が互いの手を取り合い乗っている。石畳の道の上に点々と、馬の足跡が軌跡を描いていく。
まるで金床 を槌 で叩くような音を響かせて、夜空の彼方で時計塔が鐘を鳴らした。
自分がこんな場所に、人間みたいな顔をして紛れ込んでいるのが、我ながらいまだに信じられない。
わたしたち、今、なにかに、脅かされているかしら。
「……問題ないさ」病院の玄関先の階段を降りて、ルータが言った。「別に、ちょっと食事をするくらい」
わたしはうなずき、それに同意するようなことを言おうとした。
でもそれより先に、イサクがさらりと言った。
「そうだね。どのみち長い付き合いにはなりっこないしね」
彼女を見あげるようにして、ルータは振り返った。
「誰とも、ね」イサクはさらにつけ加えた。やはり、とてもさらりと。
わたしはなにか言うことをやめて、ただ小さく吐息をついた。
ルータは顔を伏せてかすかな笑みを浮かべ、またこちらに背を向けて階段を降りていった。
黒革の上着に包まれる彼のほっそりとした背中に、降り注ぐ雪の白さが鮮やかだった。彼の髪にもそれらは降りかかっていたけれど、互いの色がおなじだから、どこからが雪でどこからが彼の頭なのか、見分けがつかない。
「帰ろう」彼は前を向いたまま言った。「風邪に捕まる前に」
それは、かつてこの地方に暮らした古代の民が造り上げたものだと言われていた。
しかしその当時と現代とを比較すると、森の環境も峡谷周辺の地形も大きく様変わりしてしまったため、今となっては安全に通行者を往来させる役割を果たさない。石橋の東の端は平野部に近い穏やかな森のなかに位置していたけれど、西の端は天秤竜の巨大な巣窟付近に直結していた。その巣が形成されたのは過去二百年のうちのどこかの時点だったと推測されているみたいだけど、ともかくそれが出現して以降、その橋を渡る人間はいなくなった。
地質調査隊を名乗る彼らがその橋を利用していたのは、明白だった。
そしてそこを通って大峡谷の西側へ潜入し、人知れず天秤竜が姿を消し静まりゆく禁忌の森の深部を、連日密かに探索し続けていることも。
彼らの体にまとわりついていた竜の血の匂いから、わたしたちにはそれがわかった。でもわたしたち以外に、そんなことに気付く者などいない。いるはずもない。市民たちの誰も、竜の血を嗅いだことなどないのだから。
病院での騒ぎがあった翌朝の新聞には、ただホルンフェルス王国から派遣されている軍属の研究者が複数名、タヒナータ郊外の森のなかで熊に襲われて負傷する事件があったと、大して目立ちもしない――そして事実でもない――記事が載っただけだった。
隊員の実名報道が全くなかったことに関しては、裏でなんらかの力が働いたからだと思うけど(というか確実にそのとおりなんだろうけど)、まぁその程度であっさりと騒動は終息した。なんでも、秋に食べ損なって冬眠に失敗した熊が凶暴化して人を襲うという事例は、そこまでめずらしいことでもないのだという。騒動の夜に病院へ事情聴取に来た憲兵の一人がそう話していた。生きて帰ってこられただけで
なにはともあれ死者が出なかったことで、病院の医師や看護士や職員たちも、そして誰よりも隊員当人たちが、心から安堵した様子だった。さいわい、感染症にかかった者もいなかった。いちばん酷い怪我を負っていた例の若者も、一晩限りの処置入院だけで事無きを得た。他の者は皆その日のうちに帰宅許可が与えられた。
あれよあれよと最後までその場に付き合うことになってしまったわたしたち三人は、夜遅くにテンシュテット・レノックスと一緒に病院の外へ出た。
すでに石畳の上にはふっくらと雪が積もり、気持ちの良い白の一色に覆われていた。車の移動と整備のために呼ばれた業者が、今しも最後の一台を引き取っていった。わたしたちの周りにはもう誰も残っていない。しばらく前に、特別に手配された馬車に乗ったベームとレーヴェンイェルム、それにアトマ族の女性を含む隊員たち全員が、例のホテルへと帰っていった。別れ際に、彼らとわたしたちは、ほんのちょっとだけ会話の機会を持った。といっても、レノックスの紹介を挟んで一言二言の労いの言葉を交わしあっただけだ。イサクなんか一度も口を開かなかったし、会釈の一つもしなかった。でもそれはレーヴェンイェルムも同様だったから、まぁ、おあいこだ。
隊長が一人だけ残ったのは、取り急ぎこの場で上司と話をする必要があったからだった。隊員たちは最後まで付き合おうとしたけれど、帰って休めと隊長から厳しく命じられて、みんなそれに従った。
この当時にはまだ極めて貴重な存在だった〈
レノックスは、上司と――つまりおそらくは彼の祖国の最上層の何者かと――15分ばかりのあいだ話し込んでいた。別にわたしたちは彼を置いて帰ってもよかったのだけど、一人ぼっち居残ってすべての尻拭いをしている青年をさらに独りぼっちにするのはさすがに不憫だったので、病院の夜勤の人たちが振舞ってくれたコーヒーを片手に、一階の待合室で彼を待つことにしたのだった。
もう誰も残っていないと思い込んでいた暗い待合室にわたしたちの姿を見つけた時の彼の喜びようといったら、大したものだった。彼が犬だったら振り乱しすぎて尻尾がもげていたかもしれない。
みんなでコーヒーカップを持って、雪の降りしきる外へと出た。玄関の軒下に横一列に並んで空を見あげながら、こちらが聞き飽きるくらい繰り返し感謝の言葉を述べまくった後、レノックスは熱いコーヒーをすすりながらしみじみと語った。
「あぁ、それにしてもなんて偶然だろう。まさかこんな場所で、こんな時に、みなさんと再会できるなんて」
まるで葉巻の煙みたいに濃密な白い息を吐き出して、ルータが微笑した。
「まったくですね」
「そうだ、それこそ『クーレンカンプの冒険』にありましたね。『この世には、一度しか起こらないよう定められていることと、二度起こるよう定められていることがある。そして後者においては、いかなる場合においても、必ず三度目もある。』……」
「二巻の終盤の、名場面だね」ルータがきらりと瞳を光らせた。そしてすぐに首をすくめた。「おっと、すみません。急に馴れ馴れしい口を利いてしまいました」
レノックスは大きく首を振った。
「そんなの、全然かまいませんよ。というか、その……ルータさんさえお嫌じゃなければ、これからはもっと砕けた話し方をしませんか」
一瞬ぽかんとして、ルータは青年の顔を見あげた。
そして小さく笑って、うなずいた。
「では、そうしましょう――いや、そうしよう。テンシュテット」
「テンでいいよ、ルータ」
「っぶしっ!」
良いところで盛大なくしゃみを放ったのは、イサクだった。わたしは笑いをこらえるのに必死だった。
「大丈夫ですか?」背を丸めてのぞき込むように、テンシュテットが声をかける。「だいぶ冷えてきましたものね。風邪に
「……平気」イサクは首を振る。「それより、あなたの怪我はいいの」
一行は青年の左手に巻かれた包帯に視線を集めた。
「かすっただけですよ、こんなの」彼はひらりとその手を振る。「隊列の後方から襲われたので、先頭にいた僕はこの程度ですみました。だけど部下たちは怖い目に遭わせてしまって、申し訳ないことをした」
「ほんとにお気の毒でしたね」わたしは言う。「でも誰も大事に至らなかったのは幸運でしたね。今度からはもっと用心するか、森の生態に詳しい専門家に同行してもらった方がいいでしょう」
「ええ、きっとそうします。装備類もまた見直した方がよさそうだ」
この辺が機会かな、と急に思いついて、わたしは間を置かず言葉を
「そういえば、あなたがたのなかにアトマ族の女性がいらっしゃいましたね。彼女もあなたの仲間なんですか?」
「僕も気になってたんだ」ルータが続く。「森を案内するために雇われた人なのかなと思ったけど」
ゆっくりとコーヒーを口に含みながら息を――そして頭のなかの情報を――整理して、青年はこたえる。
「うん、それに近いと言えば近いかな。でも、別にこのあたりの森について熟知している人というわけじゃない。彼女たちはなにしろほら、空を自由に飛べるし、身の周りの気配を感知するのにも長けているから、ああいう現場では特に土地の知識がなくたって、一人いてくれるだけですごく助かるんだ」そして彼はわたしの方へ顔を向ける。「そうですね、
そう語る青年の声には、やはりどことなく張りがなかった。でも少なくとも、嘘はついていないようだった。つまり彼の境遇に立って今の説明を嚙み砕いてみるに、あのアトマ族の女性は王国軍に所属してはいるけれど、平時にはテンシュテットの部隊と直接的に連携することのない部署なり部隊なりに在籍している、ということなのだろう。それで、今回の臨時招集された特別部隊に彼女もまた召喚されて、一時的に彼の同僚となったのだ。人間の軍隊にアトマが参加するなんて、わたしからしてみたらやっぱり仰天するような話だけど、まぁ例によって、わたしたちが森に
「……そうですか」
ひとまずわたしは納得し、それからはおとなしく雪降りを眺めていることにした。イサクはもうさっきから一人でそうしていた。
「ところで、ずっと訊きそびれていたけど、ルータたちはどうしてここに?」テンシュテットがたずねた。
「お見舞いに来ていたんだ。僕らの
「そうだったんだ。お身内のかたが……」
青年はふいに口をつぐんだ。ルータが神妙な面持ちでカップを唇に付け、それがしばし離される様子がないのを見て取り、察してくれた。
「早く良くなられるといいね」
青年はそれだけ言った。わたしたちはうなずいた。ルータはカップを降ろした。
「――そうだ」街の灯りを映す瞳をぱっと見開いて、青年は一歩前へ進み出た。そこから振り返り、こちらの面々を見渡す。「クーレンカンプで思いだしたよ。妹のルチアにきみたちのことを話したら、自分もみんなに会ってみたいって言うんだ。あいつのこと覚えてる?」
「あの赤いコートを着ていた女の子だね」ルータが言う。「よく覚えてるよ。というか、一度見たら忘れられない」
「とにかく目立つからなぁ、あいつは」テンシュテットは苦笑する。「えっと、それでね、もしよかったら、きみたち三人を食事に招待したいんだ。今度はもっとゆっくりできるお店で、一緒に夕食でもどうかな」
その時、近くの路上で蒸気自動車が短く警笛を鳴らした。
わたしは一瞬、自分の内側で鳴った音かと思った。
突然の招待を受けたわたしたちは、思わず互いの顔を見あわせた。
テンシュテットは、例によって例の
「えぇっと……」苦し紛れにルータが咳払いをした。「そうだな……」
「いいんじゃない。行こうよ」
出し抜けにそう言い放ったのは、わたしではなくて、誰あろう、イサクその人だった。
横目にちらりと、わたしは彼女の表情を窺った。彼女が時々見せる、なにもかもを見透かしたような目がそこにはあった。そしてそれは実際、いつもちゃんと見透かしていた。
「……そうだね」わたしも続いた。「このところ忙しかったし、たまには外でのんびり食事をするのも悪くないね」
ルータは呆然とわたしたちを眺め、いっとき固まったように言葉を失ったけれど、やがてふっと肩の力を抜いた。そしてお友達を見あげた。
「うん。僕らでよければ、喜んでご一緒させてもらうよ」遠慮がちに彼は告げた。「でもほんとに、迷惑じゃない?」
「迷惑なもんか!」大草原に放たれた犬みたいに全身から光を放って、青年は惜しげない笑顔を咲かせた。「よかった、よかった。言ってみるもんだなぁ。これで大きな楽しみが増えたよ。早くルチアにも教えてやりたいな。じゃあさっそく、きみたちの都合がつく日を教えてくれる?」
ほんの短い
「そうか。なら、どうやって連絡を取り合おうか。ルータの住まいは、どのあたり――」
「ごめん、テン」ルータは申し訳なさそうに首を振った。「僕ら、扱う商材が商材だから、家業の関係者以外には住所や連絡先を明かすことができないんだ」
「あぁ……」テンシュテットは恥じ入るように目を伏せた。「すまない。配慮に欠けていたよ。すっかり舞い上がってしまって」
「いや、いいんだ。こちらこそ、融通が利かなくてごめん」そう言うとルータは顎の先に手を添えて、遠い目で街路を見渡した。そしてふいに顔を上げた。「そうだ。駅の伝言版を使おう」
すぐに
「それだ、そうしよう。じゃあきみたちの都合の良い日が決まったら、その日時を僕が泊ってるホテルに伝報で伝えてよ。僕とルチアは夜はだいたい空いてるから、その日に合わせてどこか良さそうなお店に予約を入れておく。その段取りが決まり次第、駅の伝言板に書いておくから、それを見てもらって、もしなにも問題がないようだったら、もう返事は無しでその場所に直接来てくれたらいい。なにか問題があったり、予定が変更になった時だけ、断りの伝言を返してくれたらいいよ。……と、こんな感じでどうかな」
「お店、任せていいんですか?」わたしが訊いた。
青年は自信をもってうなずく。「ホテルの人たちにいろいろ教えてもらいますから。きっと、素敵なところを見つけ出しますよ」
「では、お願いするよ」
ルータが言った。そして男どうしで握手をした。イサクがまたくしゃみをした。彼女は眼鏡を外して上着の袖で顔をごしごしと擦り、また眼鏡を掛けた。すると自分の前にも大きな手が差し出されているのに驚いて、すっかり目を丸くした。いかなる表情をこさえるのも間に合わず、彼女はその手をただ機械的に握り返した。続いてテンシュテットはわたしとも握手をした。がっしりしているけど、不思議なくらい柔らかくて張りのある、まさに年若い青年の手だった。当たり前だけど。
自分たちは別の用事のついでに歩いて帰ると伝えると、青年は適当な辻馬車を呼び止めてそれに乗り込んだ。
「それじゃ、また!」窓から大きく手を振って、彼は言った。街灯と雪と生まれたての友情に照らされて、彼の頬と瞳は星より明るく輝いていた。「ルータ、みなさん、気をつけてお帰りを。おやすみなさい」
「おやすみ」
ルータも手を振って返した。わたしとイサクもそうした。
馬車が曲がり角を折れて、その姿も足音も遠ざかって消えてしまってからも、わたしたちは雪だるまみたいにその場に突っ立ったままでいた。
相変わらず雪は降り続いている。少し、風も出てきた。空気はしんしんと冷え込み、夜は
通りの端の方から順番に、街路灯の明かりが落とされていった。どんな街角にも、ある時点を過ぎるとおもむろに夜の階層が深まる瞬間というものがある。わたしたちはそれに立ち会っていた。
わたしは両目を閉じて、細く長く深呼吸をした。まぶたの裏側の暗闇のなかで、つい最近まで暮らしていた森の家のことを想った。森で過ごす冬の夜は、神々しいくらいに静かで、深くて、そしてとても清らかだった。生活は質素を極め、とくに大それた夢や希望や憧れを抱くこともない単調な日々ではあったけれど、世界のなにものにも脅かされずに毎日を送るということ自体が、わたしには――わたしたちには――夢や希望や憧れの生活そのものとも言えた。
ぱっかぱっかと悠長な足運びで、白馬の馬車がわたしたちの目の前を通り過ぎていく。客車には演奏会かなにかの帰りだろうか、着飾った老年の男女が互いの手を取り合い乗っている。石畳の道の上に点々と、馬の足跡が軌跡を描いていく。
まるで
自分がこんな場所に、人間みたいな顔をして紛れ込んでいるのが、我ながらいまだに信じられない。
わたしたち、今、なにかに、脅かされているかしら。
「……問題ないさ」病院の玄関先の階段を降りて、ルータが言った。「別に、ちょっと食事をするくらい」
わたしはうなずき、それに同意するようなことを言おうとした。
でもそれより先に、イサクがさらりと言った。
「そうだね。どのみち長い付き合いにはなりっこないしね」
彼女を見あげるようにして、ルータは振り返った。
「誰とも、ね」イサクはさらにつけ加えた。やはり、とてもさらりと。
わたしはなにか言うことをやめて、ただ小さく吐息をついた。
ルータは顔を伏せてかすかな笑みを浮かべ、またこちらに背を向けて階段を降りていった。
黒革の上着に包まれる彼のほっそりとした背中に、降り注ぐ雪の白さが鮮やかだった。彼の髪にもそれらは降りかかっていたけれど、互いの色がおなじだから、どこからが雪でどこからが彼の頭なのか、見分けがつかない。
「帰ろう」彼は前を向いたまま言った。「風邪に捕まる前に」
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