23 浄らかな世界
文字数 6,344文字
その昔どこかの国で起こった、とある国宝級の美術品にまつわる珍妙な事件の話を耳にしたことがある。
それは、うら若き乙女が祈りを捧げる姿を現 した、等身大の彫刻作品だった。
あまりにもその逸品が美しく可憐であったがために、それを一目 見るやいなや完全に正気を失ってしまった一人の男がいた。
美術館の衆目の最中 、彼は無我夢中で飛びつき押し倒した挙句、無残にもその傑作を破壊してしまった。乙女の繊細な髪や指、そしてその身にまとう聖衣や装身具が、ばらばらに折れて砕けて床にちらばった。
当然、男はその場ですぐに取り押さえられた。
しかし哀れな乙女の像は、元通りの姿に修復されるまで、その後三年もの歳月を要することになったという。
それから男がどんな運命を辿ったのかは知らない。たぶんもう生きてはいない気がするけど。
ヴォルフが呼び立てておいた鑑定士が職務を遂行するかたわら、明らかに理性を放棄しつつある様子の男が一人いた。
ヴォルフのすぐ横の壁に背を預けて立つ、年若い男だった。たぶんこの場に集められた男たちのなかでいちばんの年少だと思う。額の中心で左右均等に分けられた長い赤毛が、乱れた呼吸に合わせて振り子のように揺れている。身長も肩幅も平均的だけど、黄土色の安っぽいスーツの下にはでたらめに鍛え上げられた筋肉が膨らんでいる。薄紫色のシャツのボタンが上から三つぶん外されていて、丘陵のように盛り上がった生身の肌がのぞいている。
血走った両目をぎりぎりと細めて、かつて乙女の彫像に飛びかかった愚か者とおなじ轍 を踏まんとする若者は、今まさに正気に別れを告げようとしていた。
「……妙な気を起こすなよ」
仕事を終えた鑑定士を脇に退かせたヴォルフが、若輩者の異変を察知して釘を刺した。
庭に訪れた小鳥を窓越しに観察するような目つきで、ルータも若者に目を向けた。
わたしは濃く淹れた紅茶に温かいミルクと蜂蜜を少し入れて飲みたいなと考えながら、目の前で持ち上がろうとしている茶番をただぼんやり眺めていた。イサクは端 からなにも見ていない。なにかを見ようとさえしていない。さっきから一人で睡魔との戦いに挑んでいるところだ。
軽く目を伏せて、ヴォルフはささやくように忠言を続けた。
「そのままそこでじっとしてろ、フーゴ。こちらの方々に無礼を働いてみろ。俺も、親父たちも、おまえを決して許しはせんぞ」
しかしフーゴと呼ばれた若者は返事をしない。机に置かれた巨大な青い石塊 に、すっかり魂を奪われてしまっている。
ヴォルフが両手に持つ見えないバケツが、急激に重さを増した。
「……フーゴ」地を這うように図太い声で、親分が呼びかける。「おまえ、この俺の言うこ――」
「でもよ、兄貴」
奇妙なほど歯切れ良く、フーゴが言葉を発した。その声質はやはり、いかにも若者らしいそれだった。向こう見ずで、根拠のない自信に満ちて、新鮮な熱意が宿っているけれど、いささか底が浅く説得性に欠ける響き。けれど彼は今のところその声しか持ち合わせていないし、わたしたちのことを自分よりもっと未熟で浅薄 で説得力のない存在だと見做している。そのとおりのことを、彼は言い放つ。
「こんな
「口を閉じろ、フーゴ」抑揚のない口調で、彼の親分が命じる。「そしてもう二度と開くな」
「ふざけやがって」またもや無視して若者は続ける。「まさかこんな、こんな舐 めくさった餓鬼どもを寄越しやがるとはな。組織の実態も、顔ぶれも、その本拠地さえも全くもって不明の、数百年間に渡り鉱晶闇取引の世界で頂点に立ち続ける謎の宝石商一家、〈青い影〉。人前に姿を現すのはこれが十五年ぶりってんで、こっちは死ぬほど気合入れてきたってのによ」
「もうやめとけ、おい」
一歩前へ踏み出した若者の肩を、駆け寄った別の中年男が押し留めた。彼がそうしてくれなかったら、若者の鼻っ柱は親分の拳によって砕かれていたかもしれない。
けれどその身を封じられてもなお、神秘の鉱石に魅入られた若者の欲動 は鎮まらない。
「なにがいけねぇって言うんですか、ヴォルフの兄貴!」栓が抜けたように、フーゴが怒声を張り上げた。「これだけのアリアナイトがありゃあ、俺たちだけで新しい家族を築く足掛かりとしちゃじゅうぶんじゃねぇか。もう親父たちのご機嫌を取る必要もなくなるし、他の兄弟どもに舐められることもなくなるし、そこらをうろつく溝 臭い雑魚どもを丸め込むのだって、朝飯前だ」
若者の同僚たちの反応はさまざまだった。
ひたむきな若い叫びを耳にして、ごくりと唾を呑み込む者。金魚みたいに口をぱくぱくさせる者。薄ら笑いを浮かべる者。そして今にも加勢して飛び出さんと、鼻息を荒くする者。
「それに……」フーゴがさらに唸る。もう彼は仲間に体を抑えられていない。「それにこいつらを締め上げてアジトを吐かせりゃ、きっとそこにはもっとどっさり、極上のアリアナイトが――」
突然、若者の唇の動きが止まった。
それは軽く開かれたまま凍ったように固まり、それから微動だにしない。
あたりは瞬く間に静まり返った。
暖炉のなかで、ぱきっと薪 が爆ぜた。
イサク以外の全員が、若者の口に注目していた。でもそこにはただ小さく暗い洞が空いているだけで、もうなんの音声も、そして空気さえも、全く出入りしていない。
フーゴはそろそろと両手を持ち上げ、自分の喉をつかんだ。
「――かっ」
それが辛 うじて彼に発することのできた声だった。
でも、それきりだ。
見えない力で気道を塞がれた彼は、目玉が飛び出るほど顔全体を赤紫色に膨らませて、誰かに背中を突かれたみたいに前のめりに倒れ込んだ。
しかし彼の膝が床に着くことはなかった。
今や彼の体は、宙に浮いていた。
一斉に、むさ苦しい悲鳴が沸き起こった。
男たちはみなあんぐりと口を開けて、苦しげにもがきながら浮上していく若者の姿を見あげている。
ここまで気分を害しているルータは見るのは、久しぶりだ。
彼はソファで頬杖をついた姿勢のまま、空いている方の手を甲虫 でも摘まみ上げるような形にして、ふんわりと虚空に差し伸ばしていた。
「フーゴ……?」ヴォルフがかすれた息を漏らした。
黒板に直線を一本描くような具合に、ルータは伸ばした手を横にさっと払った。
その拍子に、若者の体はまるで投擲 された槍のような勢いで空中を猛進した。
そして、遠く離れた向かいの壁に顔面から叩きつけられた。
直後、男たちの何人かが懐から拳銃を取り出し、わたしたちに向けた。
けれど彼らが引き金に指を掛けるよりも寸分 早く、わたしとイサクの顕術によって、それらの武器は片っ端から床に叩き落とされた。
そこからさらにちょっと驚かせてみようかしらと思い立ち、わたしは絨毯の上にごろごろと散らばった黒光りする凶器を、どれもこれもめいっぱい絞り切った雑巾みたいに捻 じ曲げてみせた。もちろんソファに座ったまま、手先だけくるくると動かして。
またみっともない悲鳴が次々と沸いた。
しばらくして、ルータがふいに思いだしたように若者の気道を開放してやった。
「――っばはぁっ!」
ちょっと言葉にしたくないいろいろなものを体のあちこちから噴出させて、気の毒なフーゴは床にうずくまって泣きじゃくり始めた。砂漠で水にありついた人のように、大口を開けて酸素を貪 りながら。
「どうか無礼をお赦 しください」直立した姿勢のまま、ヴォルフが声を震わせた。その顔色は、彼の背後の竜の骨よりも白い。唇からも色素が全く失せてしまっている。両手に持っていた見えないバケツの中身は、からっぽだ。「どうか……どうか、お願いします。ご容赦ください」
「僕のことはいいよ」ルータがさっぱりと応じる。「でもこっちの二人に向かって下品な言葉を吐いたことを謝れ」そこで彼は首だけひょいと曲げて、床に転がっている若者を見やった。「今すぐ」
「フーゴ!!」近くの燭台の火が揺れるほどの大声で、ヴォルフが部下を怒鳴りつけた。「とっとと立て。ここへ来い。こちらの方々に謝罪しろ。今すぐ!」
顔じゅうから滴り落ちるものをぐしぐしと拭いながら、若者はどうにか膝を立てた。でもすぐには動くことができない。額や鼻に深い皺がいくつも浮き上がって、なんだか一瞬で二十歳くらい年取ったみたいにみえる。
「早く立ちやがれ、この野郎!」
しびれを切らした彼の親分が、大砲の弾のように駆け出した。そしてその剛腕で若者の首根っこをわしづかみにし、無理やりに起立させた。糸のもつれた操り人形みたいにひょこひょこと足を運び、若者はわたしたちの目の前で再び崩れ落ちた。
「お許しを」頭頂部を床に垂直に突き立てて、フーゴは涙声で詫びた。「申し訳ございませんでした。どうか許してください」
「おまえらもだ!」
鉈 で薙ぎ払うかのごとき親分の叱咤 を受けた他の男たちも、続々と身を投げ出して謝罪の言葉を連発した。
「顔を上げて」わたしは誰にともなく言った。そして冷ややかな目でフーゴの眉間を見据えた。「こちらの彼にも謝りなさい。侮辱する言葉を吐いたことを」
またもや若者は頭を絨毯にめり込ませて、ルータに対して心からの謝罪を表明した。けれどその舌はもはやうまく回らず、意味のある音の形を成していなかった。
あまりの醜態ぶりに堪忍袋の緒を切らした支配人が、いよいよ痛烈な蹴りの一撃を繰り出した。それは這いつくばる若者の顔面に、生涯に渡って残る深い傷を与え――るところだったのだけど、あんまりいたたまれないのでわたしが顕術で阻止してあげた。親分はうめき、子分はさらに嗚咽した。イサクがあくびをした。
顕術の縛りを解かれたヴォルフは、激しく収縮するふいごのような呼吸を懸命に鎮めて、自分の尻をのぞき込むように深々と頭を下げた。
「誠に申し訳ありませんでした」口のなかに棘 を咥えているような声で彼は言う。「何卒ご赦免 ください。此度 のご無礼の責は、すべて私にあります。私がこの場で、すべての断罪をお受けします。ですからどうか、どうかくれぐれも、親父たちには内密に……」
「だから別にいいって」ルータが頬杖を取り払って、軽く肩をすくめた。「謝罪は受け入れた。もういいから、さっさと取引を済ませてしまおう。金庫の中身をそのなかに移せ」ぴしりと机の上を指差す。「そのケーキの箱のなかに」
最悪の事態を覚悟していたヴォルフ一行は、その清々 しいまでの淡白な放免 ぶりに、思わず目を丸くして立ちすくんだ。
わたしはルータの手を取って腕時計をちらりとのぞき、吐息混じりに言った。
「聞こえなかった? すぐに動きなさい」
餌を投げ込まれた池の鯉みたいにてんやわんや入り乱れて、彼らは約束したとおりの対価をケーキの箱に詰めた。それが完了するとわたしたちは素早く席を立った。来た時とおなじく、ルータが箱の持ち手をつかんだ。そして取引相手の頭 に向かって言った。
「じゃ、次回もあったら、その時もよろしく」
素晴らしい取引とあなたがたの器量の海のごとき深さに心からの感謝と敬意をなんたらかんたらと口走りながら、支配人は右手を差し出した。くすっとわたしが吹き出したので、彼はトマトみたいに赤面してすぐに手を引っ込めた。
「二度までも……失礼いたしました」
ルータが薄い笑みを浮かべた。「悪く思わないでくれよ。昔、いたんだ。握手に毒針を忍ばせていた取引相手がね。それ以来やめちゃったんだ、うちの一家は。無用な接触ってやつを」
部屋にいる男たち全員、息を潜めて聞き耳を立てている。
「他には……そうだな」軽く首をかしげて、ルータは続ける。「ありがちな手だけど、飲み物に毒を盛る奴なんかは、何人もいたっけな。待ち合わせ場所に着いた途端、銃弾の雨霰 を浴びせてきた短気な連中もいた。あ、そうそう、床下に仕込んだ猛獣や毒蛇の檻に突き落とそうとしてきた奴らもいた。今思えば、あれはなかなか忘れがたい体験だったな」
ヴォルフは辛うじての笑顔を保持しつつ、骨が軋むほど大きく喉仏を上げ下げした。
「……ま、いろいろあったんだよ」ルータはふっと息を吐いた。まるで、本当に昔を懐かしんででもいるみたいに。「でも、我々〈青い影〉の者が傷を負わされたことは、これまでただの一度たりともない。ご覧のとおり」
「ええ」ヴォルフはうなずく。もう彼の顔の筋肉も限界だ。
「だからね、今夜のことなんか、あとで風呂にでも浸かってるうちに忘れてしまう程度のことなんだ。気にしなくていい。取引は取引、商売は商売だ。それがきちんと遂行されることが第一だし、そもそもそれがすべて……だろ?」
「ええ」ついに愛想笑いを諦めた支配人が、死んだ魚のような顔で同意する。「そのとおりですとも」
「うん。まぁそういうことだから、今夜はみんなゆっくり休んでくれ」言いながらルータはケーキの箱を手に提げた。「最後に、一応言っておく。もし、この街ででも他の街ででも、あるいは世界のどこにおいても、僕らとおぼしき姿を見かけたからといって尾行したり探りを入れたり、あるいは手を出したりなんかするのは、絶対に止 しておいた方がいいからね」
お行儀のよい学童たちのように、男たちはこくこくと首を縦に振った。
「とにかく、商売の正当な応酬とは別の場面で、僕らの手を煩 わせるような真似だけはやめてくれ」穏やかに、しかしそれでいて肌に焼き印を押し付けるような口調で、ルータが告げた。「そんなふうになりたくなかったらな」
そんなふう、というのは、捻 じりドーナツみたいな姿と化してそこらに散乱している拳銃のことを示していた。
「重々 、言い聞かせておきます」
ヴォルフが言った。その声には、一刻も早くシャワーを浴びて一杯やりたいという渇望が滲み出ていた。わたしだってそうよ。
「みなさん、おやすみ」部屋を去り際に振り返り、わたしは言った。「良い夢を」
「おやすみなさい……〈青い影〉」支配人が丁重に一礼した。
冷え込む夜だったので、寄り道なんか考えもせず一目散にアパルトマンに帰った。
夜空に月が眩しかった。でも見ると、半月だ。空気が澄み渡って、街灯も多くが落とされているから、真円を描かずともじゅうぶんに明るい。わたしたちは色付き眼鏡を外して、今しがた目にした愚かしいものどもを洗い流すように、裸眼を月光に晒 して歩いた。
アパルトマンの前庭に入ると、いつもどおり歩道を辿って玄関へ向かった。
サラマノさんの部屋はもう真っ暗だ。最上階のラモーナ一家の部屋は、まだ浴室にだけ小さな明かりが灯っている。
ふと、その隣の照明のない居間の窓辺から、ささやかな視線を感じた。寝巻姿で窓の前にぼんやりと立って、ラモーナが外を眺めていた。けれどこちらが手を振る前に、彼女は部屋の奥へ引っ込んでしまった。あの年齢の子供にしてはずいぶん夜更かしに思えるけれど、おそらくじきに浴室から出てくる母親を待ってでもいるのだろうと、わたしは想像した。あの子はこんな夜遅くにしか、親に甘える時間も持てないのだ。
帰宅するとケーキの箱は居間の床に適当にほっぽり出して、各自入浴と寝支度を済ませると、念願の紅茶をいただいてから、三人で老師の病室へ向かって祈った。
突如ベランダに降り立った白猫のケルビーノが、祈りを捧げるわたしたちの姿を、その金と青の神秘的な瞳で静かに眺めていた。彼女はまるで月から地上へ視察に来た使者のように見えた。あるいは本当にそうかもしれない。誰にそうじゃないと言い切れるだろう。
その夜は月の大地を散歩する夢を見た。象 みたいに大きくなったケルビーノの背中に乗って。月はこの地上と違って浄 らかな世界だった。
それは、うら若き乙女が祈りを捧げる姿を
あまりにもその逸品が美しく可憐であったがために、それを
美術館の衆目の
当然、男はその場ですぐに取り押さえられた。
しかし哀れな乙女の像は、元通りの姿に修復されるまで、その後三年もの歳月を要することになったという。
それから男がどんな運命を辿ったのかは知らない。たぶんもう生きてはいない気がするけど。
ヴォルフが呼び立てておいた鑑定士が職務を遂行するかたわら、明らかに理性を放棄しつつある様子の男が一人いた。
ヴォルフのすぐ横の壁に背を預けて立つ、年若い男だった。たぶんこの場に集められた男たちのなかでいちばんの年少だと思う。額の中心で左右均等に分けられた長い赤毛が、乱れた呼吸に合わせて振り子のように揺れている。身長も肩幅も平均的だけど、黄土色の安っぽいスーツの下にはでたらめに鍛え上げられた筋肉が膨らんでいる。薄紫色のシャツのボタンが上から三つぶん外されていて、丘陵のように盛り上がった生身の肌がのぞいている。
血走った両目をぎりぎりと細めて、かつて乙女の彫像に飛びかかった愚か者とおなじ
「……妙な気を起こすなよ」
仕事を終えた鑑定士を脇に退かせたヴォルフが、若輩者の異変を察知して釘を刺した。
庭に訪れた小鳥を窓越しに観察するような目つきで、ルータも若者に目を向けた。
わたしは濃く淹れた紅茶に温かいミルクと蜂蜜を少し入れて飲みたいなと考えながら、目の前で持ち上がろうとしている茶番をただぼんやり眺めていた。イサクは
軽く目を伏せて、ヴォルフはささやくように忠言を続けた。
「そのままそこでじっとしてろ、フーゴ。こちらの方々に無礼を働いてみろ。俺も、親父たちも、おまえを決して許しはせんぞ」
しかしフーゴと呼ばれた若者は返事をしない。机に置かれた巨大な青い
ヴォルフが両手に持つ見えないバケツが、急激に重さを増した。
「……フーゴ」地を這うように図太い声で、親分が呼びかける。「おまえ、この俺の言うこ――」
「でもよ、兄貴」
奇妙なほど歯切れ良く、フーゴが言葉を発した。その声質はやはり、いかにも若者らしいそれだった。向こう見ずで、根拠のない自信に満ちて、新鮮な熱意が宿っているけれど、いささか底が浅く説得性に欠ける響き。けれど彼は今のところその声しか持ち合わせていないし、わたしたちのことを自分よりもっと未熟で
「こんな
ちび
の青二才に、しょんべんくさい小娘たちですぜ」「口を閉じろ、フーゴ」抑揚のない口調で、彼の親分が命じる。「そしてもう二度と開くな」
「ふざけやがって」またもや無視して若者は続ける。「まさかこんな、こんな
「もうやめとけ、おい」
一歩前へ踏み出した若者の肩を、駆け寄った別の中年男が押し留めた。彼がそうしてくれなかったら、若者の鼻っ柱は親分の拳によって砕かれていたかもしれない。
けれどその身を封じられてもなお、神秘の鉱石に魅入られた若者の
「なにがいけねぇって言うんですか、ヴォルフの兄貴!」栓が抜けたように、フーゴが怒声を張り上げた。「これだけのアリアナイトがありゃあ、俺たちだけで新しい家族を築く足掛かりとしちゃじゅうぶんじゃねぇか。もう親父たちのご機嫌を取る必要もなくなるし、他の兄弟どもに舐められることもなくなるし、そこらをうろつく
若者の同僚たちの反応はさまざまだった。
ひたむきな若い叫びを耳にして、ごくりと唾を呑み込む者。金魚みたいに口をぱくぱくさせる者。薄ら笑いを浮かべる者。そして今にも加勢して飛び出さんと、鼻息を荒くする者。
「それに……」フーゴがさらに唸る。もう彼は仲間に体を抑えられていない。「それにこいつらを締め上げてアジトを吐かせりゃ、きっとそこにはもっとどっさり、極上のアリアナイトが――」
突然、若者の唇の動きが止まった。
それは軽く開かれたまま凍ったように固まり、それから微動だにしない。
あたりは瞬く間に静まり返った。
暖炉のなかで、ぱきっと
イサク以外の全員が、若者の口に注目していた。でもそこにはただ小さく暗い洞が空いているだけで、もうなんの音声も、そして空気さえも、全く出入りしていない。
フーゴはそろそろと両手を持ち上げ、自分の喉をつかんだ。
「――かっ」
それが
でも、それきりだ。
見えない力で気道を塞がれた彼は、目玉が飛び出るほど顔全体を赤紫色に膨らませて、誰かに背中を突かれたみたいに前のめりに倒れ込んだ。
しかし彼の膝が床に着くことはなかった。
今や彼の体は、宙に浮いていた。
一斉に、むさ苦しい悲鳴が沸き起こった。
男たちはみなあんぐりと口を開けて、苦しげにもがきながら浮上していく若者の姿を見あげている。
ここまで気分を害しているルータは見るのは、久しぶりだ。
彼はソファで頬杖をついた姿勢のまま、空いている方の手を
「フーゴ……?」ヴォルフがかすれた息を漏らした。
黒板に直線を一本描くような具合に、ルータは伸ばした手を横にさっと払った。
その拍子に、若者の体はまるで
そして、遠く離れた向かいの壁に顔面から叩きつけられた。
直後、男たちの何人かが懐から拳銃を取り出し、わたしたちに向けた。
けれど彼らが引き金に指を掛けるよりも
そこからさらにちょっと驚かせてみようかしらと思い立ち、わたしは絨毯の上にごろごろと散らばった黒光りする凶器を、どれもこれもめいっぱい絞り切った雑巾みたいに
またみっともない悲鳴が次々と沸いた。
しばらくして、ルータがふいに思いだしたように若者の気道を開放してやった。
「――っばはぁっ!」
ちょっと言葉にしたくないいろいろなものを体のあちこちから噴出させて、気の毒なフーゴは床にうずくまって泣きじゃくり始めた。砂漠で水にありついた人のように、大口を開けて酸素を
「どうか無礼をお
「僕のことはいいよ」ルータがさっぱりと応じる。「でもこっちの二人に向かって下品な言葉を吐いたことを謝れ」そこで彼は首だけひょいと曲げて、床に転がっている若者を見やった。「今すぐ」
「フーゴ!!」近くの燭台の火が揺れるほどの大声で、ヴォルフが部下を怒鳴りつけた。「とっとと立て。ここへ来い。こちらの方々に謝罪しろ。今すぐ!」
顔じゅうから滴り落ちるものをぐしぐしと拭いながら、若者はどうにか膝を立てた。でもすぐには動くことができない。額や鼻に深い皺がいくつも浮き上がって、なんだか一瞬で二十歳くらい年取ったみたいにみえる。
「早く立ちやがれ、この野郎!」
しびれを切らした彼の親分が、大砲の弾のように駆け出した。そしてその剛腕で若者の首根っこをわしづかみにし、無理やりに起立させた。糸のもつれた操り人形みたいにひょこひょこと足を運び、若者はわたしたちの目の前で再び崩れ落ちた。
「お許しを」頭頂部を床に垂直に突き立てて、フーゴは涙声で詫びた。「申し訳ございませんでした。どうか許してください」
「おまえらもだ!」
「顔を上げて」わたしは誰にともなく言った。そして冷ややかな目でフーゴの眉間を見据えた。「こちらの彼にも謝りなさい。侮辱する言葉を吐いたことを」
またもや若者は頭を絨毯にめり込ませて、ルータに対して心からの謝罪を表明した。けれどその舌はもはやうまく回らず、意味のある音の形を成していなかった。
あまりの醜態ぶりに堪忍袋の緒を切らした支配人が、いよいよ痛烈な蹴りの一撃を繰り出した。それは這いつくばる若者の顔面に、生涯に渡って残る深い傷を与え――るところだったのだけど、あんまりいたたまれないのでわたしが顕術で阻止してあげた。親分はうめき、子分はさらに嗚咽した。イサクがあくびをした。
顕術の縛りを解かれたヴォルフは、激しく収縮するふいごのような呼吸を懸命に鎮めて、自分の尻をのぞき込むように深々と頭を下げた。
「誠に申し訳ありませんでした」口のなかに
「だから別にいいって」ルータが頬杖を取り払って、軽く肩をすくめた。「謝罪は受け入れた。もういいから、さっさと取引を済ませてしまおう。金庫の中身をそのなかに移せ」ぴしりと机の上を指差す。「そのケーキの箱のなかに」
最悪の事態を覚悟していたヴォルフ一行は、その
わたしはルータの手を取って腕時計をちらりとのぞき、吐息混じりに言った。
「聞こえなかった? すぐに動きなさい」
餌を投げ込まれた池の鯉みたいにてんやわんや入り乱れて、彼らは約束したとおりの対価をケーキの箱に詰めた。それが完了するとわたしたちは素早く席を立った。来た時とおなじく、ルータが箱の持ち手をつかんだ。そして取引相手の
「じゃ、次回もあったら、その時もよろしく」
素晴らしい取引とあなたがたの器量の海のごとき深さに心からの感謝と敬意をなんたらかんたらと口走りながら、支配人は右手を差し出した。くすっとわたしが吹き出したので、彼はトマトみたいに赤面してすぐに手を引っ込めた。
「二度までも……失礼いたしました」
ルータが薄い笑みを浮かべた。「悪く思わないでくれよ。昔、いたんだ。握手に毒針を忍ばせていた取引相手がね。それ以来やめちゃったんだ、うちの一家は。無用な接触ってやつを」
部屋にいる男たち全員、息を潜めて聞き耳を立てている。
「他には……そうだな」軽く首をかしげて、ルータは続ける。「ありがちな手だけど、飲み物に毒を盛る奴なんかは、何人もいたっけな。待ち合わせ場所に着いた途端、銃弾の
ヴォルフは辛うじての笑顔を保持しつつ、骨が軋むほど大きく喉仏を上げ下げした。
「……ま、いろいろあったんだよ」ルータはふっと息を吐いた。まるで、本当に昔を懐かしんででもいるみたいに。「でも、我々〈青い影〉の者が傷を負わされたことは、これまでただの一度たりともない。ご覧のとおり」
「ええ」ヴォルフはうなずく。もう彼の顔の筋肉も限界だ。
「だからね、今夜のことなんか、あとで風呂にでも浸かってるうちに忘れてしまう程度のことなんだ。気にしなくていい。取引は取引、商売は商売だ。それがきちんと遂行されることが第一だし、そもそもそれがすべて……だろ?」
「ええ」ついに愛想笑いを諦めた支配人が、死んだ魚のような顔で同意する。「そのとおりですとも」
「うん。まぁそういうことだから、今夜はみんなゆっくり休んでくれ」言いながらルータはケーキの箱を手に提げた。「最後に、一応言っておく。もし、この街ででも他の街ででも、あるいは世界のどこにおいても、僕らとおぼしき姿を見かけたからといって尾行したり探りを入れたり、あるいは手を出したりなんかするのは、絶対に
お行儀のよい学童たちのように、男たちはこくこくと首を縦に振った。
「とにかく、商売の正当な応酬とは別の場面で、僕らの手を
そんなふう、というのは、
「
ヴォルフが言った。その声には、一刻も早くシャワーを浴びて一杯やりたいという渇望が滲み出ていた。わたしだってそうよ。
「みなさん、おやすみ」部屋を去り際に振り返り、わたしは言った。「良い夢を」
「おやすみなさい……〈青い影〉」支配人が丁重に一礼した。
冷え込む夜だったので、寄り道なんか考えもせず一目散にアパルトマンに帰った。
夜空に月が眩しかった。でも見ると、半月だ。空気が澄み渡って、街灯も多くが落とされているから、真円を描かずともじゅうぶんに明るい。わたしたちは色付き眼鏡を外して、今しがた目にした愚かしいものどもを洗い流すように、裸眼を月光に
アパルトマンの前庭に入ると、いつもどおり歩道を辿って玄関へ向かった。
サラマノさんの部屋はもう真っ暗だ。最上階のラモーナ一家の部屋は、まだ浴室にだけ小さな明かりが灯っている。
ふと、その隣の照明のない居間の窓辺から、ささやかな視線を感じた。寝巻姿で窓の前にぼんやりと立って、ラモーナが外を眺めていた。けれどこちらが手を振る前に、彼女は部屋の奥へ引っ込んでしまった。あの年齢の子供にしてはずいぶん夜更かしに思えるけれど、おそらくじきに浴室から出てくる母親を待ってでもいるのだろうと、わたしは想像した。あの子はこんな夜遅くにしか、親に甘える時間も持てないのだ。
帰宅するとケーキの箱は居間の床に適当にほっぽり出して、各自入浴と寝支度を済ませると、念願の紅茶をいただいてから、三人で老師の病室へ向かって祈った。
突如ベランダに降り立った白猫のケルビーノが、祈りを捧げるわたしたちの姿を、その金と青の神秘的な瞳で静かに眺めていた。彼女はまるで月から地上へ視察に来た使者のように見えた。あるいは本当にそうかもしれない。誰にそうじゃないと言い切れるだろう。
その夜は月の大地を散歩する夢を見た。
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