49 嵐の前の静けさ
文字数 2,486文字
一晩かけてすべての片付けを終えたルータが、病室へ戻ってきた。ちょうど入院患者たちの朝食が終わって食器が回収されていく、午前中でいちばん病棟が慌ただしくなる時間帯のことだった。
彼は老師の息遣いを確かめると、わたしたちに向かって無言でほほえみかけた。逆の立場だったら、わたしもきっとそうしていたと思う。今朝お手洗いに行った時に鏡を見たら、我ながら気の毒に思えるくらい、両目が真っ赤に腫れていたから。
「二人は、なにか食べたかい」濃い隈 の浮いた目もとを擦りながら、ルータが訊いた。
「少し」イサクがこたえる。「ルータ兄ぃは」
彼は首を振る。
そして椅子に座り、少し声を落として話す。
「部屋はもぬけの殻にしてきた。不要品は一つ残らず手放して、居間に積んであったきみたちの私物と、僕のものと、必要なぶんの家財や貴重品なんかは、貸倉庫に全部突っ込んできた」
「ありがとう」ベッドの端に腰かけてわたしは言う。
「そのうち落ち着いたら、取りに戻ろう」
いっとき三人とも口をつぐみ、窓の外の怖いくらいに底抜けの青空を見つめた。
「今日はいいお天気だよ、じいちゃん」
老師の肩に頬を載せているイサクが、彼の寝顔に語りかけた。
「だがこいつは、嵐の前の静けさなんだとさ」ルータが空の彼方を睨む。「下階 で会った受付のお嬢さんが言ってた」
「また吹雪 くの?」わたしは顔をしかめた。
「らしいよ」
「それじゃ、やっぱり早めに運び込んでおいて正解だったってわけね」わたしは目を細めて太陽を一瞥する。そしてルータの方を向く。「もうこっちに来てるんでしょ。王国軍のカセドラ」
彼は肩をすくめる。「らしいね」
そこで誰かが病室のドアをノックした。
「シュロモ先生かな」ルータが立ち上がる。
「でも先生ならさっきここへ立ち寄られたばかりよ」わたしが言う。「看護士のかたじゃないかしら」
「そうか。……はい、どうぞ」
しかし呼びかけに応じてそっとドアを開けたのは、眩 い金髪の青年だった。
「おはよう」密談をするような細い声で、テンシュテットは言う。「お邪魔してもかまわないかな」
「やぁ、テン。おはよう」ルータが笑顔を浮かべる。「もちろんいいとも。こっちへ」
ルータは自分が座っていた椅子を差し出す。けれど青年はそれを断り、立ったままさっと室内と窓の外を見回した。
目が合ったので、わたしは軽く会釈をした。
「おはよう」
「おはよう、リディアさん」彼はにこりとほほえむ。そして続けて声をかける。「イサクさんも、おはよう」
「うん」顔も上げずに彼女は一言返す。
「どうしたんだい、今日は」
ルータが老師のベッドを挟んで青年と向き合った。
「今しがた、きみたちの部屋を訪ねたところだったんだ」テンシュテットは言う。「でも誰もいなかったから、もしやと思って……」
彼は言い淀み、眠りこける老師の面 へ視線を落とした。
「そういうことだよ」ルータがさらりと言う。
「……そうか」青年は笑みを引き払い、しずしずと目を伏せた。「残念だよ。是非一度、お話ししてみたかった」
「きみとは話が合っただろうなぁ」ルータが寂しげに笑う。「だけどもう、どうしようもない」
「ルータ。リディアさん。イサクさん」テンシュテットは厳 かに、でもくっきりとした声で、わたしたちの名を呼んだ。「胸中、お察しします。でもどうか、あまり力を落とさないで。みんなまで体を壊したら、僕は余計に悲しいよ」そして彼はじっと老師を見つめる。「それに、おじいさんこそ、きっと誰よりもみんなに元気でいてほしいと願っているはずだ」
「ありがとう」
ここで初めて顔を上げてまともに相手の目を見て、イサクが言った。わたしとルータも、それに続いた。
するとその途端、青年の表情が険しくなった。
「どうかしたかい」ルータが目を丸くする。
「……ルータ。きみ、最後に食べ物を口にしたのはいつだ?」
「え? ……はて。そういや、いつだったっけ」
「酷い顔色だ」テンシュテットは呆れたように首を振る。「それにきっと、昨夜も寝てないんだろ」
ルータは軽く肩をすくめる。
「お二人は?」青年がこちらを見やる。
「わたしたちは少し眠ったし、朝ご飯もさっきいただいたところ」わたしがこたえる。
青年はうなずき、それからまた郷里のお袋さんみたいな顔に戻って、不健康な生活を送る息子を叱責するように言い放つ。
「なにか食べなくちゃだめだ。気が気でないのは重々承知だけど、きみまで倒れたんじゃ元も子もないだろ。おじいさんの容態が落ち着いておられるうちに、少しでも力をつけておかなくちゃ。ちょうど僕も朝食がまだだったから、今から一緒にひとっ走りして食べてこよう」
「いや、でも……」思わず後ずさりして、ルータは気掛かりな目を老師とわたしたちに向ける。
「行ってくるといいわ」わたしは言う。「彼の言うとおりよ。まだ少し時間はあると思うし、二人で食べてきなよ。いいよね、イサク」
同意を求められた彼女は、祖父の寝顔を見つめたまま短くうなずく。
「……じゃあ、行ってくるかな」ルータが頭を掻きながら言った。
「行ってらっしゃい」わたしはうなずく。「お腹いっぱい食べといで」
そうして彼は、連行されるように背中を押されて部屋を後にした。
しかしドアを閉じるその間際、一瞬ちらりと、こちらを振り返った。
その憂いを湛 えたまなざしが、どんな言葉よりも雄弁に、彼の心の内を物語っていた。
わたしもまた彼を見つめ返し、胸の内から声なき声をかけた。
……ええ、きっと当分のあいだ、彼とも会えなくなるわ。最後の食事を、楽しんでらっしゃい。……
二人が出ていってしまうと、部屋は急にしんとなった。廊下や近隣の病室から伝わってくる物音や話し声も、今朝はまるで貴重な青空の均衡を崩さないよう気を付けてでもいるみたいに、ひっそりとした響き方をしている。
「リディア」
はっとするほど張り詰めた声で、イサクがわたしを呼んだ。
振り向くと、彼女はかすかに頬を青くしてわたしを見あげていた。
「どうしたの」わたしは思わず一歩前進した。
「あの二人を見てきて」彼女は言った。「なんだかちょっと、胸騒ぎがする」
彼は老師の息遣いを確かめると、わたしたちに向かって無言でほほえみかけた。逆の立場だったら、わたしもきっとそうしていたと思う。今朝お手洗いに行った時に鏡を見たら、我ながら気の毒に思えるくらい、両目が真っ赤に腫れていたから。
「二人は、なにか食べたかい」濃い
「少し」イサクがこたえる。「ルータ兄ぃは」
彼は首を振る。
そして椅子に座り、少し声を落として話す。
「部屋はもぬけの殻にしてきた。不要品は一つ残らず手放して、居間に積んであったきみたちの私物と、僕のものと、必要なぶんの家財や貴重品なんかは、貸倉庫に全部突っ込んできた」
「ありがとう」ベッドの端に腰かけてわたしは言う。
「そのうち落ち着いたら、取りに戻ろう」
いっとき三人とも口をつぐみ、窓の外の怖いくらいに底抜けの青空を見つめた。
「今日はいいお天気だよ、じいちゃん」
老師の肩に頬を載せているイサクが、彼の寝顔に語りかけた。
「だがこいつは、嵐の前の静けさなんだとさ」ルータが空の彼方を睨む。「
「また
「らしいよ」
「それじゃ、やっぱり早めに運び込んでおいて正解だったってわけね」わたしは目を細めて太陽を一瞥する。そしてルータの方を向く。「もうこっちに来てるんでしょ。王国軍のカセドラ」
彼は肩をすくめる。「らしいね」
そこで誰かが病室のドアをノックした。
「シュロモ先生かな」ルータが立ち上がる。
「でも先生ならさっきここへ立ち寄られたばかりよ」わたしが言う。「看護士のかたじゃないかしら」
「そうか。……はい、どうぞ」
しかし呼びかけに応じてそっとドアを開けたのは、
「おはよう」密談をするような細い声で、テンシュテットは言う。「お邪魔してもかまわないかな」
「やぁ、テン。おはよう」ルータが笑顔を浮かべる。「もちろんいいとも。こっちへ」
ルータは自分が座っていた椅子を差し出す。けれど青年はそれを断り、立ったままさっと室内と窓の外を見回した。
目が合ったので、わたしは軽く会釈をした。
「おはよう」
「おはよう、リディアさん」彼はにこりとほほえむ。そして続けて声をかける。「イサクさんも、おはよう」
「うん」顔も上げずに彼女は一言返す。
「どうしたんだい、今日は」
ルータが老師のベッドを挟んで青年と向き合った。
「今しがた、きみたちの部屋を訪ねたところだったんだ」テンシュテットは言う。「でも誰もいなかったから、もしやと思って……」
彼は言い淀み、眠りこける老師の
「そういうことだよ」ルータがさらりと言う。
「……そうか」青年は笑みを引き払い、しずしずと目を伏せた。「残念だよ。是非一度、お話ししてみたかった」
「きみとは話が合っただろうなぁ」ルータが寂しげに笑う。「だけどもう、どうしようもない」
「ルータ。リディアさん。イサクさん」テンシュテットは
「ありがとう」
ここで初めて顔を上げてまともに相手の目を見て、イサクが言った。わたしとルータも、それに続いた。
するとその途端、青年の表情が険しくなった。
「どうかしたかい」ルータが目を丸くする。
「……ルータ。きみ、最後に食べ物を口にしたのはいつだ?」
「え? ……はて。そういや、いつだったっけ」
「酷い顔色だ」テンシュテットは呆れたように首を振る。「それにきっと、昨夜も寝てないんだろ」
ルータは軽く肩をすくめる。
「お二人は?」青年がこちらを見やる。
「わたしたちは少し眠ったし、朝ご飯もさっきいただいたところ」わたしがこたえる。
青年はうなずき、それからまた郷里のお袋さんみたいな顔に戻って、不健康な生活を送る息子を叱責するように言い放つ。
「なにか食べなくちゃだめだ。気が気でないのは重々承知だけど、きみまで倒れたんじゃ元も子もないだろ。おじいさんの容態が落ち着いておられるうちに、少しでも力をつけておかなくちゃ。ちょうど僕も朝食がまだだったから、今から一緒にひとっ走りして食べてこよう」
「いや、でも……」思わず後ずさりして、ルータは気掛かりな目を老師とわたしたちに向ける。
「行ってくるといいわ」わたしは言う。「彼の言うとおりよ。まだ少し時間はあると思うし、二人で食べてきなよ。いいよね、イサク」
同意を求められた彼女は、祖父の寝顔を見つめたまま短くうなずく。
「……じゃあ、行ってくるかな」ルータが頭を掻きながら言った。
「行ってらっしゃい」わたしはうなずく。「お腹いっぱい食べといで」
そうして彼は、連行されるように背中を押されて部屋を後にした。
しかしドアを閉じるその間際、一瞬ちらりと、こちらを振り返った。
その憂いを
わたしもまた彼を見つめ返し、胸の内から声なき声をかけた。
……ええ、きっと当分のあいだ、彼とも会えなくなるわ。最後の食事を、楽しんでらっしゃい。……
二人が出ていってしまうと、部屋は急にしんとなった。廊下や近隣の病室から伝わってくる物音や話し声も、今朝はまるで貴重な青空の均衡を崩さないよう気を付けてでもいるみたいに、ひっそりとした響き方をしている。
「リディア」
はっとするほど張り詰めた声で、イサクがわたしを呼んだ。
振り向くと、彼女はかすかに頬を青くしてわたしを見あげていた。
「どうしたの」わたしは思わず一歩前進した。
「あの二人を見てきて」彼女は言った。「なんだかちょっと、胸騒ぎがする」
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