19 お近付きのしるし
文字数 2,610文字
「どうぞ」
テンシュテット・レノックスが言った。口もとには、少年のような、あるいはともすれば少女のような、初々 しいほほえみ。
「すみません。ありがとうございます」
念のため体内の発顕因子を封じながら、わたしは微笑を返した。そして渡された本を手に取った。
「偶然あなたがたのお姿をお見かけして、もしやと思ったんです」笑顔を絶やすことなく彼は言う。「見間違いじゃなくてよかった。僕のこと、覚えておいでですか」
わたしたち三人は、蝋 で固めたように表情を落ち着かせて、なにげない所作で顔を見あわせた。
今、王国軍の特殊部隊を率いる人間が、文字どおり、目と鼻の先に立っている。
相手の体のどこに目の焦点を置いたらいいのかわからないほどの近さだ。
この距離では、もはやどんな対応策も練ることができない。
各自が、ひたすらに無難な応対を心掛けるしかない。
「あぁ。たしか……」ルータが指先を顎に添えて、余所行 きの声で応じる。「あの、道端 でペンキがひっくり返った時の……」
「そうです」金髪の青年はにっこりと笑みを広げた。ほんの少し八重歯なのが、その時初めてわかった。「あれから、ご予定に支障など出ませんでしたか」
「いいえ。特には」ルータは首を振った。
青年は、前回見かけた時と全くおなじ服装をしていた。でも今はヘルメットはかぶっていない。それだから、眩 いばかりの金髪が惜しげなく披露されている。丁寧に櫛 を入れた形跡があるけれど、横のところがちょっとだけ寝癖かなにかのせいで跳ねている。
彼はその腕のなかに、まったくおなじ本を二冊、大事そうに抱えていた。でもなぜか一冊は裸のままで、もう一冊には赤いリボンが掛けてある。
「あなたも『クーレンカンプ』の愛読者ですか」レノックスがたずねた。
「え?」ルータは自分が小脇に抱えている本を一瞥し、そして青年が持つおなじ本に目を留めた。「あ、ええ。そうなんです。子供の頃からずっと読み続けているもので」
青年は頬を熟れた桃みたいな色に染めた。
「僕もです。けっこういい齢 になってしまいましたが、この作品を前にすると、少年時代に心が戻ってしまいます」彼は表紙をじっと見つめながら、照れくさそうに苦笑する。「しかし、二冊買うのはちょっと一苦労でした。なんでも、こういう人気作を個人が複数購入するのは、あまり褒められたことではないようで……。一冊は自分のため、もう一冊は妹への贈り物だと言ったら、どうにか承知してもらえました。あぁ、妹というのは、このあいだ僕と一緒にいた彼女のことです」
わたしたちはうなずいた。
「妹もこの物語に目がないんです。やはり、子供の頃から」
青年は本を抱え直して言った。それだけだった。あの時の騒動についての言及は、なにもなかった。わたしたちは内心、ほっとしていた。ペンキの缶が不自然に吹き飛ぶところを彼が通りの向こうから目撃していたのかどうか定かでなかったことが、あれ以来ずっと気掛かりだったのだけれど、それについて彼がわたしたちになにかを確認するようなことはなかった。
ふいに、イサクが左右の脚の重心を移すふりをして、靴の爪先をルータの踵 にちょんと当てた。わたしにはそれが見えた。もちろん、それがなにを伝えているのか、彼女の兄もわたしも瞬時に理解した。そして当然ながら、その提案に異論はなかった。
「ところで……」
しかしこちらが辞去の台詞 を用意するより先に、レノックスが口を開いた。
「みなさん、昼食がまだのご様子ですね」
その指摘から、彼がしばらく前にわたしたちが交わした会話を耳にしていたことが判明した。いったい、いつから近くに来ていたんだろう。わたしたち、変なこと話してなかったよね?
「立ち聞きするつもりは全くなかったのですが」彼は軽く頭を下げた。「どうかお許しください。たまたま、耳に入ってしまったものですから」
「いえ」
わたしは和 やかに首を振った。実際よくあることだから、別に責めるほどのことでもない。
青年はふっと相好 を崩し、軽く胸を反らせて息を調えた。
そして言った。
「それで、あの、突然ですが、僕からご提案があります。……もしよかったら、これから食事をご一緒しませんか」
想定の遥か遠い枠外 から飛来した申し出だった。
わたしたちは物の見事に絶句した。
「どうやら今のところは、急ぎの用向きもお持ちじゃないようですし」
レノックスが無邪気に続けた。
イサクの唇の端がぴくりと震えた。我慢して、とわたしは心のなかで祈った。舌打ちなんかしちゃだめよ。
「いきなりお誘いして、驚かれるのも無理はありませんね」当惑するわたしたちの顔を見渡して、青年は言う。「というか実を言うと、僕もこんなことをするのは生まれて初めてなんです。僕、テンシュテット・レノックスといいます。ホルンフェルス王国から、出張で先週この街へやって来たばかりです。こちらには仕事仲間や妹の他に話し相手もいないものですから、なんだか気が塞がってしまって……。僕が滞在しているホテルに、なかなか素敵なレストランがあるんです」
知ってる、とわたしは胸中でつぶやいた。
「いつ行ってもお客でいっぱいなんですが、僕は宿泊者優先券があるので、すぐに席を案内してもらえるんです。あそこには、その……ケバブも、魚も、ドーナツもありますよ」
わたしは思わず吹き出しそうになるのをこらえて、兄妹の様子を横目でうかがった。二人もまた、鼻の穴をぴくぴくさせていた。全部揃うお店、あったね。
「いかかでしょうか? お近付きのしるしに、今日は僕にごちそうさせていただけませんか」
ぱたん、と乾いた音がして、どこか遠くの方で〈彼の申し出を断る〉と書かれたカードが倒れてしまったような感触があった。そして風が吹いて、そのカードは彼方へと吹き飛ばされていってしまった。わたしたちには、それがわかった。わかってしまった。
腹を括 るしかない。
きっかり十秒の間を置いて、ルータがうなずいた。
「それでは……お言葉に甘えさせていただくことにします」
まるで雲が晴れたみたいに、レノックスは表情を輝かせた。そして、ほんの一瞬ためらってから、意を決して右手を前へ差し出した。
ちょっと面食らいはしたみたいだったけど、それでもルータは、それを丁寧に握り返した。
思えばこれが、互いの生涯において最後の時まで忘れることのない無二の親友どうしとなる二人の、最初の接触だった。
テンシュテット・レノックスが言った。口もとには、少年のような、あるいはともすれば少女のような、
「すみません。ありがとうございます」
念のため体内の発顕因子を封じながら、わたしは微笑を返した。そして渡された本を手に取った。
「偶然あなたがたのお姿をお見かけして、もしやと思ったんです」笑顔を絶やすことなく彼は言う。「見間違いじゃなくてよかった。僕のこと、覚えておいでですか」
わたしたち三人は、
今、王国軍の特殊部隊を率いる人間が、文字どおり、目と鼻の先に立っている。
相手の体のどこに目の焦点を置いたらいいのかわからないほどの近さだ。
この距離では、もはやどんな対応策も練ることができない。
各自が、ひたすらに無難な応対を心掛けるしかない。
「あぁ。たしか……」ルータが指先を顎に添えて、
「そうです」金髪の青年はにっこりと笑みを広げた。ほんの少し八重歯なのが、その時初めてわかった。「あれから、ご予定に支障など出ませんでしたか」
「いいえ。特には」ルータは首を振った。
青年は、前回見かけた時と全くおなじ服装をしていた。でも今はヘルメットはかぶっていない。それだから、
彼はその腕のなかに、まったくおなじ本を二冊、大事そうに抱えていた。でもなぜか一冊は裸のままで、もう一冊には赤いリボンが掛けてある。
「あなたも『クーレンカンプ』の愛読者ですか」レノックスがたずねた。
「え?」ルータは自分が小脇に抱えている本を一瞥し、そして青年が持つおなじ本に目を留めた。「あ、ええ。そうなんです。子供の頃からずっと読み続けているもので」
青年は頬を熟れた桃みたいな色に染めた。
「僕もです。けっこういい
わたしたちはうなずいた。
「妹もこの物語に目がないんです。やはり、子供の頃から」
青年は本を抱え直して言った。それだけだった。あの時の騒動についての言及は、なにもなかった。わたしたちは内心、ほっとしていた。ペンキの缶が不自然に吹き飛ぶところを彼が通りの向こうから目撃していたのかどうか定かでなかったことが、あれ以来ずっと気掛かりだったのだけれど、それについて彼がわたしたちになにかを確認するようなことはなかった。
ふいに、イサクが左右の脚の重心を移すふりをして、靴の爪先をルータの
「ところで……」
しかしこちらが辞去の
「みなさん、昼食がまだのご様子ですね」
その指摘から、彼がしばらく前にわたしたちが交わした会話を耳にしていたことが判明した。いったい、いつから近くに来ていたんだろう。わたしたち、変なこと話してなかったよね?
「立ち聞きするつもりは全くなかったのですが」彼は軽く頭を下げた。「どうかお許しください。たまたま、耳に入ってしまったものですから」
「いえ」
わたしは
青年はふっと
そして言った。
「それで、あの、突然ですが、僕からご提案があります。……もしよかったら、これから食事をご一緒しませんか」
想定の遥か遠い
わたしたちは物の見事に絶句した。
「どうやら今のところは、急ぎの用向きもお持ちじゃないようですし」
レノックスが無邪気に続けた。
イサクの唇の端がぴくりと震えた。我慢して、とわたしは心のなかで祈った。舌打ちなんかしちゃだめよ。
「いきなりお誘いして、驚かれるのも無理はありませんね」当惑するわたしたちの顔を見渡して、青年は言う。「というか実を言うと、僕もこんなことをするのは生まれて初めてなんです。僕、テンシュテット・レノックスといいます。ホルンフェルス王国から、出張で先週この街へやって来たばかりです。こちらには仕事仲間や妹の他に話し相手もいないものですから、なんだか気が塞がってしまって……。僕が滞在しているホテルに、なかなか素敵なレストランがあるんです」
知ってる、とわたしは胸中でつぶやいた。
「いつ行ってもお客でいっぱいなんですが、僕は宿泊者優先券があるので、すぐに席を案内してもらえるんです。あそこには、その……ケバブも、魚も、ドーナツもありますよ」
わたしは思わず吹き出しそうになるのをこらえて、兄妹の様子を横目でうかがった。二人もまた、鼻の穴をぴくぴくさせていた。全部揃うお店、あったね。
「いかかでしょうか? お近付きのしるしに、今日は僕にごちそうさせていただけませんか」
ぱたん、と乾いた音がして、どこか遠くの方で〈彼の申し出を断る〉と書かれたカードが倒れてしまったような感触があった。そして風が吹いて、そのカードは彼方へと吹き飛ばされていってしまった。わたしたちには、それがわかった。わかってしまった。
腹を
きっかり十秒の間を置いて、ルータがうなずいた。
「それでは……お言葉に甘えさせていただくことにします」
まるで雲が晴れたみたいに、レノックスは表情を輝かせた。そして、ほんの一瞬ためらってから、意を決して右手を前へ差し出した。
ちょっと面食らいはしたみたいだったけど、それでもルータは、それを丁寧に握り返した。
思えばこれが、互いの生涯において最後の時まで忘れることのない無二の親友どうしとなる二人の、最初の接触だった。
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