第64話  亮介の場合  再びの

文字数 1,511文字

 昼近くに海に出掛けた。午前中はホテルでのんびりと過ごした。
何故なら小雨が降っていたから。
雨が上がったので海に出掛けて来たのだ。

青空が広がる。
「雨が上がって良かったね」
和巳が言った。
海では沢山の人がシュノーケリングなどをして遊んでいた。

 俺達家族は石垣島の海に来ていた。

 海の中で魚を追い掛けた。底の砂に平べったく張り付いた「ヒラメ」を見付け、それをみんなでしつこく追い掛けた。「ヒラメ」は、ぱっと飛び上がるとヒラヒラと泳いで少し離れた場所に着地する。それに指先を近付ける。跳び立った所をまた追い掛ける。そんな事をして楽しんだ。
 青紫のルリスズメダイがあちらこちらで見られる。鮮やかな黄色のキイロハギや模様の綺麗なムラサメモンガラもいる。
岩場の所ではオレンジと白の小さなカクレクマノミが巣の近くで泳いでいる。
俺達を警戒しているのか、イソギンチャクの所から出たり入ったりしていた。
それを眺めて楽しんだ。
あちらこちらの岩場に渡って遊び続けた。
本当に海の中はいくらいても飽きる事はない。

梨乃とパラソルの下に戻る。

「はい。パパ」
テーブルの上にビールとオレンジジュースが置かれた。
「有難う」
俺は梨乃に言った。


 梨乃はジュースを飲み終わると、さっそくゴーグルを持って立ち上がった。
「和巳とあの岩の所にいるね」
梨乃は言った。
俺は頷いた。

 歩いて行く梨乃の後ろ姿が英子に重なる。
俺は5年前、家族を追い掛けてこの場所に来た時の事を思い出した。
同じホテル。
同じビーチ。
同じ風景。
英子だけがいない。


 一年前の夏、英子は亡くなった。
夕方の仕事帰りだった。アクセルとブレーキを踏み違えた高齢者の車にはねられたのだ。
自転車に乗っていた英子は激しく転倒し、頭を強打し、意識不明の状態だった。
 一年延期したオリンピックが終わってコロナが猛威を振るっていた第5波の時だった。日本の医療はコロナに圧迫され、救急車で何時間も盥まわし、などという事が起きていた頃だ。あちらこちらで院内感染や高齢者施設での感染が起きていた。
そんな時期だった。

 緊急事態宣言を発出しても、コロナ患者は増える一方で・・今にも医療崩壊が起きて、
・・いや、起きていたのだ。今思えば。あれは完全に医療崩壊だった。
 高齢者のワクチン接種が進み、やっと高齢者の重篤患者が減って来た。
そんな時期だった。
 英子は病院に運び込まれた次の朝に亡くなってしまった。
47歳だった。

勿論、誰も病院には行けなかった。看取りも出来なかった。
俺は生死の境を彷徨う英子の耳元で「こっちだ。こっちに帰って来るんだ。英子。頑張るんだ」と言うことも、温かいその頬に手を置いて「逝くな。英子。俺を置いて逝くな」と泣くことも出来なかった。


 英子はコロナに感染をしていた訳ではなかったので、遺体は帰って来た。
昨日はいつもの様に行って来ますと言って、元気に出て行ったのに。
俺達家族は茫然とするばかりだった。現実の出来事とは思えなかった。

 ほんの一日前の昨日があまりにも遠く感じた。
俺は家に帰って来た英子の傍を離れることもなく、ぼんやりと座り続けた。
子供達は冷たくなった英子に取り縋って泣いた。

 葬儀屋との打ち合わせも、何をどう話したのかあまり覚えていない。駆け付けた英子の姉夫婦が全て取り仕切ってくれた。何もかもが悪い夢に思えた。

近くの斎場で身内のみで静かに英子を見送った。

 その火葬場ではコロナで亡くなった人の火葬も受けていた。
 駐車場には家族の火葬にも立ち会えなかった家族が火葬場の職員からお骨の入った箱を受け取っていた。

 運転手は87歳の男性だった。
俺は彼を絶対に赦さない。

 あの、悪夢の様な日から1年が過ぎようとしていた。

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