第23話  梨乃の場合  クラゲ

文字数 869文字

「おい。どこへ行くんだ!」
パパの大声が聞こえて、慌ててドアを開けた。
「ウォーキングに行くから。放って置いて!」
ママは捨て台詞を残してドアから出て行ってしまった。
夫婦喧嘩だ。・・・珍しい。
振り向いたパパの顔を見てすぐにドアを閉めた。

机に向かって英語の学習を続ける。
頭には、シャーと急坂を下りる自分の姿が浮かぶ。ものすごい速さだ。
「キャー!!」と叫んで、ハンドルを切り損ね、ばん!と橋に激突する。
「あ~れ~」と言って空高くぽーんと放り出される。
一瞬ぽわんと浮いて、そのまま海に自由落下。どんどん海面が近付き、私は飛び込みの選手みたいにスマートに海に飛び込む。
ザブン。
ぶくぶくと沈む。
落下が止ったら、すいすいと水面に向かって泳ぐ。
ぽかりと顔を出す。
そしてクラゲみたいにぷかぷかと海に浮かぶのだ。

それを繰り返す。
「キャー!」
「ばん!」
「あ~れ~」
「ぽーん」
「ぽわん・・・」
「ざぶん」
「ぶくぶく」
「すいすい」
「ぽっかり」
「ぷかぷか」・・・。
場面に合わせて英単語をリズム良く書いていたが、いつの間にか手が止った。


ふとした拍子にその場面が脳裏に浮かぶ。
繰り返し。繰り返し。
そうするとそれに心が囚われる。
大海原でぷかぷかと浮いている自分。たった一人。
その気分は決して悪いものではなかった。特別悲しくもないし、寂しくもない。かと言ってすごく楽しい訳でもないが。中の上辺りと言う所か。
私は空っぽだった。だから心が軽い。
結局自分には何も出来ないから呑気にそこに浮いているしかないのだ。まあ、その内、波がどこかへ運んでくれるだろう。良くも悪くも。辿り着いた場所で生きて行くしかないのだ。
梨乃には選択権は無い。
だからいい気分で浮いていられるならそれでいい。
何故かそんな風に考えられる様になって、心が軽くなった。
だって、私はクラゲだし・・。

そんな事を考えていると、ママの足音がした。
ドアをノックする音。
「梨乃」
ママの声がした。
「はい」
返事をした。
ママが顔を出した。
「御免ね。梨乃。和巳の事でちょっと喧嘩になったの。もう大丈夫。仲直りしたから」
ママはにっこりと笑った。
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