第5話  亮介の場合  荒野と北風と子供

文字数 3,337文字

明け方近くに夢を見た。
見渡す限りの枯れ草の波。それしかない。
どこまでも続く荒野は視界の果てで空と交わる。
見上げた空は灰色で重い雲が掛かっていた。冷たい北風がびゅうびゅうと吹いて草を揺らす。
そこにいたのはたった一人の幼子だった。幼子は荒野の中に立ち尽くす。
俺には幼子の気持ちが手に取る様に分かった。

子供は自分をここに置いて立ち去った親を探しているのだ。こんな寂しい場所に。
泣きながら親を呼ぶ。顔を覆って泣き崩れるが、誰にもその声は届かない。子供の心は寂しさと不安で一杯になる。
 厚い雲に覆われた空の向こう側に太陽がある。太陽に北風を追いやる力はない。
寒くて心細くて悲しくて子供は走り出す。
力の限り親を呼ぶ。

じっと耳を澄ませる。
ただ風の音だけが聞こえた。
幼子は疲れ果て虚ろな表情に涙を浮かべながらどこへともなくとぼとぼと歩き出した。


 ふと目覚めた。
 あまりの悲しさに胸が痛くなった。思わず胸に手を置いた。
あの子は一体誰だろうと思った。
男の子だった様に思えたが・・・。
俺はこの風景の中のどこにもいない。
だが、子供を見ている。
俺は幼児本人で在りながら観察者でもあった。
子供の悲しさが胸に迫った。


子供が誰かは分からないが、置いて行った人間は分かる。
それは俺だ。
あんな場所にたった一人子供を置いて行くはずがない。愛しい子供を。現実であるなら。
だが、夢の中で置いて行ったのは俺なのだ。
俺は自分が置いて行った子供の悲しさを知る。
余りの心細さと悲しさと罪悪感で居た堪れない気分になった。

部屋にはブラインドを通して朝の光が差し込んでいた。
時計を確認すると5時。
英子はすうすうと寝息を立てて眠っている。

俺は立ち上がって英子のベッドに寄り、顔を覗き込んだ。
涙の痕が頬に付いていた。
悲しい夢でも見たのだろう。

泣いていた子供は英子なのか?

ふとそんな考えが浮かんだ。
思わず打ち消した。馬鹿馬鹿しい。ただの夢だ。何の意味もない。
だが、何か不思議な偶然の一致を感じさせた。

昨夜、具合が悪いと言っていたのに、すぐに帰って来なかった罪悪感があんな夢を見せたのだろう。
 俺はベッドに戻ると寝転がった。

 昨日はエリと約束をしていた。だからいつもの様に残業で遅くなると家に電話を入れた。
英子が出なかったので、和巳に電話を入れた。梨乃は残業と聞くと、あからさまに不機嫌な口調で応対するから避けた。本当に梨乃は扱い難い。今がこれなら、その先どうなってしまうのかと心配になる。だが、中二の今がピークなのかなとも思う。それを願う。

「ママの具合が悪い」
和巳はそう言った。
「熱があるの?」と聞くと「熱はない」と答えた。
熱が無いなら大したことは無いなと思った。
俺は迷っていた。
ほんの少しなら良いんじゃないか?
そう決めた。
彼女に会うのは久しぶりだったから。

その後、2月から派遣で来ている新人のミスが発覚した。新人と言ってもおばさんだけど。
仕分けミス。何でこんなミスをするかなと思ったが、そのせいで帰れなくなった。
頭に来て「簿記は出来るって言っていましたよね?」って聞いたら「3級を持っています」と真顔で答えた。
おばさんは定時になったら「時間ですから」と言って帰ってしまった。俺は一人で今月分をチェックし直した。
忙しいのに勘弁してくれよと思った。
だが、仕方が無い。一応俺の部下だから。

だから残業は嘘ではない。けれどそれは8時前には終わった。
俺は時計を見て、今日は仕方が無いなと思った。

「今日は遅くなったから帰るから」
そう、エリに電話を入れた
すると彼女は夕食を作って待っていると言った。
「本屋で料理本を買ったのよ。あなたの為に作ったの」
俺はエリに言った。
「家には行かないって言ってあるだろう。今日だって外で会う約束だったじゃないか」
「でも折角作ったのに・・・・。食べに来ればいいじゃない。場所は知っているのだから」
「家には行かない」
俺は繰り返した。
「もう!!頑固者!じゃあいいわよ。駅で待ち合わせね」
「悪いが今日は無理だ。女房の具合が悪いんだ」
俺がそう言うとエリは電話の向こうで怒り出した。

 久し振りだから楽しみにしていたのに頭に来る。会わないのら別れるとか、家に電話してやるとか、料理だってせっかく作ったのに自分のこの努力はどうしてくれるんだとか・・。もう女房には興味が無いとか言っていたくせに!!あいつは女を捨てているとか言ったくせに!!そう言って(わめ)いた。

仕方が無いだろう?仕事なんだから。
具合が悪いのだから、そう言う問題じゃないよな?
俺は料理なんか頼んでいない。お前が勝手に作ったんだろう。
そう思いながらも俺は彼女と言い争うのが面倒臭くなった。
「分かった。分かったよ。じゃあ、駅で待ち合わせだ」
そう言って電話を切った。

 前の女と別れたのが7月始め。
エリと知り合ったのはクリスマスの頃。関係を持ったのが1月半ば。不倫は2ヶ月ちょっとになる。

エリは新鮮な感じがした。
愛嬌もあるし綺麗な女だ。
彼女は色々な面を持っていた。甘えてみたり拗ねてみたり、そっけなかったり、そうかと思えばとても優しかったり。男をコントロールする事に長けていると感じた。
自分では28歳と言っていたが、本当は30を超えているのではないかと思っている。
彼女はシンプルじゃない。シンプルそうに見せているだけ。

彼女とのセックスはとても良かった。
情熱的で奔放で自分の欲望に忠実なタイプ。男を煽る手管も知っている。普段の彼女とベットの中で彼女のギャップが大きくて俺はすっかり魅了された。彼女を怒らせるのは得策では無い。後で宥めるのが大変だから。俺はもう少し関係を持続させたい。楽しみたい。そう思っていた。

 コンビニで弁当とビールを買ってホテルに行き、慌ただしく体を重ね、それでシャワーを浴びて帰って来た。シャワーを浴びない訳に行かない。
 他の女の匂いなど付けては帰れない。
家は家。外は外。家に情事の片鱗も持ち込んではいけない。


走る様にして帰って来た。
いや、文字通り走って帰って来た。走りながら、何で俺はこんな事をやっているのかと思った。
うっすらと汗ばんで来て、俺はコートを脱いだ。
玄関先で息を整え、居間に向かう。
11時になる所だった。
風呂場に電気が灯っていた。

英子のパジャマが置いてあった。
声を掛けたら元気そうでほっとした。同時に「何だ・・」と思った。
走って帰って来なくても良かったと思った。
まあ、大した事は無くて良かった。
俺は遅くなった言い訳を言った。全く嘘という訳では無い。
歯ブラシをして顔を洗い、さっさとベッドに入った。
すぐに眠ったらしく英子が部屋に入って来たのには気が付かなかった。


片肘を付いて英子を眺めた。
俺は英子を裏切っている。
だが、俺は家庭を大切にしているし、英子の事も愛している。
英子は大切な女房だ。英子は俺にとって掛け替えのない存在では有るけれど・・・。
外に刺激を求めるのはそんなに悪い事なのか?
隠し通せば良いんじゃないか?
知らなければ無かった事と同じだ。彼女も家族も傷付かない。
外に女が出来たからって英子とセックスをしない訳じゃ無いし。


もしも、英子が浮気をしていて、こんな風に外で誰かと会っていたら・・・。
時々そう考える。
だが、どう思っても、英子とそんな関係を結ぼうと思う男がいるとは思えなかった。
不倫という危険を冒してまで。
英子の雰囲気や姿から、性的な魅力を感じるか?・・・それはまず無いだろう。俺は無理にでも英子が他の男に抱かれている場面を想像する。だが、それはまるでそんな場面の絵に英子の顔を張り付けただけの、嘘っぽい、薄っぺらな漫画程度にしか感じなかった。
そんなのは現実的に有り得ないと感じる。だから英子も俺の事をきっとそんな風に思っているんじゃないかなと思う。

そんな風に考えて俺は英子の悲しさを考える事をしなかった。裏切られた英子の悔しさとか辛さとかを全く考えようとしなかった。だって、もう裏切ってしまったのだから、そんなのは考えたく無かったのだ。だから英子の情事を想像しても何の感情も湧かないのはきっとその辺りが原因なのだろうと自分でも思っていた。
 

俺は英子を起こさない様にそっと部屋を出た。
シャワーを浴びたら、俺が朝ご飯を作ってやろうと思った。

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