第62話  亮介の場合  石垣島 2

文字数 3,527文字

英子は俺の前に来ると足を止めて俺をじっと見た。
俺は情けない目で英子を見る。
英子は冷たい目で俺を見ていたが、それが緩んで「ふふっ」と笑った。
俺はその笑みにほっとした。

「少しは懲りたかしら」
英子は椅子に座って言った。
「ああ。まるで地獄に蹴り落とされたみたいだったよ。目の前が真っ暗になった。・・・・酷いな。英子。・・最初から俺を置いて行く積りだったんだ」

英子は足を組んで面白そうに俺を見た。
「そうよ」

「酷いなんて、あなた、どの口がそれを言うの?あなたの方がずっと酷いでしょう?私を何度も裏切ったのね。梨乃に聞いて驚いたわ」
「二回だけ。ほんの短期間だ。どちらも」
俺は言った。
「呆れた。よくもそんな事を平気で言えるわね。それに、もうあなたの言葉は全く信用できないの」
英子は言った。

「英子。どうして俺の浮気を知っていて俺を泳がしていたの?俺、すごく馬鹿みたいじゃないか。間抜け過ぎる・・・」
俺は言った。

「そうね。この4カ月はすごく辛かった。辛くて悲しくて。あなたの嘘が見えるんだもの。
私はあなたとキスしても抱き合っても、いつも思った。『ああ、亮介はこんな風にあの女とキスしているんだ。ああ、こんな風にあの女を抱くんだ。愛しているって囁くんだって』
ねえ。ずっとそう思っていたの」

「亮介はいつ私と別れたいと言い出すのかなって思っていた。・・・私と別れてあの人と結婚したいと言うのかしらって。梨乃も和巳も私も置いてあの若くて綺麗な人と一緒になるって」

俺は英子に被せる様に言った。
「英子。そんな筈無いだろう?俺達は家族なんだから。俺は梨乃だって和巳だって英子だって捨てるなんてことはしない。絶対にしない。だから、その・・ちょっとした遊びだったんだ。遊びの積りで・・」
「じゃあ、私と別れてずっと遊んでいればいいじゃ無いの」
英子は鋭く言った。
俺は顔を歪めた。

「私、胸が潰れてしまう位辛かったの。何であんな辛い日々を過ごしたのか・・・。今になって考えると不思議だわ。あの日、本屋で寄り添うあなたとマルエリを見た時に、言えば良かった。ウチの夫に何をしているのって?この女は何者なのッて・・・。で、あなたをぶん殴って出てくれば良かったって。そこでもう別れるからって言って。あなたがその後誰とどう過ごそうが関係ないって。そうすれば良かった。あの時に私は帰りたいよ。・・・この4カ月間は私をズタズタに切り裂いたわ。・・・あなたが残業と言う度に苦しくて悲しくて・・・ああ、またあの人とホテルにいるのかなって。すごく辛かったよ」

俺は英子の顔を見ることが出来なかった。
英子の言葉が俺の心を締め付けた。
俺は悲しかった。英子が可哀想で仕方が無かった。英子に申し訳が無くて仕方が無かった。
妻は全てを知っていたのだ。黙って俺の嘘に耐えていたのだ。それを思うと胸が潰れる位に辛かった。俺だったら耐えられない。耐えられる訳が無い。

「でも、私は思ったの。今、騒いだら、あなたはあの女と一緒になるって思った。あなたの思い通りだって。それを許せなかったの。
あなたは女として私を見る事が無くなってしまった。だから意地でも、もう一度綺麗になって見返してやりたいと思ったのよ。ただそれだけ」

「でも、お陰で、自分に自信も付いたから。だからまあ落ち着いたら、誰か新しい人を探すわ。あなたもいいのよ。もう誰と付き合っても誰と寝ても。
それにこの4カ月ですっかりあなたを嫌いになる事も出来たし。・・・散々痛めつけられたお陰で。もう未練なんて、これっぽっちも無いから。もう関係ないわ」

英子は立ち上がった。
両手を腰に置いて俺を見る。
「ここはいいホテルよ。ふふ。一泊25万円もするの。でも広くてすごく素敵な部屋よ。飛行機は往復ビジネスクラスだしね。お金は掛ったわよ。ダミーの航空券も必要だったし。それからバックも買ってもらったわ」

「だって、あなたって不倫相手には色々とお金を遣っていたみたいだけれど、私にはバックのひとつも買ってくれなかったじゃない?・・・本当に酷い男よね。がっかりしたわ。私、何でこんな男と結婚したのかしら。選択を誤ったわね。自分が情けない」

「君が欲しいって言わなかったんだ」
「高いから悪いと思ったのよ。言ったら買ってくれた?」
「勿論。いくらだって買ってあげたよ」
「嘘つき」
「嘘じゃない。英子。本当だ。・・・英子。愛しているんだ。もうずっと前に彼女とは別れたんだ。お願いだ。許してくれ」
「私は愛していないわ」
「嘘だ。愛しているはずだ。俺には分かる。君はあの時・・」

「あれは演技よ。演技。あなたと同じ。
あなたも私に騙されたの。どう?騙される気分は?私、ずっと4カ月もその気分を抱えて生活して来たの。大変だった。本当にしんどかった。でも、もう解放されたから。だからもういいわ。後は離婚するだけ。本当にさっぱりした」
英子は本当にすっきりとした表情で言った。

「離婚なんかしない」
俺は言った。
「そうしたら裁判よ。あなたは確実に負けるし、それにあの女にも私は賠償金を要求するわよ。あの女を引き摺り出すわよ」
「構わない。もうとっくに別れたんだよ。ちゃんと別れた」
「ふん。嘘つきの言う事なんか信じないわ。それにもうどうでもいいわ。裁判になるとお金が掛かるわよ。あなた、それでなくても、これからアパート暮らしになるのに。それに不倫で裁判とかになったら仕事もやばいんじゃないの?言って置くけれど、養育費は必ず振り込んでくださいね。せめてその位はやってよね」


「あなたは梨乃をうんと傷付けたのだから。それだけでも私はあなたを許せない。・・そして自分も許せないのよ。あなたの裏切りに気付かなかった馬鹿な自分をね。私こそ間抜け過ぎる。あなたはずっと間抜けな私を見て笑っていたの。どうしてそんな人を許せるの?許せる筈がない」
英子はそう言って俺を睨んだ。
俺はぼそぼそと答えた。
「笑ってなんかいない。・・・笑ってなんかいなかった」
「じゃあ、何?どんな気分だったの?面白がっていたんでしょう?私が悲しむとか苦しむとか考えていなかったの?私は梨乃が可哀想で可哀想で仕方がない。情けない父親の所為で・・・どうして梨乃まで苦しまなくちゃならないの?」
俺は黙った。
英子の顔を見る事が出来なかった。


「俺はそんな事は・・・違うんだ。英子。違う」
「あなたはそれを知っていてそうしたの。私が傷付く事を知っていて。それとも私が許すと思った?・・?阿保じゃ無いの?逆の立場だったら許せるの?・・・ああ。あなたはきっと平気でしょうね。私なんかどうでも構わないのよ」
「そんな事は無い。英子、そんな事は断じてない。愛しているんだ。英子は特別なんだ。俺にとってすごく特別なんだ。・・・・ただの遊びだったんだ。俺が馬鹿だったんだ。考え無しだった。反省している。すごく反省している。梨乃にもちゃんと謝った。別居も分かった。分かったから。金も振り込む。ちゃんとする。だけど、お願いだから離婚はしないでくれ。
・・・英子。頼むから俺から全部を取り上げないでくれ」

「無理。自業自得ね」
英子は答えた。
「私じゃないわ。家庭を壊したのは。あなたなのよ。家族を悲しませ、ばらばらにさせたのはあなたなの」
「・・・・」
「嘘つきで不誠実なあなたのせいなの」
「・・・」
「もう行くわ。じゃあね。帰るまでには部屋を出て行ってね」
「英子。愛しているんだ」

英子は黙って歩き出した。
ポケットに手を入れる。
立ち止まった。
後ろを振り向く。

そして戻って来た。
「亮介。手を出して」
英子は言った。
「これをあなたにあげる。最後のプレゼント」
英子はそう言って俺の掌に何かを置いた。そして両手で俺の手を包んだ。
「もしもあなたが来たならあげようと思っていたの」
英子は言った。
「私達はあと一時間もすれば海から上がるから。だからそれまでに帰ってね。亮介が惨めったらしくここにいたら、あの子達が可哀想だから」

じゃあね。

英子はそう言って海に向かって歩いて行った。
俺は掌を開けてみた。
そこには小さな貝殻が三つ乗っていた。
俺は英子の後ろ姿に声を挙げた。
「離婚なんかしない!」
周囲がざわっとなった。
英子は他人の振りをして行ってしまった。

目の前を通り過ぎる親子連れ。
「ママ、あのおじさん大きな声で何を」
子供が俺を指差した。
「しっ。黙って。指を差さないで。見ちゃ駄目。」
母親はそう言って子供の手を引いて小走りで走り去った。


海に向かう英子の後ろ姿を眺めた。
海で遊ぶ梨乃と和巳を眺めた。

後一時間か・・。
そう思いながらも、俺は家族から目が離す事が出来なかった。
失ってしまう。
失ってしまうかも知れない。
何よりも大切な自分の家族から目を離す事が出来なかった。













  

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