第65話  潮が満ちて来た

文字数 2,422文字

「いつか旅行に行ける様になったら、今度こそみんなで石垣島に行こう」
俺は復縁してからずっとそう言っていた。英子は苦笑いをしながらそれを聞いていた。


 俺はスマホの中の英子の写真を見る。
英子は写真の中で笑っている。
これは家族で北陸に行った時の写真だった。
これを遺影に使っていた。

永平寺で英子が言った言葉を思い出した。

 静かに降り積もる雪の様に思念が降り積もる。
「永い時の積み重ねを感じるわね」
 英子は深い眼差しでそう言った。写真の英子も深い眼差しをしている。そしてこちらを見て微笑んでいる。あの頃、俺の浮気を知って悩んでいたのに、そんな姿は片鱗も見せなかった。
強い女性だった。
 何度も言うが俺には勿体無い程の妻だった。
英子がこんな風に突然俺の前から去ってしまうなんて、考えもしなかった。
俺は英子との大切な時間の幾許かを彼女を裏切り、そして彼女を悲しませて費やしてしまったのだ。
 それは俺が生きている限り消えない傷を俺に残した。

英子を裏切ってエリや他の女達を抱いていた自分の姿が脳裏に浮かぶ。
英子に嘘を付きながら、女と会う。
それ程の罪悪感も持たずに。
英子の傷付いた表情や、英子の涙や厳しい言葉は今でも俺の心を突き刺す。
いや、時が過ぎてみたら、あの時以上に。
英子が傍にいないから余計に。

それは何の前触れも無く、ふと頭に浮かんで、俺を過去に連れ帰る。
否応なしに。
その時、その場所にいた自分が、英子が、エリが、明子が、名前も忘れた最初の、あの女が蘇る。
俺は目を閉じて苦い思いをやり過ごす。

後悔は俺の心に深く根を張り、消えそうにもない。
そうやって他の人も消えない傷を抱えて生きているのだろうか。表には平気な顔をしながら。
それともそんなのは俺だけなのだろうか。

和巳の言葉が蘇る。
「パパ。人って突然死んでしまうこともあるんだね」
そうなんだ。そう知っていても、まさかそれが自分に降って来るとは思わなかったのだ。


俺は海を見る。
青い空と白い雲。透き通った美しい海。白い砂浜。
5年前と同じ。
海から突き出た岩場の所で遊んでいる子供達。

英子の写真に目を戻すと心の中で英子に語り掛けた。
「英子。梨乃は今年成人式だ。今度の1月はきっと日本各地で成人式が行われるだろうな。・・。梨乃は将来政治家になると言っていた。だから大学では政治経済の講義も取っているらしいよ。学部移動が出来るかも知れないと言っていた。・・・卒業は4年じゃ無理だろうな。その内、アメリカに留学するって言っていたよ。うんと勉強をすると言っていた。梨乃は旅行に勉強道具を持って来たよ」
「まあ、梨乃の事だから大丈夫だ。あの子はお前に似て頭がいいからな」

「和巳は大学に合格した。和巳は偉いよ。母親を亡くしたショックを乗り越えて受験に合格したんだ。俺だったら無理だったろうな・・・。工学部の情報システム科だ。私立だから学費が掛かるが、何とかなる。俺の事務所は結構評判がいいんだ。仲間も3人になったよ。みんないい人達だよ」

俺は小さくため息を付いた。
「英子。俺は大丈夫だ。だから心配しないでくれ。ちゃんとやれる。梨乃も和巳もやりたいことが十分に出来るように、俺はちゃんとやるよ。お前の分も稼がなくちゃって頑張っているんだ」

 
「でもなあ・・・。英子・・お前が俺の傍にいてくれたらって思うんだ。いつでもそう思う。今、ここにいてくれたならって・・・。英子がリビングにいてくれたら、英子がキッチンにいてくれたら、英子が俺の隣に眠っていてくれたらって。手を伸ばしてお前に触れられたらって。・・・本当の事を言うと・・とても寂しいんだ。お前がいなくて。・・・お前が恋しくて仕方が無いんだよ」

俺はスマホの写真をスクロールする。家族の写真を次から次に。
風がふわりと吹いた。

「亮介」

英子の声が聞こえた様に思えた。
俺はびっくりしてきょろきょろと辺りを見回す。
海の彼方に細いリボンみたいな橋がずっと遠くまで続くのが見えた。
俺は目を擦ってもう一度それを見た。
橋は消えていた。

また風が吹いた。

風の音に英子の声が混じっているみたいに思えた。
俺は目を閉じて英子の声を探す。


潮が満ちて来た。
さっきまで大きく突き出していた岩が少しずつ海の中に隠れて行く。
潮が満ちるのは本当に早い。
風も出て来た。
俺は空を見上げた。

遠く向こうに一片の黒い雲が見えた。
その向こうに小さな虹が見えた。あの雲がこちらに来るのだろうか。

家族連れが俺の前を通り過ぎた。
小さな子供が二人。
どちらも手に小さなバケツとスコップを持っていた。
俺は唐突に梨乃と和巳を両手に繋いだ英子の姿を思い出した。
昔、泊まったホテルのビーチで。あんな風に。うんと二人が小さい頃。
小さなバケツとスコップを持って。
「亮介。バトンタッチ。今度は私がビールを飲む番よ」
英子はそう言って笑った。


俺は温くなったビールを一口飲む。
「あの頃が懐かしいなあ。本当に懐かしい・・・・」

さて。
俺は膝を叩いて立ち上がった。
「この旅行から帰ったら、また忙しくなる。でも、俺は頑張るよ。だから英子もそっちから俺達を見守っていてくれ。俺が間違わないでしっかり生きて行けるように、梨乃と和巳が元気で幸せに暮らして行ける様に」

「大丈夫だ。俺はやれば出来る男だから。ハイスペックな男だからな。心配は要らない。・・・いつか年をとって俺がそっちに行った時に、お前に自慢出来る位、ちゃんとやるよ」


俺は海に向かって歩き出した。
海が深くなる。さっきよりずっと深い。
俺は岩場を目指して泳ぎ出した。
梨乃と和巳は岩の上で下を見ていた。
「パパ。ほら、そこ。あのうんと下にウミヘビがいたの」
梨乃は言った。
「白黒マダラの細い紐みたいになってゆらゆらと沖の方に泳いで行った」
和巳も言った。
「すごく長かった。2mくらい」
「そんなに長かったの?」
俺は言った。海の底を覗き込む。
海が少し濁って来た。勿論、ウミヘビはいない。

「梨乃、和巳。もう帰ろう。潮が満ちて来た」
俺はそう言った。







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